NEURO−ONE 30/31 投稿者: 天王寺澪
最終話「ニューロ・ワン」



瞼の上が暖かな光に包まれる。

ちらちらとその光は動く。

…。

日当たりのいい明るい病室。さっき動いていたのは白いカーテン。それが風で揺れていたらしい。
窓の反対側には…刀を抱いたまま腕を組み、目を閉じて座っている女。

「…あ」
「ん?…良かった…やっと目が覚めたな」
「ここ…は…?」
「クリニックだ」
「…?」
「私も以前運ばれたことがある…ちょっと待って」

女は側にあるボタンを押した。
すぐにドクターと看護婦が来て診察を始める。茜の体に入れたマイクロマシンをチェック。
…かなり回復しているが、しばらく入院して様子を見た方がいい…そう言うとまた二人を残して出て行った。

「まあゆっくり休むことだ」
「…あの」
「あれからちょうど一週間になる」

ウイルスは片付いた。セントラルは他のエリアの軍が来て監視下に置かれている。

「とりあえず平和だ。今のところは」
「ウイル…ス?」
「茜…私が誰かわかるか?」

女の顔をじっと見る。見覚えはあるが…だめだ。
思い出せない。

「いえ…」
「そうか…そうだろうな」
「…」
「気にする必要はない。治療の都合で記憶を封じているだけだから」
「記憶を?」
「VRフィードバックをかけてある。良くなれば解除してもらうから…大丈夫」

ここは神経系も腕は確かだ。何も心配はいらない。

「…」
「水でも飲むか?」

彼女は水差しを取るとコップに水を入れた。茜を抱き起こして飲ませてやる。
その時…突然強い風が部屋の中に吹き込んだ。強くはためくカーテン。
すぐ横の台にある花瓶に当った。

「!」

台から転がり落ちる…が、床に落ちる前に空中でピタリと止まると…そのまま元の位置に。
窓が手も触れずに閉まる。

「今のは…」
「力の応用だ。不可視の力というらしい」
「不可…視…?」
「葉子さんに聞いた。七瀬と言う名前にも少し覚えがある…が、まだ完全に思い出してはいない」

確かに昔、一度だけ恋愛シムで遊んだことはあった。でも気がついたら仲間に介抱されていたんだ。

「もうよく覚えていない。話のタネにやってみただけだ。それにあのシムはすぐなくなってしまった」
「シム…」

何か聞き忘れているような気がした。何だろう。
とても大事なこと。

「どうした?」
「…いえ…何でもありません」

だめだ。頭がぼんやりして…考えがまとまらない。

「あまり無理するな。目が覚めたばかりだ」
「はい…」
「さ…眠るといい。また明日にしよう」

ルミィは茜を寝かせると布団を掛けてやった。軽く頭を撫でてから病室を出る。
そしてもう一つの部屋へ。廊下の途中で表情が変わった。明から暗。険しい顔に。
目的の部屋へ入ると葉子がいた。

「とりあえず寝かせた」
「ええ…後で私も行ってきます」
「こっちは…」
「…」
「変化なし…か」

ベッドに寝ている男。ずっと目を覚まそうとしない。
頭部に傷はない。宇宙空間で生じたと思われる脳の損傷も…全て治したはずだ。
それなのに…。

「何かに意識を取り込まれている…それはわかっているんだけれど」
「どうして…」
「たぶん原因は…回路を無理に使ったこと」

輸血を受けていた時…言葉…誰かに話かけていた。あの時だと思う。

「…確か茜が…浩平の声を聞いていたようだったが」
「そう…そうだったのね」
「何か方法は…?」
「茜なら…」

あの子なら彼を呼び戻せると思う。でも…。

「一緒に取り込まれて…帰ってこれなくなる恐れがあるわ…」





それから数日後の夜。ルミィは浩平の部屋を後にした。
外の空気を吸いに…というのは表向きの話で、例の噂を自分の目で確かめるためだった。
茜が毎晩病院の中をさまよっている…そんな噂だ。

