きみとぼくのうた 投稿者: 睦月周
 冬休みが明けたばかりの、月曜の昼休みだったと思う。
 俺――山田まさきは、走行厳禁の廊下を、文字通り爆走していた。
 チャイムダッシュに出遅れたのだ。
 この学校は学食というものがない。俺の家のように母親が働きに出ていて、満足に
弁当も作ってくれないような生徒は、購買のパンにしか頼るすべがないのだ。
 しかし、そんな生徒は星の数ほどいるようで――購買部はいつも戦場さながらだ。
 一瞬の油断が地獄を呼ぶ。
 チャイムダッシュ――4時限目終了のチャイムと共に購買へダッシュ――に僅かな
ためらいを見せたが最後、結果は押して知るべし、だ。
 そして俺は今その状況のさなかにいる。
(くそーっ、昨晩は寝不足気味だったからな・・・)
 昨晩は迂闊にも深夜映画を観ふけってしまい、おかげで1、2、3、4時限とも爆睡の嵐だった。
 それはまあ、さしたる問題ではないのだが(いや問題か・・・)、
この戦いにまで響いてくるとは、誤算だった。
 これからは、早めに寝よう・・・。
 そう決意した俺の耳に、どやどやといった男たちの喧噪がかすかに聞こえた。
 やっぱり出遅れたか・・・?
 くそっ、今日ばかりはあの文字通り生き地獄のような人混みの中に身を投じ
なければならないのか・・・。
 いや、でもまだ取り返せる――。
 この廊下をいつもの倍の速度で走り抜け、図書室の角をいつもの3倍の速度で
曲がり、階段をいつもの5倍の速度で降りれば、理論上はなんとかなるっ。
 そしてダッシュにターボをかけ、一気に廊下を走り抜けた。
 思った以上に体がスピードに乗る。
 これなら本当に何とかなるかも・・・。
 そう思って鋭く図書室の角を曲がった瞬間――。

「――きゃあっ!」

 文字通り、視界が反転した。


◆「同棲物語−承前− きみとぼくのうた」


 最初に見えたのは、白だった。
 ただ、白。
 次に視線をあげると・・・顔。
 泣きそうな女の子の顔だった。
 すごく、かわいい子だった。今まで見たことないくらいだ。
 綺麗な細い眉にくりくりした瞳。小さめだけど形のいい薄ピンクの唇。
 そして、腰まで届くつややかなロングの髪。
 はっきり言って、無茶苦茶好みだ。
 ・・・でも、逆向きだった。
 あれ、と俺は思った。
 どうしてこの子は上下さかさまなんだ・・・?
 そんなことを考えてみる。
 答えは一瞬で出た。
(そっか、俺がさかさまなんだ!)
 そして俺に返ってきた反応は、ピンポーンというジングルではなく――。

「きゃああ〜っ!」

 悲鳴だった。

 バーン!

 そして、衝撃。
 ――ブラックアウト。

 ※ ※ ※ ※ ※

「ぶわっはっはっは・・・」
 頬張っていた焼きそばロールをまき散らしながら、智也が爆笑した。
「お前、笑いすぎ」
 俺はそう言いながら智也の頭をゴツッと小突いたが、それでも智也は
ゲラゲラと笑いを止めない。
「でも、災難だったわね〜」
 口ではそう言いながら――でも必死に笑いをかみ殺しているのが分かる――
優子が俺に濡れたハンカチを手渡した。
 サンキュ、と言って俺はそれを顔に当てる。
 うわっ、しみる〜っ。
 思わず泣きそうな表情になってしまう。
 そんな俺の仕草を見て、耐えきれずに智也と優子が爆笑した。
 それもそのはず・・・俺の顔にはくっきりと、あの女の子が叩きつけた
本の痕が残っているのだ・・・。
「おいおい、そんなに笑うなよ、お前ら・・・」
 苦笑しながら雅弘。
 こらこら、そんなこと言いながらその震えてる肩はなんだ・・・? 雅弘・・・。
 まったく、この悪友どもめ・・・。
 俺はタオルを顔に押し当てながら心の中で毒づいた。

 雅弘、智也、優子の3人は、俺とは古い付き合いで、いわゆる腐れ縁という間柄だ。
 斉藤雅弘は見るからに頭がよさそうな、人当たりのよさそうなやつで、そしてその第一印象は完全に正しい
珍しい例だ。仲間内では一番の常識人で、色々と相談にも乗ってくれる頼りになるやつだ。
 ゲラゲラと馬鹿みたいに笑ってるのが佐伯智也。俺とは一番付き合いが長い。
お調子者で、下品で、人をからかうことが趣味という困ったやつだ。
でも、ま、どこか憎めないんだけど。
 そんな智也を呆れたように見つめてるのが鈴木優子。美人で、面倒見もよくて、非の打ち所がないはず
なのになぜか男っ気がない。いつも年上風を吹かせているから、智也や俺は
「お姉」と呼ぶこともある。

