第一話「ナカサキ・シティ」 アーケードのない商店街の空は、絵に描いたような茜色だった。 浩平は人込みを押し分けて裏道に入ると「MOON.」のドアを開けた。 『いらっしゃいなの』 カウンターの横に置いてあるスケッチブックに描かれた文字が目に飛び込んでくる。 小さい女が何も言わずにビールを注ぐと、彼の前に置いた。 リボンをつけた彼女は、何度足を運んだ浩平から見ても、この店には不釣り合いだ。 おまけに背の低さを補うためにカウンターの内側を高くしてあったりする。 何かのカムフラージュかもしれない。ある意味不思議な店だった。 『不景気なツラなの』 「大きなお世話だ」 チカチカチカッ 電脳スケッチブックは澪の思考を受けて字を表示する。フレームに刻まれた「NUCKLER」のロゴ。 ナックラー。名倉インダストリーズ。もうかなり昔の製品で、たまに文字が化けたりする。 もっともそれが面白くてそのままにしてあるようだが。 『さっき、パーツ屋さんが来てたの〜の〜』 「飯を食いにだろ…いつものことさ」 そうだ。みさき大人がここで飯を食うのは珍しいことではない。 もちろんここは一応バー…のはずだ。おまけに周りに飛び交っている、会話の単語の偏り。 マシンドラッグ、サイコエイリアス、ホログラムセックス、ミツミシ、ボウシバ、ナックラー。 この店に集まるのは特殊な連中だけだ。まともな人間なら酒も飲みに来ないだろう。 そんな店に飯だけ食いに来るのはみさきさんぐらいだ。マイクロマシンと一緒にドラッグカレーをかきこむ女。 1杯で20杯分と同じ満足感が味わえる…らしい。異常な食欲と消化体質。 あれさえなければいい女なのだが。 『浩平を探してたの』 「へえ」 俺に何の用だ?浩平はいぶかしんだ。今の彼はただのゴミでしかない。 用があるとしても、危ない連中の危ない話のそのまた使いっ走りぐらいだろう。 だがそれでも選り好みしている余裕はなかった。そろそろ新円が底をつきかけていたのだから。 浩平はかつて「王」で有名なワイアードだった。だが、つまらないことでボスの反感を買い「処刑」されたのだ。 あの世界での「処刑」、すなわち二度とあの空間に出入りできない体にされたということだ。 「つまらないこと」とは、「葉っぱ」側のスパイがたまたま知り合いだったこと。 そして逃走するのに少しだけアクセスポイントを操作して助けてやったこと。そういうことだ。 だが事態は、男の「物理的な」死と浩平の「処刑」という幕切れであっさりと終わった。 まあ、あそこではよくある話だ。今では死んだ男の名前もうろ覚えだ。確か氷上…いや…もうどうでもいいことか。 とにかく早くあの世界、「マトリックス」に戻ること。それだけが浩平の願いであり、望みだった。 そのためにこの町にいるのだ。「T社」のお膝元。ニッポンバシのもっとも危険な場所よりも危ないこの町に。 この場所なら、自分を直してくれる方法があるはずと、すがりつくような気持ちでやってきたのだ。 だがあれから2ヶ月。浩平を診たどの専門家も首を横に振るだけだった。 あの連中が施した処置は静か…だが確実に浩平の能力を奪い、あの空間に入ろうとしただけで吐き気を催す。 闇クリニックの診療費用で、山の様にあった新円の札束はあっという間に消えていった。 泊る場所も最初は「ネオ・ハンキュウ」と豪勢だったのが、今では「アジアカプセル」になってしまった。 『貧乏なの〜なの〜』 「うるさい」 スケッチブックはカラフルな電飾を撒き散らしながら、浩平に向かって字を浴びせ続ける。 そうだ。確かに次の仕事をそろそろ見つけないとまずい。それにスミイの機嫌を損ねているのも憂鬱な原因だった。 横流しの金を上乗せしているのがばれているようだ。このままではいつか殺られるだろう。 『臓器屋に売られちゃうの』 「わかったわかった…じゃあな、澪」 浩平は外に出るとそのまま裏道を抜けて、ごちゃごちゃと建て込んだ狭い道に入っていった。 両側に並ぶ店から光ファイバーやらコードやら、ボード、デッキの類が道にはみ出ている。 もちろん取り締まりもくそもない。だいたいどれが商品でゴミか一見判別するのは難しかった。 だが知っている者にとっては、目指すブツを売っている店がちゃんとわかっている。 どれだけそのネットワークを持っているかが鍵だ。もちろんここでも知りすぎるとろくなことはない。 角を何回か曲がって、並んでいる建物が一層込み合った辺りまで来ると、一件の店の暖簾をくぐる。 シムデッキ、カートリッジ、メタボード。店の前と違って綺麗に片づけられたショーケースに並んだ品々。 ついている証明書はどこまで本当か怪しいものだが、浩平はしばらくそれらを眺めるフリをして待つ。 