彼女のいた風景 (前) 投稿者: ひろやん
「『おかえり』、それが」
 私の目の前にいる中年の男性は、ひどく懐かしそうな、それでいて少年のような目を見せた。
「帰ってきたオレが聞いた、最初の、そして最後の椎名の言葉だった…」
 そう言って今度は悲しそうな瞳。これだけで彼のその『椎名』という女性に対する想いがよく分かった。これ以上のことを彼の口から出させるのはやはり酷だろうか。
「ま、酒でも飲みながら話そう。夜はまだまだ長い」
 そう言って話を進めてきたのはむしろ彼の方だった。さすがに遠慮気味になる筆者に強引に酒の入ったグラスを持たせると、彼はうれし恥ずかしそうな微妙な笑みを浮かべて語り出した。
「ホント、変な女の子だった…」

第一章「みゅー」

 彼が初めてその少女・椎名繭に出会ったのは彼が高二の冬の朝だったという。
 いつものように幼なじみの同級生・長森瑞佳と学校へ行く途中だった。なぜかその日長森はいつも通る一般道ではなく、遅刻間際の裏技として使う裏山越えをしようと言い出したらしい。
「今思えば、あの日オレが瑞佳の言う通り裏山から行くことにしていなかったら…椎名と出会うことは本当に無かったかもしれないな」
 少し苦笑いを浮かべながら(筆者にはこの表情の意味がいまだ分からない)、彼は話を続けた。
 はたして、その裏山越えの道に彼女はいた。薄暗い山の林の中の薄汚い格好の少女。彼女に気付いたのは長森の方が先だったと彼は言う。元来世話好きの長森は、土の上にしゃがみこみ、涙で目を赤くしたその少女を放っておけるわけもなかった。
・・・みゅー
 それが彼女の第一声だったらしい。その時彼女が埋めようとしていた死んだフェレットの名前だそうだ。どうやらそれを埋めるため彼女はそこにいたらしいので、彼はその作業を手伝ってやった。
「とにかく、それから後もずっとそうなんだが、『みゅー、みゅー』うるさいやつなんだ。嬉しい時も悲しい時も『みゅー』なもんだから…あのフェレットの名前もちゃんと付けたものなのかどうかよく分からないな」
 そう言う彼の顔は楽しそうだった。

 少女と彼はそこで一旦別れることになるのだが、もうその出会いは運命的なものであったようで、わずか数時間後再会を果たすことになる。それも彼のいる学校の校舎内で。といっても、その少女は彼と同じ学校の生徒ではなかった。校舎内を「みゅー、みゅー」泣きながら徘徊する少女の姿が二日続いた時、彼は腹をくくった。
「椎名の家に行ったんだ。瑞佳も一緒だったな。家には椎名の母親がいた。この母親が実は…ものすごく美人だったんだ」
………。
「コホン。冗談だ…いや、美人というのは本当なんだが」
 この時筆者の心を吹きぬけた冷たくしらけた風を読者の方にも分かっていただきたく、あえて彼の言ったセリフをそのまま書かせてもらった。やはり文字にしてしまうとあの場の凍りついた空気までは全て伝わらないと思うが。

 話が横道にそれてしまった。修正しよう。
 椎名少女の家庭事情は複雑なものだった。しかも椎名自身が自閉症気味で登校拒否していると知った彼は、思いきった行動に出た。彼女を自分達の学校に通わせるというものだった。
「無茶な計画に見えるけど、結構自信はあったんだ。で、後は制服をどうするかという問題だけが残った」
 彼は淡々と話を進めた。もう数十年も前の出来事をまるで今見てきたばかりの映画について語るかのように、詳細に、感情的に。
「そこであいつの出番だ。転校してきてずっと前の学校の制服を着続けているやつがいてな。七瀬っていうんだが…」
 彼の口は止まりそうになかった。よほどこの時期のことが記憶に焼き付いているのだろう。何はともあれ、七瀬という人物の登場で彼の話はまだ長くなるな、と筆者は感じずにはいられなかった。