動き回れるようになったのだから…夜中にたぶん喉が渇いたりしたのだろう。最初はそう思った。
でもそれが庭の木々の枝や屋上に現れたりすると話は違ってくる。
影は見えたかと思うと消えてしまうらしい。浮かんでいる時もあるそうだ。黒い影。茜の生き霊。
昨日は一晩中部屋で見張っていたが…何も起こらなかった。茜はすやすやと眠っていたのだ。
それなのに食堂で見回りの看護婦が目撃したと言う。冗談ではない。

真夜中のクリニックの静まりかえった廊下。
それでもルミィの足音はまったく聞こえない。そういう風に歩く術が体に染みついていた。
どこか離れた病室で眠れない誰かがため息をついただけでも…彼女は気がつくだろう。
廊下には非常灯しか点っていない。例の騒ぎでエネルギー供給は逼迫していたが…ゼロでないだけまだマシだ。
それに彼女の瞳にはこの程度の暗さなど昼間と変わらない。

茜の部屋は二階にあった。
建物のちょうど真ん中、階段の辺りまで来たところで…今日は例の生き霊に会える。不意にそう思った。
後で考えるとそれは彼女の勘のようなものだったかもしれない。力が目覚めて鋭敏になった感覚。
踊り場を過ぎ、階段を上り切ったところで…それを見つけた。廊下の端にゆらあと動く…影。
瞬時にルミィはオーバードライブ状態に入った。長い廊下を一瞬で近づく。

「!」

目を凝らすと長い髪、見慣れたパジャマ。

「茜…か?」

影は滑るように動くと…ルミィに向かってきた。一瞬見えた表情のない顔。茜だ。間違いない。
捕まえようとしたが体をすり抜ける。実体…ではないのか?

「茜!」

途中の角を曲がった。慌てて追いかける。だが曲がり角に飛び込むと影は消えてしまっていた。
その代わり廊下のずっと先に…光…ちらちらと揺れている。あれは…炎か?
見ているとそれはゆっくりと近づいてきた。だんだん大きくなってくる。
そして…近づくにつれて、その姿がだんだん掴めるようになった。
それは彼女を驚愕させた。

「…っ!」

猫だ。
いや、猫と言うには大きすぎる。廊下をやっと通れるぐらいの巨大さ。
しかも体が真っ赤に燃えさかっている。触れただけで体が炭になりそうだった。

「こ…こいつは…!」

どんどん近づいてくる。熱い。周りの空気が熱で歪む。
化け猫は大きく開けた口から煙を吐き出した。うなり声。

グシュウウウウウウッ
グルルルルルゥッ

火の粉を振りまく赤い炎の毛。まるで溶鉱炉の溶けた鉄のようだ。眩しく輝いて表面が波打っている。
おかしい。なぜ壁や天井は燃え出さない?これは幻か?
それに…自分はこの化け物を知っている。知って…。

念を込めなさい!

「何?」

剣に念を込めて!早く!

「…葉子さん?」

話は後よ!とにかくそれを倒しなさい。幻影でも…飲み込まれたら焼け死ぬわ。

「わかった」

コートの背中から銀色の輝きが現れた。硬質メタルクローム+2。
それを正眼に構える。

チャキッ

「試してみる…か」

彼女に教えてもらったばかりの技。目を閉じて不可視の力を体の内側で練り始めた。
外で空気を固めるのではなく内側で力を…一つ間違えば自分が砕けるだろう。
背骨の奥が熱くなる。体から稲妻がほとばしった。光の中から黒い粒子が溢れ出ると刀に吸い込まれていく。
猫のうなり声がすぐ側まで近づいてきた。汗が顔を伝って落ちる。

「まだだ…」

猫が近づく。熱い。刀を持つ手が焦げそうだ。
目をつぶっていても…もうすぐ前に迫っているのがわかる。

「まだ…」

刀の周りの力場が歪みはじめる。
猫の動きが止まった。

「よしっ!」

ズガァアッ!

