NEURO−ONE 29 投稿者: 天王寺澪
第二十九話「ミサオ・ワクチン」



絶え間なく続く砲撃。建物がまたどこかで崩れていく。

「浩平…!」

胸の傷口に当てた葉子の手がほのかに光を放つ。血は止まったが…既に流れてしまった量が多かった。

「早く輸血しないと…」
「俺のことより…ワクチン…早く…」
「でも消去したって…」
「違う…茜…おまえが…つくるんだ…」
「え!?」
「今のおまえなら…つくれる。ソース…ファイル…『misao−e』だ。彼が手がかりを…くれた」
「…無理です」
「ウイルスと競争だ。その辺の…ローカルシステムを…使えばいい…」

隔離されていたのは…恐らくウイルス開発に使ったマシンだからだ。過去の履歴ファイルも…全部探せば…。

「おまえなら…できる」
「…だ…め」

茜が首を振った。

「私…浩平の側に…」
「頼む…おまえしか…いない」
「でも…でも…」
「…」
「!…浩平っ」

胸に顔を埋めた。涙が後から後から零れた。

「泣かないで。意識を失ってるだけだから」
「…あ…」

顔を上げた。すぐ目の前で自分を見つめる葉子の顔。

「彼は私に任せて…ワクチンを早く」
「そんな…」
「あなたしか出来ない。ここで負けては駄目」

すっかり母親に戻った…言葉。
茜は浩平の青白い顔を見つめると…それからか細い声で返事。

「…はい」
「確か近くにクリニックがあったはずね。七瀬さん…後はよろしく」

シュォッ

浩平の体に触れる…一瞬で二人とも消え去った。
ルミィは伯爵に軍服を掛けてやると、戻ってきて茜の肩に手をおく。

「きっと浩平は大丈夫だ。頑張れ」
「ルミィ…」

でもわからなかった。どうしたらよいのか。もちろんワクチンは今まで何度もつくったことがある。
だがどんなに急いでも最低1日は必要だ。そんな時間はもうない。
半日も過ぎれば全ては終わってしまう。いや…シュンはハザードを再現しようとしたわけではない。
クラスターにウイルスがたどり着くまで…恐らく数時間程度と踏んでいたはずだ。
軍の戦力と信用を十分落とし、かつ世界がそれほど打撃を受けないほどの時間。

「…2…3時間…」

だめだ…とてもそんな時間で…ワクチンなんてつくれない。
もっともワクチンなど使わなくても…ウイルスを止めることはできる。最初からわかっている方法。簡単だ。
直接ウイルスをクラスターに…あのVR空間に叩き込めば済むことだった。瑞佳が消えればウイルスも連鎖反応で消えるのだから。
ただ彼女がオリジナルの亜空間リンクを使用すれば…今度こそ世界は終わる。
ikumiが消え…浩平も倒れた今、瑞佳を止められる者はいない。気づかれる前にやらなければならない。
まるで暗殺だ。

「…できない」

放っておいても同じ事だ。何もしなくても終わる。結局伯爵の勝ち。
それが正しいのかもしれない。瑞佳も子供たちも…あの世界も所詮はVRではないか。
まやかしだ。命なんかじゃ…ない…命なんかじゃ…。うなだれる茜。

「…同じだ…私も伯爵と…同じ」

窓の外を見る。崩れて行く世界。例え数時間でも被害はとてつもないものになるだろう。
何もしないでいるわけには…いかない。茜は決心した。回路を駆動する。
例えそれがどんな結果を生むにしろ…瑞佳に会って話そう。何か別の方法が見つかるかもしれない。
採取したウイルスにプロテクトをかけて…場に入る。中でフェイズを選択。リンク先にVRの世界を指定した。



気がつくと…あの土手の上。

「…変わって…ません」

複雑な気持ちで町を眺める。時間は昼間のはずなのに辺りは暗かった。空は厚い雲に覆われ、暗く重苦しい。
カンカンカン…工場の音だろうか。遠くで車の音。向こうの鉄橋を電車が走って行くのが見えた。
町のあの辺り…商店街の風景を思い出す。瑞佳や子供たち。どこかにバスの中で会ったお婆さんもいるのだ。

手の中にはウイルスがある。それは瓶に入ったスズメバチの姿に変わっていた。おまけに足が八本もある変種。
もし瑞佳が消えれば…この世界を支えているOSが破壊されれば…めちゃめちゃになるだろう。もう何もかも。
こんな蜂一匹で…恐ろしいものだ。どうしてこんなものを持ってきたりしたのだろう。
考え込んでいると、そこに小さな影が現れた。

