幻想猫の魔法 投稿者: から丸
最終話 「幻想猫」
 
 人々の雑踏や車の音が遠くに聞こえる。
 そこは、無造作に生えた木々たちが作り出した孤島だった。
 だから僕はそこに居られたのだ。
 
 猫。
 白に薄い黒のぶちがある。
 思えば、どこにでもいそうな猫だった。
 そいつは僕の世界にいつのまにか佇んでいて、僕の方を見ていたのだ。
 あたかも僕の全てを見透かすかのように。
 
 僕はそいつに気をとられてしまった。
 放っておけばいいのに。
 そいつは一鳴きして、木立の中へと走り去った。
 僕はそいつを追いかけてしまった。
 いやそれすら、僕にかかった魔法だったのかも知れない。

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 目が覚めてみるとそこは眠る前と同じ、いつもと変わらない俺の部屋だった。
「・・・・・・」
 ゆっくりと、昨日の一件を思い出す。
 ・・・思い出すまでもない。夕べの記憶はあまりに鮮烈にして鮮明、
一生忘れられそうになかった。
 だが横目でベッドの上を確かめてみても、誰もいない。そこには俺しかいなかった。
「詩子?」
 どこへ行ったのだろうか。俺は何故か焦った。
 落ち着け、詩子は俺が寝ている間に起きたのだ。そして当然、まずは家に帰らなくては
ならないだろう。俺を起こさないように出ていったのだろう・・・きっとそうだ。
「ふああ・・・」
 頭にはまだ酒が残っていて、冬休み最初の朝は気だるかった。
 俺は窓を開け放って外の空気を部屋へと導く。
「うおっ」
 当然のことながら、寒い。冷たい外の空気が俺を一瞬にして覚醒させた。
もしかして詩子が窓の下に隠れてんじゃないかとも思ったが・・・そんなわけないか。
 もう一度ベッドの上に腰掛けて、今日はどうしようかと考えることにした。
 やらなければならないことは・・・里村さんに会うことだろうか。
里村さんなら、何もかも知っているような気がした。
「とすれば・・・外だ」
 俺は身支度を適当に済ませると、駆け足気味に外へと飛び出した。
 里村さんの家だったら見当がつく。
俺は昨日里村さんを送っていった帰りの道を逆に辿りながら、
一心不乱に里村さんの家を目指した。
「ここか?」
 里村さんの家は予想に反してなんの変哲もない一戸建てだった。
「ああ、電話ぐらいしておけばよかった」
 朝早く、それこそまだ新聞配達員がその職務に励んでいる最中というぐらいの時間帯に、
いきなり女の子の家を訪ねるというのはあまりに無神経だろう。だが今は
体裁にかまけている余裕もない。俺は一度だけ深呼吸すると、呼び鈴をならした。
「・・・・・・」
 出ない・・・もう一度。
「・・・はい?」
「あ、朝早くすみません。住井といいますが里村さんは・・・」
「・・・ちょっと待ってください」
 どうやら本人だったらしい。家の中を小走りに駆ける音が聞こえる。
やがてそれは家の玄関まで辿り着き、ドアを開いた。
「・・・おはようございます」
 里村さんはなんとピンクのネグリジュ姿であった。
これほどピンクという色が似合う女性もおるまい・・・かわいい。
「・・・なんですか?」 
「いや、なんでも・・・」
 にしても、えらい無防備な格好だな。里村さんらしいと言えば里村さんらしいけど。
「・・・詩子のことですか?」
「あ、ああ。そうだ」
「少し、待っていてください」
 里村さんはそう言うと、もう一度家の中に戻っていった。
おそらく服を着替えてく
「・・・お待たせしました」
るのだろう・・・
「・・・・・・」
「・・・なにか?」
「いや、なんでも。どこ行こうか?」
「・・・公園、行きましょうか」