「でもそれはまさきが悪いな」
 人しきり笑ったあと、雅弘が真面目な顔で言った。
 そうね、と優子も同意するようにうなずく。
「女の子のスカートの中を覗くなんて・・・まさき、3回くらい殺されたって
文句はいえないわよ」
「不可抗力だって言ってるだろ!」
「本当は狙ってたんじゃねーのかー?」
 にんまりと智也。俺は無言で蹴りを入れた。
「でも、そういうことはうやむやにしない方がいいぞ、まさき」
「・・・分かってるよ」
 まあ、俺が廊下で暴走してしまったのが悪いんだ。
 あの子は悪くない。
 俺から、ちゃんと謝らなきゃなあ・・・。
「でも、どこのクラスのやつか、分からないんだよ」
「同じ学年だったの?」
 優子の質問に、俺はうなずいた。
「上履きの色が同じだったからな・・・それは間違いない、と思う」
「美人だったか?」
 身を乗り出して智也が訊いてくる。
 そんな智也の頭をポカッと叩いて、優子が重ねて訊いた。
「同じ学年だって分かれば、後はクラスをひとつひとつ覗いていけばわかるわよ。さ、行きましょ」
 どこへ?
 俺と智也はそろってそんな顔をした。
 優子は、はあ、と溜息をついてまたポカポカと俺たちを小突いた。
「彼女に謝りに行くの――決まってるでしょ?」

 結果は無駄足だった。
 俺たち2年の教室は全部この3Fにあるが、一通り各クラスを覗いて見ても
彼女の姿は見えない。
 おかしいなあ・・・。移動教室なのか?
 学年が一緒なのは、確かなんだけど・・・。
「どんな子なの?」
 歩きながら、優子が訊く。
「かわいい子だったな」
 即答する俺に、優子は呆れたような顔をした。
「それだけ? ほら、他に特徴とか・・・」
 む〜、と考えてしまう俺。
「髪は長かったな・・・顔は小さめ。全体的にちょっとぽや〜んとした感じ、
ってのかな? そんな子」
 それじゃ分からないのと同じよ、と優子は苦笑した。
 優子の苦笑も見慣れたものだ。
 こいつに男っ気がないのは、本当俺や智也のせいなんじゃないかって気がする。
 俺たちが世話かけすぎてるんだよなあ・・・なんて思うこともしばしばだ。
 ま、今がまさにそうなんだけど。
 こいつも黙ってれば、すごい女らしいんだよな。
 ぱっと見美人だし。
 そんなことを考えてると、
「ほら、ぼ〜っとしてないで探す探す!」
 そう言って優子はばち〜んと俺の背中を叩いた。
 一瞬、息がつまる。
 う〜ん、前言撤回。
 
 結局、何の成果もないまま教室に戻ってくると、人だかりができていた。
 俺と優子が帰ってきたのに気づくと、智也が飛ぶようにやってきた。
 雅弘は・・・というと、そんな智也と俺を見て、苦笑に似た笑みを浮かべている。
 なんだ?
 何が起きてるってんだ?
「まさきちゃ〜ん、うまいことやりやがったなあ〜?」
 は? と俺が聞き返すと、うりうり、と智也が俺の頭をグリグリする。
「いて〜っ。なんだよっ、智也」
「てめこの〜、一人だけ先に春ってか〜?」
 話が見えない。
 見かねたのか、雅弘が俺のところに来て、
「お客さんだよ」
 そう囁いた。
 見ると、人だかりの中に、女の子がいた。
 困ったような笑みを浮かべて、少しおろおろして――。
 あの子だった。
 今朝、廊下でぶつかったあの子だ。
 あの子が、俺に気づいて、こっちを向いた。
 長い黒髪が、ふわっと揺れる。
 どきっとした。
 胸に音を鳴らす機能があったなんてことを、俺はこのとき初めて知った。
 どくどくどくどくどく・・・。
 エンジンのように胸が高鳴る。
 体中が蒸気で満たされたように熱く火照る。
(おいおいおいおい・・・)
 内心で、俺は「おい」を連発していた。
 そんな俺の思いをよそに、彼女は人だかりをかきわけて――。
 そして、ゆっくりと歩みよってきて、俺の前に立った。

「あのっ・・・」

 囁くような、細い声。
 この瞬間、俺の中でリーンゴーン、と鐘の音がした。

「――わたし、あの・・・皆瀬です。皆瀬まなみ、です・・・」

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 え〜と、「同棲」のSSを書く前に、二人が同棲を始める以前のストーリーを
無性に書きたくなって、この「承前」を思いたちました。
 何回か続くと思いますが、一応これはプレ・ストーリーです。
 「出会い」から、「同棲」に至るまでのプロセスを書けたらなあ、なんて思ってます。
 本編の数少ないエピソードを膨らませて、そこにメチャメチャに脚色を加えて
おりますが、そこはご了承のほどを・・・。
 
 ではでは。
(感想は次の「三匹が読む!」で・・・)