車から降り立つと草と土の匂いが鼻腔に飛び込んできた。 冷たく澄んだ空気が肌を引き締めるのを感じ、それが心地良いとどこかで思う。 助手席のドアを開けようかと思い、回り込む。 そして、浩平は少しだけ苦笑した。 「足元に何があるかわからないんだから、勝手に降りない方がいいぜ」 「浩平君を信頼してるから平気だよ」 「俺を信頼してても地面は変わらないと思うけど」 「ふふっ、それはそうだね」 ボンネットに軽く手を置いたまま笑顔を見せるみさきを見ているだけで、不思議と自分も笑顔になる。 そして、どこか優しい気持ちになれる。 浩平はそっと近づいて、自分には似合わないなと考えつつも恭しく彼女の手をとった。 「さ、行こうか、お姫様」 「はい、王子様」 「……」 「……」 「……」 「あははっ、なんか変な感じだね」 「俺も言いながら、背筋が痒くなってきた」 「ふふっ、なんか浩平君じゃないみたいだったよ」 茶化すようなその声で、不意に自分の頬が紅潮するのを感じる。 似合わない事は言うもんじゃないな、と浩平は思う。 なにしろ、言ってて自分が一番恥ずかしい。 まあ、みさきはどこか楽しんでいたようだったが。 「じゃあ、案内してね。王子様」 「それはやめてくれ」 「冗談だよ」 みさきは笑ってから、そっと身を寄せてきた。 彼女は繋いでいた手を離して、浩平の腕に自分の腕を絡める。 絡められた腕からは柔らかくも暖かい感触を、間近にある彼女の髪からはとてもいい香りを浩平は感じた。 「手を繋ぐよりこの方がいいよね」 「まあ、確かにそうだな」 「それに浩平君が側にいるって良くわかるしね」 どこか恥ずかしいセリフを彼女はさらりと言う。 その言葉とすぐ横で見せる笑顔で、胸の奥が暖かくなる。 だが、浩平にしてみれば正直こういう時にどう反応するものか悩むものだ。 もうずいぶんと一緒にいるのだが、それは今でも変わらない。 しばらく言葉に詰まっていると、みさきが楽しそうな口調で口を開いた。 「ねえ、案内してくれないのかな?」 「あ、ああ、悪ぃ。少し山道を歩くけどいいか?」 「うんっ。大丈夫だよ」 「なるべく平坦な道を選ぶからさ」 「ありがとう、浩平君」 ゆっくりと、彼女に負担がかからないように歩く。 濡れた落ち葉で敷き詰められた道、踏みしめるたびにふわりと優しい感触を足で感じる。 時折、木々の隙間から流れてくる冷たい風を浴びて、身をほんの少し縮める。 まだ辺りは薄闇で包まれているような時間だ、それにここは遠く離れた北国でもある、秋とはいえかなり空気が冷えているのだ。 「寒くないか?」 「ううん平気だよ。浩平君があったかいからね」 みさきは言いながら、絡めている浩平の腕をぎゅっと掴む。 「そうか、もう少しだからな」 「うんっ」 昨日、旅館の女将さんに聞いた通りの道を歩く。 この辺りの名もない名所。 元旦にはここの地元の多くの人々が集まる場所。 こんな時期に来るのは自分達だけだろうが、二人には時期などたいした問題ではないのだ。 二人で共にいることが、とても大切なのだ。 二人の出会いは、冬の風と夕焼けの学校で。 二人の思い出は、笑いたえない校舎の中で。 二人の別離は、桜舞い散る公園で。 二人の再会は、風の流れる屋上で。 たくさんの時間を共有し、互いに支え合ってきた。 いままでずっと、そして、これからもずっと。 数日前に、二人は誓ったのだ。 共に歩み行くことを。 互いを愛し続ける事を。 永遠の愛の誓いを。 「永遠」という言葉が胸の奥でちくりと痛む。 遠い記憶、でもそれは忘れてはいけない思い出。 少しずつ移りゆく日々を感じ、ふと後ろを振り返る事ができる時、おそらくそれを永遠と呼ぶことができるのだろう。 その事に気が付く事ができたのは、今ある毎日をありがたく感じる事ができるのは、紛れもなくあの出来事おかげだ。 そして、人を愛する気持ち、人との確かな繋がり、それを感じさせてくれた人が今の自分の隣にいることを、心から嬉しく想う。 「みさき、ついたよ」 そこは開けた場所だった。 