ある少年は、狂暴な嵐に 投稿者: 吉田 樹

 電話ボックスを出た時には、既に雨が降り出してきていた。
 年明けからずっと、寒い日が続いている。手袋をしていない手の甲に、切り裂くような風と共に、やけに細かい水飛沫がかかる。一つ一つは小さな水滴でも、数が増えてくれば一面を覆って。その水分が急速に体温を奪っていくことに、かけがえのない愛おしさを感じる。
 安物のビニール傘に落ちる雨が、だんだんとその音を大きくしていく。顔を上げた僕の視界が、薄い幕によって覆われていた。
「あ、久しぶり」
 後ろからかけられた声に反応して、僕は相手を確認しようとする。振り返りながら、声の主に心当たりがついて内心少し苦笑していた。
「昨日も会っただろ」
「あ、そうだっけー」
 詩子が見慣れた笑顔を浮かべながら、しれっとして言う。
 詩子はどんな時も笑顔だった。僕の両親が死んだ時も、姉さんと僕との関係を知った時も、姉さんが死んだ時も。いつも、どんな時でもこの笑顔をくれて、そして、それがどれだけ僕の救いになった事だったか。
 短い挨拶の後で、詩子が去っていく。彼女にとって僕は、ちょっとした顔見知り。そう、ちょっとした。
「しいこさん、そっちはあんたの学校へ向かう道じゃないだろう」
 茜の学校の方へ向かおうとした詩子に、笑いながら声をかけていた。詩子が足を止める。振り返って、いつもの笑顔でいつもの下らない言い訳をしてくれるだろう。
 でも、いつまでたっても詩子が振り返ってくる気配は無く。僕の呆れたような笑みが消えた頃、詩子が明るい声で言った。
「ごめんね」
 少し震えながら。
「ずっと一緒だったよねー。君は雪が好きだったよね。クリスマスはいつも三人一緒にパーティーやって。バレンタインに君に渡すんだって、茜がチョコを作ったんだけど何度も何度も失敗しちゃって。捨てるの勿体無いからって食べてたら、茜ってばすっかり甘党になっちゃってさ」
 近付こうと思った。思った、けれど。詩子の背中は、僕が近寄る事を明確に拒否していて。
「私と同じ学校に通うことになってたのに。なんでだろうねー」
 詩子が少し言葉を止めて、上を向く。
「こんなに想い出はあるのに、君の名前が思い出せないんだよ」
 詩子は、それきりなにも言い続けられなくなってしまう。傘に跳ねる音が更に増していく中、僕は、僕は気の利いた言葉一つ思い浮かばずに。ただ、ひどく悲しくなった心を隠すように、僕は笑顔を浮かべていた。いつもの詩子と同じ笑顔を。
「たぶん、詩子の幼馴染みが茜だけだからだろう? 他に幼馴染みなんて、知らないだろう?」
「そうだよね。私、知らないよ。茜の他に幼馴染みなんて。知ってたら、名前ぐらい覚えてるもんねー」
 小さな。とても小さくて鋭い痛みを残したまま、僕は詩子の笑い声を聞く。かすれてしまって聞き取れないぐらいだけれど、それでも。しゃくりあげる声に混ざってしまっていても、詩子は笑っているのだから。一生懸命、笑っているのだから。だから僕は、ただ笑顔でそれを聞いている事しか出来なくて。

