さよならの凍る詩 投稿者: 睦月周



 冬の太陽がとても冷たそうで、スケッチブックを抱える手もかじかんで震える、そんな日のことでした。
 小さな鞄と、少し大きめのスケッチブックをきゅっと胸に抱えながら、わたしは街を歩いています。
 灰色の霞がかかった空から、白い小さな虫のような雪が、いくつもいくつも、ぱらぱらと振り落ち
てきます。
 ──雪はきらいじゃありません。冷たいけどすごく綺麗だし、夜寝る前はなんでもなかったのに
朝起きてみると辺り一面真っ白になっていたりして、すごく嬉しくなってしまいます。
 だけど、忙しそうに早歩きする周りの人たちは、そうでもないみたいです。
 みんな口々に、「ふざけるな、電車が遅れちまう」 だとか、「せっかくおろしたばかりのブーツなの
に」 とか、しかめ面して小走りにわたしの脇を駆け抜けていってしまいます。こんな白くて綺麗な雪
なのに。
 わたしはといえば、交差点の真ん中でふと立ち止まって、てのひらを差し出してみたりしています。
小さな粉粒のような雪が、わたしのてのひらに触れると、わたしの体温でじわっと溶けてなくなりま
す。
 それがなんだかとても綺麗で、楽しくて、わたしは何度も何度も繰り返してみました。すると、ブ
ーッ、ブーッ、とクラクションの鳴る音がして、わたしは交差点から追い出されてしまいました。
 何をしているのかといえば、毎日そんなことの繰り返しです。本当はそれだけじゃないんですが、
結局のところ何をしていいのか分からないので、毎日、こんなことをしています。


            ◇


 つまりは、わたしは、誰かを捜しているんです。
 誰かは分かりません。顔も、名前も、声も、ぜんぜん、ぜんぜん分かりません。
 もしかしたら忘れているだけなのかもしれません。理由は分からないけど、なんとなくそう思うこと
があるんです。
 だって、そうなんです。ときどき目を閉じると、ぼうっと、その誰かの顔が浮かんでくるような、そん
んな気になることがあるからです。
 一緒に、歩いて帰ったような気もします。
 髪を撫でてくれたような気もします。
 もどかしいような、くすぐったいような、そんな感じなんです。
 ピースの足らないパズルを組み立ててるような、そんなきもちなのかもしれません。
 わたしはピースが足らないことを知っています。だけど、どんなピースだったかが分からないんで
す。それでも、一生懸命組み立てようとしています。
 どんな絵になるのかも、もちろん分かりません。そんな、感じです。


            ◇


 どうやって捜せばいいのかも、まるで分かりません。
 ただ毎日毎日、わたしは街を歩くだけです。
 雨の日も、風が冷たい日も、車が水を跳ねて、びしゃっとわたしのスカートを濡らす日も、毎日。
 本当は大きな声で名前を呼びたいんです。だけど、わたしは名前を忘れてしまっています。
 それに、わたしにはそうすることができません。もし、その誰かがいなくなってしまう前に、大きな声
で呼び止めることが出来たのなら、その人は、戻ってきてくれたのかな。
 だったら、わたしは駄目な子です。


            ◇


 足の向くままに、とぼとぼと街を歩いていると、いつもそこへ辿り着いてしまいます。
 日が落ちかけて、灰色がかった公園は、なんだかすごく寂しそうな感じです。どうして、いつもここ
に来てしまうのか、よく分かりません。
 ただ何となく、足が向いてしまうんです。
 わたしは、ちょっと錆びかかった、水色のブランコに腰を下ろしました。
 すこし濡れていて、スカート腰にひんやりするけど、あまり気になりませんでした。
 そのままぼうっと、ぎいぎいとブランコを揺らしてみます。
 ぎいぎい、ぎいぎい。
 ぎいぎい、ぎいぎい。
 寂しそうな音。
 わたしと同じ。誰も座ってもらえなくて。手入れもしてもらえなくて。寂しそうにぎいぎい音をたててい
ます。そういえば、この公園はもうすぐなくなってしまうんだと誰かが話していたのを耳にしました。難
しくてよくわかりませんでしたが、「幼児の絶対数の低下」というのがその理由らしいです。
 ぎいぎい、ぎいぎい。
 ぎいぎい、ぎいぎい。
 ブランコが泣いています。
 わたしもなんだか悲しくなって、じわっと涙があふれてきました。
 ぽたっ、ぽたっ、と頬をつたって膝が涙で濡れます。
 ぎいぎい、ぽたぽた。
 ぎいぎい、ぽたぽた。
 わたしもブランコも泣いています。
 ブランコも捜していると思うんです。ここに座って、自分を揺らしてくれる誰かを。わたしも捜してい
ます。一緒にいてくれたはずの誰か。
 そんなことを考えると、涙が止まらなくなって、スケッチブックの上に、スカートの上に涙がどんどん
あふれて止まりません。
 コートの袖でぬぐってもぬぐっても、止まりませんでした。

「使ってください」

 ふと、声がしました。
 顔を上げると、そこにはちょっとくすんだ色のコートを着たお爺さんがたっていました。
 わたしの方に差し出されたその手には、駅や道端でよくもらえるような、色々字がいっぱい入った
ティッシュが握られていました。
 わたしはぺこっとお辞儀をして、それを受け取って涙をぬぐいました。
 それからちーん、と鼻をかんでいると、お爺さんはにこにこと笑って、わたしの隣のブランコに腰を
下ろしました。
 柵の脇に綺麗な茶色い杖をたてかけて、お爺さんはほう、と溜息をつきました。
 風で揺れたそのコートから、お酒臭いような変な匂いがしたけど、あまり気にせずにわたしはお爺
さんの顔をじっと見つめました。