薄闇の、白と黒で彩られた尾根が目に飛び込んできた。 それは雄大でなおかつ壮大な風景だ。 「いい風だね。とても気持ちいいよ」 その光景を見る事のできない彼女がすっと背を伸ばした。 そうすることで、身体全体で風を感じる事ができるのだ。 彼女にとっては感じる事が見る事で、それがすべてなのだから。 「樹の匂い、草の匂い、澄んだ風と空気。本当にいい所なんだね、ここは」 「そうだな。でも、少し早かったみたいだからしばらく待たなきゃな」 「ここに座って待てないかな」 「ああ。草地だからな、ここに座って待つか」 みさきと並んでその場に腰を下ろす。 浩平は彼女の肩をそっと抱き、互いに肩を寄せ合う。 「もうすぐ夜が明けるんだね」 みさきがぽつりと呟く。 ふと、浩平は自分も目を閉じたみた。 彼女と同じものを感じてみたい、不意にそう感じたのだ。 肌で感じる空気の温度、耳で感じる風の流れ、言葉を交わすでもなく二人はただそれを感じでいた。 しばらくしてから、浩平は唐突に空気の暖かさを感じた。 だが、それはとても儚くて気のせいだったのかもしれない。 さらに時間が過ぎていく内に、暖かな空気が確かに自分達の周りを包んでいるのに気がついた。 肌は弱々しくも暖かい風を感じ、目の奥の闇が少しずつ白んでいく。 「夜があけたんだね」 みさきが小さく言うと同時に、強い風がざぁっと吹いた。 その拍子に浩平が目を開けると、朝焼けの鮮やかな空が目に入った。 浮かんだ雲も、山の木々も、そこにあるすべてが赤く美しく染め上げられていた。 そんな中、みさきはそっと立ち上がる。 そして彼女は、吹きつける爽やかな風を全身で感じているようだった。 「いい風。本当に気持ちいいよ」 風で舞う長い黒髪を片手で押さえながら、みさきは微笑む。 「…綺麗だ」 みさきを見上げる形の浩平は、意識する事なく口を開いていた。 そして、自身のその言葉で自分が彼女に見惚れている事に気がついた。 「朝焼け?」 「……うん? ああ、朝焼けも綺麗だ」 『朝焼けも』という言葉に含まれた意味を感じた取ったのかみさきは少しだけ頬を染めた。 「でも…本当に新婚旅行がここでよかったのか」 「浩平君は嫌だった?」 「いや、俺は全然。ここで良かったと思う」 「私もこういう所が良かったんだよ」 その場でくるりと回ってからみさきは笑顔を見せた。 「私でもね、夜が明けたってわかるんだよ」 「…ああ」 「風が少しだけ優しく暖かくなって、きっと空は真っ赤なんだなって」 「…ああ、100点満点に真っ赤だ」 「うん、そうだよね。それで、そうやって浩平君と一緒にいるんだなって考えていると嬉しいんだよ」 「ずっと側にいるって約束したからな」 「うん、嬉しいよっ。……あ、あれ?」 みさきは驚いたように自分の頬を撫ぜた。 そこは濡れていた。 少し考えてからそれが自分の涙だと言う事に気がつく。 自分が涙を流していた事さえ気がつかなかった。 「…あ、あれ? 私、何にも悲しい事ないのに……な、なんで泣いてるのかな?」 「……」 「あはは…、おかしいね、私。どうしたんだろう」 「…みさき」 「…えっ」 朝焼けの光に照らされた二人の影がそっと重なった。 長く伸びた影が草に映され、オレンジ色の光とそよぐ風の中で、いつまでも寄り添っていた。 いつまでも、いつまでも……。 ************************************************************************************** どうも、2回目の投稿になります苦悩者です。 前回がほぼ1ヶ月前だったので、はじめましての方が多いような気がします。 相も変わらず、どなたかのSSとバッティングが怖い今日この頃。 バッティングしてましたら「ネタかぶってるぞっ!」と遠慮なく言ってください。すぐ削除しますので。 それから前作に感想をくださった皆様、とてもとても嬉しかったです。 本当にありがとうございました。 http://su.valley.ne.jp/~kuno/