風の旅路
投稿者: から丸&からす  投稿日: 2月22日(火)11時11分
最終話「風の行く場所」

 目覚めの時間が来る。その日は不思議なことに、誰の手も煩わさずに自然と目が覚めた。カーテン越しに朝日と、鳥のさえずる声が聞こえる。俺にしては珍しい朝の目覚めだった。
 俺はまだ時間に余裕があることを見越すと、何も持たずに階下へと向かった。
 居間のソファにはすうすうと寝息をたてている翼の姿があった。そっと近づいてみると、頬にうっすらと涙の跡がある。俺はそれを見て昨日の出来事と逡巡を思い出さずにはいられなかった。急に激情したように取り乱した翼、彼女は何かを恐れるように、肩を震わしながら俺に言葉を紡いできた。それは消え去りそうな言葉だったけれど、確かな感情と共に俺の心に語りかけてきた。儚くも強い意志を湛えた、旅人の言葉だったのだ。しかし俺はそれに答えてやることもできず、両腕を下げたまま聞き入ることしかできなかった。いつか彼女がここからいなくなる日がやってくる、それを考える余裕すら、俺には生まれてこなかったのだ。
 俺は翼に毛布をかけなおしてやると、慎ましく朝食を済まして、ついでにみだしなみも整えてから部屋に戻った。そのまま制服に身を変えると、翼を起こさないようにそっと家を出た。ちょうど、長森が起こしに来るところだったのか玄関の前ではち合わせる。
「早いね、浩平・・・」
「俺だってたまには早起きするさ」
「信じられないよ」
 本当に驚いた様子を見せる長森をその場に残すように、俺は早足で長森の前を通り過ぎると通学路に出た。後ろからぱたぱたと長森が追いかけてくる。
「じゃあ、今日は歩いていけるね」
「走ってもいいと思うんだが」
 そう言って走る素振りを見せると、長森が真っ先に制した。
「いいってば!走らなくて!」
「そりゃ残念」
 俺のいらぬ冗談にため息をつく長森。俺はそれを真似したわけではないが、往来にはぁーっと大きく白い息をはいた。
「冬だなぁ」
「それがどうかしたの?」
「いや・・・」
 翼はもうじきバイト代が貯まると言っていたが、この寒い季節でもやはり旅に出ていくのだろうか。あいつを不憫に思ったわけではないが、どこか寂しい心地がする。
「鳥だって寒い季節は別の所に飛んでいくのになぁ・・・」
「うん、燕も冬には見かけないよね」
「もしかしたらあいつにとってここは寒いのか?」
「誰の話?」
 俺の独り言にも近い言葉に、わざわざ付き合ってくれる長森。気が長いというかなんというか、そう言えばこいつが俺を無視するようなことは平常では有り得ないのだが。
 俺は遠くを見るような目で、長々と続く往来を見越した。それでもすぐ何かに突き当たって、視界は遮られてしまう。すると鳥達がその障害を遙か高く飛び越していき、やがて視界から姿を消していった。
「なぁ長森、鳥になりたいって思ったことあるか?」
「え、そうだね・・・うん、あるよ。気持ちよさそうだもんね、いつでも空を飛んでいられたら」
「でもよ、鳥っていつでも飛んでなくちゃいけないんだよな。空に存在し続ける限り羽ばたくのをやめちゃいけないんだよな。それって辛いことだと思わないか?」
「うん・・・そう言えば、そんな気もするね」
「そうだよなぁ・・・」
 鳥達の鳴き声が聞こえた。遠くから響くように聞こえた。俺の目の届かないずっと遠くから。

