情景不変 投稿者: ひさ
「あ、君……」
「はい?」
「もしかして、川名……みさきか?」
「え? はい、そうですけど……」
「そうか、やっぱり川名か」
「あっ、その声……先生ですか?」
「おう。久しぶりだな」
「本当に……お元気そうでなによりです」
「まあ、お前達を受け持ってた時より体力は落ちたがな。幸い怪我も病気もな
く、ぼちぼちやっとるよ」
「先生、今日の事……無理なお願い言って済みませんでした」
「なに、大した事じゃないさ。それにかつての教え子の頼みを無碍には出来ん
からな。とりあえず鍵は開けておいたからいつでも出られるぞ」
「ありがとうございます。それで、あの……」
「わかっとるよ。あいつが来たら屋上に行ったと伝えればいいんだな?」
「済みません……よろしくお願いします」
「あ――」
「えっ?」
「そういえば……もう名字は川名じゃないんだったな」
「ふふっ。そうですね、懐かしくてつい川名って呼ばれて反応してしまいまし
たけど、今は……『折原』ですよ」



 …………………………


 
 十年ぶりに、かつて通っていた高校へ訪れていた。
 とは言っても、この学校は私の家から目と鼻の先にあるので、あまり久しぶ
りに足を運んだという気はしないのだけれど。
 それでも一歩校舎内に足を踏み入れてみれば、学校特有の「匂い」とでもい
うのだろうか……そういったものが、やっぱり妙に懐かしい。
 そんな、昔巣立った場所に私が今居るのはそれなりの理由があった。
 今日はとても大切な日だから……。
 十年という節目の年に、どうしてもあの場所……私がこの学校で一番好きだ
った屋上へ足を運んでおきたい――そう思ったのが一週間ほど前だった。
 それから私は急いで学校側に、校内と屋上への立ち入りの許可をもらおうと
受話器を取っていた。
 この時思えば、高校の恩師がまだこの学校に留まって勤務していた事は、私
にとって幸運だったのかもしれない。
 正直言って面識の無い学校の人に、どういう風に説明して屋上へ行きたい事
を告げるべきか悩んでいたんだけど……。
 その点先生なら、私が学生時代に屋上へよく足を運んでいたのを知っている
し、何より面識があるので頼み易いという事もあった。
 案の定、話を通してもらいすんなり許可を得られたという訳だ。
「随分時が経ってるのに、結構忘れてないものなんだ……」
 そう言いながら、屋上へと続く階段を一歩一歩ゆっくり踏みしめるように昇
り始めた。
 私は……視力を完全に失っている。
 目が見えなくなってから、もう十数年経っているので、こんな日常生活には
慣れっこだった。
 だけどいくら過去に三年間過ごした校舎とはいえ、さすがに階段は壁に手を
付きながらでなければ思うように進む事が出来ない。
 当時は校内のどこに何があるのかほぼ把握していたので、ほとんど手探り無
しで歩き回るという事――クラスメイトの皆はそれを『芸当』と言っていたっ
け――も出来たんだけれど。
 そんな記憶が徐々に薄れてゆくのは少し寂しくもあった。
 過ぎ去った歳月の長さというものを、嫌でも実感してしまう。
「確かここをずっと昇っていけば、そのまま屋上に出られたよね」
 ようやく一階と二階の中間点の踊り場まで辿り着いた私は、曖昧な記憶を引
っ張り出し、頭の中に校舎内の見取図を思い描きながら確かめるように呟いた。
 しばし立ち止まって壁に手をついていると、ひんやりとしたコンクリートの
感触が、階段を昇って少し火照った体に適度な心地良さを与えてくれる。
「懐かしいな」
 こうして校舎の一部に触れていると、そこから掌を伝って私の心に過去の記
憶が流れてくるような気がしていた。
 この踊り場で、冷たい壁が長年見続けて来たもの。
 多くの出来事と、それを取り巻く数え切れない程の生徒達。
 そんな中で私は自分自身の姿をこの壁伝いに見たのかもしれない。
 少々名残惜しかったけど、いとおしむように壁を撫でつつ私はまた階段を昇
り出した。



