第八話「郁未・AI」 浩平はマトリックスの中にいる彼女にもう一度尋ねた。 「おまえが…『ikumi』だって?」 「そうよ。ikumi。名前を聞いたことは?」 「…ええと」 浩平はしばらく考え込んだ…が、そのうちふと思い出した。まだこの世界に入りはじめた頃の話。 同じテク仲間たちと、まだ覚えたての酒を飲みながら汚い部屋で馬鹿話ばかりしていた時代だ。 そこで聞いた話にあったような気がする。 「…第六感が使えると噂された…?」 「噂じゃないわ。本当のこと」 「馬鹿な!」 そんな馬鹿な話が信じられるものか。 ある男が『ikumi』と呼ばれるAIを開発した。彼は自分の妻の名前をAIに名づけた。それが『ikumi』。 そのAIがお天気や明日の競馬の勝ち馬を予想していただと? おまけに百発百中。 馬鹿な。だったらその男はとっくに億万長者、有名になっているはずさ。あれは都市伝説。フォークロアだ。 現在の最新のAIでさえ、推論をこなすにはかなりの技術が投入されている。 バイオチップに代表される生態テクノロジー。最先端のニューロ・アルゴリズム。 あの頃はまだそんなレベルではなかった。 「おまえがそのikumiだとして…いったいじゃあ何か予測でもできるのか?」 「明日のお天気よ」 「…何だよそれはっ」 「私はその辺の最新式と一緒にしないでね。旧式だし。それにどちらかというと人格コピーだから計算は苦手なのよ」 「…馬鹿げてる」 浩平はもうやめたくなった。こんなものを盗むために…。一回神経まで焼かれて…。 人生に絶望したあの日々はいったい…。 「もういい」 「何よそれ」 「後は任せる。おい茜」 ヘッド端末をとる。 「…はい」 「こいつの話を聞いてやってくれ。俺は酒飲んで寝る」 「…?」 「ちょっとちょっと…」 だが端末を外した浩平にはikumiの声は聞こえなかった。 とっとと明日スノウにこいつを渡して連中とはおさらばだ。うん。それがいい。 まあ茜やルミィと知り合えたからいいだろう。これからちょくちょく会って…そうだ。それで決まりだ。 「おやすみっ」 「浩平…」 とり残された茜が端末を手に取る。装着。 「…あの」 「ちょっと…あの馬鹿はいったい何なの?」 「すいません」 「!? …あなた…その声…あかね…茜ちゃんねっ!!」 「はっはい…」 茜は驚いた。この名前はまだこのAIには伝わっていない。何故わかるのだろう。 いやそもそも今回のRUNのために思いついた名前なのだ。 事前にどこかで使った覚えはないのだから。 「あなた…私のことを知ってる?」 「いえ…」 「…そう」 もし人が見れば、AIはうなだれているように見えただろう。実際女は肩を落としていた。 まさか感情まであるとは。かなり昔のもののはずなのに。本当にそのまま人格コピーをとったのだろうか。 だとしたらこのROMはかなりの容量を持っているはずだ。でも…あの時代にあの大きさで。 ただ最先端の軍事用なら…まだありえたかもしれない。少なくとも茜にはその知識があった。 しかし本当のところ茜は、また別の部分で不安を感じていた。 ikumiの映像を目にした時、心が掻きむしられるような気がしたからだ。 浩平がikumiを見た時には起こらなかった感情だった。ただ何故なのかがわからない。 そのことを尋ねようか躊躇していると、ikumiの方が先に口を開いた。 「とりあえず…このマトリックスを外に繋いでくれない?最近の情報を知りたい」 「それは…危険です」 茜は今までのことをかいつまんで説明した。依頼主のこと。今回のRUNのこと。 そしてルミィの怪我。今でも何者かに狙われていることまで。 「そう…わかったわ。でも大丈夫。私にまかせて」 茜はしぶしぶ回線を開いた。それからikumiはマトリックスのあちこちを調べていたが、そのうち急に声を上げた。 何かを見つけたようだ。手を格子に当てたように見える。そこからデータの取り出し口が開いた。 「!?」 「よかった…まだ無事なようね」 それは茜も知らないかなり昔に引かれた古い専用線のようだった。 だが彼女がそれに触ると、格子のいたるところが同じラインを示す色で一挙に取り囲まれた。 