無音の餞【前編】  投稿者:ひさ


 大切な人が、今まさにこの世界から消え去ろうとしていた。
 そう、消えてしまうんだ、存在そのものが。
 信じられるだろうか? 
 一人の人間が、これまで生きてきた場所から違う場所へ旅立ってしまうと
いう事など……。



 …………………………



 そんな事、あり得る訳がないよ!

 同じ言葉を何度心の中で繰り返した事だろう。
 だけど、一生懸命否定してもまわりの環境がそれを許してはくれなかった。
 みんなが……親しいクラスメートでさえも、その人に関する事を全て忘れ
て行くのを目の当たりにしてきたから。
 そして覚えているのはわたしだけになってしまった。だから認めざるを得
なかったんだ。
 大勢の意志にまみれて忘れたふりをしようと思ったのも、世界でたった二
人だけしか知らない事実から、目を背けたかったのかもしれない。
 だって、その時既に知っていたもの。一番大事な人――折原浩平という一
人の人間が、近い将来わたしの目の前から居なくなってしまうだろうという
事を。
 消え行く様を、何も出来ずにただ見てるだけなのは辛いよ……。
 こんな思いをするくらいなら、いっその事わたしの中からも浩平の存在を
消してしまいたかった。
 だからわたしは実行した。
 浩平に呼びかけられた時、そんな風に答えてみようと……。


「あの、誰……でしたっけ?」


 偽りの言葉を吐くわたしの心は驚く程冷静だった。
 その瞬間、何かがぷつりと音を立てて切れたような気がした。


「悪い、人違いだったみたいだ……」


 そんなわたしの言葉を受けて、申し訳なさそうに告げる浩平。
 しかし、その瞳は真っ直ぐこちらを見ていた。 
 絡み合う視線。
 やがて先に瞳を逸らしたのは……わたしの方だった。
 ふっ、と浩平が寂しげな表情を浮かべるのを見てしまったから。
 忘れたふりして別れようというわたしの魂胆など、浩平には全てお見通し
だったんだ。
 考えてみれば、そんな事当たり前だよね。浩平は、わたしが小さい頃から
一番近い場所で時を共有してきた幼馴染みなんだから。
 そんなわたしの気持ちをまるごと受け入れた上でとぼけて見せたんだ。
 人違いだった……と。
 

 違う! 違うよ!!


 わたしは叫んだ。でも、声にはならない。


 待って! 人違いなんかじゃない!


 もっと大きな声で叫んでいた……つもりだった。それでもやっぱり声には
ならず、心の中で何十回、何百回と反射を繰り返すだけ……。
 気持ちがぶつかり過ぎて胸が痛い。
 片手で痛む部分を抑えつつ、何故かその場から動けなくなっていたわたし
は、去り行く浩平の背中を呆然と見続けていた。
 そして視界からその姿が見えなくなった時、突然理解する。何故……、

 声が出ないのか? 
 足が動かないのか? 
 大切な人を追おうとしないのか?

 答えは簡単、わたしが繋がりを断ち切ったからだ。忘れようと試みた一言
によって……。
 関係が無くなれば声を届ける必要も無いし、わざわざ自分の知らない誰か
を追う事なんてしないもの。
 それは旅立つ人への餞(はなむけ)の言葉だったのかもしれない。
 「わたし」という最後の絆を断絶して、浩平を完全にこの世界から孤立さ
せた残酷な一撃。
 確かに声を出して放った。
 だけど、言葉自体は浩平にもわたし自身にも届かず、意味を成さなかった
ような……無音の餞。


 
 ……あれっ?


 でも、それなら……。
 どうして……どうして……



 引き止めようと心は叫んだのだろう?
 あの人の事をまだ覚えているんだろう?
 
 

 一つ解けたと思ったら、また新たに浮かぶ疑問。
 この答えも実は簡単なのだけど……。
 わたしの心の中で氷解されるには、もう少し時間が必要だった。


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 どうも、こんばんは。

 題名は「むおんのはなむけ」と読みます。いきなり読み辛くて済みません……。
 感想書いてる合間にふと思い付いて突発的に書き出したものですが、いつの
まにかしばらく書き続けてしまいました。そのせいか、肝心の感想がちっとも
進んでなくてヤバイです(笑)。

 今回は浩平が消え去るちょっと前、結ばれた瑞佳が「その時」を目前にして
どんな感情を抱いて行動するのか……そんな事を思い浮かべて書いてみました。
 しかしこんなに短いくせに前後編とは……一気に書いて1本で投稿しろって
感じですね(^^;)。なるべく早めに後編投稿したいと思ってます。

 ここまで読んで下さった方、どうもありがとうございましたm(_ _)m
 それでは……。