       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 里村さんの家からしばらく歩き、辿り着いたのは・・・公園だった。
 そこはいたって普通の公園だったが、どうしたことだろう、その公園には
何か忘れ去られたような雰囲気があった。 それこそ何でもない風景の中に
何かの間違いで浮き出てきたような、ひどく隔絶された空間だった。
「ここは・・・?」
「・・・好きだった人と、見つけた場所です」
「へえ」
「・・・いえ、好きになりかけた人、です」
「あ、ああ、そう」
 誰のことでしょうね?
「・・・それで、あなたの尋ねたいことはなんですか?」
「え・・・」
「・・・私に尋ねたいことがあったのでは?」
「詩子は・・・誰なんだ」
 音が途絶える。二人の話し声も、辺りの騒音も、その瞬間だけ
全ての音が禁じられたようだった。
 里村さんの目の色が、うっすらと変わっていく。
その目から少女としての輝きは消え失せ、代わりに秘術師のごとく不可思議な
光明を帯びた。
「・・・それは・・・本当に尋ねたいことですか?」
「・・・・・・」
「・・・あなたには、もっと知らなければならないことがあるのではないですか?」
「俺は・・・」
「・・・あなたが知りたいのは・・・」
「・・・真実だ」
 視界が暗転する。
 
       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

気がつくと、俺はあの雑木林の中にいた。
 今になって見てみると、それはなんてちっぽけな空間なのだろうか。
 あの時は、ここが無限に広がる密林に思えたのだ。

 ひっく・・・うぐ・・・
 
 誰か泣いてるな。ここで泣くような馬鹿は一人しかいないだろうけど。
 
 ぐす・・・

 そこには俺がいた。小さい、小さい俺だ。
 俺は一人そこに佇んで、いつまでも泣いていた。
 誰かが構ってくれないと泣きやみゃしないのだ・・・

 うぇぇ・・・

 いつまで泣いてんだよ・・・

 ・・・ぐす

 俺が苛立って掴みかかろうとしたとき、そいつは現れた。
 こうやって外から眺めていてもわからなかった。
 いつのまにか現れている、密林の精霊。
 
「にゃ〜〜〜・・・・・・」

 そう、そんな声だった・・・

 うぐ・・・?

「にゃ!」

 あ・・・

 あ・・・

 気がつくと、猫も少年も俺の前から消え去っていた。

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そうだ、木登りが得意だった。

「降りてこいよぉ・・・」
「にゃん♪」

 ずっと上から俺を見下ろして、得意そうにしていたのだ。

「このぉ!」
「にゃ!にゃ!にゃあ!」

 あ、そうだ。俺は木を蹴っ飛ばして応戦してたな・・・

      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 穴に入って出られなくなったのは・・・

「そんなに暴れるな!」
「ぎにゃー!にゃー!」

 猫は入れても人間は入れないよなぁ・・・そりゃ。

「わはは、お前、真っ黒だ」
「ごろにゃ〜!」
 
 あの時は、猫も俺の顔を見て笑っていたのだろうか・・・?

      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ・・・ここは?

「にゃ〜・・・」

 俺は・・・どうした?

「にゃぁぁ・・・」

 天気が悪い・・・昼間だというのに、まるで空に黒いカーテンをしたような・・・

「に〜・・・」

 そうだ、この日だ。俺が連れて行かれたのは。

「・・・・・・」

 いつまで待ったってくるはずないぞ・・・もういないんだから。

「・・・ごろごろ」

 だから来ないっての・・・

「・・・・・・・」

 おい、雨が降り出したぞ!

「にゃ〜・・・」

 馬鹿野郎!来ないんだよ、いなくなったんだ!
 
「・・・・・・」
 
 だいたい猫のくせに雨が予知できないでどうする・・・!

       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

だから、来ないって言ってんのに・・・

「・・・・・・」

 あれから一週間だろ・・・もうよせよ。

「にゃあ」

 ちくしょう・・・

「にゃ〜・・・」

 ・・・ちくしょう。

          ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 待ち続けたのか・・・お前。

「・・・・・・」

汚れてるじゃないか・・・綺麗な毛並みだったのに。

「にゃあ」

 もう、来ないんだよ・・・

「に〜」

 忘れてたんだよ!俺は!

