cry 投稿者: 沢村奈唯美
 階段を上がる。
 足下だけを見ながら、一段ずつ上がる。
 段を踏む度に音がする。
ぼくの足音がする。
 病院の階段はクリーム色の砂目をしていて、滑り止めは緑色のゴムをしている。一段が酷く高い。少なくとも、あの頃のぼくには酷く高い階段だった。
一段登る度に、左側の壁に取り付けられて階段の傾斜と同じ角度で上へと這っていく物干し竿のような形の赤い手すり掴み直し腕力で体を引き上げながら、ぼくは、みさおの部屋を目指す。登っていく正面、踊り場の壁の高い所には、この下は何階、この上は何階、という事を示すプレートが付いていて、そのプレートは暗くてもよく見える様に、裏から電気で照らされるようになっている。踊り場を折り返してこの上が何階になるのかを見てぼくは、手すりを掴む左手の指に力を加えながら大きく息を吸う。みさおの部屋はまだ遠い。ずっと上の階にある。右手にも力を込める。
 エレベーターを使えばもっと楽に上の階まで行ける事が分からなかった訳じゃない。こううしてわざわざ階段を使って登るぼくに、ロビーで会った新米の太った看護婦は「エレベーターはこっちよ」と甘い声を出して誘導してくれた。看護婦がぼくの横から去り、エレベーターの扉が開き、そして閉まるのを見届けてぼくは、ぼくに声を掛けた看護婦に見つからないように、と、おどとおどしながら階段へ向かって早足で駆けた。  
 また、みさおは眠っているかもしれない。もしかしたら起きているかもしれない。
 病室のドアの前で、オレは足を止める。
 中に居るのは、みさお一人だ。みさおが一人で、この病室を使っている。
 このドアを、開ける。
 みさおは眠っているかもしれない。起きているかもしれない。
 死んでいるかもしれない。
 死体の第一発見者になりたくなかった。
 それが今日かも知れない、明日かも知れないと怯えながら毎日を過ごすのは、とても辛い事だ。いっそ早い所死んでしまったのなら、こんな何て名付けていいのだか分からないまぜこぜの嫌な気分からも解放されて楽になるのに、死んでしまったのならただ悲しいという気分だけで、沢山泣いてその気持ちを全部吐き出してしまえば、それで全部が終わるのに、そう思う事もこの頃は結構あって、そう思う弱さをオレは自己嫌悪している。酷い奴だな、と思う。きっと本当は、みさおの事をそれほど愛していなかったのだと気付く。その自覚は辛かった。病気でベッドで苦しんで死にかかっているみさおの事を放って置いて、どこも悪くないのに自分の嫌な気分ばかりを気に掛けている惨めな自分がここに居る。だから、みさおの死体を見たら、きっと、罪の意識に苛まれるのだろうと思った。もっと元気なうちに、元気な頃に、もっといつもみさおの事をもっと気に掛けて、いい兄でいやれば良かった、というのは後悔でしかないし、そんな事を口に出せば何を今更と怒られてしまいそうで、誰にも話せない。話さない。手遅れなんだ。こんな事をしても、もう、だめなんだ。ぼくは酷い兄だった。いつもいじめてばかりで、泣かしてばかりで、テレビで見たヒーローの必殺技の実験台に使ったり、言う事に従わなければ殴ったりで、本当に、本当に、悪い兄だった。
 開いていないドアの前でオレは立ち止まっている。
 ダメだと知りつつ階段を登り毎日のように妹の病室へ通うぼくはは、果てしなく愚かだ。愚かで、惨めだ。人生をやりなおす事が出来たら次はもっと優しくて、いい兄になってやろうとぼくは思う。母子家庭で与えられる事のなかった父の愛情という奴を、みさおに与えたいと思う。
 そう思う自分を、オレは呪う。
 ぼくは呪う。
 まだ、生きているんだ。このドアの向こうで、みさおはまだ、生きているんだ。
 それなのに、ぼくはなんでやり直しの事なんかを考えているんだ。
 罪だと思った。やっぱり、これは罪なのだ。
 この世から、消えてしまいたいと思った。こんな人間が生きているのは間違いなのだと思った。
 この罪を、みさおに打ち明けて謝る事は出来ない。それは死に向かうみさおに対しての更なる加虐になる。正直に打ち明けて、『本当はおまえの事なんかどうだっていいんだ。ただぼくは、おまえが死ぬ前に何かしてやったという記憶が少しでもあれば、死んだ後で気が楽になるから、こうしてここに通っているんだ』と打ち明けて、心の底から『ごめん』と謝ればマンガみたいで格好良くて、自分の気も少し晴れて罪の意識が軽くなるけれどそれは、みさおにとっては辛い裏切りに違いがなくて、それだけは絶対にやってはならない事なんだと、強く、強く、強く、まだ開けていないドアの前で念じた。
 背中を老人が通り過ぎていく。真ん中に穴の開いた布を頭から被せたような簡素な白い服を着た、男か女か分からない程にやせ細って皺だらけの老人だ。看護婦が一人付き添っている。
 そのふたりが完全に背後を通り過ぎるのを確認してからオレは
ドアノブに手を掛ける。

 ぼくは。

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ひろやんさん、僕は嫌な気分になるだころか、とてもおもしろいと思いますよ。
最終話も期待しています。

雫さん、感想ありがとうございました。^^

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