第九話「ナックラー・ムーン」 公園の池で水鳥が数羽泳いでいるのが見える。 街路樹は葉を落とし、その上に灰色の空が広がっていた。 全て強化ガラスの向こうの風景だ。 特別製のベンツ、その後部座席で、由依はただぼんやりとそれらを眺めていた。 今日の午前は取締役会議。銀行から来た馬鹿どもの相手。 しかし本当は夜の方が憂うつだった。軍の連中と合わなければならない。またか。 うんざりしていた。どうして彼らは最近こんなにも積極的なのか。 軍が名倉の持っている力を欲しがっているのは間違いない。しかも内部に取り込もうとしている。 それもかなり急いで。うまく隠そうとしてはいるが、いったい何を企んでいるのだろう。 もっと情報を集める必要がある。不穏な動きはすべてキャッチしなければならない。そう。情報が全てだ。 だが今のところめぼしい話は手に入れていない。軍に預けている研究員たちからも。 聞いているのは軍再編の話ばかり。それがまた型にはまったようにどれも同じなので、彼女は気に入らなかった。 「…いったい何なのかな」 これまでも彼らとはうまくやってきた。さらにお互いの関係を深める。本来なら喜ばしいこと。 ただ気になる報告が最近上がっている。発注してくるものが偏りはじめているのだ。 装甲車輌用軽重量レーザー。特殊部隊用暗視カメラ。そして多脚砲台用照準。 どこかで戦局が開かれるという動きはまだ掴んでいないのだが。 由依は自分の前にあるパネル、その中のキーの一つを押した。 ディスプレイに秘書が現れる。 「お呼びですか?」 「今日の昼は会食が入っていたかしら?」 「はい。S社のY常務様です」 「それキャンセルして。昼から中御堂に行くわ」 「仰せの通りに」 久しぶりに顔が見たい。あの人の顔。静かで力強かったあの人の。 いつになったら彼女は目覚めてくれるのだろう。 大抵の人は何かが起こった時、ただ身をかがめて耐え忍ぶしかない。 耐えられなければ終わりだ。その時のために「私たち」がいるのではないか。 そうだ。間違いなく何かが起ころうとしている。人々は、私たちはどうすれば良いのか。 由依は今すぐ答えて欲しかった。彼女に。 中御堂に造られた尖塔。並んで立つ鏡張りのビル。その周りには森が広がる。 尖塔の地下にある巨大な伽藍は数万人が収容できる核シェルター。 ここが「月」の本部だった。 一言で言えば、「月」は宗教団体である。ただ別に信仰している神がいるわけではない。 その中心にいるのは、不思議な力を持った女性であった。 だが彼女は今…。 「事務局長は?」 「宗主様のお部屋です」 「ありがとう」 カツンカツンカツン…。 男は重装備の男達が厳重な警備体制をとっている部屋の前までやってきた。 戸口のところでノックをする。 「次官の中崎です」 「入りなさい」 中から女の声。 彼はドアを開け、お馴染みの部屋に入る。 広い部屋。天井は丸く、窓も大きかった。以前は机とソファが置かれていた部屋。今は中央にベッドが置かれている。 部屋の一方の端から何本かのパイプが、そのベッド…いやカプセルまで伸びていた。 常時待機している看護婦。まるで病室のような雰囲気だ。 そのカプセルの側で椅子に座っている女がいた。紫色の髪。淡い緑の瞳。 白いスーツ。胸の辺りには、教団の紋章である鹿と月が金の糸で刺繍されている。 それを身につけていることは彼女が一般の信者とは異なることを示していた。 「名倉様がお見えになられました」 「由依が?」 女は少し顔を上げると、またカプセルに目を戻した。 巳間晴香。それが女の名前。 宗主の強力なパートナーとして、教団を拡大、支えてきた女。 信者三万人を超える教団の布教/広報/財務など業務の全てを取り仕切っている。 彼女も宗主ほどではないが、不思議な力を使うことができる。そう言われていた。 「わかったわ。ここに来てもらって」 「承知しました」 さっきのジェットヘリの音。本社から飛んできたのか。 そうしているうちに由依が部屋に入ってきた。 晴香の顔が少し明るくなった。 「おひさですぅ。晴香さん」 「どうしたの?直接来るなんて珍しいじゃない」 「ちょっとですね…顔を見たくなったんですよ」 「私の?」 「うぷぷ…何言ってんですか晴香さん。ボケてきたんじゃないですかぁ?」 「あんたねえ…」 もちろんホントは晴香の顔も見に来たのだが、それは黙っていた。 「何か悩みとかあるんだったら安くしといてあげるわよ…この私がじきじきに占ってあげる」 「いえ(汗)…そういうわけじゃないんですけど…」 「胸を大きくしたい?それは駄目よ」 「…もっもういいですってばっ」 由依は苦笑しながらカプセルに近づくと、晴香の横で覗き込んだ。 