ひげのない猫がいました。 片耳のない猫がいました。 尻尾のない猫がいました。 そして、なにもない猫がいました。 「ひげがないといろいろ大変なんだぞ」 ひげのない猫が言いました。 「ぼくだって音が聞きにくくて苦労してるんだよ」 片耳のない猫も負けずに言いました。 「尻尾がないとバランスがすっごく取りにくいんだ」 尻尾のない猫も言いました。 3匹の猫はお互いに愚痴を言い合っていました。 その場にいたなにもない猫はそっとつぶやきました。 「君達はそれでも猫ってわかるからいいじゃないか。ぼくにはなにもないんだぞ」 でも、なにもない猫はなにもなかったので3匹の猫達はなにもない猫に気付きませんでした。 なにもない猫はほっとため息をつきました。 しかしなにもなかったので、そのため息は生まれる前に消えてしまいました。 「誰かぼくに気付いてくれる人はいないかなあ。ぼくは、ぼくがここにいるって事を誰かに知ってほしい」 なにもない猫はそうつぶやいて、また、ほっとため息をつきました。 今日も一日中、町を歩き回りましたが、なにもない猫に気付いてくれる人はいませんでした。 なにもない猫はうなだれて自分の住処に帰ってきました。 なにもない猫はもちろん飼い猫ではありません。なにもない猫が勝手に住みついているだけです。 なにもない猫が住みついている家には、40代ごろの女の人と高校生ぐらいの男の子が 住んでいますが、二人ともほとんど家にいません。 だからなにもない猫にとっては非常に住み心地のいい家でした。 なぜって人がたくさんいると、みんななにもない猫に気付かないので、踏んづけられたり 時には上から布団を敷かれてしまうといった事もあるのです。 なにもない猫はなにもないので平気ですが、やっぱり気持ちのいいものではありません。 それにこれが一番大きなところなのですが、大勢の中にいるととても寂しいのです。 でも、一人でいるのはもっと寂しいので今の家を選んだという訳です。 この家を選んだ事はなにもない猫にとって大正解でした。 この家に毎朝訪れる女の子がいるのですが、その女の子はいつもなにもない猫を見て首を かしげてくれるのです。今のところその女の子だけが、なにもない猫にとってのたった一つの希望でした。 自分の部屋に帰ってきたなにもない猫は、カーテンの隙間からお月さまに向かってつぶやきました。 「今日も一日、いろいろがんばったけどやっぱり誰も気付いてくれませんでした。 ねえ、お月さま。ぼくは何のために生まれてきたのかなあ。誰もぼくを知らないんだよ。 このまま誰の記憶にも残らないで死んじゃうんだとしたら、ぼくは生まれてこなかったのと おんなじじゃないかな?。お月さま、お願いします。 尻尾の先っぽだけでも前足の爪の一つだけでもいいんです。 ぼくがここにいたっていうあかしを下さい。お月さま」 なにもない猫はお月さまの見える夜は、毎晩このようにお月さまに向かってお祈りするのです。 「はあー」 そして深いため息を一つ。 「あの子、明日こそはぼくに気付いてくれるといいな」 そうつぶやいてなにもない猫は、その家の男の子の布団にもぐりこみました。 なにもない猫はいつもそうして寝るのです。 一人で寝るといつのまにか消えてしまいそうで、それが怖くてなにもない猫は今日も布団にもぐりこみます。 「あれっ?」 その時、なにもない猫はなんともいえない奇妙な違和感を感じました。 なぜか、その布団の中に誰もいないような気がしたのです。 その布団の中では男の子がぐっすりと眠っています。 でも、ほんの一瞬でしたが確かにそこには誰もいなかったのです。 なにもない猫は不思議な感覚にとらわれたまま眠りにつきました。 ちゅんちゅん、ちゅんちゅん。 朝です。鳥の鳴き声とともになにもない猫は目を覚ましました。 隣りではその家の男の子が幸せそうに眠っています。 「うーん。あと3ミリバール寝かせてくれぇ」 なにか寝言を言ってますが、いつもの事なのでなにもない猫は気にしません。 