「きゃっ」
 そんな可愛らしい悲鳴が聞こえたのは、丁度三階まで昇り切った時だった。
 ちなみにその悲鳴は私の声なんだけどね。
 ……冗談だよ。
「あの、大丈夫?」 
 私は視力を失ってしまったけれど、その分他の感覚は人並みかそれ以上に働
いていると思う。
 そういう考えは決して自惚れではなくて……視力を失った代わりにより強い
他の感覚を得た、と言った所かな。
 視力以外の感覚を鍛えなければ、ハンデを背負って生きて行くなんて到底無
理な事だったし、鍛えたからこそ今こうして自分自身の力で歩けている。
 足音や息遣いで、こちらに近付く人の気配を察知する事もできる。
 もちろん私が他人を知る為には、こちらから積極的に話し掛けるという事が
一番大切だというのも理解していた。
 それでも――咄嗟に起こってしまう事態に対しては、さすがに目が見える人
程素早くは判断できない。
「痛たたた……あっ! 済みませんっ」
 その元気な声は、おそらく私とぶつかった女子生徒のものだろう。
 今は放課後だから部活へ向かう所だったのか、それとも何か目的があって急
いで帰る所だったのだろうか。
「ううん、大丈夫よ。私は何ともないけど、あなたこそ怪我してない?」
 前方から駆けて来る足音に気付いた時は、もう避けるだけで精一杯だった。
 私は軽く腕がぶつかり多少よろけただけで済んだけど、彼女の方は余程慌て
ていたのか、派手に転んでしまったらしい。
「はいっ、平気です」
 でも、どうやら声を聞く限りでは大した事はなさそうだ。
 もし正面衝突でもしていたら、階段を昇り切ったばかりの私は転げ落ちなが
ら踊り場まで逆戻りしていたかもしれない。
「そう考えるとぞっとするね」
「えっ?」
「あ、何でもないよ」
 つい思ってた事が言葉に出てしまった。
 いまいち緊張感のない声だなって思ったけど、私は本当にその事を考えて全
身鳥肌を立ててしまう。
 目の前にいるであろう女の子は、不思議そうに見てるんだろうな。
 生徒でもなければ先生でもない、言わば部外者のこの私を……。
「えっと……」
「うん、目が見えないんだよ」
 彼女が何か言うのを遮って、私はそう答えた。
 初対面の人の反応といえば、大抵戸惑いながら視力の事を聞いてくる。
 特に嫌だという訳じゃないんだけど、毎回同じではウンザリするので時々こ
うして聞かれる前に先に言ったりもしていた。
 ちょっと意地悪な気もするけど……。
 でも、てっきり彼女もそうだと思い込んでいた私は、その後に続く言葉を聞
いて意表を突かれてしまった。
「あのそうじゃなくって……あ、それも聞こうと思ってたんですけど、あたし
が言おうとしたのは、この学校を卒業された方ですか? って事なんです」
「えっ? うん、そうだけど……でもどうして分かったの?」
「学校の中を私服で歩いてる人なんて、そうそう見ないですもの。それにあた
しこれでも生徒会長だから……ってのは関係ないかもしれないけど、卒業した
生徒会の先輩が学校に来られた時に会うんですよ。だからかなぁ」
 なるほど、と私は思った。
 少々元気過ぎる――と言ったら失礼かな――けど、生徒会長をこなしている
だけあって、なかなか聡明な娘みたい。
「それについさっき、お姉さん以外でここを卒業したって人に会ったんですよ。
男の人だったけど……屋上へ行く道を探して迷ってたっけ」 
(それってもしかしたら……)
 私はその迷っているという人物に心当たりがあったので、彼女に詳しく聞い
てみる事にした。
「えっと、どんな感じの人だったかな?」
「ん〜、何て言うのかなぁ。おかしな表現かもしれないけど、子供っぽいって
いうか……そんな感じの人でした」
「それってとってもいい表現だよ」
「知ってる人なんですか?」
「うん、多分ね」
(なんだ、もう来てたんだ)
 子供っぽいというのは、実に的を得ている例えだった。
 昔の卒業生が、そんなに一日に何人も訪れるわけじゃないだろうし、多分私
が思っている人だろう。
「その人って、お姉さんの恋人? それとも旦那さん……とか?」
「どうだろうね。赤の他人で全然知らない人かもしれないよ」
「だけど、お姉さんもこれからその階段昇って屋上に行こうとしてたみたいだ
し。もしかしたら何かの目的でその人と学校に来たんじゃないかなぁって……」
 やっぱり生徒会長といえど女の子は皆こういう話題が好きなのか、最初遠慮
がちだった口調も興味津々といった感じに変化していた。
 それにしても同じ卒業生だったというだけで、恋人とか旦那とかに結び付け
る所はなんとも強引な気がしたけど……ホントに鋭いね。
「そう言えば私もちょっと屋上に続く階段がここで良かったのか記憶が薄れて
いたんだけど、間違ってなかったみたいだね」
「はい、この階段をあと少し昇ればすぐ屋上ですよ」
「うん、ありがと。そうそう、ところで何か用があったんじゃないの? 凄く
急いでるみたいだったけど……」
「あっ!? いっけない! これから生徒会の役員会議があるのに遅れそうだ
ったから急いでたんだった!! ああっ、もう始まっちゃってるよぉ〜」
 なるほど、急いでたのはそういう理由だったのか。
 彼女は大慌てで情けない声を上げている。おそらく腕時計を見て時間の確認
でもしたのだろう。
「ごめんね、何だか引き止める形になっちゃって」
「そんな……悪いのは前方不注意で『廊下は走らない』の規則をぶっちぎりに
破ったあたしの方なんですから気にしないで下さい」
「そんな規則、大真面目に守ってる生徒なんていないと思うよ」
「ふふっ、そうですよね〜」
 何だか生徒会長とは思えない発言だけど、真面目一辺倒じゃないからこそ、
会長なんていう大役が務まっているのかもしれない。
「あっと、なんか本当に時間がやばいんであたしもう行きますね」
「頑張ってね」
「はい!」
 彼女は最初に話した時と同じく元気な声で返事をすると、私の側を急ぎ足で
通り抜けて行った。
 そう思ったのは、見えなくてもすれ違いざまに風が通り抜けるのを感じたか
ら……だったんだけど――
「あ、そうだ! お姉さんのお名前、教えてもらえませんか?」
 階段を駆け下りる足音が数段聞こえた所で、背中からそんな声が飛んで来た。
 もちろん、声の主は生徒会長の彼女。
「私は折……川名みさきだよ。あなたのお名前は?」
「えっと、それはですね……次に学校に来た時教えてあげますよっ。ほら、何
か目的があった方が来やすいじゃないですか。この場合あたしの名前を教えて
もらうって事ですけどね。お姉さんの名前を言って生徒会長に会いに来ました
って、先生か誰かに取り次いでもらえれば多分大丈夫です」
「……うん、わかったよ」
「それじゃあ、また遊びに来てくださいね。"川名みさき先輩"」
 その言葉を最後に、階段を駆け降りる足音が徐々に遠ざかる。
 今度こそ本当に行ってしまったようだ。
「先輩……か」
 どうして私は本当の名字を名乗らなかったのだろう。
(それは……)
 学生時代の旧姓で、さっき彼女が言った風に呼ばれてみたかったからなのか
もしれない。
「前にもあったね。似たような事が……」
 "先輩"と呼ばれて、かつて学生時代に起こった出来事が鮮明に頭の中で甦る。
 そう、あの時も確か屋上に向かう途中だった。
 今日のように避けられなくて、まさしく正面衝突。
 おでことおでこを激しくぶつけていたっけ……。
「私は、部外者なんかじゃないよ。ちゃんとこの学校に自分の思い出が離れず
残っているもの」
 私はそれを自分自身に言い聞かせていた。
 そしてまた階段をゆっくりと昇り始める。
 一番大切な思い出と、あの人が先に待っているであろう屋上へと。



