彼女の扉を叩く者  第四話  投稿者:高砂蓬介


火曜日の朝。みさきは自室であたふたと着替えをしていた。
「えっと……うん、これでOKだね」
ぱたぱたと自分の身体をはたいて、身だしなみを整える。もちろん制服ではなく、薄手のセーターにスカートという出で立ちだ。
腕時計をつけ、財布を持って玄関に出ようとしたところでチャイムが鳴った。玄関のドアを開け、門の外に出る。
そこにいたのは、車椅子に乗った少女だ。
「おはようございます、みさきちゃん」
「おはよう、ちとせちゃん」
シニヨンにまとめたプラチナブロンドの髪が朝日に映えている。出会ったときとさほど変わらない、春物のブラウスにロングスカート。確かに「お嬢様」という形容がしっくりする容姿ではあった。もっとも、みさきにはそんなことは分からないが。
「用意、出来てますか?」
「うん、今出ようと思ってたとこだよ」
「じゃあ、早速出かけましょうか。結構歩きますけど」
「どきどきするよ〜」
ちとせはそっとみさきの手を取ると、自分の車椅子の取っ手を握らせた。
「早すぎたりしたら言って下さいね。止まるときとかは私が言いますから」
「うん、お願いするよ」
ちとせはゆっくり車椅子を転がしはじめた。みさきが多少おぼつかない足取りであとに続く。
かすかに桜の香りをはらんだ風が、二人を見送った。

通学路を通り過ぎ、商店街までやってきてしまえば既にそこはみさきにとって未知の世界だ。その中を、二人は雑談をかわしながら歩いていた。
「そういえばさ、ちとせちゃんの家ってどの辺なの?」
「そうですね……ここからだと結構遠いですね。同じ町内ですけど、車椅子で三十分くらいだと思います」
「すごいね」
学生たちは授業を受けている時間帯だが、卒業した生徒たちは雪見のような例外をのぞけば大学受験のブランクを取り戻すように遊びに繰り出しているものが多い。商店街の町並みはそれなりに賑わっていた。
「根が道楽者なんですよ。昔から、暇さえあれば遊び歩いていましたから」
「そうなんだ……ちょっと意外だね」
「よく言われます」
ちとせはくすっと微笑んだ。
「あ、信号ですよ」
二人は歩みを止め、目の前を通り過ぎてゆく車の群れを見送る。
「信号待ちなんてするの久しぶりだよ」
横断歩道を見えない目で眺めながら、みさきが感慨深げにつぶやいた。
やがて信号が変わった。動き出した人波に乗って、二人も進みはじめる。
「本屋さんまであとどれくらい?」
「もうすこしかかります。駅のそばですから」
「そうなんだ。注文してた本ってどんなの?」
ちとせは最近日本語版が発売されて話題になった海外の小説の題名を言った。
「もっとも、原本のほうですけどね」
「……日本語じゃないの?」
「私、海外の本は必ず自分で訳して読まないと気が済まないたちなんです。それから日本語版を読むと、また面白いんですよ」
さらりと凄いことを言ってのける。
「本は私も好きだよ。読むのは遅いんだけどね」
「点字ですか?」
「うん。学校に先生が置いてくれたんだよ。子供の頃からお世話になってた人でね、点字もその人に勧められて覚えたんだよ」
「子供の頃……ですか?」
ちとせがその疑問を口にした瞬間、みさきの表情に一瞬暗いものが走った。
「あ……うん、わたしの家って高校の目の前でしょ? 小さい頃から入り込んで遊んでたりしてたんだよ」
「そうだったんですか……」
そこにみさきの持っている過去の傷の原点があるのだろう。世間一般の少女よりはるかに多彩なちとせの対人経験はそう告げていた。
「もうすぐ、つきます。点字の本も置いてあると思いますよ」
「うん、楽しみだよ」

