彼女の扉を叩く者 第一話 投稿者: 高砂蓬介
「冗談・・・だよね?」
おそるおそる問いかけた言葉に、答えは返ってこない。
「約束してくれたのに・・・そばにいてくれるって約束してくれたのに、どうして?」
川名みさきは、沈黙を保ったままの、おそらく誰も座っていないのであろうベンチに、震える声で問いかけた。
折原浩平。夕焼けの屋上で彼女と出会った少年。
盲目の彼女にはじめはとまどったものの、すぐにみさきを普通の女の子としてみてくれた少年。
愛されることを恐れていた彼女を本気で愛し、永遠にそばにいることを誓ってくれた少年。
そして今、あまりにも理不尽な形でこの世界をあとにした少年。
「嘘でしょ・・・?嘘だって言ってよ、浩平君・・・っ」
満開の桜の中、みさきはただ誰もいないベンチの前で立ちつくすことしかできなかった。


「・・・ん」
頬に何か異物感を覚え、その少女は目を覚ました。
「もしかして、寝ちゃってたのかしら?」机の上に、英語で書かれた分厚い小説と彼女のノートが広げられている。ノートを埋めている文字の羅列は、隣に広げられている英文と同じ内容のはずだ。友人に頼まれ、とある洋書の和訳に着手したのが二日前。18歳の少女にしては異常なまでのスピードで、彼女は小説の約八割を日本語に書き換えていた。
「む〜」
とはいえ、寝起きの頭にアルファベットの羅列はかなり厳しいものがある。机に突っ伏して寝ていたせいで、くっきりとノートの角の跡が付いた頬をなでながらうなる。何となくその頬をぷにぷにと引っ張って眠気を追い払い、彼女は机の角を押した。その反動で、車椅子の車輪がゆっくりと回る。小学生のとき両足の自由を失ってからというもの、この車椅子こそが彼女の足だった。
「これは、散歩ね」
眠気覚まし+気分転換としては、まあ妥当な方法だろう。一つ大きなのびをして、彼女は部屋のドアをあけた。
一階の廊下に、包丁でなにかを刻む音が響いている。台所を覗くと、四十歳くらいの中年女性が料理にいそしんでいた。
「暮菜さん。今晩のメニューはなんですか?」
「今日はちとせさんの好きな湯豆腐ですよ。ところで、何かご用ですか?」
女性はほほえみながら振り向いた。彼女の名は暮菜美代子(くれな みよこ)。簡単に言えば、彼女の家の家政婦のようなものだ。
「用は別に・・・ちょっと散歩に行ってこようと思って」
「この時間からですか?」
「・・・え?」
時計の針は既に四時を指している。どうやらかなりの間惰眠をむさぼっていたようだ。一瞬、出かけるのをとまどう。しかし、やりかけたことを――たとえそれがくだらないことであれ――途中で止めるのは気にくわないのが彼女の悪癖だった。「夕方の桜でも見てきます。夕飯は何時くらいに?」
「六時には出来ますけど・・・まあ、好きなだけ散歩してきて下さい。あんまり遅くなられても困りますけど」
どこか他人行儀なのに、親しい友達同士の会話のような響きのあるやりとりがかわされる。親子のようで友達のようで、しかも時には雇用主と労働者ですらあるこの付き合い方が、彼女は好きだった。それは暮菜も同様らしい。まあ人間関係というのは多彩なものである。
「じゃあ、いってきます」
玄関のスロープの上をゆっくりと車輪を転がし、彼女は家を出た。