「にゃあ〜・・・」
 
 悲しいことがたくさんあって・・・それどころじゃなかったんだ!!

「・・・・・・」

 だから、もう待つなって・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ここは・・・俺は知らない。

「にゃ〜」

 辺りは夜のとばりに包まれ、一閃の光もない。
 ただ、猫がたくさんいる。
 
「・・・・・・」
 
 俺は、こんなこと知らない・・・
 
「にゃあ・・・」

 数え切れないほどの猫達が森の中央に集い、それはもはや現実的な理解など不可能な
 幻想の世界だった。
 
「にゃ・・・」

 中央に一匹の猫が歩み出る・・・あの猫だ。

「・・・・・・」

 白い毛並みに薄く黒いぶち・・・
 あと、特徴と言えば二つの耳がピンと立っているくらい・・・

「・・・・・・」

 続いて三頭の猫達が、あの猫の前に進み出る。
 2、3言ほど言葉を交わすと、その3頭があの猫を囲むように立った。
 
「にゃあ・・・」

 星屑。星屑が舞い降りる。空から、空から次々と、
 金色に輝く星屑が中央の猫へと注がれる。

「・・・・・・」
 
 森中が星の光に包まれていく。

「・・・・・・」

 やがて星屑が止むと、森中の光があの中央の猫へ収束していくようにおさまっていく。

「・・・・・・」
 
 光が完全におさまると、あの猫の姿が明らかになる。

「・・・わあ!」

 ・・・詩子?

         ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「・・・猫達の幻想、それは魔法です。
 しかし、真実はあなたが決めることです」
「・・・・・・」
「・・・詩子がいなくなったのは、魔法の、偽る力が解けてきているのかも
 知れません」
「・・・あ?」
 気がつくとそこは公園で、いたのは俺一人だった。
「はあ・・・」
 真実!
「・・・ああ!」
 真実!
「ちくしょう!」
 詩子が人間であるかどうか、そんなつまらない理由で俺は
詩子の存在を疑っていたのだ。あいつの気持ちも知らずに、俺は疑っていたのだ。
 そう、詩子は猫だ!正真正銘の猫だ!
 まさかとは思った。だが本当だった。
「俺は・・・」
詩子・・・!

 俺は居ても立ってもいられず、気がつくと公園を抜け出して疾走していた。
 詩子はどこにいるのだろう。今、見つけないと二度と会えなくなるような気がした。
俺は手当たり次第にどこでも当たって、詩子を見つけるつもりでいた。
「そう言えば・・・詩子の家ってどこだ?」
 行ったことがなかった。待て、一度家まで送っていった事があるだろう。
俺の家からそう遠くはないはずだ。
 俺は直りたての自転車を駆って、記憶をたよりに詩子を探し始めた。
「この辺りのはずなんだがなぁ・・・」
 そこはやや高級そうな住宅街の一角だった。
 だがなんとか大体の家の場所を探り出してやったきたものの、
柚木家はどこにも見あたらない。
「すみません、ここら辺に柚木さんのお宅はありませんか?」
「ああ、柚木さんの家なら・・・ほら、あそこよ」
 子供連れの主婦らしき人に礼を言うと、俺は一目散に柚木家へと走り込んだ。

