第六話「コード・ワッフル」 高原を吹き渡る風が、すぐ向こうにそびえる山脈から雲を運んできた。 まもなく雨が降るのだろう。生い茂る草の上を湿気を含んだ風が渡っていく。 きっともうすぐ雷も起こるだろう。ここは雷が多い。こんなところにあれをつくるなんて。 天然の電波要害。いくら何でもやりすぎだ、と彼女は思った。 さあそろそろ散歩の時間は終わり。研究棟に戻らないと。 「…ミュー。戻ります」 「ププゥッ」 茶色の細い体の動物。合成スピーカーの鳴き声。淡い緑色の目が光っている。どうやらロボットのようだ。 女が歩くとその後ろを走ってついていく…が、ところどころで興味のあるものに鼻を摺り寄せる。 その度に主人から叱られていた。この寄り道が本当に自発的なものだとするとかなり上等のAIだ。 黒い雲。雨。雷。 雷鳴が遠く近くで繰り返し聞こえる。 ここでは珍しくない。すっかり慣れてしまった。逆に晴れたりすると落着かない。 ただ初めて来た時から既に、この悪天候の多さにすんなり馴染んでいたと周囲には言われている。彼女は。 暗い部屋で目を光らせたミューが横をうろついている。ごちゃごちゃと書類や光ファイバー、ROMが散乱した部屋。 一心不乱に彼女はメインフレームの端末を叩く。すぐ横にはサイバーデッキ。部屋の灯りを点けることも忘れてるのだ。 彼女以外には数人の職員しかいないこの建物。表向きはある企業の研究施設ということになっていた。 だがその実体は…軍の電子要塞。ネットにおける防衛ラインの最前線だった。 ディスプレイの光だけが彼女の人形のような顔を照らしている。長い睫毛。青い瞳に操作している画面が映り込んでいる。 栗色の髪は長くウエーブがかかっていた。 「…これはまた新しいウイルス。誰がつくったのでしょう」 とても嬉しそうだった。 そう。彼女は今日も新しいAIウイルスとその解析を続けている。そしてワクチンプログラムの生成。 さらにそこから新たに使える形に応用して新しいウイルス兵器の開発。 だが彼女にとっては何も難しいことではない。いつもの作業、仕事だった。 といっても、いつもこの建物の中だけで仕事をしているわけではない。 時々野外研究、未知ウイルスの収集と称して、ネットを通じて飛び出していくのだ。 実際、外の世界ではそれまで蓄積してきたものが予想以上に役に立った。 ただし一つ間違えば新しいウイルスが外に漏れ出してしまうので、慎重に行動しなければならない。 取り扱いに注意が必要なことはバイオウイルスと同じなのだから。 だからあまり周囲も良い顔はしていない。それでもある程度の自由がきくのは、彼女の力ゆえである。 国中から卓越した才能が集められたこの施設の中で、二十歳そこそこで既に主任研究員。天才と言えた。 もともとキーボードの類に触り始めるのは遅かったし、そういう仕事に適正があるとは夢にも思わなかった。 しかし彼女が何より知られているのは、この建物の中でよりも外においてであった。 『コード・ワッフル』。それが意味するもの。 強力な侵入プログラム。新種の迎撃ウイルスやワクチンを備えた、無敵の電脳ウイザード。 もし他のワイアードが直接相手をしようとしても、ヘッド端末からの高電流バックロードで神経を焼き切られる。 フィードバック・ロックが間に合わない。恐ろしいまでの速さと容赦のない攻撃。 彼女が通ったところにたまたま仕掛けられたウイルスは速やかに除去され、もしくは採取された。 後にはプログラムデータの残骸が残るだけだ。 そのうち誰もが、彼女が通り過ぎるのをただおとなしく待つようになっていた。 ただしその特徴を見分けられるようになるまで、かなり高い授業料を払う必要があったが。 彼女が作業を中断する。 「ミュー…デッキに乗ってはだめです」 ミューはすぐに降りる。甘えているのだろうか。そういう感覚まで存在しているのかもしれない。 実はこのAIは彼女が開発したものだ。 以前見つけたAIウイルスの行動パターンが可愛かったので、それを改良してソフトとして組み込んだのだ。 ある意味とんでもないことをする女であった。 「お腹がすいたのですか?」 「ププゥ」 言語パターンで彼女には意味がわかる様になっている。簡単なYES/NOから、私/あなた/など。 女は部屋の隅に置いてあるバッテリーコードを手に取る。すぐにミューが走ってきた。 タタタタタッ コードの端子をミューの口の中に差してやる。目が点滅している。放っておけば自分で勝手に食べたりもする。 長いしっぽを振っている。嬉しいという感情を見せているのだ。 彼女にとっては意味があるが、ロボットにとっては意味がない、そういう行動パターンの数々。 しかしそれでも時々予想外の行動とることがあった。さっきデッキに乗ったような…それは不思議なことだった。 だから彼についてのレポートを出し、餌(?)代を研究費で落としたりすることができる。 彼女は机に戻ると、デッキのヘッド端末をつけた。 「…そろそろネットに出ることにしましょう」 自分で作成した侵入プログラム。もちろん今日も厳選された数種類の迎撃ウイルス付だ。 「…いきます」 だがそれは新たな邪魔によって中断された。 「!?」 