彼女のいた風景 (後) 投稿者: ひろやん
第三章「彼女の寝顔」

 彼の奥さん、瑞佳さんはそれきり部屋には入ってこなかった。筆者としては、いろいろ彼女にも聞きたいことがあったので残念だ。しかし、筆者の中では、彼の話がうまく繋がったような気がしていた。彼は“絆”と言った。それはつまり、瑞佳さん、彼の奥さんとのものではないだろうか。
 彼は静かに首を振った。
「その…俺が行ってた世界、『えいえん』の世界。その世界は幼い頃のオレと瑞佳の約束が生み出した物だった、たぶんな。確かに切っても切れない腐れ縁ってやつがあいつとの間にはあるみたいだ。でも、あのバカ、オレがその世界に行ってる間、オレの事完全に忘れていたんだ」
 彼の言ってる事は相変わらず理解しにくいものだった。でも、『バカ』だなんて言ってるけど、もちろんそれが奥さんへの愛情の裏返しだということくらいは分かった。
「いや、というよりその時でもオレの事を覚えていてくれたのは、この世界でただ一人だけだった。そして、オレも彼女のことを思っていた。だからオレはこの世界にまた帰ってこれたんだ。そう思っている」
 彼の言う“絆”というのは、つまりそういうことなのだろう。そして、その相手は、今の奥さんでないとすればおそらく椎名繭、あの少女なんだろう。
 彼は肯定した。そしてこんなことまで話し出した。
「軽蔑されるかもしれないが、オレは…彼女と寝たんだ」
 ネタ…。もとい、寝た…。つまり男女としての一線を越えたということか。しかし、それじゃおかしい。彼はこうも言ってた。『男と女みたいな感情はお互い無かった』と。まさかその行為そのものが、彼の言う“絆”というものだったのだろうか。筆者が思った考えを述べあげても、彼は「分からない」と首を振り続けるだけだった。
「今でも夢に出てくるよ。あの時の椎名の寝顔が。全くオレの事を信用しきってる、あの顔が。セックスの意味も分からず、俺に犯されたというのに」
 さすがに『犯す』とかいう単語が出てきてはこちらも驚く。愛のある行為じゃなかったのか、という筆者の問いには「もちろんだ」と答えるものの、彼は頭を垂れたまま顔を上げようとしない。
 妻子持ちの中年男が何をいつまでも悩んでるんだろうな、と彼は言った。筆者は完全に彼を慰める立場に回ってしまっている。しかし、慰めるしか他に術を持たないのも確かだった。

 問題は彼の頭の中はアルコールが駆け回っているということだった。感情の昂ぶりを酔いの勢いにまかせて、彼の口はだんだん速く回り始めた。
「あの時の行為と一年間の留守の詫びも、それでもずっとオレの事を覚えていてくれたことへの感謝も、まだしていない。何年かかっても、オレは彼女に応えてやらなければいけないのに…!!」
 確かに妻子持ちが言うことじゃないな。
「今もどこかでオレの事を待っているのかもしれない。もしかしたら、また一人で『みゅー、みゅー』泣いてるのかも。でも、オレは彼女を置いて、のほほんと家庭を築いてやがる」
 彼の口調は荒くなるばかりだった。しかも、自虐的に。
 椎名繭という少女…いや、もう少女ではないだろうが、彼女は今どうしてるのだろうか。“絆”を分け合った彼は、こんなにも悩んでいる。


最終章「彼女のいた風景」

 そこは団地の並ぶ住宅街だった。
「もうだいぶ前にここの山も学校も壊され潰された。オレ達の思い出も『みゅー』の墓もあるこの場所をブルドーザーが踏みにじっていくのを、オレはただ見ているだけだった。それを阻止するには、オレはもうあまりにも大人になりすぎていた」

 彼の話は結局は自分を責めることに終始していた。性質の悪い酔っ払いと同じだ。というか、そのものだ。
 彼の話をまとめればこうだ。一年間『永遠』の世界に行っていたという彼がこの世界に戻ってきた。真っ先に椎名繭に会いに行った。ちょうど卒業式を終えたばかりの彼女と再会を果たすも束の間、その次の日、彼女はどこかに引っ越していったらしい。彼には一言もそのことを告げずに、明日また会えるという安心を彼に残したまま。彼女の面倒をよく見ていた長森瑞佳も、家の事情で引っ越すとは聞いていたが、その行き先までは知らないという。ただ「また戻ってくる」という言葉だけを残したらしい。彼が追いかけようにも場所が分からず、彼女もこの街に戻ってはこなかった。
「椎名は言った、『おかえり』って!オレは、オレは…その言葉を聞いた時、嬉しかったんだ、安心したんだ。彼女の言葉に一瞬甘えた。でも、それが…」
 どうしようも出来ないことは、ままあることだ。でも、本当にどうしようも出来なかったのか、という長年の思いが今の彼を苦しめている。
 その時の筆者に出来る、そして唯一思いついたことは、彼の酔いをさますため外に連れ出そうということぐらいだった。

