無音の餞【後編】  投稿者:ひさ


「それじゃあな……」
 そう言って、浩平は力の抜けたわたしの腕から逃れようとした。
 深く胸に突き刺さった言葉が、体を束縛して放そうとしない。
 徐々に大切な人の感触が薄れてゆく。

 嫌だ……嫌だよ……。

 その時になって、ようやく追い求めていた答えが見つかった。
 一度は忘れようと、自分から浩平を突き放したのに、どうして引き止めよう
としたのか……。
 なんて馬鹿なんだろう、わたしは。
 こんな……こんな簡単な問題が解けずに足踏みしていたなんて……。
「…………!」
 ハッと我に返ると、その間にも浩平の体はわたしの最先端――指先からすべ
て離れつつあった。
 先程からずっとコマ送りのような感覚が続いている。
 あるいは、このゆっくり流れるていると錯覚した時間は、わたしが答に気付
くのを待っている浩平の心そのものなのだろうか。
 都合がいい考えだと思われたって構わない。
 精一杯伸ばした指先が、もう一度大切な人の心に少しでも届くならば。
 もう間に合わないの?
 でも……でも、せめて声だけは……。

「……浩平っ!」

 ダメだと思ったその瞬間、わたしの思いは声となって放たれた。
 ただ名前を呼んだだけ。
 だけどそれは気持ちが全て詰った、この世界でわたしにしか言えない言葉。
 体を抑圧していたものが一気に弾け飛んだ気がした。
 同時に、スローモーションで再生されていた時の流れが、通常の速さへと戻
リ始める。
 体の束縛が解けたわたしは、完全に離れようとしていた浩平の感触を間一髪
の所で手繰り寄せた。
「ごめん……こめんね、浩平……」
 再び浩平の鼓動が、その背中からわたしへと伝わって来る。
 さっきよりもきつく、そして強く抱き締めた。 
 もう放さない……絶対に。

 

 ……どれ位そうしていたのか分からない。  
 ただ、次々に店仕舞いをして眠りに就き始める商店街の風景も、僅かに行き
交う人々の事も、わたしの視界には何も入っていなかった。
 後ろから、ぎゅっと浩平を抱き締める――そんな状態が続いていた。
「……なんで、お前が謝るんだ」
 と、しばらく無言のまま俯いていたように見えた浩平が、ようやく言葉を発
した。
「わたし、浩平の事忘れてなんかいなかったのに……嘘付いた」
「知ってたよ、最初っからな。どれだけ長い付き合いだと思ってんだよ」
「うん、わたしも知ってたんだよ。浩平がその事分かってる上で、あえて何も
言わずに去って行ったんだって……」
「……そっか」
 そう言うと、浩平は何か納得したように頷いていた。
 いや、本当なら顔を背中に埋めたわたしにその仕種は分かれないのだけど……。
 身体が密着しているからなのだろうか、浩平の息遣いや僅かな動作が手に取
るように分かってしまう。
 浩平は自分の身体を抱き締る腕にそっと手を添えた。
 その仕種から次に何をしようとしているのか理解したわたしは、少しずつ腕
の力を抜いてゆく。
 そしてお互いに少し束縛が緩まった状態から、浩平の方がゆっくりと体を半
回転させてわたしの方へと向き直った。
「…………」
「…………」
 その表情を見るまで、とても長い時間を費やして来たような気がする。
 大切な人……世界の誰からも忘れ去られて行きながらも、わたしの中でだけ
は何も変わる事なく存在していた。
「お前の言葉を聞いてから俺はもう旅立とうと思った。忘れたって言葉が嘘だ
ってのは知ってたけど、どのみちいつ消えるかも分からない状況だったからな。
……だけど、駄目なんだ」
「駄目……って?」
「何処をさまよっても、どれだけ無駄だと分かっている時を費やしても、この
世界から消える事が出来ない……。なんか足に根っこが生えたように、俺の身
体を捉えて離さないような感じだった」
 その瞳にほんの僅かな間だけ辛さが見えたけど、その後はもう微笑を浮かべ
た優しい表情に戻っていた。
 何も言葉を返せないで黙ったままのわたしから、視線を逸らす事なく浩平は
話を続ける。
「何でかなってずっと考えてた。そしたらさ、ふいに答えが見付かったよ」
「えっ、答え……」
 思いも掛けない言葉だった。
 浩平も、わたしと同じく何かの答えを探していたというの?
「俺の事を覚えてくれている世界でたった一人のお前に……瑞佳に、その時が
来る瞬間まで側にいて欲しかったんだ。前に言ったよな、わたしは浩平でなく
ちゃ駄目だ……って」
「……うん」
「最後の最後……さっき一度お前に抱き付かれた時まで、一人で行こうとも思
っていた。だからあんな言葉を吐いてしまった。だけどその直後、俺は引き止
めてもらいたいと強く願って……嬉しかったよ、凄く」
 わたしの肩を掴む浩平の手にぐっと力がこもる。
 次の瞬間、ぐいっと引き寄せられたかと思うとその胸の中に心も体もすっぽ
り収まっていた。
「俺も同じなんだよ。他の誰でもない、長森瑞佳じゃなくちゃ駄目なんだ」
 ああ……。
 とめどなく涙が溢れ出す。
 浩平とわたし……二つの気持ちは、全く同じ一つの想いとして重なり合う。


「わたしも……やっぱり浩平じゃなくちゃ駄目だったよ」


 それが探していた答えだった。



 …………………………



 大切な人が、今まさにこの世界から消え去ろうとしていた。
 そう……消えてしまうんだ、存在そのものが。
 到底信じ難い事だけど、いまのわたしには信じられる。 
 そしていつか再び帰って来るという事も……。

 穏かな日差しの下。
 芝生に座り込んだわたしの膝に頭を乗せて、浩平は横たわっている。
 さわさわと風に揺れる木の葉の音を、二人して目を閉じながら静かに聞き入
っていた。
 お互い言葉はない。
 でも、そんなものは必要なかった。
 まるで眠っているかのように、浩平は目を閉じて気持ち良さそうにしている。
 わたしはその髪を優しく撫でてやる。
 そんな仕種だけで、お互いの気持ちというものを理解していたのだから……。

 やがて浩平は、体を横にしたまま顔だけを真上に向けた。
 わたしと目が合う。
 浩平はその瞳に、優しさと、温かさと、力強さと、そしてほんの少しの不安
を湛えていた。
 何もかもが伝わっていたわたしは、小さな動作で、しかしはっきりコクリと
頷いた。


 それを見た浩平は、優しく微笑み返してくれて――。
 ほんの一度瞬きしている隙に……旅立って行った。

 
「…………」
 わたしは芝生から立ち上がり、スカートにくっ付いた草を払いながら、ぽっ
かりと大きな雲が浮かんだ空を見上げた。
 結局、浩平が旅立つまで一言も発することは無かったけど、最後の最後にほ
んの一言だけ、心の中で呟いた。
 いってらっしゃい……と。
 おかしな言い方だとは思う。
 だけどこう言っておけば、いつか大切な人が帰って来た時に「お帰りなさい」
と告げる事が出来るような気がしたから。
 消えゆく人へ向けた餞(はなむけ)の言葉。


 そう……。
 これは決して声にならないのだけど、その強い思いは確かに伝わる――

 

 無音の餞。
 



                            『無音の餞』了

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 これで心置きなく年が越せそうです(笑)。
 ここまで読んで下さった方、感想を書いて下さった方、どうもありがとうご
ざいましたm(_ _)m

 それでは、良いお年を……。