あるところに一匹のうさぎがいました。 うさぎはぬいぐるみのうさぎでした。 だから自分の意思で動く事も、自分の意思で喋る事もできませんでした。 ただ、その透きとおったプラスチックの目で、どこか遠い世界を眺め、 キルト生地の長い耳で遥か向こうの世界の音を聞く事だけが、 うさぎにできる唯一つの事でした。 うさぎは毎日、商品棚の上で、自分のまわりの遠い世界をぼんやりと思いながら、時間だけがゆるやかに流れていくのを感じていました。 しかし、ある日、その日常に変化が訪れました。 そして、うさぎは外の世界の事を知ったのです。 ≪三日月うさぎ≫ うさぎの主人は高校2年生の少女です。 うさぎは主人の事が大好きでした。 主人はうさぎをとても大事にしてくれますし、 外の世界の事を色々うさぎに話してくれるのです。 一日中家の中にいるうさぎにとっては、主人が話してくれる外の世界の事だけが、うさぎにとっての本当の世界だったのです。 それはうさぎが見ている遠い世界とはまったく違っていました。 主人がうさぎに話してくれる世界、それは遠くの世界と反対の、近くにある世界です。 その世界は、主人の身近にある、些細で、ごく普通で、平穏で、 そして、きらきらと輝いている、そんな世界でした。 うさぎはその話を聞くのが大好きです。 そして、その話をしている時の主人の顔が大好きでした。 うさぎはそれが自分に向けられているのではない事を知っています。 近くの世界の話も、その笑顔も、別の人に向けられているという事をうさぎは知っています。 それはうさぎにとって、とても寂しいことです。 でも、それでもうさぎは、主人が笑いかけてくれて、語りかけてくれる事がすごくすごくうれしかったのです。 世界の話が終わると、主人はいつもうさぎの背中にあるスイッチをカチリとします。 すると、どういうわけかうさぎのお腹から別の人の声がするのです。 初めてスイッチをカチリとされた時、うさぎはびっくりしました。 でもそれはしかたがないことです。 誰だっていきなりお腹から声がしたらびっくりします。 しばらくの間、カチリとされるたんびにうさぎはびっくりしていましたが、近頃ではようやくカチリに慣れてきて、ドキリとするぐらいですむようになっていました。 さて、そのカチリがされるとお腹の声が主人に語りかけます。 主人はその声を聞くといつもニコニコします。 きっと、お腹の声の人が主人の事を好きだと言っているからでしょう。 しかし、最後の方になると主人はちょっと複雑な顔をするのです。 それはたぶん、お腹の声が自分がいなくなってもとか言っているからでしょう。 お腹の声の人がなんでそんな事を主人に言うのか分からず、うさぎはいつも不思議な思いに駆られます。 でも、最後には必ず主人がぎゅっとうさぎを抱きしめてくれるので、うさぎの不思議はぱっとどこかに消えてしまうのでした。 うさぎの毎日は平穏に過ぎていきました。 あまりにも平穏すぎて、うさぎはなんだかずっと前からこんな風だったような気さえしました。 ずっと昔の、暗い箱の中にいた時の事や、商品棚の上で過ぎていった日々の事が、まるで夢の中であった事のようにぼんやりと霞んでしまうほどでした。 うさぎは幸せでした。 ずっとずっと、こんな毎日が続いていってほしいと願っていました。 でも、それはやってきました。 暗い箱から取り出された時のように、商品棚から引っ張り出された時のように、 また、世界が変わる時がやってきたのです。 その日、うさぎはぼんやりとお腹の声の人について考えていました。 その人はうさぎの以前の主人です。 以前の主人と言ってもうさぎとの付き合いはごく短く、ごちゃごちゃとした商品棚の奥から明るい所に引っ張り出してくれた事と、うさぎの背中に向かって何回もいろいろと喋っていた事だけが記憶に残っています。 でも、それはうさぎにとって遠い世界の事だったのでほとんど朧げにしか思い出せません。 主人が話してくれる近くの世界の話は、そのお腹の声の人が中心で、もうその人の事ばかりなのです。 だからうさぎは主人の事よりもお腹の声の人の事の方がよく知っているくらいなのです。 それなのに、以前の主人と会った時の事を思い出してみても今の主人が話してくれるお腹の声の人とは一致しないのです。 それは遠い世界と近い世界とが違う世界だからなのでしょうか? うさぎは目の前の遠い世界を見ました。 そこに見える世界は相変わらず遠い世界です。 ベッドがあります。 机があります。 本棚があります。 窓の外には道路が見えます。 そこを時々、人や犬や猫が歩いているのが見えます。 でも、それらは全部が遠い世界でした。 うさぎとはなんの繋がりもない遠い遠い、空の星のように遠い、決して手が届くことのない遠い世界です。 主人が話してくれる世界はとても近くにあって、まるで自分がそこにいるかのように感じられるのですが、その世界と目の前の世界は、やはり一致しないのです。 うさぎは自分も主人のいる世界をのぞいて見たいと思いました。 このプラスチックの目から見える世界が主人の見ている世界と同じであったらどんなに素敵な事でしょうか。 