「やっぱり…綺麗ですね」 「そうね…」 「息してるんですかぁ?」 「当たり前でしょっ」 「だってよく雑誌とかで見ますよぉ。教団の存続にかかる超ウルトラ極秘スクープ、実は置いてあるのは人形だって…痛っ!」 名倉インダストリーズの会長に拳骨をくらわした女は、にらみながら言った。 「あんたねえ。しまいにその窓から放り出すわよ」 「…イタタタッ…あいかわらず狂暴ですぅ。晴香さん」 「ふんっ」 晴香は少し表情を変えながら言った。 「そっちだって危ない話をよく聞くわよ。気をつけなさい」 「…ふふふっ…わかってますよ…」 心配してくれている。わかっている。 そうだ。 心配は生きている人、生きていて欲しい人にこそ向けられるべきものだ。 だが二人の前には生きているとも死んでいるとも言えない女性がいる。 「月」の宗主。彼女はずっと眠っているのだ。 あの日からずっと。 カプセルの中。 白い寝間着。輝く金色の髪。葉子。 彼女が目を開ければ、そこには深い青色の瞳があるはずだ。 だがそれは閉じられたまま。もう数年がたってしまった。 あの嵐の中に飛び込んでから彼女の意識が戻ることはなかった。 何故あの時彼女がデッキに触れていたのか誰にもわからない。 でも彼女がそれをしていたということは、それが必要なことだったからだ。 何の理由もなしに行動するような人ではない。決して。 誰かが彼女に助けを求めていたのかもしれない。そうだ。 絶対にそうしなければならない理由があったのだ。葉子さんには。 でも。そのために彼女は。 わかってはいるけれど。 葉子を見る晴香の目が寂しそうだった。 それに気がつかないふりをして由依は窓の側へと歩く。 「いい眺めですねぇ」 窓の外。教団の広大な敷地の中にはたくさんの木々が植えられている。 今は葉が落ちているが、夏には森のようになって野鳥がたくさんやってくる。 都会の真ん中にそんな場所をつくり維持していくには、非常に大きな意志と力が必要だ。 そのことを由依はよく知っていた。 「そう言えば郁未さんたち…元気でしょうか」 「わかんないわ。もうしばらく会ってないし」 空を見上げる。 「あっちの方に行ってるんですよね。家族みんなで」 「まったくあの連中…昔からやることがおかしいのよ」 あの夫婦がうまくやっているのは、どちらも変わっているからだ。そう晴香は思った。 「ところで…由依」 「何ですかぁ?晴香さん」 「『伯爵』から連絡がいったでしょ?」 「きましたよぉ」 「『箱』が手に入ったようね」 「襲われたみたいですけどねぇ」 「やっぱり軍かしら」 「そうでしょう。あの情報が外に流れたのは…」 由依ははっきりと言いきった。 「『ワッフル』からです。だから他には考えられません」 「そのことに『伯爵』は気づいているんでしょうね?」 「当然でしょう…あらかじめ予備の部隊を待機させてたぐらいですから」 「何か手を打つかしら?」 「打たないかもしれませんよぉ」 「何故?」 「彼女は『茜』と名乗っているそうですからね」 「あら…」 おやおや。彼女は首を振った。 どうして神様はこんな意地悪をするのだろう。 「じゃあその娘もあのメンバーの一人ってわけ?」 「恐らく…晴香さんは写真を見たんですか?」 「見たわ…見たけど…」 私も覚えてないもの。それに写真なんて…関係ない。 それにしても…お互いに知らないとは言え、いつのまにか集まっている…。 運命の不思議さ。いやこれもあの猫の仕業なのだろうか。 彼が思い出したら、さぞかし驚くでしょうね。 「とりあえず、待ってるしかない…か…」 「そうですね。次の連絡を待ちましょう」 「今のところできることは…それだけね」 晴香は静かに笑うと、またぼんやりとカプセルを眺める。 由依はそれを見ると悲しくなった。以前のこの人はもっと元気だったはずだ。いや私だって…。 郁未さんも葉子さんもいない。それが私たちにはこんなに寂しいことなのだ。 せめて郁未さんだけでも戻ってきてくれたら。もちろん本物の。 でも次に帰って来るのは…早くて2年後だと聞いている。 とにかくそれまでは私たちだけで何とかしなければならないのだ。 もう一度葉子の顔を眺めてから、由依は晴香に告げた。 努めて明るい声で。 「じゃあ失礼しますぅ」 「そう…帰るの」 「はい。でもまた来ますから」 「ええ。またね…」 べこりとお辞儀して出ていく。やがて聞こえてくるジェットヘリの飛び立つ音。 晴香はそれが遠ざかるのを窓からずっと見送っていた。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 9つ目です。 実はこの世界はMOON.の数年後…が舞台になっているのでした。