そんな事よりも後30分で彼女が来るのです。 なにもない猫はなんとか存在感をだそうとがんばります。 なにもない猫は毎朝、彼女が来るまでいろいろと創意工夫しているのです。 ピンポーン。 なにもない猫はぴくりと耳を動かしました。 彼女が来たのです。 もちろんなにもない猫はには耳もありませんが、気持ちの問題というやつです。 ピンポーン。 もう一度ピンポンが鳴りました。 いよいよ彼女が来ます。 「おじゃましまーす」 ガチャッ バタン 彼女が玄関から入ってきました。 トントントントン。 小気味のいいリズムに乗って階段をのぼってきます。 なにもない猫は男の子の部屋の前で気をはりつめました。 「浩平、朝だよー」 ついに彼女が階段をのぼりおえました。 ピキーン。 なにもない猫は全身に込めた力を彼女に向かって放ちました。 「あれ?」 やったーっ。 やりました。 今までは首をかしげるだけだったのに、ついに声を出させる事に成功したのです。 もしかしたら!。 なにもない猫はさらに力を込めました。 でも、彼女は首をかしげただけで、何事もなかったかのように男の子の部屋のドアを開けて 中に入っていってしまいました。 ガチャッ カシャァー 「浩平―っ、おはよーっ」 なにもない猫はがっかりしましたが、それでも今朝は声を出させる事に成功したのです。 毎朝続ければいつかはなにもない猫の存在に気付いてくれる事でしょう。 今晩、お月さまにお礼を言おうとなにもない猫は思いました。 その夜のことです。 なにもない猫はカーテンの隙間からお月さまにお礼を言い終え、眠りにつこうとしました。 今日はため息をつく必要もありません。 男の子の布団にもぐりこもうとしてなにもない猫はふと、昨日の夜の事を思い出しました。 なにもない猫は布団にもぐりこむのを止め、男の子の顔をよーく眺めました。 ちょうどお月さまが雲に隠れて、あたりがすーっと暗くなった時でした。 ふっと、その男の子が消えたのです。 なにもない猫は仰天しました。 しかし、布団はふくらみが残ったままですし、確かに男の子の呼吸に合わせて上下しています。 さわって確かめようとしましたが、なにもない猫にはなにもなかったのでさわる事もできませんでした。 しばらくの間、男の子は消えたままでした。 やがて雲が去り、お月さまの光がカーテンの隙間からすっと差し込んで来ました。 それに併せるようにその男の子は元に戻り、何事もなかったかのように幸せそうに眠っていました。 「もしかしたらぼくの所為じゃないだろうか」 となにもない猫は不安になりました。 「いつもぼくが一緒に寝てたから、この男の子にもなにもないのが移っちゃったんじゃないかなあ」 どう考えてもそれ以外の理由は見つかりませんでした。 でも、この家を出ていったらもう彼女に会う事ができません。 だって、彼女の家には8匹も猫がいるのです。 そんな中では彼女がなにもない猫に気付いてくれるはずありません。 この家からはまだ出ていかないけど、もう一緒に寝るのは止めようとなにもない猫は誓いました。 しかし、その次の日から彼女は来なくなりました。 その家の男の子もずっとつらそうな顔をしています。 「ぼくの所為だ。ぼくがあの男の子になにもないのを移したからあの子は来なくなっちゃったんだ」 なにもない猫はとても悲しい気持ちになりました。 「ぼくは何かを残すどころか、逆に大切なものを壊しちゃったんだ。 こんな事なら最初からいない方がよかった。 お月さま、ぼくはどうして生まれてきちゃったんですか」 なにもない猫は泣きました。 しかし、なにもなかったので涙がこぼれる事はありませんでした。 なにもない猫はずっと住んでいた家を出ました。 本当は男の子のそばにいてなぐさめてあげたかったのですが、なにもないのでできなかったのです。 なんべんもなんべんも謝りながらなにもない猫は男の子の家を出ていきました。 