一度でも主人と同じ世界を見る事ができたなら、うさぎはもう消えてしまってもいいとさえ思っていました。 きっとその世界にはお腹の声の人がいることでしょう。 うさぎはもう一度、以前の主人を思い出そうとしました。 しかし・・・ なぜか、思い出せませんでした。 さっきまで思い出せた事が思い出せないのです。 うさぎは不思議に思って、一生懸命思い出そうとしました。 どうしたことでしょうか。 まるで記憶が消えてしまったかのように全然思い出せないのです。 なんだか以前の主人なんていなかったような気さえします。 でも、でも確かに誰かがいたはずです。 だって、その人はお腹の声の人と、毎晩主人が話してくれる、近くの世界の人と同じ人なのですから。 でも、それきり以前の主人の事は思い出せませんでした。 かろうじて誰かが居たという事しかわかりません。 遠い世界の事だから忘れちゃったのかなと、うさぎはぼんやりと考えていました。 その夜、主人はうさぎになにも話てくれませんでした。 それどころか、うさぎの方を見ようともしませんでした。 うさぎにはなにがなんだかわけがわかりません。 主人はいままで毎日、一日も欠かさずにうさぎに世界の話をしてくれたのに、どうして急にやめてしまったのでしょうか? 遠い世界の中で、主人は明日の学校の用意をしたり、本を読んだりしていました。 うさぎは辛くて悲しくて、そしてとても寂しい気分になりました。 もしかしたら、もう二度と近く世界の話を聞けないかもしれない、主人の笑顔が見られないかもしれない。 そう思うと、うさぎは自分の見ている遠い世界がさらに遠くの方に行ってしまって、もう二度と戻ってこないような気持ちになりました。 やがて部屋の電気が消され、うさぎは闇の中に沈んでいきました。 朝、うさぎはカチリという音を聞いて目が覚めました。 主人がうさぎをじっと見つめています。 うさぎのお腹からあの声が喋りだしました。 主人はじっとその声を聞いています。 そして、最後の方のいないときでも笑っていろよなの辺りで、はっとうさぎを持っている手を離しました。 うさぎはぼてりと床に落ちました。 そしてその後は、主人が急ぎ足で家を出ていく音だけがうさぎの耳に聞こえました。 うさぎにはなにがどうなったのかまったくわかりません。 ただ、もしかしたらお腹の声の人はいなくなってしまったのかなあと、ぼんやりと考えていました。 夜、主人が帰ってきました。 主人はごめんねと言いながら床に落ちていたうさぎを抱き上げました。 うさぎは自分を見つめている主人の顔を見ました。 なんだか優しい表情をしています。 そして、哀しい表情をしていました。 「君もおいてきぼりにされちゃったんだ。わたしとおんなじだね・・・」 うさぎはびっくりしました。 主人がうさぎに向かって話しかけてきたのです。 いつもはお腹の声の人に向かって話している主人が、初めてうさぎに向かって話しかけたのです。 うさぎはうれしくなりました。 でも、おいてきぼりってなんでしょう? 主人は誰かに置いていかれたのでしょうか? うさぎがそう考えていると、主人はうさぎの背中をカチリとしました。 シンとした部屋の中を、うさぎのお腹の声だけが、なんだかそれだけしか存在しないような感じで流れました。 声が終わると主人はぎゅっとうさぎを抱きしめました。 「ひどいよ浩平・・・戻ってきたときなんて言われたら、わたし、ずっと笑ってなくちゃいけないよお。・・・・・・でも、今日ぐらいは泣いてもいいよね、浩平・・・」 そう言って、主人はもっともっとぎゅうっとうさぎを抱きしめました。 しばらくして、うさぎの顔の辺りがじんわりと湿ってきました。 うさぎはなんだか自分が泣いているような気がしました。 主人が悲しいことが、うさぎにとってはとてもとても悲しかったのです。 うさぎは主人が泣き疲れて寝つくまで、ずっと主人と一緒に泣いていました。 そして、その時うさぎが感じた世界は、プラスチックの目を通して見る遠い世界ではなくて、いつも主人が話してくれていた、あの近くの世界だったのです。 その夜、うさぎは主人に抱かれたまま、主人の事や、お腹の声の人の事や、遠くて近い世界の事をずっと考えていました。 朝、主人はいつもどおり家を出ていきました。 そう、いつもとまったく一緒です。 唯一つ違うのは、出かけ際にうさぎをぎゅっと抱きしめていった事です。 それ以外は本当にいつもと一緒でした。 うさぎは主人の事を心配していましたが、どうやら大丈夫なように思われたので、ほっと安心しました。 そして主人が帰ってくるまで眠りました。 その間にうさぎは夢を見ました。 夢の中で主人が一人で歩いていました。 でも、主人は誰かと楽しそうになにかを話しています。 誰もいない所に向かって主人は喋りかけていました。 うさぎには、そこにお腹の声の人がいるような気がしましたが、 しかし、姿が見えませんでした。 声も聞こえませんでした。 そこにはきっと、うさぎの以前の主人の姿があるはずなのですが、 うさぎにはどうしても以前の主人の姿が見えないのです。 