爆発。いや…ルミィが恐ろしい勢いで飛んだ。蹴った衝撃で床が砕け、煙が上がる。
刀は螺旋を描きながら、うなりを上げて空間を切り裂いた。

ズギャギャギャギャアーーーーッ!

気がつくと反対側に着地。背中で渦を巻きながら消えて行く炎。

「…やったのか?」

空気は冷えている。まるでさっきまでのことが嘘のように。あれはただの暗示だったのか。
変化したものと言えば、砕けた床と…衝撃の余波で壊れた蛍光燈…それぐらいだ。

「いったい何だったんだ…あれは…」

!?

息も整えないうちに背中に底知れない寒気を感じた。慌てて振り返る。
廊下のさらに向こう…誰かが立っている…が、暗くてよく見えない。
馬鹿な…これぐらいの暗さなら自分の目には関係ない…はずだ。
だが特製の眼球…内側のインジケーターが光量不足の警告…いや…マイナスエラーだと?
こんなことが…あるのか?

本当の闇がそこに生まれていた。

「…いったい…何が起こっているんだ?」

引き返せ!
五感が警告を発している。心臓が爆発しそうなぐらい脈打つのがわかる。抑えがきかない。
今まで感じたことのないほどの恐怖。さっきの化け猫などこれに比べたらぬいぐるみでしかない。
それでも引き返そうとする体に必死で抵抗して…そこに踏みとどまった。体が震えるのは久しぶりだった。
近づいてくる。闇が。天井も床も覆い尽くして。何も見えなかった。何も。

…突然暗闇の下から足が現れた。細い足…女?
次にくるぶしを覆うほどの…長い衣装…民族調の。
そして…現れた手の片方に…。杖!?この杖…は!!!!!!!!

「嘘…だ…」

首から上はまだ闇に隠れている。だが僅かに見えた口元…笑っている。不気味な微笑み。
それだけでルミィには十分だった。忘れていた記憶の糸が無理矢理引きずり出される。

「そんな…ありえない…」

動揺したルミィを近づいた闇が取り込もうとした…その時。
背中の方から光がほとばしった。

シュパァァアァアアッ!

闇が退いた。廊下の向こうまで一気に。いつのまにか後ろに立っている葉子。

「早く…追いかけましょう」
「葉子さん」
「外に出そうになっていたのは全部封じ込んだわ。残っているのはあれ一つだけ」

追って行くと影は…ある部屋に消えた。そこは…。

「茜の…」
「…」

葉子は迷わずに部屋の中へ入った。後から続くルミィ。

「…茜?」

ベッドで寝ている茜。静かな寝息。特におかしなところはない。
だが葉子は…影の一部が茜の中に消えて行くのを見逃さなかった。
ため息をつく。

「参ったわね…」





何だろう。

木漏れ日の中を歩く。ピンクのパジャマにカーディガンを羽織って。
今日は少し暖かい。風が吹くたびに庭の常緑樹の葉が揺れる。
空は青く晴れ渡って…気持ちが良かった。

ルミィたちは何かを隠している。何を?
いや…それより私は何を忘れているのか。

昨日二人が出てきた部屋にこっそり忍び込んでみた。ベッドに知らない男の人。あの人は誰だろう。
ルミィにそれとなく尋ねてみたが、少し動揺した後で…葉子さんの知り合いとしか教えてくれなかった。
わからない。なぜあの部屋を見張っているのだろう。彼はいったい…。
あと少しで思い出しそうなのだが…肝心なところで記憶がぼやける。

「そろそろ散歩の時間は終了です」
「あ…はい」

血圧などの測定機能のついたリストバンド。そこからの声で建物に戻る。
昔の記憶ばかり蘇ってくる割に最近のことが全然思い出せない。薬の副作用だろうか。
でも彼…どこか見覚えがある。まさか…昔消えてしまった幼なじみ…?