「こんにちはっお姉ちゃん!」
「…あっ…」

光を振りまきながらとことこと近づいてくる、白いドレスの少女。
可愛らしく束ねた栗色の髪。茜を見てにっこりと笑う。屈託のない笑顔。
でも…いつもマトリックスにいるはずだ。なぜ今日はここにいるのか。
手を後ろに組んで、下から覗き込むようにして茜を見ている。

「よくわかりましたね。ここに来ることが」
「うん。私…それを受け取ろうって思って…」
「えっ?」
「私が消えたらみんな助かるでしょう?だからここで待ってたの」
「あなた…」

ちびみずか…確かに彼女は瑞佳と同じだ。ウイルスは反応するだろう。
純粋な『misao−e』…『mizuka』なのだから。

「どうして…それを…」
「知ってるよ。私はいつも外にいるから…」

ついさっき起こったいきさつなのに…もう…?

「瑞佳お姉ちゃんもたっちゃんもまだ知らないよ。私だけ先にここに来ちゃった」
「消えるということがどういうことなのか…わかっているのですか?」
「うん」
「死ぬんですよ?」
「うん。大丈夫」

きっと…わかっていないのだ。この子は。
茜は首を振ってそのまま行こうとする。だが少女はその前を懸命に塞いだ。

「それをちょうだいっ」
「そんなことは…できません…」
「私が受け取るのっ!」
「あっ…だめです!」

瓶を持った手に懸命にしがみつくちびみずか。中ではウイルスが…スズメバチの形をしたそれが激しく飛び回っている。
すぐ側にいる彼女に反応しているようだ。

「あっ!」

もみあう拍子に蓋が…プログラムのホルダーが開いた。いや、みずかがルーチンを使って強制的にこじ開けたらしい。
飛び出したスズメバチ…真っ直ぐ少女を襲った。

「危ないっ!」
「う…」

倒れかかるのを慌てて支える。腕に赤い斑点。刺された痕。
蜂…ウイルスはしばらく飛び回っていたが…やがて道の端にポトリと落ちた。

「みずかちゃん!」
「…お姉ちゃん…」
「どうして…」
「わ…たし…」

少女は震える手で…空を…ただ指差した。力を振り絞って。
見上げる茜。だが雲以外に何も見えない。

「何…?」
「…」
「…えっ」
「さよ…な…ら…」
「…みずかちゃんっ!」

腕の中で少女の姿が細かいブロックに分かれはじめた。もう原形を保てない。
やがてかき消えた。風にあおられた砂のように。
膝をついたまま呆然とする茜。

「そん…な…」
「…茜ちゃん」
「!」

道の向こうに立っている女。横には男の子。
走ってきたのか…二人とも息を切らしている。

「あっ…」
「この子が急いでここに来ようって言うから…」

辺りを見回した。それから…何かに気がついたようだ。

「ちびちゃん…」
「…」

茜はうつむいた。

「私のせい。私の…」
「間に合わなかったんだ…」
「はい…」

瑞佳は蜂の死骸に気がついて拾い上げた。瓶に入れて蓋を閉めると…座り込んだ茜に渡す。

「これ…だよね」
「…」

これさえあれば他のウイルスに使命を果たしたという情報が伝わる。それで終わり。
でも…。

「…ごめん…なさい…」
「さ…早く…」

とにかく今は…帰るのが先だ。時間がない。
茜は瑞佳達に頭を下げると…回路を駆動した。



フェイズを抜けた茜。横でルミィが顔を上げる。気配に気がついたのか。

「茜?」
「ウイルスは消えます…もう…」

ルミィが怪訝な顔をする。

「…なら…なぜ…泣いている?」
「…」

唇を噛む茜。再び回路を使って…持ち帰ったウイルスをサーバーに入れた。
汚染されたマシンの動きが止まる。徐々にその範囲は広がっていった。
とにかくもう…終わって欲しい…そう思った。
だが…。

「!」

ある程度まで進んだところで広がらなくなった。それ以上ウイルスが変化しない。

「馬鹿な…!」

再度データを投入する…が、何の反応も示さない。まさかこれは…。

「…突然…変異!?」
「茜?」
「嘘です…」

確かに可能性はあった…あの瑞佳の別バージョンなのだから。でも…こんなに早く…。
T社のマシンだけではなく、外を動き回る蜘蛛にもリンクさせてみた…が…。
だめだ…どれ一つとして動きを止めようとしない。みんなほぼ同時期に変異したようだ。
茜はがっくりと肩を落とした。