第二章「きずな」

「それで、どこまで話したか…」
 七瀬さんに制服を借りた、というところまでです、と教えると彼はまた椎名という少女の話に戻した。
 しかし、彼の話によるところの七瀬という人物は恐ろしいものだった。その人が女だと聞いてもっと驚いたりもした。そのくらい彼の言う七瀬人物像はすさまじかった。一応容姿は可愛かったとは言っていたが、髪の毛を青く染めているという時点で筆者には想像出来なかった。結局聞けなかったが、その七瀬さんは一体何のクラブに入ったのだろうか。いや、入れてくれるクラブはあったのだろうか。

 また話がそれてしまった。
 その後、椎名繭は彼達と一緒の学校に通うことになった。見知らぬ生徒が紛れ込んだことに口を挟む者もおらず(担任すら!)、結構平和な時間が過ぎたらしい。学校に慣れてきた頃の椎名を元に行くべき学校に戻す計画もあったらしいが、彼女自身がやはり彼のいる学校の方を選んだとか。

 しかし、やはり筆者にはよく理解できないことがあった。フェレットを埋めるのを手伝ったくらいで、どうして彼女はそんなに彼になつき、彼も彼女のためにそこまでするのか?
「椎名にとっては俺も瑞佳も大好きな友達みたいなもんだったんだと思う。オレも妹のように椎名を見ていた。いわゆる男と女みたいな感情はお互い無かったな」
 彼の顔からは笑みが消え、真面目なものとなっていた。
「あの頃は、瑞佳に対しても必要以上に女性として意識したことはなかったと思う」
 彼の表情がいろいろと変わる。
「やっぱりよく分からないな」
 最後に見せたのは、『照れ』だと判断できた。

「でも、オレは変わった。いや、変わらざるをえなかった」
 彼の口調は今度は一転、厳しいものとなった。
 とても信じられるような話じゃないだろうが、と前置きした彼の口から出てきたエピソードは、本当に信じられるようなものではなかった。彼は言った。別の世界へ旅立ったのだと。そしてこの世界での彼の存在が消えたのだと。死ぬのではなく、存在が消えるのだと。普通の常識ある人なら、彼のことをきっと危ないやつと思ったに違いない。筆者も常識ある人なのでそう思った。
 その世界のことについては彼は詳しく語ってくれなかった。自分でもよく理解できない世界だと言っていたが、本当は出来ているのかもしれない。
「強いて言うなら、『えいえん』」
 『永遠』…どういう意味なのだろう。
「退屈はしなかった、一人じゃなかったから。それに、こっちの世界にまた戻ってこれたし」
 筆者にとっては疑問の連続だった。どうしてその『永遠』の世界に彼は行ったのか。そこには彼以外の誰がいたのか。どうして戻ってこれたのか。
「“絆”としかいえない」
 誰との?何との?疑問は増えるばかりだった。

 しかし、彼はその後言葉を続けようとはしなかった。その彼の雰囲気に圧されてか、筆者も何も訊くことが出来なかった。
 そんな変な空気が流れかけた時、部屋に一人の女性が入ってきた。美しい女性だった。彼と同じくらいの年だろうか、ナチュラルにブラウンな長い髪、どこかあどけなさを宿した上品な笑顔。女性はテーブルに並ぶ酒の類を片付け、さらに新しい酒を置いて出ていった。彼は「女房だ」と教えてくれた。そして、少し照れたような表情をして言った。「女房の瑞佳だ」と。
 筆者が、え!、と聞き返すまで数秒かかった。

つづく

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あとがき

久しぶりのSSになります。
前に『もうひとつの繭の物語』として2作書いたのが7月ですから、二ヶ月以上ぶりです。(誰も覚えてなさそうな)
今回のも一応(そうは見えませんが)繭SSのつもりです。だからこれを『もうひとつの繭の物語3』とします。
前編として二章まで書いたので、後編は三・四章が続きます。
近いうちにアップします。
それでは、ごきげんよう。