「…違う」

自分には幼なじみなどいない。それはVRシムの設定…記憶だ。
あの世界には…葉子さん…それに父さんだっていた。悲しい結末だったけれど。
そうだ…初めてデートやキスをしたのも…VRだった。あの人…あの人だ。
茜は思い出して頬が熱くなった。

…。
…。
…。
……………。

「!!」



バターン!

部屋の中に茜が飛び込んできた。ルミィが驚いて立ち上る。

「茜!」
「浩平!…浩平は!?」

ベッドの上の男を見ると…茜はルミィを押しのけて駆け寄った。
男の体を力いっぱい揺さぶる。

「浩平!浩平!」

ルミィは茜を引き離すと椅子に座らせた。葉子が側に来る。

「茜…落ち着け」
「自力で記憶を解除させたの…ね…」
「私…浩平のこと…」
「すまない。そうしないと…おまえのことだからすぐ回路を使ってしまう」
「しばらく回路の使用は厳禁だったの…あなたの体は」
「そんな…」

だがそのために…押え込まれた記憶が溢れ出して大騒ぎになったこと。
そして…空間に強力な幻を出現させる力を…あの回路が持っていたこと。
とても茜本人には言えなかった。

「彼…意識がないの」
「それなら…」
「あ…待て!」

茜は止める間もなく回路を駆動させた。浩平の意識をリセットする。何度も。
だが…。

「なぜ…?」

しがみつくように顔を近づけるとまた揺さぶった。

「どうして…どうして…」
「茜…よせ…」
「起きて…浩平…起きてください…」
「茜…」
「いくら…いくら世界が無事でも…」

あなたが…あなたがいなかったら…。
玉のような涙が次から次へと零れる。その一つが浩平の顔にぽたりと落ちた。

「泣いてばかり…いるのね」
「…!」

葉子が見つめている。言葉は厳しいがやさしい眼差し。

「待ってばかりで…いいの?」
「…葉子さん」

茜は浩平の方を振り返ると…それから再び葉子を見つめ返した。

「私…行ってきます」
「うん。それで良し」
「葉子さん!茜は…」
「『今度』は待たない…でしょ?」

茜は目にいっぱい涙を溜めてうなずく。

「ありがとう…母さん」

茜は浩平の体に持たれかけた。それから目をつぶる。
葉子は毛布を持ってくると茜にかけてやった。

「さて…まさか一年もかからないでしょう…ね(笑)」





雲が流れる。

白い雲が青い空に一面に。
まるで白い羊の群れだ。

風景は岬の上…海に突き出た緑の絨毯。辺りは花が咲き乱れる。
暖かい日射しと気持ちの良い風。遠い記憶を呼び起こす。
彼と同じように寝そべっている少女が横から話かけた。

「私ね…ここにしばらくいるの」
「どうして?」
「そう決まっているから」
「ふうん」

ここにくるってわかってたの。本当は早くここに来たかったの。
浩平は周りを見回した。環境としては申し分ないが…ちょっと退屈じゃないか。

「あっ…もう一人のお兄ちゃんが来たよ」

少女が起き上がると手を振った。彼がそこに現れた。

「いい天気だね」
「ここで雨が降った記憶はないんだが」
「確かに」

パタパタパタ…。
二人は少女が走り回るのを眺めていた。白いドレスがひるがえる。
小さな足。なんであんなに元気なんだ。浩平は不思議だった。

「あいつ…昨日の疲れがないのか?」
「どこまで行っていたんだい?」
「あっちの浜の向こうまで連れて行かれた」
「何か見えた?」
「いや…気がついたら日が暮れてた。港にビルのシルエットが見えたぐらいかな」
「VRにそういうグラフィックがあったね」
「この世界は記憶も何もかもごっちゃになっているのかも…しれないな」

