歌姫のティータイム 第二話 投稿者: 高砂蓬介
「おはよう。早いわね」
眠い目をこすりながら二階から下りてきた深錫の母を出迎えるのは、彼の焼いたフレンチトーストの香りだ。母の料理の腕は全く持って絶品だったが、いかんせん彼女は朝に弱いという欠点があった。
「おはよう、母さん。そこの蜂蜜とってくれる?」
エプロン姿でキッチンに立っているのは、もちろん深錫だ。もともと中性的な顔立ちと名前と性格をしているだけに、その長身がなければほとんど女の子のようである。彼が料理を覚えてからは、朝に弱い母のために深錫が朝ご飯を手がけることが多くなっていた。ちなみに父も料理は達者なので、彼はいつも父と交代で朝ご飯を作ることになっている。
「そういえば、今日から部活があるんですって?」
のろのろとフレンチトーストを口に運びながら、母の香奈子がいってきた。
「この前入部届けを出したからね。今日からきちんとした活動が始まるんだよ」
深錫が『上月澪』の名前を知ったあの公演から、二月が経とうとしていた。残念ながら先日の部活紹介の際は、彼女に会うことは出来なかった。今日は新入部員の正式な紹介も行われることだし、知り合う機会があるとしたらそこだろう。
フライパンを流し台に片づけ、深錫はエプロンを外した。その下からは、真新しい高校の制服が現れる。高校受験はつつがなく終わり、彼はめでたく高校一年生になっていた。
「そろそろ店を開けるぞ」
店内から父の声がかかった。彼の実家である喫茶店「ローレライ」は、通学路でもある商店街に面している。登校中の生徒が朝ご飯代わりに立ち寄っていくこともあり、八時過ぎには店を開けておくのがお約束だった。
「あ、もうそんな時間? じゃあそろそろ学校に行こうかな」
たたんだエプロンを食卓の椅子にかけて、深錫は用意しておいたカバンを手にした。まだ登校には早いかも知れないが、彼は何事も余裕をもっておこなうたちだった。
ふと、腕時計を洗面所に置きっぱなしだったことを思い出していったん引き返す。ついでに鏡をのぞいて、寝癖などがないか確認する。
中性的な、線の細い顔立ち。くせのないダークグレーの髪――よく姉にのばせばいいのにとからかわれる――と、切れ長の眼の中にのぞく同色の瞳。いつもと変わらない、笑っていないと少し怜悧に見えなくもない顔がそこにあった。
「いってきます」
挨拶をして、店のほうから外に出る。ドアにかかった『準備中』の札をひっくり返して、彼は学校への道を歩き始めた。

新しい学校の授業は、さほど難しくもないが簡単でもない。そもそも彼は授業は比較的真面目に受けるほうだったので、ついていけないということは全くなかった。
午前中の授業は何事もなく終わり、あっという間に昼休みが来た。
(今日は、学食にでもいってみるかな……)
中学の頃から深錫は自分の弁当は両親と交代制で作っていたが(姉は料理が苦手だった)、いつも教室で食べているというのも芸がない。別に昼食に芸など要らないが、そもそもまだ学食にいったことがなかった。たまには悪くないだろう。
ハンカチに包んだ弁当箱を手に、深錫は学食までやってきた。空いている席に適当に座り、弁当箱のふたを開けたところで背中に異様な気配を感じた。
「うわっ!?」
あわてて飛び退いたおかげで直撃は免れたが、つい一瞬前まで深錫の座っていたところにはうどんが盛大にぶちまけられていた。そのうどんを運んでいたらしい女生徒が、今にも泣き出しそうな表情で立ちつくしている。
『ごめんなの』
その女生徒は、持っていたスケッチブックにそう書いてこちらに向けた。ずいぶんと小柄なので一年生かと思ったが、校章の色を見ると二年生らしい。
「いえ、僕は大丈夫です。それより、貴方は?」
『大丈夫なの』
また、スケッチブックに書いてきた。何故彼女が言葉を話さないのかが気にかかったが、今はこの場を収拾することが先決だ。深錫はポケットに入っていたティッシュペーパーでうどんを適当に片づけた。実家でよくウェイターの手伝いをするので、こういった事態にも慣れていたのが幸いした。
「これでよし、と。気をつけて下さいね」
深錫が年の割に落ち着いているせいもあるが、この女生徒は一応上級生でありながらほとんど年下のようだった。ひたすらぺこぺこと深錫に頭を下げている。
「とりあえず、場所を移しませんか? ここじゃゆっくり話せませんし……?」
今さらにして気が付いたが、その女生徒はあの公演のときの役者であった。そう、上月澪である。
(こういう偶然も、あるものなんだな)
内心で苦笑しながら、深錫はまだ手を付けてもいない弁当を片手に澪を連れて学食の隅へ移動した。