「…みず…か…ちゃん…」

無駄になってしまった。彼女の死が。
しかも最悪の事態になりつつある。もう瑞佳が消滅しても…ウイルスは消えないだろう。
それどころかさらに変異を繰り返す可能性もある。

「いったい…どうしたら…」





雲が不思議な色に染まっている。恐いぐらい赤い。まだ夕焼けの時間でもないのに。
土手からの帰り道。商店街を歩く人の姿もやけに少なかった。不気味な雰囲気が辺りを覆っている。

「お母さん」
「なあに?」
「…」

男の子は何も言わずに母親の腕を掴む。白くて柔らかい腕。
それを掴んでいれば、不安を紛れさせることができたから。
母親は彼を抱き寄せる。

「恐いの?」
「…うん」
「心配いらないわ。お母さんが…」

あなたたちをきっと…守ってあげるから。

「うん…でも…」

お母さん…お母さんに何かあったら…。

「大丈夫よ」

母親は空を見上げた。
雲は重く…幾重にも重なり…今にも落ちてきそうだった。





「茜…」

ルミィが心配そうに見つめる。

「わ…たし…」
「だめだったのか」
「…り…ます…」
「えっ?」
「私が…つくります…」
「茜…?」
「私…私が…」


ブォンッ!

電源の入ったマシンがみな一斉に動き始めた。恐ろしい勢いで。
回路を全開にした茜。ルミィが辺りを見回して驚く。

「!…」

自分の中の回路を経由して全てのマシンを接続。
ウイルス…ソースファイル…そして…ほんの少しのログ。解析…各セグメントの関連付け…構造分析…。
最初はまだ普通の作業…プロセスだった。それでも通常を遥かに越えた処理速度。
どのマシンもめまぐるしくウインドウが開いてはプログラムが走る。画面を流れるデータの濁流。
いや…それでも足りなかったようだ。

「あっ…!」

ルミィが目を大きく開いた。すぐ目の前の空間。何もない空中に突然ウインドウが開き始めたのだ。
瞬く間に数え切れないほど重なる。もう茜の姿が隠れてしまって見えない。光の壁ができた。
それが何重にも膨れ上がる。ルミィはその勢いに外へ押し出された。

「これは…いったい…!」

無数のウインドウの中心。茜は座ったままだ。汗が滴り、体は震えていた。
既に回路のドライブ能力は限界を超えていた。目や鼻から血が流れ出す。
それでも止めようとしない。

「わた…わ…たし…しは…は…」

彼女は驚くほどの速さで『そこ』へと近づいていった。
計算…計算…推論…推論…推論…可能性の果てまで限りなく並べた、その地平の先に…見えたもの。
それは普段見ているデータ・マトリックスではない。異なる次元…時間軸の世界。事象の地平。
推論…推論…予測…予測…予測…予知…予知…。2NDやROMと同じ世界。そのさらに向こう。
ウインドウが真っ白に輝き始めた。

「…し…知って…る…いる…」

予知ではない。既知。既に知っている。わかっている。ワクチン…こうなるはずだという結論。完成形。
茜は白く輝く地平の先…彼方にそれを見つけた。そこからぐいっと掴んで引き寄せる。
小さな瓶に入った銀青色の液体。視覚化されたプログラム。全てのウインドウに一斉に現れたそれ…。

求めていたワクチンがそこにあった。


ボッ…

機械のいくつかが煙をあげる。囲んでいたウインドウ…砂嵐に変ると…次々に消えた。
ぐったりとする茜。顔中血だらけだった。駆け寄ったルミィが体を揺さ振る。

「茜!茜!」
「…」

人形のような睫毛…瞳からまた一筋の血が流れ落ちた。ルミィが手で顔をぬぐってやる。

「しっかりしろ!」
「大…丈夫…」
「何だったんだ…今のは…」
「…わ…か」

…わか…り…ません…でも…ワクチン…回路の…中に…。

「あとは…AIに…組み込むだけ…」

ウイルスを捕捉して…機敏に反応する…AIを探さなければ…。
ルミィに支えられながら体を起こすと…回路を再び駆動させた。
その途端、頭が割れるような痛み。

「ぐっ…う…」
「茜…!」
「AI…AIを…」

…ない。普段あれだけ周りにあるものが、肝心な時に見つからない。
セントラル周辺のシステムはもちろん、馴染みの軍の施設もみな汚染されてしまっている。
今から世界中を回って探している時間はない。手近な場所を手当たり次第に探っても、使えそうなモジュールさえなかった。
ここまできて…AIが…ないなんて。

