──その日も、いつもと同じように、吐く息が白く宙に浮かんだ。 「深海なんだよ」 そう先輩は言った。 「シンカイ? 海の底の?」 「そう。光がまったく届かない深海。それが、わたしの見ている世界なんだ」 「ふぅん」 そう俺は答えた。 返す言葉が無かったというより、どうして先輩がそんな話を始めたのか、掴みかねていた。 「どんなものなの? それは?」 「この世界とまったく同じものがあるだけだよ。形も重さも、匂いも味もまったく同じ。ただ、 それがくっきりしているのか、闇に包まれているかの違いだね」 「へえ」 俺の戸惑ったような返事に、先輩は敏感に反応した。 「どうしてこんな話を始めたんだろう、って思ってる?」 一瞬ためらった後、俺はこくっとうなずいた。 先輩には見えていないが、微妙なニュアンスは伝わっているはずだ。 「話しておこうと思ったんだ」 呟くように、先輩。 冬の放課後の屋上に冷たい風が吹き抜け、俺の頬を撫で、先輩の髪を揺らす。 「なにを?」 その言葉に先輩はすぐには答えず、ただ微笑を浮かべて俺を見た。 そして、ゆっくりと言葉を刻んだ。 「わたしの──深海の泳ぎ方、かな」 ◇ 「最初の一歩がね、すごく重いんだ。そこは自転車と同じだね。ほら、自転車だって、大変なのは こぎ出す最初の一回転だよね。遠心力がはたらくようになれば、後はするするといくよね。ふふ、 自転車の乗り方なんて、もう忘れちゃったな。 ──わたしも同じなの。足も重いけど、心も重いんだ。 ホントに道はあるのかな? ドアを開けた向こうが、もしかして崖だったらどうしよう、とかね、そん なことを頭の中でぐるぐるぐるぐる考えちゃうんだ」 ◇ 「外へ出ちゃうとね、あんまりそういうこと気にならなくなるんだ。外っていっても、家から学校のほ んの数十メートルだけどね。今は風が冷たいね。暑すぎるのは厭だけど、寒すぎるのも厭だな。春 とか秋が、うん、やっぱりちょうどいいね」 ◇ 「学校に入ると、今度はまた、なにかに押されるように、体が重くなるんだよ。なんていうのかな、 人の圧力に押しつぶされそうになるんだ。──え? いつもぼーっとしてて、とてもそんな風には 見えないって? それはひどいよ。ふふ、半分そうかもしれないけどね。これでもいろいろ考えて るんだよ。 ──目が見えないとね、いろんなところが敏感になるんだ。・・・あ、エッチな想像したね? そう じゃないよ。声とか息づかいとか──音がすごくよく聞こえるの。わたしの深海は、全然静かじゃな いんだ。水圧みたいに、音圧がいつもかかってるんだ。 疲れたなあ、とか。 かったるいなあ、とか。 早く授業終わらないかな、とかね。 ひとつひとつはちっちゃいけど、全部集まると渦になっちゃうくらいにすごいよ。 ふふ、いちばんおっきなのは雪ちゃんだけどね」 ◇ 「夜はね、静かだよ。いろんなちっちゃな音はするけどね。時計の針の音なんか、けっこう気になっ ちゃうんだよね。あー気になる、気になるなあ、なんて思ってるうちに、ぐうぐう寝ちゃうんだけどね。 でも──冷たくて、寂しいな、夜は」 ◇ 「それが深海なの。足も心も重くて。踏み出す先がいつも、不安で。足が地面に触れたとき、やっと 安心できる──ちょっと大袈裟かな──そんな世界。 音が渦巻いてる。 ときどき、自分がどこにいるのか、わからなくなっちゃったり。 ホントにここにいていいのかな? なんて思ったり。 暗くて、重くて、冷たくて。──もちろん、そんなことばっかりじゃないよ。楽しいこともあるし、嬉し いこともあるしね。でもやっぱり怖いんだ。ずっと。ひとりでいるといつも思う。 このまま消えても、誰も分からないんじゃないかって。 ホントはわたしの周りに世界なんかなくて、わたしひとりだけ、勝手にふらふらしてるだけなんじゃ ないか、とか──そんなこと、考えることも、あるんだ」 ◇ 吐く息が白かった。 ふわっと広がった白い膜が、そよ風に吹かれて散る。 その霞の向こうで、先輩はくすっと笑った。 「なんか、やっぱりうまく言えないね」 はにかむ仕草が、不思議と愛おしかった。 「先輩──」 「でもね」 俺の言葉にかぶさるように、先輩が囁いた。 「最近はちっとも怖くないよ」 「──どうして?」 そう訊きながら、俺は先輩の頬にそっと触れた。 抜けるように白くて、冷たかった。 「ぬくもりをね、感じるから」 先輩はそう答えて、俺の手にその手をそっと重ねた。 「こうやって、体温を感じることができるから。ほら、浩平くんのぬくもりがわたしに流れてくるよ。あっ たかくて優しくて──この手がずっとわたしの手を引いてくれるなら、他に何にもいらないよ」 ここちよい重さが、俺の胸にかかる。 「好きだよ、浩平くん。・・・これからもずっと一緒にいてくれると、嬉しいな」 俺はゆっくりと手を首に回した。 「──先輩」 「ん?」 「男の台詞をとるなよな」 そう言うと、先輩はチロッと舌を出した。 「ごめん」 「ま、深海だってなんだっていいさ。俺が飲み干すよ。そんな海。いつでもさ」 「うん。期待してるよ」 「俺の体温くらい、いつでもあげるから」 「あはは、浩平くんが冷たくならないくらいにね」 「俺も──好き、だし」 「うん」 「・・・・・・」 「・・・・・・」 「な、先輩」 「ん?」 「目──閉じてくれると、すごく嬉しい」 「大丈夫、見えてないよ」 「いや、そうじゃなくて・・・」 くすくすと先輩は微笑む。 そして、ゆっくりと目を閉じた。 俺は──その薄い唇に、静かに唇を重ねた。 先輩の唇はひんやりとしていた。合わせたところから、じわっと二人の体温がぬくもりになって広が った。 唇を離すと、ほうっと二人の吐息が洩れた。 ──深海に息づく、2匹のちっぽけなチョウチンアンコウは、そうやっていつまでもいつまでも、 身を寄せあい続けた。 ──その日も、いつもと同じように、吐く息が白く宙に浮かんだ。 ---------------------------------------------------------------------------------- 4ヶ月ぶりくらいです、睦月です。 相変わらずよく分からない話です。 うーん・・・。http://www3.tky.3web.ne.jp/~riverf/