「今日はおれの勝ちだな、みさき"先輩"」
 扉を開け放つと、その先には十年前と全く変わらぬ情景が広がっていた。
 決して私のまぶたに焼き付ける事は出来ないけれど、心にそれを映し出すの
は簡単な事だった。
 少し冷たい放課後の屋上の風は、あの日と少しも変わらずに私を出迎えてく
れた。まるでお帰りなさいと囁きかけているかのように……。
「この場所で初めて先輩って呼ばれてから、どれくらいのなるのかな?」
「十年……今日でちょうど十年目さ」
「うん、正解」
 そう言いながら私が屋上のフェンスの側まで歩くと、屋上を訪れていた先客
――折原浩平君は自分の居場所を示すように、そっと肩を抱いてくれた。
「大丈夫だったのかよ? 俺が来るまで下で待っててくれって言ったのに」
「ごめんね浩平君。でも、私ひとりでこの屋上までの道を辿ってみたかったか
ら……」
「そっか。まあ、みさきがそう思ってるだろうってのは俺も考えていたから、
探しに行かないでここで待ってたんだけどな」
「浩平君……もう先輩って呼んでくれないんだ」
「あ、あのなぁ、もう先輩後輩って付き合いじゃないだろ。さっきは久々の雰
囲気につい流されて言ってみただけで……。それを言うならみさきだって、い
い加減俺の事を呼び捨てにしてくれよ」
「ふふっ、冗談だよ。それに私は浩平君って呼び方が一番好きだから変えるつ
もりはないよ。あ、浩平ちゃんって呼び方ならそれに変えてもいいけどね」
「……頼むからそれだけはやめてくれ」
 浩平君は、本当に嫌そうな声で拒否した。
 それを聞いた私は必ずこう言うんだ。
「冗談だよ」
 と。
 これも十年前と変わらない。
 浩平君とそんなやり取りをしながら、私はあたかも十年前の今日にタイムス
リップしたような感覚にとらわれていた。
 まわりを取り囲む風景を見る事が出来ないから、余計そんな風に感じるのか
もしれない。
「同じだな……この風も、あの夕焼けも。十年前と何ひとつ変わっちゃいない」
「ねえ浩平君、今日の夕焼けは何点?」
「言わなくても俺が何点を付けたいか、なんて分かってるだろ?」
「うん、分かってる。けど浩平君の口から言って欲しいな。私には見る事が出
来ないから……」
「そうだな、みさきが今日感じる風の点数を教えてくれたら俺も言うよ」
「浩平君の方こそ、そんな事は私が言わなくても分かってるくせに」
「ああ……じゃあさ、せーので一緒に言おうか」
「せーので? ふふっ、いいよ。せーのだね?」
 私は先程あった生徒会長さんの言葉を思い出して、苦笑してしまった。
 こういう感じが「子供っぽい」という印象を与えるのだろう。 
「それじゃ、いくぞ」
「うん!」
「せーの……」


