遂に来たのか。 前と後ろも、上と下も、右と左も、光と闇も、時間の流れさえも無い世界。 みさおが死んだ時、渇望した筈の世界。でも何も満たされない世界。 俺とみずか以外、誰もいない世界。 愛すべき人のいない世界。 『永遠』 「ここではね、色々な望みが叶う世界なんだよ。」 断ち切られた望み。それ以外の望みなんて、俺には必要の無いもの。 「例えば?」 やりきれない想いを隠した声で、曖昧に返す。 「海を見たいと思ったら、海を想像してみてよ。」 『海、幼い頃瑞佳と2人で遊びに行ったな。 あの時は断りもなく出かけて、瑞佳のおばさんに叱られたっけ。』 「ああ。」 瑞佳と行った海の情景を思い起こしてみる。 すると、今までの暗幕の世界が一瞬にして海の風景となる。 微かな潮の香り。細波の音。沈み行く太陽。 リアルだった。現実に戻ってきたのかと錯覚してしまう程・・・。 写真をそのまま切り取った様に正確だった。 だが、そこに瑞佳は居なかった。 一番強く思い描いた筈なのに・・・。 一番観ていたい風景なのに・・・。 「便利だな。」 感慨もなさげにいう。 「そうでしょう。」 みずかは無邪気だか、そこにあるのは冷たい笑顔。 感情を持たぬ機械の様に・・・。 「あそこの砂浜に下りてみたいな。」 『近くに行けば、会えるかもしれない。』 僅かな希望に想いを託して・・・。 「それは出来ないよ。」 戦慄を覚えるほどに、抑揚のない声。 「どうして?」 打ち砕かれた、僅かな望み。 「私たち、存在しないから。」 存在しない存在。解かれる事のないパズル・・・。 「そうだったな。」 俺は次々に風景を変えていった。 流れる雲を見下ろした青空、溶ける事の無い雪を被った山の頂き、高層ビルの列挙する街並。 とても美しくて、それでいてとても悲しかった。 見る事、聞く事は出来ても、存在の許されない世界。 ふと『永遠』ってなんだろうと、漠然とした疑問を抱いた。 無限に続くこと・・・そうかもしれない。 時間の流れないこと・・・そうかもしれない。 色褪せることの無い想い・・・そうかもしれない。 でも違う。俺の望んだ『永遠』はこんなんじゃない! 自分だけの永遠なんて、エゴ以外の何物でもない! 俺に必要な『永遠』は、 一生愛したい想い、一生愛されたい想い・・・不確かな永遠。 みさおが俺の中で生き続けている・・・哀しいけど、大切な永遠。 一秒毎に過ぎてゆく時間の積み重ねを大切にしたい・・・一瞬の永遠。 結婚して子供が孫が出来て、子孫が血を受け継いでゆく・・・存在した事の証の永遠。 幼い頃望んだ『永遠』と今望んでいる『永遠』は違うものなんだ。 そう思うと無性に現実の世界に戻りたくなった。 「現実の世界に帰りたい。」 泣きそうな声。か細く、弱々しい声。 「そう、じゃさよならだね。」 項垂れた頭を上げ、みずかを正視する。 「戻れるのか?」 自覚出来るほどに、上擦った声。 「あなたの”戻りたい”という想いが、”永遠”を望んだ想いより強いなら。」 自分の中の『想い』を再認識する。 「もちろんだ。ここには、俺の『永遠』は存在していないからな。」 それだけは自信があった。 「あなたの求める『永遠』が、かけがえのない物になったらいいね。」 勿論だ。もう、瑞佳を放すものか。 「ああ、有り難う。」 年下を相手に、あくまで冷静に接する。 「もう、会う事もないよね。さようなら。」 この時、みずかの感情が多少読み取れたような気がした。 どこか儚げで、それでいて弱々しい、みずか。 「それじゃあな。」 みずかとの別れ際に交わした言葉は、意外とあっけなかった。 「さようなら、おにい・・・」 え?今なんて言ったんだ。最後まで聞かせてくれよ。 でも、もう声は聞こえない。 体がふっと軽くなった。そっと目を開けてみる。 自分の家の前にいた。 