お兄ちゃーん。

「ちびちゃんが呼んでいるよ」
「おまえだろう」
「いや。君の方を見てる」

やれやれ。今度は何だろう。
どっこいしょっと腰を上げて歩いて行く。
近づくと少女はどこかからスケッチブックを取り出してきた。
見覚えのあるスケッチブックだ。それをクレヨンと一緒に浩平に渡す。

「お兄ちゃん。描いて」
「何を」
「似顔絵」
「誰の」
「私のに決まってるよ〜」
「…意味がわからん」

とりあえず描き始めた。
目の前の草の上にちょこんと座った少女。にっこり笑っている。
でもすぐに飽きたのかちょこちょこと動きはじめた。じっとしていないので描くのが大変だ。

「こらっ動くな」
「だって蝶々が…」
「あっまた…」

…まあいいか。どうせ山ほど時間はあるんだ。たぶん。
問題があるとしたら…俺に絵心が全然ないってことぐらいで。

「似てないよ〜」
「馬鹿。まだ描きおわってないのに覗くんじゃない」
「へたくそだ〜」
「うるさい」
「あっ!…誰か来たよ」

突然彼女が空から降りてきた。ふわっと着地する。
辺りを見回して…不意に笑い出した。

「あっ…茜…」
「こんにちは。お姉ちゃん」
「こんにちは…みんなここにいたんですね」
「うん」
「ここから…行くんですか?」
「そうだよ」
「何だよそれは?」
「内緒っ」
「内緒です」
「?」
「遊ぼうよっ!ねっ…みんなで遊ぼうっ!」
「はいはい…」

それから日が暮れるまで遊んだ。気がつくと草原の向こう。残照が残る山。
少女が二人を見て不安そうな顔をしている。浩平は笑った。

「まだ帰ったりしないよ」
「…ずっと帰らない?」
「…」
「いつか帰っちゃうんだ…」
「…寂しいか?」

ちびは一瞬体を強張らせると…それからうつむいて…また顔を上げた。

「大…丈夫。もう一人お兄ちゃんもいるし」
「でもたぶん僕より…ちびちゃんの方が先にいなくなるとは…思うけどね」
「…」

VRも現実の世界も…ない。同じなんだ…って、俺は今ごろ何を言ってるんだろう。
馬鹿だな俺は。

今度は男が少女に尋ねた。今が潮時かもしれない…そう思ったようだった。

「本当に帰ってもらっても…いいのかい?」
「…」
「ずっといてやってもいいぞ」
「私もです…」
「お兄ちゃん…お姉ちゃん…」

鳶色の瞳をうるうるさせている。
だが手で涙を拭うと…それからにっこり笑って答えた。

「ううん…もう十分遊んでもらったから」
「いい子だね」
「ちびちゃん…」

浩平と茜はかわるがわる少女を抱きしめた。ぎゅっと。
小さな体。軽い。残していくのが嫌になるぐらい。
男が少女の手を引いて…二人に言った。

「さようなら。もうここに来てはいけない」
「…ああ」
「と言っても…いつか来るかもしれないけれどね」
「そうだな」

上の世界へのフェイズが開かれた。それはいつでも開くことができたのだ。
浩平が望みさえすれば。

「さようなら…」
「また会えるよ。きっと」
「ああ…さようなら」
「さようならっ!さようなら〜っ!」

少女が一生懸命手を振っている。
彼女はあの似顔絵を…しっかり胸に抱きしめていた。





ベッドの横の窓。そこから見える空の青さ。ビルの谷間。ぼんやりとしたその風景。
ぽたりと落ちる雨。見下ろしている彼女の瞳。涙を湛えて…揺れて…また水滴が落ちてきた。
そう言えば…茜に雨はつきものだった。ここんとこ一度も降らなかったけれど。