「・・・・・・」

『しいこ・・・?そんな人は家にはいませんよ』
『あ?そんなわけが・・・』

「嘘みたいだ・・・」

『いませんよ。確かです』

「あんのかよ、そんなことが・・・」
 おそらく、詩子をあの家の家族として認識させていたのも、他ならぬ
魔法の力だったのだろう。
 それが解けているということは・・・
「もしかしたらもう・・・」
 落ち着け、落ち着け・・・焦って考えるとそれだけで事態が悪化する。
 詩子は、居場所がなくなっている状態なんだ。
だったら詩子の行きそうな場所を片っ端から当たってみればいい。
 だけど、詩子の行きそうな場所って・・・?
 思い出せ、どこかあるだろう。ええとええと・・・そう言えば、あいつの
先導で行った場所なんてあっただろうか?思い当たるのは、
俺がよく行く場所でしかない。
「それでもましか!」
 探さないよりゃあましだ!とにかく探せ!
 俺はひたすらに走り回り、思い当たる場所を探し続けた。
 学校、俺の教室から屋上まで。商店街から映画館、ゲームセンター。
果ては高台公園まで登っていってともかく探した。
「ちくしょう・・・俺、もしかしたら無駄なことしてんのかな・・・」
 ええい・・・そこでネガティブになってどうする。
「・・・もしかしたら、俺の家?」
 俺は残りの力をかき集めて立ち上がると、すっかりタイヤがすり減ってしまった
自転車を手で転がしながら一旦家へと戻ることにした。きいきいと、
細い悲鳴をあげる自分の自転車が哀れだった。
 もしも、このまま見つからなかったら・・・
 心臓がどくりと波打つ。俺は必死で、不安な感情を追い払った。
「・・・」
 辺りはもう陽が落ちかけていた。道行く人や風景が、長い影を道路に
残しながら過ぎ去って行く。俺は妙な孤独感に襲われた。
 それでもここで絶望するわけにはいかない。俺は顔を上げて
家への道を辿ろうと自転車を持つ手に力を入れた。
「「あ・・・」」
 いた・・・。
「し・・・詩子」
「あ・・・!」
「え、おい!」
 俺は反射的に声を絞り出した。それにはじかれるようにして、
詩子は俺の前から逃げるように駆け出した。
「詩子!」
 詩子はなにも言わなかった。ただ、逃げ出した。俺の前から、逃げたのだ。
 人混みの中へと逃げ込んでしまった詩子を追いかけるために
俺は自転車をその場で投げ出した。がしゃんと音を立てて自転車が
アスファルトの固い地面へと倒れる。俺はそれを遠くに聞いた。