まるでその部分だけが消しゴムで消されてしまったかのようでした。 一人で楽しそうに話している主人を見ているうちに、うさぎはなんだかひどく哀しくなって、それからずっと夢の中で泣いていました。 夕方、主人が帰ってきました。 主人はいつもと同じように、明日の用意をしたり、勉強をしたりしていました。 やがて夜になって、主人はいつものようにうさぎに世界の話をしてくれました。 でも・・・ それは遠い世界の話でした。 うさぎがいつも見ている世界と同じ、遠い世界の話でした。 プラスチックの目から眺めるような、自分とはまったく関わりのない遠い世界の話。 そしてその話し方も、どこか、ひどく遠くにいる相手に話しかけているような感じでした。 主人の話が終わった後も、うさぎは呆然としたままでした。 うさぎは主人のように世界を見たいと思っていました。 そこにある世界こそが本当の世界だと思っていました。 しかしなんということでしょう。 今は主人の方が、うさぎが見ているように世界を見ているのです。 それは、とても、とても、とても哀しい事でした。 そして、そんな主人になにもしてあげられない自分が、ひどくちっぱけで悲しかったのです。 いつも通りのようで、いつもとは違う毎日が続きました。 少しずつ季節が変わっていきました。 でも、うさぎの主人は遠い世界を見たままです。 うさぎは祈るようになりました。 うさぎにはなにもできないので、祈ることしかできませんでした。 ただ、何に向かって祈るでもなく、漠然と主人のことを祈っていました。 そんなある夜の事です。 いつものようにうさぎのお腹の声を聞き終えた後、カーテンを閉めようとした主人の手が、ふと止まりました。 主人はしばらく外を眺めていましたが、やがてうさぎを抱きかかえて窓の外を見せてくれました。 そこには大きなまんまるのお月さまが輝いていました。 そして主人はうさぎに言いました。 「ほら、まんまるのお月さまだよ」 うさぎは生まれて初めてお月さまを見ました。 お月さまは優しく光っていて、うさぎにはひどく近くにあるように見えました。 そして、主人がお腹の声の人ではなく自分に向かって話しかけてくれた事に気付きました。 「お月さまにはね、うさぎがいるんだよ」 「ほら、うさぎがお餅をついているように見えるよね」 そう言われるてみると、お月さまの表面には確かにうさぎがお餅をついている姿が映し出されていました。 「君はあのうさぎなんだよ。でもあのお月さまのうさぎじゃないんだよ」 「君は三日月のうさぎ。ほんの少し顔をのぞかせた三日月のうさぎ」 「ほとんどが影に隠れて、わずかに残った月の欠片だよ・・・」 「君と、私の思い出だけが残って、後はみんな隠れちゃったみたい」 「いつになったらあのお月さまみたいになるのかな?」 「いつまでも三日月のままだったら、どうすればいいんだろうね」 そう言って、主人はうさぎの背中のスイッチをカチリとしました。 いつものお腹の声が流れます。 「浩平・・・私、笑顔でいるよ。ずっとずっと笑顔でいるから・・・だから・・・・・・」 「・・・いつか、きっと、だよ」 やがて、うさぎの主人は眠りにつきました。 カーテンは開けられたままです。 うさぎはお月さまを見ていました。 空にはまんまるお月さま。 お月さまはやわらかい光でうさぎを照らしています。 自分は欠けてしまった三日月のうさぎなんだそうです。 そして、うさぎの主人も欠けてしまった三日月のうさぎなのです。 ほんのわずかしか太陽に照らされていない三日月うさぎ。 いつかその三日月が、今のこのお月さまのようにまんまるになった時、主人の見る世界は遠い世界ではなくなって、本当の世界になるような気がしました。 うさぎはお月さまに祈りました。 どうか少女のお月さまがまんまるのお月さまになりますように。 その祈りはお月さまが空を巡り、西の空に沈んでいった後もずっと続いていました。 いつか、きっとお月さまがまんまるになりますように・・・ ------------------------------------------------------------------------------- ども〜、はにゃまろです 今回は童話風みたいなのです。 三日月うさぎという題名の元ネタは不思議の国のアリスに登場する三月うさぎから思いつきました。 って言ってもアリスを読んでいた訳じゃなくて他の本に載っていたんですが・・・ 三月うさぎ->三日月うさぎ->ウサぴょん->月の満ち欠けを内容に組み込んでSSが書けるな と言うわけです。 そして、実はこのSS、書き直しバージョンです。 三日月うさぎの題でSS書いていたら、話の内容がものすごく捻じ曲がってまったくの別物になってしまったのです。 これではいかんと、そっちの方を途中で中断して、ちゃんとしたものに書き直したのがこのSSです。 なんとか当初の予定通りの内容になったので一安心しています。 捻じ曲がった方のSSも書きあがりしだい投稿する予定なので、その時はその捻じ曲がり具合を笑ってやってください。 最後に・・・ このうさぎの名前がラビット鈴木だったらヤダなあ。 では〜