 教室というのはいつも喧噪でいっぱいだ。というか喧噪のない教室というものの方が不気味だろう。俺は一人、教室の隅に位置する窓際の席に座を占めながら、なんとなくそう思った。
「なぁにもの思いに耽ってんだよ」
 なぜか南森が、机の影から沸き出るように姿を現した。いつも登場の仕方、それ以上に存在そのものが不可思議な南森だが、今はなぜかそれも気にならなかった。
「よし、クイズをして遊ぼう、南森」
「・・・断りたいところを無理にやってやろう」
「よし、お前は今、全てから解き放たれて自由になりました。そしたらまず最初に何をする?」
「・・・全裸で交差点に寝そべる」
「惜しい、ハズレだ」
「・・・正解はあるのか?」
 退屈な休み時間を俺は南森を半ばからかいながら過ごした。こいつも俺に劣らず独特なペースを持っているが、妙に律儀なところがあって以外と騙されやすいのだ。俺は南森と遊びながら、どこからか沸き出てくる寂しい心地を紛らわしていた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 下校の時間。まだ夕焼けは早いが、太陽が照りつけるには遅すぎる時刻。今日は長森も部活があって一緒には帰れない。俺は久々に住井達と一緒に街へ繰り出し、ゲーセンを始めあらゆる場所で遊んで回った。馬鹿騒ぎをするようなやかましい集団。俺もその中に埋もれるように参加し、一見すればくだらない、馬鹿げた遊びに興じていた。だが俺達が正真正銘の馬鹿だというわけではない、誰だって頭のどこかではそれが馬鹿げたことだとわかっている。だがそんな感想を吹き消してしまえるほど、各々にとってそれは価値ある時間だったのだ。もちろん、俺にとっても。
 暗くなっても、俺達は遊び続けた。まるで帰る場所を無くしたかのように誰も帰るべき家に帰ろうとしない。皆を留まらせているのは何よりも増して不思議な力だった。
 それからも場所を転々として遊び続けた俺達は、いい加減に金も体力も尽きてきた頃、ようやくそれぞれの家路についた。どこか寂しい気がするが、それでも帰るところがあるというのは、どこかうっとうしくもあるが、幸せなことだ。
 ネオンのちらつく繁華街の中、俺も同じように家路をたどった。ふとすれば俺自身の存在など消し去ってしまえるかと思うほど、辺りの照明や喧噪はきつかった。それは教室の喧噪とは全く違い、まるでこちらをかき消そうとするような、安心できない響きがあった。俺は早く歩く気にもなれなかった。ゆっくりと重い足取りで繁華街を歩いて行く。
 余計に強い光の下、そこに生まれるあまりにも濃い影の中に、俺は何かを見つけた。見ると、まだ生後間もない子猫が破れかかった段ボールの中に打ち捨てられている。
「あーあ・・・」
 往来の激しい場所に置いておけば、誰かが拾ってくれるとでも思ったのだろうか、以前の飼い主の考えは思い切り裏目に出ていた。俺だって危うく気づかずに通りすぎてしまいそうだったのだ。
「可哀想になぁ・・・」
 俺は軽い気持ちで、極めて大儀そうにその子猫の頭を撫でてやった。猫はそれに反応してか、くぐもったような鳴き声を上げながら身を震わせた。
 捨てられている段ボールの中には何もなかった。張り紙すらない。ひどく痩せこけた子猫は、俺がここで無視したらこの晩の寒さで確実に凍え死ぬだろう。
「可哀想になぁ・・・」
 何度も頭を撫でてやると、その都度猫は反応した。なついているのでもなし、誰がやっても同じはずの反応だ。俺はそれとわかっていながらも、何度も何度も、極めて大儀そうに、その哀れな子猫を撫でてやった。
「ほんとうに、可哀想になぁ・・・」
 そして俺はその首を引っつかむと、子猫を片手に抱いてやり、同じ帰路にたたせた。俺は猫を抱いて、早足で繁華街を抜けていった。強すぎるネオンの光が、俺達をかき消そうとしているかのようだった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 家に帰ってみると、俺の予想を裏切って夕飯の匂いがした。台所から時折聞こえてくる包丁の音もそれに並んでいる。俺は台所に子猫を連れていくと、小皿に牛乳を出してやった。
「お帰り・・・どうしたのその猫?」
「死にそうだったからな、俺が地獄へ落ちないための慈善事業だ」
「ふーん・・・」
 翼はそれを排するわけでも歓迎するでもなく、しばらく眺めた後は調理の方に戻った。俺はしばらく猫について、猫が無事に牛乳を飲みきるのを見届けると、一緒に風呂に入れてやった。もちろん、水を恐がる猫相手だったからそれは大苦闘だった。