夕方になり、紅色の日差しが彼女を照らし始めてもまだ、彼女はそこを動くことが出来なかった。
自分がこの場所を去ることが、浩平の不在を完全に肯定することになってしまうような気がしたからだ。
通行人は彼女に奇異の視線を投げかけているのだろうが、彼女がそれに気付くことはない。そもそも、そんなことはどうでもいいことだった。
だからこそ、驚いたのかも知れない。通行人のひとりが、明らかに彼女に向かって話しかけてきたことに。
「あの、そこで何をなさってるんですか?」
「・・・え?」
「貴方ですよ。溶けたアイスクリームを持って立ちつくしてる、長い黒髪の貴方」「・・・どなたでしょう?」
声の感じからして、自分と同じくらいの年代の女性だ。みさきは何となく、声のした方に顔を向けた。
そこに「立って」いたのは、みさきの予想通り十代後半の少女だった。いや、もしみさきの目が見えたのなら、自分の間違いに気付いたろう。なぜならその少女は、「立ってなどいなかった」からである。車椅子に腰掛けていたのだ。
それ自体が光を放っているのではと思うほどの銀に近いプラチナブロンドが夕日を反射している。その髪をシニヨン状に結い上げてから、残りの髪を三つ編みにして背中に垂らしていた。おそらく髪をとけば、優に腰まではあるはずだ。春物のブラウスとロングスカート。淡い色合いのカーディガンを、袖を通さずに肩に掛けている。おおむね、そのような感じの少女だった。もっとも、みさきには見えなかったろうが。
「あ、別に怪しいものじゃないんです。ただ・・・アイスクリームがもったいないなって」
最後の方は冗談めかしている。
「私は萩野ちとせって言います。この公園には散歩で来たんですけど。それはともかく、手を洗った方がいいですよ?」
言ってから、みさきに近づいてくる。みさきが対応にとまどっているうちに、ちとせがみさきの腕に触れた。
「あ、私車椅子なんで、肘掛けにつかまって下さい。水場まで案内しますから」
みさきは違和感を覚えた。つかまって下さい?これではまるで・・・
「あの・・・もしかしてわかるんですか?」
「なにがですか?・・・って聞き返すまでもないですね。たぶん貴方の思っているとおりですよ」
やはりそうらしい。みさきが盲目であることに、この少女――ちとせと言ったか――は気が付いているのだ。
ちとせは器用に車椅子を反転させ、みさきを引きずりすぎないように腕の力を調節しながら前進させた。残念ながらこの車椅子に電動モーターなどと言う文明の利器は装備されていない。
みさきは案内されるままにとぼとぼと歩き始めた。あれほどさっきまであの場所から動けなかったのに、ちとせの先導に従って歩いてしまう。やがて、ちとせが車椅子を止めた。蛇口をひねり、みさきの袖をまくってから水流へと導く。
手洗いも終わり、アイスのコーンをみさきが食べてしまってからちとせは話を切りだした。
「さっきと同じ質問ですけど、あそこで何をなさってたんですか?」「・・・・・・」
答えられようはずもない。「デートをしていた恋人が突然消えた」などと言う話をしたところで、頭がおかしいのだと思われるだけだ。その場を去ったのではなく、本当に消えてしまっていたのだから。浩平には何も聞かされていなかったみさきだが、その程度のことはわかっていた。
「まあ、答えられないならいいですけど。でも、ひとりでここへ来たはずはありませんよね?」
「・・・・・・」
確かにそうだ。消えてしまったのは、彼女をここへ連れてきてくれた人間なのだから。ちとせがそのことを知っているはずはないと知りながら、涙が流れてしまう。そんなみさきの様子を見て、ちとせは質問を諦めたようだった。
「とにかくもう時間も遅いですから、送っていきますよ。お宅はどのあたりですか?私この街は慣れてますから、たいていのところへは行けますよ」
ちとせがハンカチで涙を拭ってくれる。とりあえずは感謝すべきなのだろう。ありがとうと言ってから、みさきは行き先を告げたのだった。

つづく

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と言うわけで、先日『これも一つの「絆」のカタチ』で戦慄もとい鮮烈なデビューを飾った高砂です。
うわー、雰囲気変わりすぎ。こんなこったから友達に分裂症とか狂王とか言われるんだろうなあ(狂王って何?)。なんだかオリジナルキャラを出すという暴挙までしてるし。と言うわけで怒らないで下さい。
で、実はこのSSは書き直しを加えて再投稿しています。まあ気になさる方などいないとは思いますが、一応念のため。なにぶん素人なもので(謝)。