二人がやってきた本屋は駅前に最近出来た大型の総合書店である。5階建てのビルを丸ごと使った店内は広さも十分で、二人が歩き回る分にも支障はなかった。
「こういうところってはじめてだよ」
「ふふ……すぐに慣れますよ」
ちとせはまずレジに向かい、注文してあった洋書を受け取った。回りの客に気をつけながらみさきを誘導し、点字本のコーナーへと向かう。
「みさきちゃんはどんな本が好きですか?」
「うーん、わりと手当たり次第かな」
実にアバウトな返答に、ちとせは苦笑しながら本棚に手を伸ばし……かけてやめた。届かないのだ。
「すみませーん、ちょっとお願いします」
仕方ないので店員を呼ぶ。都合のいいことに長身の店員だったので、ちとせは支障なく目的の本を手にすることができた。
「これ、読んだことありますか?」
「ちょっと待ってね……あ、学校の図書室にあったから読んだよ」
本の表紙に指を走らせ、みさきが申し訳なさそうに言う。
「だそうです。すみません、戻していただけます?」
店員に本を返し、ちとせは書架に向き直る。慣れた様子で本の群れを目でなぞりながら、店員にとっては少しだけ酷なことを口にした。
「さて……もうちょっとお付き合いいただくことになりそうですね」

「ありがとうございました。またのお越しを」
店員の声を背に本屋を出る。結局立ち読みやら物色やら(店員とともに)、さんざん時間を使った上で買ったのは一冊だけである。
「店員さん、ちょっと可哀想だったね」
「確かにそうですね。まああそこの本屋さんは人員が豊富ですし、彼にとっては私たちの相手も仕事ですから。私に目を付けられたのが運の尽きといったところですか」
おどけた調子で言い放ち、ちとせは上機嫌に車椅子の車輪を回した。膝の上には、先ほど買った点字の小説が乗っている。
「でも、よかったの?」
「なにがですか?」
「本。買ってもらっちゃって」
「ふふ、もちろん構いませんよ。こう見えても私、お金持ちですから。それにね」
思わせぶりに言葉を切る。みさきが先を促した。
「初デートでおごるのは基本中の基本ですよ」
「……デートって……」
絶句したみさきに、ちとせがくすくすと笑う。知り合ったばかりの人間にこういった冗談を平気で言えるあたり、ちとせはただ者ではないといえた。
「というのは冗談ですが、それはそれとして大丈夫ではあるんですよ。みさきちゃん、そろそろおなか空きません?」
「……うん」
照れたようにみさきが言う。時刻は十一時半。まだ昼御飯には随分間のある時間だったが、先日のカレーでみさきの無垢なる混沌の胃袋(命名)を知っていたちとせの指摘は正しかった。
「みさきちゃんなら、これから行くところで私のお昼代をチャラにしてくれそうですから。それでフィフティ・フィフティですよ」
「なんだか話がよく読めないんだけど」
「行ってみれば分かります。これは……私のリベンジですから」
「怖いこと言うね」
「期待してますよ、みさきちゃんに(というか胃袋に)」
十数分ほど歩いた後、、ちとせはみさきに声をかけてから車椅子を止めた。店の前ののぼりには大きく『牛丼』の文字。
「そう、ここが今日のお昼ご飯……牛丼屋さんです」
「牛丼?」
「入りましょうか」
自動ドアの機械音。みさきが久しく聞いていない音だった。