『ほんとにごめんなの』
さっきから謝りっぱなしの澪に、深錫はゆっくりと首を振った。
「いいですよ、気にしてませんから。えっと……上月先輩?」
そう名を呼ぶと、澪はきょとんとした表情になった。
「あ、春の舞台を拝見したんです。とっても素敵な演技だったから」
『恥ずかしいの』
澪は赤面してスケッチブックにペンを走らせた。
「僕は、一年の高科深錫といいます。どうぞよろしく」
……うんうん。
澪はうなずくと、スケッチブックのページを開いた。そこには大きな字で『上月澪』と書かれている。
自己紹介は簡潔に終わった。深錫は持ってきた弁当箱を広げ、食事を再開しようとした。ところが澪のほうはさっきうどんを落としてしまったので、食べる物がなくなってしまっている。
「……食べないんですか?」
今さらな質問だったが、深錫はあえて問いかけた。
『お昼代がないの』
どうやらさっきのうどんで使い果たしていたらしい。一人で食べるのも気が引けたので、深錫は弁当箱の蓋に中身を適当に盛りつけた。
「良かったらどうぞ。僕はそれほど食べるほうじゃないですから」
……ふるふる。
遠慮しているらしい澪を尻目に、深錫は自分の分の弁当に口を付けた。今日は彼のお手製である。料理は好きなので、弁当作りはほとんど趣味のようなものだ。
そうしているうちに、澪は食欲に負けたようだった。スケッチブックをおずおずと深錫に向けてくる。
『やっぱり、もらってもいいの?』
「どうぞ遠慮なく。あ、割り箸ありますから」
予備の割り箸を澪に渡す。澪は嬉々とした表情で鶏肉の香草パン粉焼きにかぶりついた。今日は洋風のメニューである。
『おいしいの』
満面の笑顔。こちらが照れてしまいそうな、無邪気な笑顔だった。
「それはどうも。作った甲斐がありましたよ」
きのこスパゲッティをつつきながら、深錫が答える。クリームソースの味は我ながら絶妙だった。
『自分で作ったの?』
「ええ」
『すごいの!』
「ありがとうございます。でも、食べてからしゃべった方がいいですよ」
さっきから澪は弁当箱と割り箸、スケッチブックとサインペンを交互に持ち替えている。はた目にも大変そうだった。ひょっとしたらこの人は言葉が話せないのかも知れない。そんな疑問を、深錫は自然に受け入れていた。

それ以降は、これといった会話もなく食事が進んだ。やはり男女の差という奴で、深錫のほうが先に食べ終わる。とはいえ弁当箱の蓋を貸したままなので、先に席を立つことは出来なかった。
『ごちそうさまなの』
「お粗末様。喜んでいただけて良かったですよ」
てきぱきと片づけを済ませ、席を立つ。そろそろ昼休みも終わりに近づいていた。
「では、僕はこれで。また今度」
……うんうん。
学食の入り口で別れ、深錫は教室に向かって歩き始めた。階段を下りながら、ふとあの春の公演を思い出してみる。
上月澪は、舞台の上の堂々とした姿からは想像もつかないほど無邪気な少女だった。けれども、その立ち居振る舞いの中にはそれだけでないなにかを感じる。
あれは、なにかを待っている人間の顔だ。
(考えてみれば、何も実りのある話は出来なかったな)
何故言葉を話さないのかも聞かなかったし、あの折原浩平のことも聞かなかった。
(……折原、浩平?)
急にあやふやになってきた記憶に、彼は歯がみした。彼と出会ったあの公演の記憶が、急にもやがかかったようにかすんでくる。記憶の糸をたぐり寄せながら、彼は一つの考えに辿り着いた。
(いや、まさかな)
脳裏にひらめいた言葉を、言下に否定する。
永遠、という言葉を。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
はい、高砂です。
はっ! 気が付いたら登校日は三日後!? 駄目じゃん。
というわけで、投稿ペースめちゃ遅いくせに連載三本も持ってるドアホ高校生の末路をみなさんどうか暖かいまなざしで野辺送りして下さい。って死んでる!