やがて綺麗な声が天井から響いてきた。 「うん。何も怪しいモノは持ってないね。入っていいよぉ」 「チェックOKか」 ドシッ 店の奥、侵入者をミンチにする偽ドアの横、木彫りの壁から磁気ボルトが外れる音がした。 木彫りを押すと内側にすべって、ぽっかりと暗い穴が開いた。中に入ると背後で閉まる。 灯りがぼんやりと点ると、中央に置かれた大きな椅子に足を組んで座る一人の女。 青いチャイナのスリットは太股のかなり上まで切れており、下着をつけていないことがわかる。 長い黒髪。瞳は深い藍色。人工的につくられた瞳孔の周りには、金色で書かれたナイコンの文字…があるはずだ。 前にベッドで見たのはいつだったか。 「うふふ。澪ちゃんに聞いたんだね」 「飯は食ったみたいだな」 みさきは静かに立つと、ゆっくりと近づき、浩平の首に腕を回してきた。唇を重ねると激しく舌を入れてくる。 細い腰を抱きしめると、柔らかい豊かな胸の感触。これは本物のはずだった、確か。 浩平は固くなるのがわかった。 「お願いがあるんだよ…浩平君」 「やばいお願いか?」 「でもその前に…久しぶりに…どう?」 「それは特別料金だな」 「もう…意地悪だよぉ。浩平君」 「で、用件は?」 「ううっムードがないよ…」 みさきは膨れると、椅子に戻って座った。足を組む時に黒い翳りが見えたが、わざとかどうかはわからない。 もともと目が見えなかった彼女は、昔からそういったところに神経が届かないのだから。 「下半身は素直なのにっ」 「そりゃそうさ(笑)…で?」 「会って欲しい人がいるんだよぉ」 「人…?」 「その人に会えば依頼内容が分かるんだよ」 「いつから中身のわからない斡旋までやるようになったんだ?」 「だって浩平君しか思いつかなかったんだ…暇でお金がなくて何でもやってくれる人はね」 「ずいぶんな言い方だな」 浩平は苦笑した。まあこういう類は初めてじゃない。それに彼女の言葉はまったく当たっている。 今の彼はとにかく何にでも手を出していた。その割に緊張感が欠けた投げやりな動きかた。 こいつに関わると危ないという噂が広まっている。だんだん依頼主が減っている。 もうほとんど破滅へと急降下しはじめていた。それはわかっていた。 「これをあげるよ」 みさきは磨かれた黒檀のテーブルからマッチを取ると、浩平に向かって投げてよこした。 マッチにはドラッグルーム「ふぇれっと」と書かれている。場所はセントラル劇場の前。 「そこでその人が待ってるよぉ」 「向こうは俺を知っている…と」 これは…いつもと違う雰囲気だな。 浩平の勘は確実に警笛を鳴らしているわけではない。 が、そういったあやふやなケースが実は一番危険だということを彼は知っていた。 一旦ドアに向かいかけたが、引き返してみさきに近づく。 「こう…へい…君?」 「やっぱり…休んでいこうかな…」 「ふうん…何か聞きだそうっていうんだね」 「ばれたか」 「いいよ…それに…うふふ」 みさきは隣の部屋、金箔で縁取りした赤い豪華なベッド、その真上に最新の追尾レーザーを備えた寝室へと先に歩く。 チャイナを肩から脱ぎながら。そしてベッドに着く頃には生まれたままの姿。 「運動すれば、また食べられるから…ね」 それから彼は、腰が立たなくなるまで相手をさせられた。後ろから前から、もう嫌というほど。 みさきの綺麗で張りのある乳房。白い背中と尻。薬漬けの熱い肉の中はどろどろして。 食欲は肉欲につながっているのだろうか。彼女は激しく底無しだった。ありったけ吸い取られた。 でも途中で逃げ出すことはできない。そんなことをすればレーザーに蒸し焼きにされるだろう。 だからあまり来ないようにしているのに。 「うふふ」 「やれやれ…」 満足して寝返りをうつみさきを残して店を出る。もう外はすっかり暗くなっていた。 「まだ待ってるのかな。その相手と言うのは」 ベッドで聞いた話だと、どうやら依頼主は女…らしい。しかも金持ちだという。 もしまだいるなら、彼とみさきの関係をよく知ってる人間ということになる。 浩平はとりあえずソネザキに向かって歩き出した。もちろんメトロに乗る金など持ってはいなかったから。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 不快に思う人もいると思うのでそのうち消します。 >偽善者Zさん 番外編もすごく面白かったし、始まった三部もすごいですね。 まったくテンションが落ちてないことに驚きます。尊敬です。 でもSS農場の雰囲気も好き(笑)行ってみたい。 最初「かんそう」と読んで「乾草」とか考えてしまった(笑) すいません。かんそうこれだけです。