それは今まで茜がまったく見たこともないライン。裏の裏の裏。UGOFUGOFUG。 あちこちに思いもしなかったポイント。こんな大きなルートが周りに巡っていたとは。 「そんな…こんなルートが…」 「あら…まあ確かに古いけれど。もともとこれは先を見越して設置したラインだからね」 その内の一つに入り込む。茜についてこいと言っているので一緒に潜っていくと、情報の流れがほとんどない。 やはり使われていないのだ。たまに定期診断のデータが光りながらぽつんと走っていくのが見える。 「一緒に行きましょう。あの馬鹿よりあなたに先に見せてあげる」 「…それは?」 「とても素敵なもの。そして…とても残酷なもの」 「…?」 「俺を置いていく気か?」 「浩平…」 「あら…来たの?」 「当たり前だ」 ちなみに茜と浩平はマトリックス内で姿が表現されているわけではない。そこにあることをお互いに認識しあっているだけだ。 浩平は言った。 「ついでにあんたの擬似メモリーを俺のディスクに設置してきたよ。電源が落ちた途端『あなたは誰?』って言われたくないからな」 「まあ…ROM構造物のことがちゃんと分かってるじゃない」 ikumiは笑った。 「そうよ。もしさっきのままでリセットされたら、デッキのRAMを借りている今日の記憶は全部消えちゃうとこだったわ」 「困った姉さんだ」 「うふふ…でも体をもてあそんで別れるには…便利でしょ?」 「まあそうだが…って、あんたとそんなことができるかっ」 横で茜がきょとんとしている。まずい。この女のペースにすっかりハマッている。 「で?これからどこに行くんだ?」 「口で説明するより見たほうが早いわ。さっ行くわよ」 「おっおいおい…」 そこから彼らはそのルートを移動し始めた。かなりセントラルから離れた場所まで。それも上に。 そうだ。これは上に登っている。 まわりにデータ群をあまり見かけない場所まできて振り返る。 驚いた。この高さは。 他のデータ群が遥か下の方に見える。セントラルに林立するデータ群。 T社もL社もその無数の光の中に埋もれている。まるで高い山の上から見下ろした夜景のようだった。 そしてすぐ横。山の上に浮かんでいる巨大な白い立方体。その保有する莫大なデータ量を反映して、眩しく光り輝いている。 「ここは…。このデータの固まりは…!?」 「さあ中に入りましょう」 「ちょっちょっと待てっ!」 「どうしたの?」 「だっ…だってこれは…」 これは知っている。軍事用のシステムだ。この場所のマトリックス内での高さ。普通ここまで登ってこれるワイアードはいない。 何しろ途中に何重にも厳しいチェックポイントがある。この世界での高さは入り込む困難さを視覚化しているのだから。 にもかかわらず、あっさりこの女はここまで俺たちを引っ張り上げた。いったいこの女…。それにさっきのルート。 いつも下からしか眺められなかった軍事システムが、今目の前、手を触れられる場所にあるのだ。 浩平は胸が震えた。 「どうしたの?臆したの?」 「ばっ馬鹿言え…」 だが近づいた途端、白い立方体の表面に渦が巻きはじめた。黒い渦。メイルストローム。 こちらが側にいることを察知しているのだ。渦は不思議な模様を描いている。内側に虹色の層が透けてみえた。 心の中の警告に逆らって浩平がもう一歩近づいた時、そこから光の蛇がのたうちながらにじり出てきた。 あれにつかまったら終わり。脳波は水平になる。フラットラインだ。 「危ないっ浩平」 「…!」 だめだ早い。追いつかれる。逃げられない。 そこでikumiがすぐ横から蛇に腕を伸ばした。 浩平を追いかけようとした凶悪なウイルスは、ikumiの腕に絡まる。 「あっ」 「ikumiさん!」 だが驚いたことに女は平気だった。おまけに蛇の色が変わりはじめる。 相手のウイルスを逆用して侵入用に変換したのだ。これなら立方体は侵入者と判断しないだろう。 同じ事をさらに二回繰り返して蛇を二つつくると、彼女はそれを浩平たちに渡した。 茜がびくっとする。 「大丈夫。心配しないで」 「馬鹿な…そんな…」 「さあこの蛇を使って入るわよ。二人とも私の後に続いて」 驚いた。