「期待通りでしたね」
公園のベンチに腰掛けたみさきと、ベンチの横に車椅子を止めたちとせが談笑している。
お昼代チャラの種明かしはこうだった――完食した者はその連れまですべて飲食代がただになる伝説の巨大牛丼。かつてちとせの挑戦を完膚無きまでにたたき伏せたそれをみさきは軽々と征服し、あろうことかおかわりを要求したのである。ちとせが隣で食べていた――向かい合って座るとみさきは声以外にちとせの気配を感じ取れないため、気を利かせてとなりに並んだのだ――普通の牛丼がアリのように見えたのを、彼女はしっかりと記憶に刻み込んだ。人類の頂点を目撃した記念として。
早めの昼食……ブランチと呼んで差し支えないような食事を済ませた二人は、ちとせの誘導のままに食後の腹ごなしとしてそこら中を徘徊(表現が悪いが実際そんなものだったのだ)し、浩平がいなくなった場所とは別の公園に来ていた。
「ところでちとせちゃんて今いくつ?」
「ああ、言ってませんでしたっけ。みさきちゃんと同い年のはずですよ。この春から大学生ですから」
「そうなんだ。なんだか雰囲気から年が分かりにくかったからね」
「そうですか?」
そこで少し、話題が途切れる。若干の沈黙のあと、みさきが再び口を開いた。
「……ねえ。どうして、私を誘ったの?」
それが明らかに今までの質問とは別の意図を持って発された問いであることに、ちとせは当然気付いていた。だからこそ、今までと調子を変えずに答える。
「どこにも行ったことがない、って言ってましたよね。この街の」
「うん」
「私は、散歩が好きです。だから、極端な段差のあるところはともかく、この街はほとんど網羅しています」
「……それで?」
「つまるところ、私は私の知っているこの街をあなたにも教えてあげたかったんですよ。理由は、特にありませんけど」
みさきはしばし黙考した。同い年の少女……おそらくみさきと同じくらいの間、この街で生きてきた少女。にもかかわらず、ちとせはみさきの知らないものをあまりにも多く知っている。
否。
自分が、知らなさすぎるのだ。
浩平が教えてくれるまで、己の聖域たる学校の外の世界がこれほどまでに美しいものだとは気付かなかった。気付くことから目をそらし続けてきたのだ。
みさきのそんな思考を、不意にちとせがさえぎった。
「少し、予定を変更しましょうか」
「っていうか、最初の予定を覚えてないんだけど」
「好都合。もう一つ、あなたを案内したい場所がありました。……たぶんみさきちゃんの誤解を解くにもっともふさわしい場所だと思います」
「誤解?」
ちとせは答えない。言葉の変わりに差し伸べられたのは、彼女の手。すっとみさきの手に触れたそれを頼りにみさきは立ち上がり、車椅子の取っ手を掴んだ。
桜色に敷き詰められた遊歩道に一組の轍と足跡を残し、二人の少女はその場所をあとにした。

