第三話「夢の始まり」 街はいまだ、深い霧に覆われていた。まるで街を眠らせる子守歌のように、ゆっくりと、静かに息づいていた。 浩平は繭に手を引かれて、深い霧の中を駆けていく。一寸先も見えないような霧の中を駆けていく。普通ならこんな状態で走ろうなどとは夢にも思わないだろうが、なぜかこの時は走ることも恐くなかった。 「みゅー!早く、早く、行こう!」 「サーカスは逃げやしないって・・・そんなに急ぐと転ぶぞ」 繭に手を引かれて、浩平は霧の中を進んだ。真っ白な霧は先のものを何も映さない。だからじっと見ているとそこにないはずのものが浮かび上がってきそうだった。幻視には違いないが、なにか見る者を恍惚とさせる幻覚。浩平はそれを振り切って、急ぐ繭の手に引かれるまま走り続けた。 やがてたどり着いた。霧の果てのサーカス団。どういうわけか、そこにはまったく霧がかかっていなかった。それはまるでこの世の空間ではないような、不思議な違和感だった。 だが繭はなんの疑問も抱かず、夢の一座へと走り寄る。 サーカス、というよりは移動遊園地といった方が正しいかも知れない。あちらこちらに出店が出て、何かしらの出し物をしている。そして中央にはステージがあって、ショーの始まりを待っていた。 「みゅー!みゅー!みゅー!」 繭はぴょんぴょんと飛び跳ねていた。これから何をしようか、それを考える前に目の前の情景に心が躍って体も踊ってしまっているんだろう。繭の無邪気な様子に、浩平は苦笑した。 「椎名、どれから回る?」 「みゅー・・・ぜんぶ!」 繭は目を輝かせてそういった。浩平は声に出して素直に笑った。繭もつられて笑った。二人には幸せな感じがした。 「じゃあ、そこら辺から行くか」 「みゅー!」 近いものから見ていくことになった。結局のところ、どこから見ていってもいいのだ。要は時間いっぱい楽しめればそれでよかったのだ。 「椎名、端から出てくる怪物にボールを当てるんだ・・・外すなよ〜」 「みゅ!」 「・・・下手だな、俺に代われ!」 「みゅー!やだ!」 「ええい、それじゃあさっさとやれ」 「椎名、間違い探しだ。カーテンが降りたら今とは部屋の何かが違ってるからな、今の部屋の配置をよぉく見るんだ」 「・・・ほえ?」 「・・・まあいいや、俺がやろう」 「いいか椎名、白い玉が4つあって、黄色い玉が一つある。今からこのピエロがそれをシャッフルするから、ピエロのどっちの手に黄色の玉があるか当てるんだ」 「うー・・・うん!」 「よぉし!よく見てろよ!」 「・・・・・・」 「・・・・・・」 「・・・右だ!!」 「ひだりっ!!」 「いや、右だろ」 「みゅー、ひだり」 「右っ!」 「ひだりっ!」 どちらにしますか? 「みゅー、こうへいにゆずる」 「・・・そう言われると情けなすぎる。俺に譲らせてくれ」 「みゅ、じゃあひだり」 はい・・・ 「おお、当たりだ!!」 「みゅー!みゅー!」 俺達は夢の一座を心ゆくまで楽しんでいた。一通り回った後、椎名にアイスクリームを買ってやり、二人で食べていた。近くではピエロが七つの輪を巧みにジャグリングしていた。 「椎名、うまいか?」 「みゅー、おいしい♪」 「そりゃよかった」 偶然なのかそうでないのか、時計を持ってきていなかった。今、何時なのかわからない。辺りには明々と照明がつき、遠くの空には霧がかかっている。今が昼なのか夜なのか、それすらまったくわからなかった。 「そろそろ帰るか、椎名?」 「みゅー!まだあそぶ!」 「そう言うと思った・・・」 辺りはまだ賑やかで、それは下火になろうとする予兆すらなかった。幻想的な明かりと華やかさに包まれて、浩平は自分が本当に夢を見ているのではないかと思った。 浩平がそんな思惑に浸ろうとしたそのとき・・・ ころころ・・・ 「ん・・・?」 ころころ・・・ 「・・・」 なにか、音がしていた。 なんだろう。ひどく、大切な音だったような気がする。 ころころ・・・ 浩平の視界が真っ白になる。何も見えなくなる。しかし浩平は焦らなかった。 それは当然の変化のように思えた。 自分の意識は、必要があってどこかへ飛んでいくのだ。 自然とそう思えた。 気がつくと、浩平はステージの席に座っていた。他に観客はいない。 一人きりの客のために、ステージの暗幕は待ちこがれたように開く。 ゆったりした衣装と、きらきら光るティアラを見に纏った一人の少女。 それは迷い込んで来た光の妖精のようだった。 浩平より一つか二つ年下に見えるその少女は跳ね上がるようにつけられた二つのお下げを揺らしながら、ステージの正面、ステージの最前へと歩を進めた。 ダンスが始まる。見る者を異世界へと誘う。不思議に満ちた踊りだった。 ステップを一つ。嘘のように細い手が宙を舞って環を描く。 一つ一つの動作が、浩平を幻想の世界へと誘った。 だがダンスが終局へ近づくにつれ、浩平の意識は覚醒していった。 そしてはっきりと、ダンスを終える妖精を見た。 世にも美しいその妖精は、ダンスを終えたそのままの姿勢で、浩平のことを見つめた。 水晶の様な瞳。その前には、どんな嘘も偽りも見透かされるような、そんな瞳だった。 浩平は立ち上がると、ゆっくりとステージに近づいた。妖精に、手が届く所まで歩み寄る。 「・・・・・・」 何と言ったらいいのかわからなかった。だが、呆然とする浩平の手に、一つの玩具が乗せられる。 「これは・・・」 安っぽい、プラスチック製のカメレオンのおもちゃ。腹の部分を動かすと、稚拙な仕掛けで舌が出るようになっている。 「みさお・・・なのか・・・」 <第三話 終わり> ////////////////////////////////////////// いい天気だなぁ。 こんな日はSSを書こう。うん。