それからなにもない猫は自分が住んでいた町が一望できる小高い丘の一番見晴らしのいい所に行きました。 なにもない猫はその場所でこの世界とお別れするつもりでした。 なにもない猫はなにもなかったので、じっとしていれば少しずつ意識がとけていき、 この世界から消える事ができると思ったのです。 数日がたち、なにもない猫の意識はだいぶ希薄になってきたようでした。 もうすぐ消える事ができそうな感じがしていました。 なにもない猫がうつらうつらしていると、向こうから足音が聞こえてきました。 「いやだなあ。来ないでほしいな。ぼくはもう誰とも会っちゃいけないんだ」 なにもない猫は隠れようとしましたが、すでにその場所から動く力はなくなっていました。 「まあいいや。どうせぼくはなにもないんだから気付かずに行っちゃうよ」 となにもない猫は思いました。 でも、登ってきた二人を見てなにもない猫は本当にびっくりしました。 その二人はなにもない猫が住んでいた家の男の子と、その男の子をいつも起こしに来ていたあの女の子だったのです。 二人はぴったりと寄り添って歩いてきました。 「よかったあ。あの男の子大丈夫だったんだ。きっとなにもないのが直ったんだ」 なにもない猫はうれしくなって思わずにっこりしました。もちろん気分だけでしたけど。 しかし、近付いてくる二人の表情を見てなにもない猫はその考えが間違いだった事を知りました。 二人の表情は暗く、男の子はすごく寂しそうな申し訳なさそうな複雑な表情をしており、 女の子の方は今にも泣き出しそうなのを必死でこらえているといった感じでした。 なにもない猫の心を一番打ったのは、それでもその女の子が笑顔だった事でした。 二人はなにもない猫の前で腰を下ろすと、しばらくの間だまったままでした。 やがて男の子は女の子に膝枕をしてもらい、ぽつりぽつりと何かを話していました。 それから、男の子はふっと消えてしまいました。 女の子はしばらくじっとしていましたが、ほほをすっと一滴涙がつたいました。 そして、女の子はぼろぼろと涙をこぼして泣きました。 その様子はあんまりにも悲痛で、まるでそのまま男の子のように消えてしまいそうでした。 なにもない猫はおもわずその女の子に駆け寄りました。 不思議な事に、今まで動かなかったのがうそのようにふわっと駆け寄れたのです。 そして女の子のほほをなめました。 涙をすくいとるように何度も何度も。 しかしなにもなかったのでその涙をすくう事はできませんでした。 それでもなにもない猫は止めませんでした。 全身の力を込めて一生懸命涙をすくおうとしました。 「お月さま、ぼくはもうこのまま、永遠にここに縛り付けられてもかまいません。 どうか、この子にぬくもりを与えてあげてください」 なにもない猫は祈りました。 その時です。 なにもない猫のないはずの舌に塩辛いものが感じられたのです。 それとともに女の子のひやっとしたほほの感触が、なにもない猫に伝わってきました。 その女の子は、はっとほほを押さえて呆然としていましたが、しばらくして一言つぶやきました。 「・・・浩平?」 それから長い間女の子はその場に座り込んでいましたが、やがてゆっくりと立ち上がると なにかを決意した表情で歩き去っていきました。 なにもない猫はほっとしましたが、すべてが自分の所為であることを思い出し、じっと その場にうずくまっていました。 その夜は大きな満月でした。 なにもない猫はお月さまに問いかけました。 「ぼくはこんなことのために生まれてきたんですか、お月さま。 悲しみをふりまくだけの存在だったんですか?。 それじゃあぼくの存在はあんまりにも哀しすぎるじゃないか。 こんな事ならずっと一人でいればよかった。 そして誰もいない所でひっそり消えてしまいたかった。 ぼくはただ、誰かにぼくの事を知ってほしかっただけなんです。 この世界にぼくがいたって知ってほしかっただけなんです。 