 詩子は相変わらず恐ろしいまでの速さだった。その速さまさに風のごとく!
 俺は全力で詩子を追いかけた。というか全力でないと取り残された。
 雑踏の中では詩子の方が有利だった。その小さい体でひょいひょいと
人混みをぬって進む。俺はあちこちで人にぶつかりながら、なんとか
見失わないように走った。
「おい!てめえ・・・」
「急いでんだよ!」
 中学生のグループらしき連中に膝蹴りをかまして、さらに走る。
クリスマスイブの翌日、というかクリスマス当日。通りは
昨日ほどではないにしろ、まだ大勢の人間で溢れていた。そう簡単に
人混みは切れない。
 だが直線的に走っていればその内に商店街からは抜け出す。
やがて大きな道路に差しかかった。
「あ・・・!」
 信号がちょうど赤になる。
 詩子は一瞬だけこちらを見た。おいおい・・・寂しそうな顔だぜ。
 詩子は止まらずに脇の歩道橋へと走った。階段を登る音がこちらにも
聞こえる。俺も詩子に続いて歩道橋を駆け上がった。
 さすがに急な階段は応えたのだろうか。俺が歩道橋を登り切ってみると、
詩子はふらふらとよろめきながら歩くと、脇の手すりへともたれかかった。
俺もぜーぜーいう肺の音をなるべく押さえながら、詩子の元へと近づいていった。
「はあはあ・・・おい」
「ふう、ふう・・・」
「はあ・・・やっぱり、詩子は探してもみつからないよな・・・」
「・・・・・・」
「いつも、いきなり現れるもんな・・・」
「・・・ふう・・・」
「わはは・・・詩子はやっぱり速いぜ」
 はあーーーーと大きく息を吐く。
すっかり陽が落ちて冷たくなった空気の中に、白くもやが浮かぶ。
「・・・・・・」
「なんとか言えよ・・・」
 詩子は手すりにつっぷして、俯いたままだった。
「どうして追いかけて来たのよ・・・」
「そりゃ、ないだろ」
「もういいんだよ・・・ほっといて」
「そりゃないだろ・・・」
「・・・」
「お前、泣いてるだろ」
 詩子はさっきからこちらに顔を見せていない。ずっと後ろを向いて、
俺から顔を背けている。
「もう・・・どうして・・・」
「恋人同士・・・だろ?仮にも」
「仮にも、は余計・・・」
「わはは」
「あ、はは・・・」
 詩子が肩を振るわせて笑う。俺も、おかしくてしょうがない。
 俺はそのまま後ろから、詩子を抱きしめた。
「やめてよ・・・」
「なんで?」
「もういいよ・・・終わりだよ・・・」
「終わりなもんか・・・」
「終わりだよ、おとぎ話は・・・」
「・・・・・・」
 詩子を抱く腕に力を込める。
「どうして、護は・・・」
「ん?」
「どうして護は・・・あたしを追いかけてくれたの・・・」
「・・・抱きしめたかったから・・・」
「・・・すけべ」
「ははは・・・」
 詩子がゆっくりと、俺の腕へ手を伸ばす。
「あたしのこと・・・知ってるの?」
「知ってる」
「そう・・・」
 詩子が手を下ろす。
「それなら・・・もう離してよ」
「俺には、その理由がわからないけど」
「あは・・・だから、一緒にはいられない・・・でしょ?」
「それも、できるんじゃないか?」
「無理だよ・・・」
「無理なもんか」
「あたしは・・・人間じゃないよ。猫だよ、違うんだよ・・・」
「何が違うっていうんだ?」
「もうだめだよ・・・あたしは、側にはいられないよ」
「俺が拒むとでも思ったのか・・・?」
「・・・」
 詩子がこちらに振り向いて、俺に正面から抱きつく。
足下からは絶えず、車の行き交う騒音が聞こえる。こちらとはなんの関係もなく、
ただ過ぎて行く音だった。
「怖かった・・・」
「・・・・・・」
「護に、見られるのが怖かった」
「・・・・・・」
 俺はただ抱きしめてやる。
「もう、終わりだと思った・・・」
「大丈夫だ」
「護、まだ側にいてくれる?」
「いるよ、いてやる」
「ありがとう・・・」
 辺りは闇をまし、騒音はさらに大きくなっていった。
まるで俺達の存在を覆い隠すかのように、いつまでも止むことはない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ともかく、時間がないということだった。