「その猫、名前は?」
「んー・・・決めてない」
 夕食の席、猫は俺の横で与えてやったハムをもしゃもしゃとはんでいる。それを眺めるでもなく、俺は翼に声を返した。
「何か名前を決めてあげないと、可哀想だよ」
「そうだなぁ・・・ま、その内にな」
「呑気だね・・・」
 お前に言われたくはない、と内心で思いながら、俺は猫の頭を叩くように二、三回撫でてやった。猫は迷惑そうな声を上げただけだった。
「ねぇ、浩平」
「なんだ?」
「その猫、飼うの?」
「ああ・・・言ったろ、慈善事業って」
「どこに捨てられてたの?」
「駅前」
「そっか、可哀想なやつだね」
「そうだろ?」
 翼は頷くように言うと、初めて猫に目を向けた。温かい、思いやりのある眼差しだった。猫はそうとは知らずに夢中でハムを攻略していた。俺はもう一度、叩くように猫を撫でてやる。
「痛そうだよ、そんなことしたら」
「俺流のかわいがり方なんだがな」
「変なの」
 翼が少し尖ったような声を出したのを、俺が気にかける暇はなかった。翼はまた食事に目を移すと、半分焦げたロールキャベツを押し込むように口の中に入れた。
「ねぇ、浩平」
「なんだよ?」
「その子が大きくなったら、どうする?」
「そうだなぁ・・・まだ飼ってるかも知れない」
「そう」
「ああ、それがどうかしたか?」
「ううん。よかったね、お前、飼ってもらえるって」
 翼は椅子を立って、ハムと格闘している名もない子猫の背を、優しくくすぐるように撫でてやった。心地いいのか、子猫はくぐもったような声でくすぐったそうにないた。
「よかったね。お前は・・・」
「飯、冷めるぞ」
「わかってるよ」
 翼は子猫から名残惜しそうに手を離すと、また食卓の席に戻った。
 誰が見ているわけではないが、テーブルの横のテレビは点けてあった。テレビの中ではやはり、空しさしか引き起こさない芸人が、必死でこちらを笑わせようとしている。
「ねぇ、浩平・・・」
「ん?」
 翼が箸を置いた。そのまま突っ伏すようにテーブルへ頭を傾けると、独り言のように俺に語りかけ始めた。
「もっと長い時間が経って・・・その時もう一度、私が転がり込んできたらどうする?」
「さあな・・・置いてやる、かもな」
「・・・ふふ、ありがとう・・・」
 翼は笑っているようだった。その証拠に、表情は見えないが肩を微かに震わしている。俺もなんとなくその会話がおかしく思えて、小さく声に出して笑った。二人とも笑っていたのだ。
 短い食事の時間の後、俺はすっかり満腹した様子の子猫を引っつかんで部屋に戻った。洗い物を手伝おうとしたのだが、自分がやるからいい、と翼に止められたのだ。断った理由は、俺にはわからなかった。
 子猫を抱いて部屋のベッドに横になる。猫は俺の手から抜け出すと腹の辺りをうろうろし始めた。まるでどこか知らない世界に来てとまどっているように見える。俺はそれをおかしく思いながら、いつもなら点けるはずのテレビもラジオも今日は点けず、なんとはなしに暗い天上を見つめていた。しばらくそうしていたが、ふいに、何かに突き動かされるように俺は窓を開き、星がまたたく夜空を見上げた。空には珍しく、煌めくように明るい星がいくつも浮かんでいた。そして流れ星が、俺の目の前で起こった。遙か遠い場所で起こっている現象だが、なぜかそれを見て無性に悲しくなった。一瞬だけ煌めいた流れ星を見て、なぜか落胆したような気分になった俺は窓もカーテンも閉めると、そのままベッドに横になった。近くで子猫がまだうろついていたが、それはあまり気にせず、次第に襲ってきた睡魔に抵抗することもなく身を委ねていった。

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 翌日、浩平は何か胸騒ぎを感じながら目を覚ました。まだ長森が起こしに来るには早すぎる時間だった。浩平は何かを感じて、急いで階下へ降りていった。強い足音をたてながら階段を下り終えると、玄関のドアに貼られた紙の上の、一筋の走り書きがようやく目に入った。

"Good Bye!"

 さよなら、という意味だったと思う。浩平は事の真相を理解しがたく、急いで居間に駆け込んだ。ソファの上にあったのは、きちんと折り畳まれた毛布だけだった。
 浩平は張り紙のされたドアを通って往来に飛び出した。真冬の、身を切るような寒さが浩平を襲った。いつもなら寒さに愚痴の一つでもこぼす浩平だが、今はそれすら無視する。浩平は住宅街の往来を、右から左へくまなく見渡してみたが、全く人影は発見できなかった。
 風のように、いなくなったのだ。たった一言のメッセージと共に。浩平は諦めて家の中に戻ると、改めて走り書きを見やった。持ち合わせのボールペンか何かで書いたのか、最後の一言にしては粗末なものだった。
 浩平はメッセージの書かれた紙をドアから剥ぎ取ると、くしゃくしゃにまるめた。そのまま力を失ったようになり、丸まった紙片は床に落とされる。
 落胆していたのではない。あまりにも急な変化に、心がついていかなかったのだ。去っていった旅人に、浩平は叫びかけた。
「もう来るんじゃねぇーーー!!」
 孤独な浩平の叫びは玄関に反響して、何度も耳に返ってきた。そのせいで、浩平はその叫びが彼女に届くことはないと、改めて実感せざるをえなかった。
 冷たい身を切るような寒さが、外には蔓延していた。しかし、風は街から去っていった。浩平の家の屋根の縁では、渡りをしない鳥が巣作りに励んでいる。

<最終話 終わり>
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 ふー・・・終わったぁ。エピローグはないですよー・・・。
 いやー、くたくたですねぇ、どうでしたでしょう風の旅路。最後はかなり唐突だと思われているかもしれませんが、私にとってはこれがベストです。
 えー、それでは話すこともないので感想へ・・・。

>Matsurugi氏
 ・Past→→
 こりゃまた個性的なSSで・・・みさき先輩の幼き頃ですかぁ。うーむ、視点がみさきに絞られているだけあって話の中に溶け込みやすいですが、ちょっと感情移入はしにくいっす・・・。

>みのりふ氏
 ・二人の失敗
 笑うしかないなぁ・・・これでは浩平の絆も水の泡だ。というか茜が変貌しててやっぱり笑うしかない。

それでは・・・。