歌姫のティータイム 第一話 投稿者: 高砂蓬介
「いらっしゃいませ」
店のドアが開き、入ってきた人影に彼は穏やかに声をかけた。
「……上月先輩ですか。折原先輩はまだですよ」
今日はデートなんでしょう? とはあえて訊かない。それは彼のささやかな気遣いでもあったし、それ以前に訊くまでもないことだった。
『これで通算二十一勝二十敗一引き分け。ついに逆転なの』
「そーいう問題でもないと思うんですが」
コーヒーカップを磨きながら、彼は苦笑した。彼女……上月澪が待ち合わせに弱いのは周知の事実だが、彼に言わせれば恋人の折原浩平といい勝負だ。
「ご注文は?」
『いつものなの』
「承知いたしました」
カウンターに寄りかかっていたせいでしわの寄ったエプロンを整え、彼は「いつもの」の用意を始めた。澪と浩平がデートをするときは、必ずと言っていいほどこの店を待ち合わせ場所に利用する。そして、簡単なケーキと飲み物を腹に収めてから遊び倒すのだ。
「お待たせいたしました……っと、折原先輩もいらっしゃいましたね」
『遅いの』
「しまった負けたああああーっ!」
「先輩……店に入るなり叫ぶのはやめて下さい」
『うるさいの』
澪の分のケーキと紅茶をテーブルに運び、彼は浩平に言った。
「折原先輩も、いつものでいいですか?」
「ああ」
あっさりと立ち直る浩平。いつものことだ。
けれども彼ら三人は、このいつもの日常に心から感謝していた。
日常の中にある幸せ……それが崩れ去る瞬間を、彼らは見てきたのだから。
計り知れない悲しみの上に、それを取り戻したのだから。
「よし、行くぞ澪っ!」
『行くの』
食べ終わった二人は、気合いを入れて席を立つ。勘定を済ませて店を出る二人を、彼はいつもの台詞で見送った。彼らにしか使わない、見送りの台詞で。
「いってらっしゃいませ……またのお越しを」
彼の名は、高科 深錫(たかしな みすず)。
喫茶店『ローレライ』の、若きマスターである。

彼、そして彼女との出会いは、深錫が中学三年生の冬。
「へえ……結構並んでるんだ」
深錫は今、とある高校の体育館前にいた。
おそらく来年入学することになるであろう、地元の県立高校。今日はその高校の演劇部が、自主公演を行うのである。
彼自身は演劇というものにさほど深い興味があるわけではなかった。とはいえ決して嫌いではなかったし、姉の由華が中学、高校と演劇部だったこともあって同年代の少年たちよりは観劇経験もあった。その姉は、今年この学校を卒業する。これは姉の関与する高校時代最後の公演というわけだった。姉は主に衣装などの担当だったから、出演はしていないのだが。
「ああ、深錫。こっちよこっち」
開演前の体育館から、姉が呼ぶ声がする。楽屋で最後の調整をしているのだろう。
「ちょうど良かったわ。雪見ー! 手伝いが一人来たわよー!」
「あ、由華の弟くん? 悪いわねわざわざ。あっちでパイプ椅子並べてる彼の手伝いしてきてくれる?」
「はい……?」
なんだか分からないうちに、彼は演劇部の人足としてボランティアをする羽目になったようだった。まあ、よくあることだ。
姉の友人であり演劇部部長の深山雪見の指示に従い、椅子を並べている少年に近づいていく。
中学三年生にしては上背のある深錫と並ぶと、どう考えても高校生であろうその少年の方が背が低いようだった。誇らしさ半分、申し訳なさ半分の気持ちで苦笑して、深錫は少年に話しかけた。
「あの、演劇部の方ですか?」
「ああ……いや、違うかもな」
彼は実に煮え切らない返事をした。何故かその横顔は、深い苦悩に彩られて見えた。
「とりあえず、ちゃっちゃっと片づけちまおう。手伝ってくれ」
無理にその表情を消し、彼はパイプ椅子の詰んである場所をあごでしゃくって見せた。