 魔法の力が続くのは約一ヶ月。だが、人間である俺と交わったことによって
その力が極端に弱まってきているらしかった。
「もう、行かなきゃ・・・」
「・・・そうか」
 せめてもう少し時間があれば、まだまだ詩子にしてやりたいことが
たくさんあったというのに、もうその時間すらない。俺は気づくのが遅すぎたのだ。 
 俺は詩子に応えてやれただろうか?俺を慕って来てくれた詩子を、
あいつの気持ちに足りるほど、俺はあいつを愛してやれたのだろうか?
「・・・送ってくれる?」
「あそこか?」
「うん」
 あの森へと戻っていく。
 また明日来る。と俺が約束して、2度と来ることのなかった場所。
「自転車、直ったんだ?」
 俺は一度投げ出した自転車を起こす。
少しライトが歪んでいたが、走るのには申し分ない。
「行くか」
「よっと・・・」
 詩子が後輪の上へまたがる。数日前にスクラップ同然だった俺の自転車は、
二人分の体重に勇ましくも耐えてみせた。
「じゃあ、走るけど・・・」
「なに?」
「ゆっくり行くか?」
「ううん・・・速く行こうよ」
「よぉし!!」
 自転車は勢いよく走り出した。すっかり暗くなり、人通りも絶えた
通りに車輪の音がけたたましく響く。
「そりゃああ!」
「わあ!速い速い!」
「まかしとけ!」
 誰もいない住宅街を、一台の自転車が風のように駆け抜ける。
辺りの風景がすごいスピードで後ろに吹っ飛んでいき、体には心地よく
空気の抵抗を感じる。
「おりゃああああ!!」
「わあ・・・護、すごく速いよぉ〜」
「スピード緩めるか?」
「ううん、もっと速く行こうよ!」
「よっしゃああああ!!」
 さらにスピードを上げる。辺りの風景が流れるように過ぎていく、
それは幻のように見えた。
「だいじょぶ、護?」
「なんのこれしき・・・」
「そう、だいじょうぶだね♪」
「ええい、もうちょっと心配しろよ・・・」
「あはは・・・」
 幻想の終着点へと、二人は走っていった。
 別れが近づいている。そこまでの道のりを、二人は風のように走り抜けた。
「きゃー!落ちる、落ちるよ!」
「ぐえ」
「あぶなかった・・・」
「おい・・・離せよ・・・」
「いいじゃない、このままで・・・」
「・・・・・・」
 詩子が首に抱きついたまま離れなかった。ただ、そうしていても
泣き出すのはどうにか押さえているようだった。
もちろん、俺はスピードを緩めなかった。
 悲しかった。それは俺も同じだった。それでも今、止まることはしなかった。
止まってしまえば、俺はもう森にたどり着けない。詩子は、
森へと帰らなければならないのだ。
「護・・・」
「もうすぐだぞ」
「うん・・・」
「ほら、顔上げろよ。森が見えてきた」
 それはちっぽけな雑木林などではない。あらゆる物語をたたえた神秘の森だった。
二人の始まりと、そして終わりの場所だ。
「ほら、着いたぞ・・・」
「はあ・・・」
 森の入り口で自転車を止め、そこから歩いて中へと入っていく。
詩子はゆっくりと、だがどこかおごそかな雰囲気で森の中へと入っていった。
「どこまで行くんだ?」
「森の中央・・・」
 辺りは真っ暗で何も見えない。だが道に迷うようなことはなかった。
二人は導かれるように、森の中央へと進んでいく。
「もうすぐだよ」
「ああ・・・」
 しばらく進むと、やがて大きな広場に出る。そこは木々が作り出した
ステージだった。木々の意志が作り出した森の聖地。
「護も、来て」
「いいのか」
「うん」
 詩子に先導されて、俺もその広場の中央へと進む。そこには
森の意識が集中していた。風の音も、木々のざわめきも、虫の声も、
すべてが手に取るように伝わる。不思議な空間だった。
「もう、あと少しだよ・・・」
「・・・そうか」
「護・・・ありがとう、今まで・・・」
「礼なんて言うな。俺なんてまだ、詩子になにもしてやってないのに」
「ううん。あたし、幸せだったよ。護に会えて、護にふれて・・・あたしは、
 幸せだった・・・」
「泣くなよ・・・」
「うん・・・」
 詩子は必死で泣くのをこらえていた。俺も悲しかったが、もちろん
俺が泣くわけにはいかない。
「ほら、笑ってくれよ。詩子」
「う・・・」