「この公園はなくなってしまうそうですね」

 ぽつり、とお爺さんが言いました。
 こくっとわたしはうなずきました。
 白い雪が、はらはらと二人の髪を白く染めてゆきます。わたしはふるふると頭を振って、それを払
いました。
 お爺さんは笑って、さっきのティッシュで髪をぬぐいました。

「知っているかなあ。この公園が出来るまで、ここは教会だったんですよ。随分と昔、火事で焼けて
しまったんですけれどもね」

 そうなんですか、という顔でわたしはお爺さんを見ました。
 
「そこに、いつも決まって朝の8時、その子はお祈りにきてたんです。綺麗な白いワンピースと、赤い
小さな靴を履いてね。私はこのベンチで──ああ、このあたりに、小さなベンチがあったんですよ。
いつもそこで本を読むフリをして、彼女を盗み見ていたものでした」
 
 お爺さんは遠い目をしているようでした。
 わたしを見ているのに、わたしを通して、もっと遠くにいる別の誰かを見ているような、そんな感じ
でした。

「本当に素敵な子でした。いつも天使のように笑って、その笑顔を見ているだけで幸せになってしま
うような、そんな子でした。その内、彼女も私に気づいて、よく話をしてくれるようになったんです。
彼女は、『何の本を読んでるの?』 とよく私に訊きました。私はよく知りもしないのに、バイロンだと
かランボーだとか、そんな詩集についてよく話しました。彼女はしどろもどろな私の話を本当に楽し
そうに聴いてくれて──幸せでした」

 毎日が天国でした、とそうお爺さんは言いました。

「けれど、ある日突然彼女はいなくなってしまったんです。どこか遠くへ引っ越してしまったとか、そう
いうことではないんです。それまで、一緒にこのベンチで話していたのに、突然。消えてしまったんで
す。そう、ぱっと、霧のように。ごめんね、と彼女は言ってました。そのときはどうして彼女がそんなこ
とを言ったのか分かりませんでした。ただすごく悲しそうな顔をして、私を見ていました。だけど、今
なら分かります。彼女は私をおいて、どこかへ消えてしまったんですよ」

 わたしは何だか少し怖くなったのと寒くなったので、きゅっとコートの襟をつかみました。
 お爺さんはそんなわたしに構わず、話を続けました。

「私は捜しました。彼女を、ずっと。雨の日も、こんな雪の日も、ずっと。今でも捜してます。それだけ
が私の生きがいです。彼女さえいれば、私には何もいりません──」
「よう! お前ここにいたのか!」

 突然背後で大きな声がしました。
 見ると、お爺さんと同じような格好をした人が数人、赤い顔をしてわたしたちを見ていました。

「なんだまたその話か。悪いなあお嬢ちゃん、こいつ酒が入るといつもこの法螺話を始めるんだよ。
俺達もほとほと参って──」
「法螺じゃない! マリコさんは──」

 顔を真っ赤にしてお爺さんは立ち上がりましたが、ごほごほと咳き込んでぺたっと地面に腰をつい
てしまいました。

「だから言わないこっちゃない。さ、お嬢ちゃんはもう帰りな。子供の時間はもうとっくに過ぎてるよ」

 男のひとたちが数人、お爺さんに駆け寄ってその体を助け起こしていました。
 わたしはスケッチブックと鞄を胸に抱えて立ち上がると、もう一度お爺さんを見ました。お爺さんは
泣いていました。
 そして小走りに公園を駆け抜けようとすると、ちょうど門柱のところでまたさっきのお爺さんの声が
しました。
 よく分からなかったけれど、詩のようでした。
 粉雪に混じって、バイロンとかランボーとかよくわからないけど、そのどっちかだと思う詩を、泣き
ながらお爺さんが唄っていました。


            ◇


 こうして今日も一日が過ぎました。
 何も変わらない一日です。捜している人は見つかりません。誰だということも分からないから、しか
たないことなんだと思います。名前や顔を覚えている分だけ、あのお爺さんは幸せなんじゃないか、
という気がします。
 そう思うと、なんだかすごく寂しくなってしまいました。
 思い出せないということは、最初からそんな人なんていなかったんじゃないか、なんてそんな風に
思ってしまうからです。一緒に帰ったことも、髪を撫でてくれたことも、お食事をしたことも、練習を手
伝ってくれたことも、本当は全部なかったことなのかもしれません。
 だって、顔も思い出せないんです。
 名前も、忘れてしまったんです。
 そんなの、最初からいないのと同じじゃないかと、思ってしまいます。
 いつまで、わたしは捜し続けるんだろう、と思うことがあります。
 その人が見つかるまで? ──もしその人がいるはずのない人だったら、わたしは、死んでしまう
までずっと、捜し続けるのかな。
 会いたい。
 なんだか分からないけど、すごく会いたいんです。
 名前も、顔も、何もかも忘れてしまったあの人に、わたしはとても会いたいんです。伝えなければい
けないことは、たくさんあるんです。
 どうしていなくなってしまったんですか?
 どうしてわたしを連れていってくれなかったんですか?
 そんなことを考えると、泣きやんでいたはずの瞳がまた濡れ始めて、ぽたぽたと枕に落ちました。
 お爺さんの声が、耳の奥でしました。
 わたしもお爺さんのように、これからずっと、捜し続けるんだ。
 そう思うと、涙がなぜか止まりません。
 どうしようもなくなって、わたしは枕を顔に押し当てて、布団に潜り込みました。
 

 今日はもう、寝ます。
 明日、目を覚ましたら──あの人が笑って立っていてくれる、そんなことを夢に見ながら。





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 澪の精神年齢、ちょっと高めでしょうか?

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