銀の記憶 投稿者: 沢村奈唯美
 ドアの前でぼくは立ち尽くす。
 真鍮で出来たその丸いノブに手を触れるのにはいつも、勇気が必要だった。ノブの丸みに映るぼくの顔が歪んで幅広になっているのを見てまた、あの草むらの中へ帰りたくなってしまう。
 ここが今のぼくの部屋だ。ぼくの部屋になった。この家に初めて連れてこられた日、テレビのある部屋で少しくつろがされた後、由起子さんはぼくを連れ、階段を上がってこのドアの前へ連れてきた。テレビでは戦隊ヒーロー物の新番組がやっていて、見るのが辛くてずっと俯いていたのを覚えている。みさおが死んでから、そのシリーズを見ていなかった。みさおが居た頃は、よくカラテブラックの真似をして真空飛び膝蹴りをみさおに食らわせた。
ドアの前で由起子さんが言った。
「ここが浩平くんの部屋」
 側に立つ由起子さんからはストッキングとスカートの生地の匂いがする。
 先刻居間で、由起子さんは、自分の事を名前で呼ぶようにとぼくに注意した。
「アタシは由起子。漢字はこう」下の絨毯が透けるガラステーブルの上に、キャビネットの上に載っていたメモ用紙の束から一枚を引きちぎって置き、その上にボールペンで文字を書く。インクの出の悪いボールペンは紙の上に短い破線の結合で文字を作っていく。
 紙を指先で回しぼくの方へ向け、由起子さんは静かに繰り返す。
「由起子だから」
 おばさん、と呼ばれるのが嫌だったのよ、と後になって由起子さんはぼくに打ち明けた。本当にそういう事だったのかどうかまではまだ訊いていない。
 ぼくは由起子さんの横で突っ立ってドアのノブを見ている。真鍮のノブは黄金色に光って、ぼくの顔を歪めて映す。
 由起子さんがノブを握って回した。そのままドアを前に押し開けると、そこにぼくの部屋が用意されている。日のあまり当たらない廊下とは違って、その部屋はとても明るかった。部屋の中は赤、オレンジに近い赤に染まっていたと思う。開いたドアの真正面の窓に見えていた夕焼けの所為かもしれない。
 ベッドと机が置いてあった。机の上に学校の教科書が並んでいた。本棚を買ったのは、もっと後になってからの事だ。机の左に置いてあるサイドテーブルやその上のCDラックその下のコンポと言ったものはまだ、この頃には部屋の中になかった。至ってシンプルだ。複雑なものがない。
 中に入ろうとしないぼくの肩を押しながら、由起子さんは部屋へ入る。由起子さんに押されてぼくも足を進める。入る前、「どうぞ」と由起子さんが言った気がした。
 ぼくはぼくの部屋に入る。夕焼けの中に立ったというイメージが記憶の中にはある。実際に部屋が赤く染まっていたかどうかは自信がないのだが、自分が溶けていくような気がして、顔が少し、笑った。
 由起子さんはベッドの縁に腰を下ろして、目の前で立って窓の外を見ているぼくを横から眺めている。
 えいえんだと思う。これがえいえんなんだと思う。それは何もない暗闇とは違う。何も見えない暗闇ではなくて、周りの景色に自分が溶けてしまう感覚の中に、えいえんがあるのだ。
 けれど、やがて日は落ちてえいえんが終わってしまった。トワイライトと言うんだと、もっと大きくなってからぼくは知った。特別な魔法が作用する時間なのだ。冷めてしまった景色を残念に思って、ぼくは由起子さんの方を向く。その時にはもう、えいえんの感覚がなくなってしまっていた。なくなってしまった事にぼくは、深い落胆を覚える。
「気に入ってくれたかな?」まだ少し硬い、緊張した微笑みを見せて由起子さんは自分の長い髪を撫でる。
 ぼくは小さく頷く。頷けば由起子さんが喜ぶと思った。
「ご飯」由起子さんは俯きがちの顔から、ぼくの目をのぞき込む。いつも首の後ろで纏めている髪の毛を下ろすと半分くらい隠れてしまう目は細くて、そして、よく見せるそんな仕草はぼくを尋問しているようで、あまり好きじゃなかった。「食べに行こうか?」この人の笑い方を見て、どこか無理してると、ぼくはいつもそう思う。
 ぼくがまた頷くと、由起子さんはベッドから立ち上がって、ぼくの手を取った。
 手を繋いで、ふたりは部屋から出ていく。由起子さんが繋がない方の手でドアを閉めた。
 そしてまたぼくは、ぼくの部屋のドアの前で立ち尽くしている。
 ぼくの顔がノブの表面で歪んでいる。