「……ここは?」
それから二人は随分歩いて、町を一望できる小高い丘の上にやってきていた。みさきが不安になるほど長い長い坂道を上ったにもかかわらず、ちとせの呼吸は乱れていない。以前電話で言っていた『スタミナはある』という言葉に嘘はなさそうだった。
「いい風でしょう? 私の、お気に入りの場所なんですよ」
「……そうだね。私の好きだった学校の屋上の風に、ちょっとだけ似てるよ」
「そうかも知れません。人が思い入れを持つ場所の空気というのは、案外共通点があったりしますから」
丘のふもとに咲く桜の香りが、かすかに風に混ざっている。その風がみさきの豊かな黒髪を揺らすのにつられたわけでもないが、ちとせはシニヨンにまとめた自分の髪を解いた。銀に近いプラチナブロンドの髪が、戒めを解かれてゆったりと広がる。
「ここは……特別な場所なの? ちとせちゃんにとって」
「ええ、とっても。……さすがに、分かりませんよね。言わないと」
「ごめんね」
「いいですよ。そろそろ種明かしをしましょうか」
ふと……ちとせはそのまま歌でも口ずさみそうに、瞳を伏せた。その気配がみさきに伝わったかは定かではないが。
再び瞳を開き、それとともにちとせは唇を開いた。
「ここはね。一番高い場所なんですよ。この街で、私が自分の力だけで来ることができる、唯一の。この街でといっても、相当な街外れではあるんですけど」
すらすらと――まるで台本でも用意していたかのように――言葉を紡ぐ。
「先ほど公園で、私は誤解という言葉を使いました。それを説明するのはとても難しいことですが、あえて一言で言うのなら」
思わず、みさきの息が詰まる。さほどの強調があったわけでも、語気を強めたわけでもないその言葉にみさきが圧倒されたのは、言葉にこめられた絶対の意思。――この少女は言葉だけで容易に他者を圧倒しうるのだと、みさきははじめて気付いた。
「私はあなたが思っているほど、強い人間ではないということですよ」
「ちとせちゃん……? どういうこと?」
「私はエレベーターなり何なりの力を借りない限り、建物の一階から二階に上がることすら出来ない。それを私の弱さと言わずして何と呼びますか?」
「……それは」
「事実、私は弱いんですよ。もっとも、私が今日まで生きてこられたのは自分の力じゃないなんて卑屈なことを言うつもりもありませんけどね」
みさきは信じがたい思いで目の前の少女を凝視した――できるものならしてみたかった。両足の自由を奪われながら、盲目のみさきを案内して街を歩き回ることすらできるこの少女が、己を『弱い』と評することが、容易には受け入れられなかった。
「ただ、自分と周囲の幸せのために他者の協力を求めることを辞さず、時に利用すらする人間を『強い』と評するのであれば……私ほど強い人間も滅多にいないとは思います。結局のところね、私が望んでいるものは世界中の人のほとんどが求めているものと同じ幸せでしかないんですよ。それはなにも大袈裟なものではないし、かといってつまらないものでもない。おいしいものが食べられるのは幸せですし、好きな本が読めるのも幸せですし、みさきちゃんと友達になれるのもまた、私の言う『幸せ』の範疇の中の出来事なんですよ」
「それとわたしの誤解と、何の関係があるの?」
業を煮やしてみさきが聞く。
「あなたは二つの誤解をしています。ひとつは私を強い人間だと思っていること。もう一つは――こちらの方が前者より深刻なんですけど――自分を弱い人間だと思っていること」
「だって……わたしはずっと怖がってたんだよ。外の世界を。自分の知らないものすべてを」
「強さと弱さは誰もが持っています。それは確かにあなたの弱さかも知れません。私にはあなたの信条を想像することしかできませんが、たとえ自分の聖域にすがってでも、見えないことの恐怖に耐え続けてきたことはあなたの強さであるとは言えませんか?」
ちとせの言葉には、その繊細な声には不相応なほど、盤石の重みがあった。
強さを盾に、傲慢になることなく。
弱さを盾に、卑屈に陥ることなく。
そこに至るまでに彼女が辿ってきた道のり。それをもっと知ってみたかった。
「私がこんな話をしたのには、理由があります」
「え?」
「みさきちゃんと、お友達になりたかったんですよ。ただその前に、誤解されたままこういう話を切り出すのはちょっと気が引けましたから。それだけなんですよ。……ちょっと、手を離していただけますか?」
指摘されてはじめて、みさきは自分が車椅子の取っ手を握りしめていたことに気付いた。みさきの手を離れた車椅子が反転して、そこに腰掛けた少女がみさきにふれあうほど近づくのが気配で知れる。
そっと……野に咲く花に触れるよりもそっと、みさきの掌にちとせの指が触れる。
「今さらなんですけど、私のことを少しでも理解していただけて、少しでも興味を覚えてくれたのなら……この手を取ってくれませんか?」
「……うんっ!」
みさきはちとせの掌を握りしめた。握り返してくる力は、白く繊細な指からは想像もつかないほど強く、ちとせの優しさのすべてがこめられているような気がした。

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「と、いうわけで! 皆様本っ当にお久しぶり、萩野ちとせです」
あとがきにはちょくちょく出てたけどな。
「あ、私よりみっつも年下の腐れSS作家の高砂さんじゃないですか」
そういう危険な発言はよせ。大体年齢差はふたつだ。
「作中の時間ではまだそうですけどね。でも私、四月生まれの設定なんでしょう?」
むう。特に理由はないがそういうつもりだ。
「ならもうすぐじゃないですか。さて、この話題はそろそろやめにして」
分かってるさ。極度に連載の間が空いた理由だろ? 簡単だよ。

お前のキャライメージが固まらなかった。

「……この期に及んでそんなことを」
言うな。オリキャラ出しておきながらそのイメージが二転三転したなんて恥ずかしいだろ。
「まあ、その結果随分いい性格にしてくれたみたいですけど」
だってなあ。みさき先輩と絡ませるにはやっぱりあれくらい極端な人生哲学を持ってる奴じゃないと面白くないっていうか。
「セリフ長いですしね」
ほっとけ。まあ、お前がみさき先輩に言ってることは俺が彼女に言ってやりたいことをもとにお前流の味付けをしてみたようなもんなんだ。
「変な人なんですね、あなた」
知るか。

「それからもう一つ。棒線と点線がやたら多くないですか?」
気にするな! 気にしたら負けだ!
「負けって……」
うるさい! ええい、強引にまとめに入ってやる。
次回投稿の予定は……未定! でもいまだかつてあとがきに出たことのないオリキャラ、高科深錫くんがいい加減に可哀想なのでまずはそっちを書くかも!
以上! 高砂蓬介でした!