パイプ椅子を並べ終わり、深錫は雪見と姉の元へ向かった。入れ違うように、先に作業を終わらせていたあの少年が出ていく。
「終わりましたよ」
「ありがとう。そうだ、お礼といってはなんだけどここで舞台を見ない? 客席から見るのもいいけど、こんな経験滅多に出来ないわよ」
「そうですね……遠慮します。やっぱり、正面から見たいですから。それに姉さんがいる限りいくらでも機会はありそうだし」
それは、今日のようなことが昔からしょっちゅうあって、かつこれからもあるだろうということだった。
「そう。じゃあ部外者は出て行きなさいね」
心なしか怒ったような姉に、楽屋から押し出されそうになりながら深錫は雪見に問いかけた。
「さっきの椅子を並べてた人、誰なんですか?演劇部の人ですかって聞いたら、よく分からない返事をしてきたんですけど」
「あの彼……? 初対面よ。ねえ由華?」
「だと思うけど。あれ待って、でもどこかで……」
自身なさそうに姉に意見を求める雪見に対し、姉の返答も頼りない。考え込んでしまった二人に、深錫はあわてて言った。
「あ、いいですいいです。ちょっと気になっただけですから。それじゃお邪魔しました」

開演の時間が迫っていた。さっき自分で並べたばかりのパイプ椅子に腰掛け、深錫はなんとなくあの少年を目で探していた。
(あ……)
自分の少し前に、少年の姿を見つける。逡巡の末、話しかけることにした。
「となり、よろしいですか?」
「……君か。俺は別にいいけど」
のろのろと顔を上げ、どうでも良さそうに言ってくる。深錫はその少年のとなりに腰掛けた。
「この学校の生徒さんですか? ……ええと」
「浩平。折原浩平だ。……そうだよ」
「じゃあ、折原先輩ですね。僕は、この春からここの生徒になりますから」
「……気の早い奴だな」
相変わらず、その少年――折原浩平は、苦渋を隠せない顔をしていた。
「何か、この舞台に思い入れでも?」
「別に……」
「そのわりには、悲しそうで……」
その言葉を、開演のベルが遮った。
「……始まるぞ」
「……はい」
照明が落ち、舞台だけが照らし出される。
満場の拍手の中、幕はゆっくりと開いていった……。

(……凄い……)
深錫は、息をするのも忘れてその少女に見入っていた。
『言葉を話せない少女』の役についているその少女は、もちろん全く台詞を発していない。
なのに、彼女の挙動全てから伝わって来るこの思いはなんなのだろう?
いや、これは『想い』だ。
この体育館のどこかにいるはずの、愛しい相手への。
その想いが彼女を突き動かし、満ちあふれた想いが観客全てに届いているのだ。
そのとき、彼が何故隣を見たのかは、彼自身分からなかった。
けれども彼は見たのだ。
浩平の頬を伝い落ちる、一粒の涙を。

幕が下りたとき、深錫は放心したようにそこに座っていた。
あわてて隣を振り返り、あの涙の意味を問おうとする。
けれども、そこに座っているはずの折原浩平はすでにいなかった。
(折原浩平……いったい何だったんだろう、あのひとは……)
ふと、彼の座っていた席に一冊のパンフレットが置き去りにされているのを見つける。この劇の内容紹介やスタッフリスト、キャスト表など、内容は一般的なものだったが――。
そのキャスト表の、たった一つの名前に赤ペンで印が付けられていた。
役名は、あの言葉を話せない少女の役だ。
(上月……澪……?)
役者の名前であろうその文字を、そっと指でなぞってみる。一年生ということは、自分が入学したときには二年生になっているわけだ。
そういえば、折原浩平の学年を聞いていなかったことを思い出した。おそらく上月澪よりは年上だろうが。
(折原先輩と、上月先輩)
二人の間には、何があるのだろう。
「とりあえず……決まりかな」
そう。今分かっているのは、自分が演劇部に入部するだろうと言うことだけだった。


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新シリーズ! 趣味だ、趣味に走っている。
なんとなくSSを書こうとするといつもオリキャラの出る「空白の一年間」ものになってしまう。
しかし書いてて楽しいので万事おっけー。