「これも…自分でつくる…」

さっきと同じように。
だが回路の駆動率を上げた途端…頭の中に焼け火箸を突っ込まれたような激痛。
目の前が真っ赤になる。

「…あ…あっ…」

あまりの痛みに気絶さえできない。体が痙攣し…目や鼻から再び血が滴り落ちた。
もうあの世界までいけるかどうかわからない。いや…その前に恐らく…。
ルミィが肩を掴んで叫ぶ。

「もうやめろっ。死んでしまうぞ!」
「くう…」

痛みに頭を押さえる。うめき声。

「茜…もういい。もう…」
「…ここで…やめるわけには…」
「茜!」
「…」

頬を伝う血に涙が混じった。悔しかった。
ここまできて…ここまで…。

「私…」

負けたくない…まだ…。


あるさ。


「!」

誰?今の声は。
顔を上げたが…血で周りがよく見えない。

ある。思い出せ。

「浩…平…!」

ほら。あそこにあるじゃないか。

茜の頭の中にそれが伝わってきた。

「あ…」

そうだ。
あれが…まだ…残っていた。

「くっ…」

力を振り絞って接続…ダウンロード。
それからワクチンとリンクさせて…変換。

「…でき…た…」

茜は早速それをネットサーバーに入れた。自動送信にするとマトリックスで動きを見守る。

「お願い…どうか…」

データ群の中に入り込んで行くワクチン。

「お願…い…」

・
・
・
長かった。実はほんの一瞬の間。

「…!」

集団で脈動を続けていたマシンが…次々と停止した。マトリックスの中で消えて行く点滅群。
その範囲はどこまでも広がり続けた。止まることなく。

窓の外を見る茜。軍のシステムを通して多脚砲台にもリンクさせた…はず。
だが相変わらずビルを登り、レーザーを放つ。なかなか動きを止めようとしない。不安がよぎる。
まさか…また変異したのだろうか?


ガシャアアアアンッ

ビルの壁にへばりついていた一匹が落下した。その後は続けざまに…。

ガシャアアアッ
ズズゥゥゥウンッ
ドドドオォォォオオッ

「茜…やった…やったな!」
「…」
「茜!」

返事がない。慌てて胸に耳を当てるルミィ。

「いけない」

窓を叩き割ると、そこから茜を抱えて飛んだ。高層ビルを軽々と越える。
空から見たセントラル…一転して静まりかえった市街には、蜘蛛や装甲車が累々と横たわっていた。





「澪ちゃん…どこ?」

チカチカチカッ

真っ暗な部屋の中、電脳スケッチブックが光る。彼女は無事なようだ。

「良かった…でも…どこ?」

チカチカチカッ

「この辺りかなぁ…」

みさきは明滅する光を頼りに、倒れた棚や箱をどかしはじめた。そして…。

「あっ…澪ちゃん見っけ!」
『呼ばれて飛び出てジャジャジャジャ〜ン…なの』
「うふふ…掘り出すよ。澪ちゃん」

箱の下から慎重に引っ張り出す。それからにっこり。澪もみさきも顔が埃まみれ。
さっきの砲撃で部屋はむちゃくちゃになっていた。幸い天井は崩れなかったが、早く出た方が無難だ。
先に外の様子を見に行ったみさきが、大きな声を上げる。

「澪ちゃん澪ちゃん!」
『騒ぐと見つかるの』
「ほらほら…こっち来て見てごらんよぉっ」
『なの?』

アジトにしていたビルの近くまで来るようになったカニのお化け。
澪は蜘蛛だと主張したが、食い意地の張ったみさきはカニだと言って譲らなかったそれ。
入り口の側でその大きな体がひっくり返っていた。上から落ちてきたらしい。
向こうの方でも一匹…また一匹と落ちて行くのが見えた。ガシャアン…ガシャアアアン…ズズズゥゥウン…。
こっそりと外に出てきた二人。澪は頭にヘルメット代わりの鍋を被っている。手にはバット。
澪はそれで多脚砲台を突ついてみた。コンコン…。ぴくりとも動かない。

『きっと餓死したの』
「こっちが餓死しそうだったのにね」
『食べる量が多すぎるから食料が尽きちゃったの〜』
「無視無視…でも本当にどうしたのかなぁ」
『謎なの…』

街はかなり破壊されていたが…逃げのびた人々がまだいくらか残っていた。
彼らはみな不思議そうな顔で辺りを見回し…やがて喜びの声を上げ始めた。

「とりあえず…助かったみたいだね」
『なの〜♪』

万歳をする澪。微笑むみさき。

「もうセントラルへ戻っても…大丈夫かもね」
『そうするの』
「ねっ」



−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
29個目。


次回で終わりです。