 瞼を閉じてぼくは息を止める。息を止めて、脇に垂らした手を持ち上げていく。
 ドアノブは冷たかった。その冷たさが、ぼくが今、ここに居る事を教えてしまう。ぼくはここに居る。まだ、こんな所に居る。
 ぼくはノブを回す。回してドアを押す。
 誰もいない。
 ぼくの部屋には誰もいない。
 この部屋がぼくの部屋だという事に、ぼくはまだ慣れない。前の家に居た頃は、ひとつの部屋にぼくとみさおが居て、部屋の所有権を巡って小さな諍いを繰り返していた。争いのない日々は平穏だけれど、今この部屋をぼくが所有しているという感覚は、ぼくにはない。
 窓の下まで、真っ直ぐ歩く。勉強机とベッドとの間のその壁が、この部屋でのぼくの居場所だ。この部屋ではぼくは大抵そこで膝を伸ばして座り込み、少し開いた脚の間を見ていた。尻が痛くなったら膝を抱えた。泣く場所はいつもそこだった。みさおの事を思い出してぼくは泣いた。みさおに優しくなかったぼくの事を思い出して泣いた。泣いている間はみさおの事を覚えていられる。眠くなって漸く、ベッドの上に登った。
 窓ガラスに何かがぶつかる音がする。
 最初はそれがなんの音だか分からなかった。どこで鳴っているのかも分からなかった。外から窓ガラスに何かをぶつけられた音とは分からないで、部屋の壁が割れたのかと思って顔を上げる。間隔を置いて続くその音に注意して漸く、それが自分の頭の上から聞こえるのだと分かった。
 ぼくは泣くのを止める。立ち上がって出窓の枠に身を乗り出して、窓を開ける。
 何か硬いものがぼくの頬にぶつかって痛くて、声を上げる。
「あ、ごめん……」下から声がした。
「何すんだよっ」ぼくは怒る。
 長森だった。名前しか知らない。この間、由起子さんから紹介された。
   …………長森瑞佳ちゃん。確か同い年だから、宜しくしてね。
「遊ぼうと思って。ずっと…………」
 無言で見つめるぼくに少し、長森はたじろぐ。
「……出てこないから」
 ぼくは何も言わない。ぼくを見上げる長森の頭の両脇から、黄色いリボンが垂れている。
 長森はぼくを見上げたままでいる。
「勝手じゃん、そんなの」口に出す。
「勝手じゃないもんっ。由起子さん、遊んでいいって言ったもんっ」
 噛み合わない会話に苛立ってぼくは怒鳴る。
「じゃなくてっ」
 驚いて長森は目を見張る。後ろに反らせた頭の所為で、脇のリボンが震えたのが見えた。
「遊ぼ」
 ぼくは無言で窓を閉める。鍵を閉めた。
 そしてまた窓の下で脚を伸ばして壁に背を凭れる。
 少しだけ経って、また、頭の上で先刻の音がした。ぶつけているのは多分小石なのだと、やっとぼくは気が付く。
 長森は小石を投げるのを止めない。道ばたから石を拾う間を空けながらその音はずっと続いていく。
 ぼくは再び立ち上がり、小石のぶつかる窓を見た。ぼくが窓に顔を出したのを見ると、長森は石を投げつけようとした手を下ろして、ぼくの顔を見つめた。ぼくは鍵を下ろして窓を再び開ける。
 長森を再び見下ろす。
 ぼくの事を長森は見上げている。
「うるさい」ぼくは言う。
「そっちが無視するからじゃんよ」長森が怒る。「また今度窓閉めたら、開けるまでまたずっと石投げるかんね」
 ぼくは窓を閉める。また鍵を掛けて、長森の目の前で文句を言う為に部屋を出た。開け放しのドアからは、長森が投げる小石が窓ガラスに当たる音が聞こえてくる。
 玄関を出て門扉を開けると、その少し左の所に長森は居て、ぼくの部屋の窓に向けてまだ石をなげつけていた。
「おい」ぼくは声を大きくする。引っかけた靴の踵を踏みながら長森に近づく。「割れたらどーすんだよっ」
 あ。長森はぼくを見つけて明るい表情を見せる。「出てきた」
 ぼくは長森を睨んだ。迷惑、そういう意味を含んでいる。
 そんなぼくの視線を気にも掛けずにに長森はぼくに、最初度を開けた時に言った言葉をもう一度繰り返す。
「遊ぼ」
 長森は嬉しそうに笑った。
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>よもすえさん
(ありえないよの)1月31日
 テンポよく進む文章のリズムと、小道具の使い方が素敵です。
 こういう作品、好きだなぁ 笑

http://www.0462.ne.jp/users/nayurin/index.html