さっき自分たちがT社でしてきたRUNは何だったのか。 ikumiはいともたやすくこの世界で最高の軍事システムに没入していく。 幾重にも重なる侵入対抗プログラムの層。この壁を破るに必要なパターン…T社の比ではない。 だが今確かに自分たちは蛇を手にするだけでその中へと入っているのだ。 「馬鹿な…そんな馬鹿な」 「…こんなことが…」 ikumiが笑った。いや顔は見えないが笑っているのがわかる。 「想念の支配するこの世界で」 軽やかに声が響く。 「あなたたちの考える壁などに何の意味があるの?」 色鮮やかな虹色のトンネルを抜けていく三人。浩平はただ驚いていた。 こんな体験は…たぶん二度とできないだろう。茜もそう思っているようだ。 ただ呆然と、本来なら恐ろしいはずの、各層のプログラム毎に色が変わっていく天井を眺めながら進んでいく。 彼女が涙を流している…そんな気がした。ああわかるよ。 俺も頬が濡れているから。 そしてたどり着いた中心部。部屋の中央には青く輝く球体が高速で回転していた。 見ていると球体のあちらこちらで細かいプロミネンスが飛んではまた球体に戻っていく。 これが軍事システムの中心。生まれたばかりの青い恒星のようだ。 「これは…あなたたちには無理」 ikumiはそう言うと、その太陽に右手を突っ込んだ。 「んっ!」 取り出した右手が燃えている。表面が焼けただれているようだ。 「…大丈夫ですか」 「久しぶりなのに不用心だったわね。ここはいろいろ改良しているみたい。当たり前よね。でも平気。ほらっ」 右手はしっかりとあるものを掴んでいる。何か…獣に似ていた。赤い色。 何やらうごめいている…がよく見ると耳やしっぽがついているようだ。 「まだ飼われてたみたいね。この猫ちゃん」 そうだ。ikumiが掴んでいるもの。それはどう見ても猫だった。 「これは『魔法猫』の使っていた八つの強力なウイルスの一つ。『赤』」 「ま…ほう…猫? 赤?」 「覚えてないの?茜ちゃんは?」 「…いいえ」 ikumiは肩をすくめると、あきれたように言った。 「あらっ…それじゃやっぱり…スノウから何も聞いてなかったのね」 「明日あの女のところに、あんたを持っていくつもりだった」 「そうなの…。道理でね。おまけに二人とも全部忘れてるって感じだし」 「!」 まただ。忘れてるとは。 そう言えば浩平という名前を知っていたようだったし。 いったいどういうことだ。俺たちの知らない過去をなぜ彼女が知っている? 浩平はikumiをじっと見つめた。気のせいかどこか悲しそうな顔をしている。 「忘れて…る?」 「しょうがないわ。じゃあこいつは返して…と」 ikumiは赤猫を球体に放り込むと、今度は慎重に手を突っ込む。 しばらくしてから何か四角い箱を取り出してきた。 「さあ帰りましょう」 再び蛇を使ってシステムの外に出ると、彼女は二人に向かってこう言った。 「…いいわ。あなたたちに私が知っていることを全部話してあげる。ただし…」 ikumiはマトリックスの空、もうここから上には何も存在しない虚空を見上げた。 「…私が話せるのは全てがシャットダウンする直前。最後のRUNの前のバックアップまで」 そう。そこまでしか記憶がないの。女は悲しそうにつぶやく。 「そこから先のデータは全部…闇の向こうに消えてしまったから」 「闇の向こう…」 「とりあえず長くなるから、一回抜けてきなさい」 浩平と茜は一旦マトリックスを抜けてから、念のためにホテルの部屋の中をチェックした。 それから外部との回線を閉じ、休憩もそこそこに再度マトリックスに入る。 ikumiは持って帰った四角い箱、データの束を手に待っていた。 そして彼女の話が始まった。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 8つ目。 明日は朝早くから出張だというのに…何してるんだ自分。 おまけにちょっと長くなりました。 それに当初の予定ではここからのikumiの話で始まるはずだったのに(汗) 感想書いてくださったみなさんありがとうございました。 今回感想書けてません。ごめんなさい。すいません。