 筆者はしかし、後悔していた。外に出た彼が少し散歩しようと言ったので付いて来たのだが、彼と椎名繭との思い出の場所に来てしまうとは。しかも、ここはもう裏山なんて面影は全く無い。これ以上彼に悲しい現実を見せるのはこっちとしても辛いことだ。
「いい風だ」
 彼は両手を広げ風を全身で受け止めるような姿勢をとった。風はそれほど強くもなく、筆者にとっても心地よかった。
「…もう影も形も無くなったけど、聞こえる音も風の匂いも夕焼けの色ももう変わってしまったけど、まだ覚えている。椎名の顔も、声も、においも、温もりも…覚えている」
 彼の顔を見た。先ほどまでの取り乱しようが嘘のように、落ち着いた顔になっていた。ありがとう、と彼は言った。外に連れ出してあげたことにか、それとも話を聞き続けてあげたことにだろうか。
「もし、また椎名に会えたら、きちんと『ごめん』と『ありがとう』を言いたい」
 直後、彼のもらしたこの一言が全てを物語っているような気がした。

 彼の酔いもさめたようだし、夜の風も冷たく感じられてきた。そろそろ帰ろうかと思った筆者の足が何かを踏んで音を立てた。紙切れ、何かのチラシのようだった。興味に駆られ拾い上げようとする筆者の手よりも速く、彼の手がそれを掴んだ。じっとそのチラシに見入る彼。その肩越しに筆者はチラシの内容を見た。喫茶店だろうか、この近所で店がオープンしたことを告げる内容だった。簡単なメニューが載っていて、それを見るとその店がただの喫茶店でないと分かった。
 そのチラシが震えている事に筆者は気付いた。正確にはそのチラシを持つ彼の手が震えているのだった。筆者はそれと気付かれないようにこの店に行くことを提案したが、意外にもあっさりと断られた。
「もう営業時間外のようです。それに、もう帰りましょう。女房があなたの布団も用意しているはずですから」
 冷静な彼の言い方は、努めて冷静さを装う言い方に感じられた。そして筆者は彼のふともらした言葉も聞き逃していなかった。
「オレの方がずっと子供だったようだな」

 言葉通り来た道を引き返し始めた彼は、そのチラシをぽいと投げ捨てた。思わず拾い直そうかと思ったが、やめた。彼が捨てたのなら、もう必要の無いただの紙切れだろう。それに店の名前も既に確認していたのだ。(でもポイ捨てはいけない)
 『バーガーショップ・μ』という店だ。

 その帰り道。筆者はわざと彼に意地悪な質問をしてみた。
 もし、今椎名繭と出会えたら、何と言いますか。『ごめん』?『ありがとう』?
「いいや」
 彼は首を振り、そして答えた。
「とりあえずは、『おかえり』…だな」

おわり
(文:光夜じんB、掲載:ひろやん)

いろんなひとにありがとう、そして・・・
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あとがき

繭SSを書きたい書きたいと思ってたんですが、思えば思うほど繭が書けなかった。
で、繭を書かない繭SSを書くことにしました。
瑞佳や七瀬の存在も文中に書きましたが、話のネタとして使っただけで全然深い意味は無いです。
でも、繭シナリオが進んでも瑞佳との結婚はありえる話だと思っています。

SS中の『彼』、かなり年とって大人になってるとはいえ、『折原浩平』を重ね見るには少し無理があるかもしれません。
自分も書いた後で気が付いたのですが、この『彼』はどうやら自分自身のことを書いてたようです。(妻子持ちの中年男ではないが)
一人二役の一人芝居のようなものだったと。

最後に、SSを掲載する場を提供していただいているタクティクス様に深く感謝し、またこのコーナーを盛り上げ続けている多くのSS作家様達に敬意を表して。

一九九八年十月 ひろやん