「帰ってきたんだな」
「はい…」
「手間かけさせて…悪かった」
「いいえ。浩平らしいです」
「ありがとう」
「はい」

茜が顔を上げる。
二階の窓の外。通りから門をくぐって歩いて来る姿。小さいのと大きいの。
小さい方が手に何か持ちながら先に走ってきた。それはきらきらと光を振りまいていた。










青い空。波。見上げると太陽が眩しい。
すぐ向こうにメインハーバーとセントラルの高層ビル群が見える。左手には緑の山並み。今日は少し雲がかかっている。
自動操縦のヨット。甲板で寝転がっているうちに日に焼け過ぎたようだ。顔がひりひりする。
急に影になったと思ったら、上から覗き込んでいる茜。
ヨットパーカーの下の白いビキニ。少しだけ日に焼けた肌。形の良い胸が揺れていた。

「寝ているかと思いました…」
「少しうとうとしてた」
「…どこでも眠れるんですね」

茜が笑っている。ここ最近暗い表情は見たことがない。
あれからもう半年近くになるんだ。そう言えばあの時はまだ…冬だったな。
浩平は尋ねた。

「茜…」
「…はい?」
「退屈してないか?軍辞めて…」
「いいえ。浩平…そればっかりです」
「そうだな」

潮風になびく茜の髪。栗色のそれは時々金色に輝いた。
結局二人は自分たちで会社をつくった。システム侵入の対策相談。迎撃ウイルスの開発は茜。浩平はただの営業。
あまり目立ったことはしない。力がばれないように。もちろんレディとの契約でもあったが。

「明日ルミィと会います」
「うん」

茜は葉子に会うために時々教団へ行く。その時にいろいろ聞いてきて浩平に教えてくれるのだ。
ルミィは葉子の側で力の鍛練をしていたが…とうとうこの間…月までテレポートしたらしい。
もちろんオリジナルの郁未に会ったところで何の意味もないはずだ…が…。

「葉子さんと…どっか行ったりしないのか」
「別に…」

VRでの『親子』。そのうえ母と娘。二人が普段どんな会話をしているのか彼には想像もつかない。
なにしろ自分があの世界にいて…帰ってきたらもうすっかり打ち解けていたのだ。わからない…。

「繭が…まだセントラルに行ってるそうです」
「…そう…か」

繭はルミィと住んでいる。それにミューも一緒だ。茜は彼女にミューを謹んで進呈した。
それを彼女が受ける権利は皆が認めていた。ミューを大事に預かっていてくれたからだ。
ミューのAI…もしあれがなかったらワクチンは完成しなかっただろう。

「劇場…」

何度教えても繭は…セントラルに…劇場の跡地に行く。彼女を探しに。
もうそこには誰もいないのに。



海鳥の鳴き声。ヨットは速度を少し落とす。
雲が流れてきた。日が遮られ、波の色が濃い群青色に染まる。

「スノウ…」
「…浩平」
「元気だといいな」
「はい…」

茜は海の彼方を見つめた。積乱雲のそびえる空の彼方。
北米に渡ったスノウ。いつか帰ってくるのだろうか。私たちはその時笑って…話せるだろうか。
それはもう何年も先になるかもしれない。

「浩平」
「ん?」
「私たちに…もし子供ができたら…」
「…えっ?」
「同じ力を持つと…思いますか?」
「…」

浩平は何も言わずに空を眺めている。
考えているのか、ただぼんやりしているのか。

「浩平?」
「…わからない」

瑞佳の子供たちのこともある。可能性は高いだろう。子供たち…。

あれから一度だけあの世界に行った。一度だけ。
瑞佳は二人を商店街まで連れて行くと…ある花屋に入った。
そこで働いている一人の女性。少し年上で青い髪。やさしい笑顔の…。
なぜ彼女がそこにいるのか…それはレディと瑞佳だけの秘密らしかった。