緊急回線での指令。識別レッドで点滅。特Sランク暗号化通信。 全ての処理が処理中止。ウインドウに現れたメッセージ。 『某日某時某分をもって以下の命令を遂行のこと』 彼女はそれを読むと、指定の時間を確認した。明日の早朝ではないか。 外に出て迎えの車にのり、その後はリーダーの指示に従うこと。最高レベルの侵入装備を持っていけとある。 期間は…1ヶ月。こんなに長く外に出られるのか。 正直この仕事が好きだからいるものの、こんな人里離れた場所で働くのは嫌だった。 大好きな甘いお菓子もろくに手に入らない。 高原の真ん中の施設。その外側のかなり距離を置いて高圧電流が流れた柵がぐるりと囲んでいる。何重にも。 こんなところで焼き立てのワッフルが手に入るはずなどなかった。 「普通の町中だと…いいんですけど」 また砂漠の真ん中とかはいやだ。あれは昨年のミッションだった。トイレもない。 もちろん自分は一応軍に所属してはいるし、一通り訓練も受けたが、あまりああいう場所は得意ではなかった。 それでも彼女を連れてきてくれという依頼は結構あるみたいだ。 もっともそれが彼女の仕事を評価してのことか、それとも別の意味があるのかは、あまり考えないようにしていた。 どこの組織にもある問題と言える。 「?」 彼女の目が最後の指令のところで止まった。 『逐一情報を下記のルートに報告のこと。ただし他のメンバーに一切悟られてはならない』 これは…!?。 次の日。まだ日が昇りきらない時間にゲートまで施設の車で送ってもらう。久しぶりにくぐるゲート。 そこで待っている車。普通の乗用車。ただ何か、うさんくさい装備がたくさん付いているようだ。 彼女の腕につけた電子走査ベルトにはたくさんの反応があった。 車の横で待っていたのは軽そうな若い男と、青い髪のやはり若い女。 「…私は」 「ああ知っている。『コード・ワッフル』だろ。よろしくな」 「?」 彼女は自分が外の世界でどう呼ばれているか、まったく知らなかった。 もちろん『コード・ワッフル』の名は聞いたことがある。だがそれが自分だとは思わなかった。 いやそれよりこの連中。軍隊には見えない。 「あなたたちは民間人ですか?」 「そうだ」 「そう」 男が手を差し出した。彼女はこわごわ握手をする。 「浩平だ」 「ルミィよ」 「…よろしく」 「まさかこんな可愛い女の子が『ワッフル』だとはなあ」 「確かに」 「…そうですか」 やはりそう見られてしまう。だが落ち込む彼女に気がつかないで浩平は喜んでいた。 もちろん写真は端末で見てはいたが、まさか実物がこんなに綺麗だとは思わなかった。 実はギスギスした眼鏡の女を想像していたのだから。 うん。悪くない。俺にもやっと運が回ってきたぞ。 しかし一方で頭の中の冷めた部分が考えた。 あの『ワッフル』が軍にいたとは…。またそれを知っていて呼ぶことができるとは。 「王」と軍部。かなり深くつながっているということか。氷上の力はいったい。 しかも強力なウイザードを投入する今回のRUN。一筋縄ではいかない、かなり厳しいものであることを示している。 これはかなり危ないものだ。 だがそれはまだここに来るまでも、ずっと考えていたことではないか。 まだ他に何か心を不安にする要因がある。さっきから急に。何だろう。 浩平は今日彼女に会って、新たに何か記憶の底から湧き上ってくるものを感じていた。 あの時の、VR屋での繭の寝言を聞いた時と同じ。以前にこの女と会ったことがあるというのか。 しかしただでさえ軍の中にいて、おまけに彼女は特別。経歴が一切事前にわからなかった。 これはそのうち本人に直接聞いてみるしかないだろう。過去に接点があったのかどうか。 「浩平?」 「あ?…ああすまん。行こうか」 彼は運転。ルミィは助手席。 彼女は後部座席に乗り込んだ。 車が広い草原の中の一本道を走り出す。 もう研究棟はとっくに見えなかったが、まだ向こうの山脈は見えていた。 それをずっと眺めながら考える。ミュー。連れてくれば良かった。装備でも何とでも言って。 その時鞄の中でごそごそと動くものがあった。 「!」 中から顔を出すそれ。いつのまにか紛れ込んでいたらしい。 「ミュー…ついてきたのですか…」 「何だそれは?」 「電脳ペットです」 「ふうん。可愛いじゃないか」 「…はい」 彼女は憂うつな気分が少し晴れたような気がした。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 6つ目。やっと彼女を登場させました。 専門家の方は突っ込まないでください。むちゃくちゃ書いてます。 では感想です。 >いけだものさん 浩平ご苦労様でしたね。実は僕のSSより大変かも(笑) まあみさきさんは雪ちゃんには勝てないでしょう。 しかし借金踏倒し。面白いのでシリーズにしてほしいです。 >KOHさん 詩子お嬢様(笑)もっとこのネタで書いて欲しいです。確かに彼女頭が良さそうですよね。 瑞穂様もいいです。新しいものも読みたいですが、いつかこの続きお願いします。 >秀さん みさきさん…確かによくうえぶばななで浩平食べてましたけど(笑) まあ詩子に知られた時点であの計画は終わったと。合掌。