それがいけなかったんですか?。 それがそんなにいけない事だったんですか?。 ねえ、お月さま。 それならぼくはなんだったんですか。 どうしてなんにもないのに心だけは在ったんですか?。 心だけ在ってもしょうがないのに。 ふれてくれる人が、ぼくの事をほんの少しでも思ってくれる人がいなければ そんなものなかった方がよかったのに。 なんでぼくはここにいるんですか。 お月さま、教えてください。 ぼくは、ぼくはなんだったんですか。 ぼくの生きてきた時間はなんだったんですか。 お月さまぁ、どうか答えてください」 しかし、お月さまは優しい光をふりまくだけで何も答えてはくれませんでした。 春 なにもない猫はまだそこにいました。 ちょうちょが飛んで来たり、他の猫達が日向ぼっこに来たりしましたが、 なにもない猫に気付くものはいませんでした。 夏 雨がしばらく続き、その後はさんさんと暑い陽射しがなにもない猫を照らしました。 子供達が何度か遊びに来ましたが、やはりなにもない猫に気付くものはいませんでした。 秋 あたりは一面紅葉で染まりました。 なにもない猫の上には落ち葉が降り積もりました。 その場所にリスがどんぐりを埋めていきましたが、なにもない猫には気付きませんでした。 冬 雪が降りました。 雪は別け隔てなくすべてのものの上に降り積ります。 なにもない猫の上にも雪は積もりました。 誰も来ることはなく、なにもない猫に気付くものもいませんでした。 そして、春 なにもない猫は消えました。 一年かけてゆっくりと消えていった意識の最後のひとかけらが、 ついにふっと消えてしまったのです。 そしてその場所には、本当になにもなくなってしまいました。 しばらく後の事です。 あの女の子がなにもない猫のいた場所にやってきました。 その後ろにはなにもない猫が住んでいた家の男の子がいます。 二人は腰を下ろすと何かを話していました。 ふと、女の子が首をかしげました。 自分が座っている場所の隣りに猫のかたちのくぼみが在ったのです。 女の子はしばらくそのくぼみを眺めていました。 そして、塩辛い雫が一滴、その場所のぽつりと落ちました。 しかし、やっぱりそこにはなにもなかったのです。 女の子はいぶかしげ首をかしげると、何事もなかったように男の子とお話しを始めました。 長い長いお話しでした。 そしてその女の子も男の子もとてもとても幸せそうでした。 (ごめんね) (つらい目にあわせちゃったね) (ほんとに、ごめんね) (これからは私がずっとずっと一緒だよ) (だからもう泣かないで) (二人とも幸せになったんだよ) (私達がいつまでも泣いてちゃだめだよね) (あっ!) (私を・・・なぐさめてくれるの?) (あんなひどい役目を押し付けたんだよ) (それなのに・・・) (・・・優しいんだね、君は) (あったかい。浩平とおんなじ) (ほら、おっきなお月さま) (お月さま、とってもきれいだね) -------------------------------------------------------------------------- こんばんは、はにゃまろです。 一ヶ月ぶりぐらいでしょうか。 仕事がひどく忙しくてずいぶんとひさしぶりになってしまいました。 続き物の方も進めているのですが、この話はずっと暖めていたネタなので先に書いてしまいました。 この話にでてくるなにもない猫は私が好きな童話集の一つの短編の主人公です。 その設定にONEと通じるものがあったので、いつか彼が主人公のSSを書きたいと思っていました。 やっと形にできてうれしく思っていますがどうだったでしょうか?。 蛇足なようなので、最後の部分を付ける予定ではなかったのですが、それではあまりに 救われないと思ったので付け足してしまいました。 忙しい毎日ですがそれでもONEのSSは書き続けていきたいと思っています。 それでは失礼します。