いつか彼女も子供を持つのだろうか。あの世界で。そしたら…。

「新しい…子供たちか」
「…私たちの?」
「みんなのさ」

茜の体を抱き寄せる。火照った熱い肌。しなやかで柔らかい体の重み。
少し潮の香りがして。

「…」

目に映る空。波の音。
青い海。本物の海。風と光。

あるよ。
ここにあるよ。

「そうだ…」
「?」
「ここに…ある」
「…はい」


青い水平線に白い帆が遠ざかった。




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cast


浩平:折原浩平(VR浩平と二役)
茜:里村茜
ルミィ(七龍):七瀬留美
澪:上月澪
みさき:川名みさき
繭:椎名繭
スミイ:住井護
スノウ・ミヤマ:深山雪見
レディ・C:柚木詩子
氷上シュン(伯爵):氷上シュン
鹿沼葉子:鹿沼葉子
巳間晴香:巳間晴香
名倉由依:名倉由依
ikumi:天沢郁未(AIを含め三役)
タカツキ:高槻(弟?)
南:南明義+筋肉
ちびみずか:ちびみずか(詳細不明)
瑞佳(折原瑞佳):長森瑞佳
折原達也:劇団ヒマワリ
折原恵:劇団ヒマワリ
軍の秘書:広瀬真希
老人:MOONのじじい
他たくさん


特殊効果:オフィス住井
協力:名倉インダストリーズ/宗教法人「月」

配給:Tactics/1999


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アーケードのない商店街の空は、絵に描いたような茜色だった。
浩平は通りに沿った階段から、そのまま吹き抜けになった地下に降りると「MOON.」のドアを開けた。

カランカラン…。

『いらっしゃいなの』

カウンターの横に置いてあるスケッチブックに描かれた文字が目に飛び込んでくる。
小さい女が何も言わずにビールを注ぐと、彼の前に置いた。
リボンをつけた彼女は、何度足を運んだ浩平から見ても、この店には不釣り合い…いや少し馴染んできたかな。

『不景気なツラなの』
「大きなお世話だ」

チカチカチカッ
電脳スケッチブックは澪の思考を受けて字を表示する。フレームに刻まれた「NUCKLER」のロゴ。
ナックラー。名倉インダストリーズ。少し前に由依にもらった製品で最新式だ。脳波に迅速に反応するそれ。
でもたまにわけのわからない言葉を放つ。澪のアドリブのようだが。

『さっき、パーツ屋さんが来てたの〜の〜』
「飯を食いにだろ…いつものことさ」
『でもドラッグ入れなかったの』
「ふうん」

浩平は周りを見回した。カップル。OL。さらりぃまん。みんな普通の客だった。
前の店がぶっ壊れたので表通りに店を引っ越したのだが、そのためにすっかり客層が変わった。
昼間は喫茶店なんかもしているようだ。

「えらく健全だな澪」
『昔から健全なのっ』
「そうか?」

浩平は前の店でスミイとやりあったことを思い出した。もう一年か。早いものだ。
スミイと南はあれから会っていない…ただ一度だけ無記名の礼状と金一封が届いた。
それだけだ。

「何か変わったことはないか?」
『ないの』
「そりゃ良かった」

店が混んできた。結構繁盛しているようだ。そろそろ席を空けようか。

「じゃあな。澪」
『また来るの』

外に出ると雪が降っていた。見上げると灰色の空から次々と白い断片が落ちてくる。

「…冷えると思った」

街には光が灯りはじめていた。巨大な建造物の並ぶソネザキは光の洪水だ。
マンホールやビルの上から蒸気が吹き出て色とりどりの光を乱反射している。

「さて…行くか…」

浩平はソネザキに向かって、その光の中へとゆっくりと歩き出した。



Fin.

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これで終わりです。
最後になってぎゅうぎゅうに押し込んでしまいました(^^;大馬鹿です。
ここまで読んで下さったみなさん。ありがとうございました。m(_ _)m
拙いSSですが自分のやりたいことはまあできたかなと…勝手に満足しています。
またお会いできればいいですね。


それではっ