 横殴りの風が、とっくに傘を壊してしまっていた。
「早く! 急いで!」
「いいから折原さんは、折原を呼んで来て」
「わかった」
 短い返事を残して、折原さんが消える。
 顔に激しく当たってくる雨が、息を詰まらせる。濡れた服が体にまつわりついて、僕の体を引き止めようとする。空気よりも水が多いのではないかと、疑いたくなってくる。
 限界だったんだ。
 折原を拒絶して、自分自身の言葉に囚われようとした茜は。僕を信じていると、僕が帰ってくると信じていると思いこもうとした。でも、それはとても大きな嘘で、だからこそ茜の心は深く傷ついていった。
 茜は僕が帰ってくるなんて、思ってもいない。それどころか、僕に帰ってきて欲しいのかどうか分からずに。周り全ての人に忘れられた僕が、本当に存在していた奴なのかという事に疑いを持ち、そのことに怯えて。
 茜は折原が本当に大好きなんだ。そして、折原が自分を好きだという事にも気付いて。だからこそ、僕がもし帰ってきたらという事に恐怖して。茜はそんなに器用な奴じゃなくて、とっても不器用な奴だから。僕が茜の元に帰ってきたら、茜はどうしようもなくなってしまうから。
「茜!」
 伝えなくちゃ。大丈夫だよ、って。折原の事を好きになっていいんだよって。
「茜! どこだ! 出て来い馬鹿!」
 原っぱへ必死に向かって、茜を探しながらも。僕の脳味噌は、別の事を考え始める。
 クリスマスに気まずい別れをした折原さんは、すぐに僕に謝ってきた。「本当は全部わかっていた」って。
 茜と折原の事を心配していることは、僕達に共通してるけれど。僕は茜の方が大事で、折原さんは折原の方が大事だから。だから、折原さんはその不満を僕にぶちまけるしかなくて。
 仲直り出来たはずだったけれど、あれから折原さんは余り僕の前に姿を現さない。やはりどこか気まずいのだろう。相手を傷つけてしまった事に後悔すればするほど、その人と顔を会わせ辛くなるものだから。
「茜!」
 原っぱの中央に、虚空を見つめて立ちすくむ茜の姿が見えた。
 あの日と同じだ。僕が消えたあの日と。
 急に降り出した雨に、傘の無い茜は学校に向かって走っていた。そしてこの原っぱで、僕の姿を見つけたんだ。土砂降りの雨にまで、だんだんと忘れられていく僕を。
 ずっと顔も見せないで、周りがだんだん僕の事を忘れていって。そんな不安を抱えていたから、茜は駆け寄ってきた。でも、僕は不甲斐なかったから。何一つ、何一つ茜にかけてあげられる言葉も見つからずに。
「おい! しっかりしろ、茜!」
 僕の言葉は茜の耳に届かない。まずい。風も雨も激しさを増すのに、僕の耳からは急速に風の音が遠ざかっていく。駄目だ! 待ってくれ! 今、今茜に伝えなかったら、茜は壊れてしまうから!
「…?」
 茜のぼやけた焦点が、だんだんと僕の顔に合ってくる。雨に覆われた視界に、去年までは見慣れていた男の姿が像を結んでいく。半ば意識を失った茜の口が、僕の名前の形に動くものの、別のものに視界を覆われて声にならない。
「いいかよく聞け! 俺はお前の事を、ただの幼馴染みとしてしか思えない」
 駄目だ。僕の言葉は茜の耳を素通りしている。僕の姿を見つけた茜の瞳に、嬉しさは欠片も無く。ただ、ただ苦しんでいて。意識を失いかけて朦朧としながら、折原を好きになった事、つまり僕への想いを忘れた事を後悔しているようで。
 忘れて欲しかったんだ、僕は。僕にとって、茜の気持ちは重荷にしかならなかったから。
 だから逃げ出した? 違う!
 顔を合わせればいつも茜と喧嘩して。詩子はいつものあの笑顔をしていて。その日々を、かけがえのないものだと思っていたから。何よりも大切で、その関係を壊したくないと思ったから。ずっと一緒にいたい、そう思ったから。
 永遠の世界の扉が開いたんだ。
「嬉しかったんだよ、本当は、とっても。恋人にしたいとは、思わなかったけど」
 涙も枯れ果てて、渇ききって壊れてしまっていた。その僕の心が安らぎを得たから。だから、涙を思い出して。ずっと泣き続けていた心に、涙が戻ったから。もろくなった心が和らいで、苦しみを思い出して、千切れそうになってしまったから。
「お兄ちゃん! こっちだって!」
 折原さんの声が聞こえた時には、雨は僕の手を通りぬけて茜に直接当たっていた。
 両手をぶらりと下げ、見えない僕の事をずっと茜は見続けている。詩子の傘を差した折原が、激しい風に逆らって突き進んでくる。折原がいれば、きっと茜は大丈夫だ。でも折原は、心が和らいでしまった。凍った心に、暖かい光が差してしまったんだ。
「よかった…帰ってきてくれた…」
 倒れ掛かる茜を抱きとめた折原が、懸命に呼びかけている。
「これで大丈夫だよね?」
 折原さんが少しだけほっとした顔を僕に向けるけれど、何も返せなかった。
 茜が僕をここに縛り付けてたのではなく。僕が茜をここに縛り付けてしまったんだ。弱い僕の心が、狂暴に、激しく茜を縛り付けてしまっていたんだ。結局僕は、その呪縛を自分で解いてやる事も出来ず。折原に全て任せてしまって。そしてこの先、二人に大きな傷を負わせる事が分かっているのに。なのに、それを止めようともしない。
「沢口君?」
 草にその無力さを感じさせるように、嵐が吹き荒れている。全てを薙ぎ倒し、破壊し尽くすほどに狂暴な嵐が感じられない事が、ひどく悲しく感じられる。さっきまでの様に嵐を感じていることが出来れば、僕の暗く醜い利己心も粉々にしてくれるだろうに。
 嵐は僕を嘲笑うように、激しく荒れ狂っていた。とても激しく。

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みさお「あ、見て見て。吉田樹、火消しの風さん、吉田樹、ブラック火消しの風さんになってるよ」
沢口君「本当だ。えっと…きゃん♪ お・と・も・だ・ち、からなら♪」
(画用紙に大きくマジックで『沢口君』と書いたものを頭に乗せた少年が、みさお、沢口、吉田に白い目で見られる。じっと見つめられているうちに、ぽっ、と頬を赤らめて少年が去っていく。三人はしばし、あさっての方角を眺めている)
みさお「え、っと。あ、GOMIMUSIさんが永遠の世界の考察するって。ネタ被っちゃってるね」
(沢口と吉田はまだ燃え尽きている)
みさお「え、えとえと。吉田樹の話では、それがないとこの話が終わらせられないので、このままいっちゃうそうです。永遠の世界の捉え方は違くなるから大丈夫だろうな、って言ってました」
(みさお、二人を見るが。正気が戻る様子は無い)
みさお「その、あの、えっと。サブタイトルとあらすじが無いのは、なんか違う、との事です。あと、そこそこ知名度も出たろうから、飛ばしてくれる方は飛ばしてくれるだろうって言ってますのでお願いしますね。今回は本当、長いですし」
(おろおろしたみさおが二人を揺さぶるが、帰ってくる様子がない)
みさお「そ、それじゃ次回が最終回です。お楽しみに♪」
 感想はまた今度、という事で。読んでくれたみなさんありがとうございます。
みさお「あー、やっと起きた…沢口君がまだ死んでる…」