「「百点満点!」」


 多分、お互い予想していた通りの答え。
 見事に重なった二人の声は、囁くように髪を揺らす風に乗って流れて行った。
 鮮やかに見えるであろう夕焼けの彼方へと……。 
「浩平君」
「ん?」
「また十年経ったらこの場所に来ようね」
「ああ。ただし……今度は三人でな」
「うん……そうだね……」
 私は肩を抱く浩平君に身を寄せながら、自分の中にある新しい命の上にそっ
と手を添えて優しく撫でた。



 十年ぶりに訪れたその場所は、当時と全く同じ顔で私達を出迎えてくれた。
 でも……よく考えてみれば、それは当たり前の事だったんだよ。
 変わっていたのは私の方。
 長い歳月の中で、これからも心は様々な形に変化して行く事だろう。
 けれども、この場所に足を運べば教えてもらえる。
 忘れられない思い出というものを。
 屋上の情景は、いつまでも変わらないものだと信じているから。
  
 

 浩平君と日が沈むまで思う存分風を感じた私は、静かに扉を閉めて屋上を後
にした。この情景と再び逢う約束を交わしながら……。



「また……十年後に逢おうね」



                            『情景不変』了


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 どうも、こちらに投稿させて頂くのは昨年末以来のひさと申しますm(_ _)m
 初めましての方は初めまして。

 えっと確か一年前の今日、初投稿したと記憶しているのですが……そうしよ
う、そうだった事にしておこう(^^;)。
 そんなわけで一年に合わせてSSを書いてみました。 
 ただ漠然と「一年だから」いうだけで書くのも何だかなぁって気がしたので、
変わらない屋上風景と掛けて、来年の今頃も今日と変わらずSSを書き続けて
いられますように、という思いを込めました。
 一年後なんて自分の事だってどうなってるか分からないですけど、SSだけ
はずっと書いていたいですね。


 最後にちょっと宣伝(笑)。

 ↓うちのHP、最近はこっちでも少し書いてるのでお暇な方は寄ってみて下
さい。
 
 http://www.people.or.jp/~SIDE-ONE/

 ↓『刑事版』
 投稿したSSの後記に設定や裏話、読者の方の意見や感想など……下のリン
クを辿ってみたならば是非何か書いていってみて下さい。

 それでは、次は久々の感想です〜(^^;)。

http://cgi-space.to/~sin/bbs4/gagaga/denju.html