俺はいたたまれなくなって、瑞佳の家に向かって走り出した。 瑞佳・・・俺の望んだ『永遠』。 俺は瑞佳を腕の中に抱き入れたかった。 瑞佳の温もり、暖かくて、忘れられなくて、失いたくない大切なもの。 一生守りたい、この想いこそ『永遠』なんだ。 瑞佳の家に着いた。逸る気持ちを抑えて、インターホンに手を掛ける。 ドアが開き、そこから出てきたのは瑞佳のおばさんだった。 「あ、あの。瑞佳いますか?」 挨拶も無しで唐突だったかもしれないけど、もう気持ちを制御できない。 「どうして、もっと早く来てくれなかったの?」 「え?」 おばさんの意外な返答に、対応する術を見失ってしまった。 「3週間も経っているのよ。あの子が死んでから。」 「死んだ?嘘・・・ですよね。」 嘘だ、嘘に決まっている。 部屋に行けば瑞佳はいるんだ。 それで、俺がいきなり瑞佳の部屋に入れば、 「ノックしてって、いつも言ってるでしょう。」 そう言って、呆れながらも笑ってくれるんだ。 俺はおばさんを無視して、開いている玄関から瑞佳の部屋まで駆け上がった。 この扉の向こうにいるんだ。間違いないんだ。 ガチャリと、開け馴れた扉を開く。 でも、そこに俺が求めるべき人はいなかった。 そこにあったのは、小さな位牌。 俺は放心状態になっていた。 人は悲しみの限界を超えると、無感情になるという。 まさに、それだった。 「交通事故で・・・、即死だったそうです。苦しまなかった事が、せめてもの救いです。」 いつの間にか、瑞佳のおばさんが俺の後ろに立っていた。 「これ、瑞佳の日記です。浩平君の事がかいてあります。読んで下さい。」 差し出された赤い日記帳。瑞佳の好きそうなシンプルなデザインだ。 表紙をめくって1ページ目を開く。 『みんな浩平の事を忘れたかもしれないけど、私は忘れない。忘れられない。』 ページをめくってみる。 『今日も、浩平の事を忘れなかった。明日忘れているかもしれないと思うと辛い。』 次のページをめくってみる。 『いつ浩平が帰ってきてもいいように、笑顔を絶やさないようにしないといけない。 自信はないけど、そうしないと浩平は帰ってこないような気がする。』 またページをめくってみる。 『試しに、浩平の事をクラスの人に聞いてみた。でも、やっぱり誰も憶えていなかった。』 更にページをめくってみる。 『浩平の家に行った。起こしていてあげた時は毎日通った家なのに、今は他人の家みたい。』 それからも、瑞佳の日記は続いていた。 『今日、繁華街で浩平のおばさんに会った。でも、私を見る目は他人だった。 私とおばさんの接点は、浩平を通したものだからかもしれない。 もうこの世界には私以外、浩平の事を憶えている人はいないのかも。』 『もう、浩平が居なくなってから何ヶ月経ったのかな。浩平って、ほんとに心配ばかりかけさせる。』 『まだ、浩平の事を忘れていない。その事が時折嫌になってしまう自分が嫌になる。』 『どうして、帰ってきてくれないんだろう。待つ方の身にもなってほしい。』 『駅で浩平の後ろ姿を見掛けた。声をかけると違う人だった。 = ”ごめんなさい”と言って逃げてきた。恥ずかしいからじゃなくて、泣き顔を見られたくなかったから。』 『もうすぐ新学期になるけど、浩平のために写したノートばかり増えていくみたい。』 『授業中に溜息ばかりついていたら、先生に怒られた。私だって、そんな・・・』 ポタリ、と水滴が落ちた。目の前が霞んで見えない。 もうこれ以上日記を見たくないという想いが、瞳に薄衣のカーテンを引いたみたいだ。 やっと感情が戻ってきた。 俺は、瑞佳の家を飛び出した。 もう、何も目に入らなかった。 ただ、瑞佳の名を叫びながら人目も気にせずに走った。ただ走った。 道路に飛び出した時、勢いよく車が躍り出た。 やっと捕まえた。『永遠』 END