「な、笑ってくれよ・・・」
「・・・」
 詩子は震える肩を押さえつけながら、無理矢理に微笑もうとする。
「詩子・・・」
 詩子は微笑んで、俺の方を見た。涙を辺りに散らばせながらも、
いつもの笑顔をのぞかせてくれた。 
「あたし・・・護のこと忘れないよ。人間じゃなくなっても、あたしは
 ずっと護のことを想ってるよ」
「それは、俺も同じだ・・・」
「でも、きっと護はあたしのこと忘れちゃうよ」
「そんなことない」
「・・・ほんとう?」
「本当だとも」
「ずっと忘れない?」
「ずっと忘れない!」
「それじゃあ・・・」
 詩子が片足で、くるっと一回転する。
「それじゃさ、結婚式、やらない?」
「あ?結婚式?」
「そうだよ、人間の結婚式」
「ここでか?」
「ここでだよ」
「二人だけで?」
「二人だけで!」
「まあ・・・いいけど」
「やった!」
 詩子が、ぴょんっと飛び跳ねる。
「しかし、この格好でね・・・」
「文句言わないの!」
「あ、そうだ。ほら、詩子」
 俺は羽織っていたウィンドブレーカーを詩子に頭からかぶせてやった。
「わ、なに?」
「新婦のベールだよ」
「黒いベール?」
「文句言うなよ」
 詩子はほんとうに嬉しそうに微笑んでいた。
「それじゃ・・・誓いの言葉」
「それって、どっちが先に言うんだ?」
「うーん・・・新郎、じゃない?」
「ほんとか・・・」
「新郎、住井護はあたしに永遠の愛を誓いますか?」
「・・・誓います」
「生涯変わらず、愛し続けることを誓いますか?」
「誓います」
「果てるときもやめるときも・・・」
「もういいだろ、それになんか違うぞ」
「あはは・・・そうだね」
「ほら、お前の番だろ?」
「う、うん・・・」
「えー・・・新婦、柚木詩子は・・・俺に・・・永遠の愛を誓いますか?」
「誓います!」
「よし、じゃ次・・・」
「護、顔赤いよ」
「うるさいな・・・」
「それじゃ、指輪の交換かな?」
「指輪なんて・・・ないぞ」
「え〜っと・・・」
「あ、そう言えば・・・」
「なに?
 俺は思いだして、詩子のかぶっているウィンドブレーカーのポケットから
一片の金属を取り出した。
「それ・・・なに?」
「元は、クリスマスプレゼント。今は結婚指輪」
「え・・・」
 それは金色の髪飾りだった。詩子の髪へパチンと止めてやる。
「・・・護」
「ほら、式の続きだぜ?」
「あ・・・どうしよう。あたし持ってないや」
「なくってもいいけど・・・」
「そうだ。じゃあ、これ」
 詩子は今まで自分が付けていた髪留めに手をやった。
「それを、俺が髪に付けるのか?」
「織物で出来てるから、指にまけるよ。ほら」
 くるくると、詩子が俺の薬指へとそれを巻き付ける。
 赤と黒の混ざるその結婚指輪が、俺にはとても綺麗に見えた。
「はは・・・いい感じだな」
「でしょ?」
 森が共鳴を始めていた。木々たちが囁きだすのが俺にも聞こえる。
「じゃ、次はなんだ?」
「誓いのキスだよ・・・」
 森が一斉に呼吸し、その存在の中心がこの広場へと集まってくる。
 広場がやわらかな空気に包まれ、辺りの木々や草花はうっすらと発光して広場を照らす。
「それじゃあ・・・」
「・・・・・・」
「上向けよ、詩子」
「恥ずかしいよ・・・」
 俺はくいっと詩子の顎をつかんで上を向けさせる。
「あ・・・」
 黒いベールをまくって詩子の顔を確認すると、そのまま唇を重ねた。
「ん・・・」
 詩子が俺の首に抱きついてくる。俺は詩子を下から抱きかかえてやって
それを受け止めた。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
 ゆっくりと、キスは続いていた。その間にも森の呼吸は止まることがない。
広場に集結する森の意識は、もはや最高潮に達していた。
始まろうとしていたのだ。
「はあ・・・」
 唇を離す。詩子はとろんとした目つきのまま、俺に抱きついていた。
俺も離れることなく詩子を抱き続ける。
「護・・・」
「詩子」
森が開かれる。森の力が天へと示される。森の力は月へと届き、
月は共鳴を始める。
 かつて森に降りた星屑。だが星は空へと帰る。その約束が果たされる。
「詩子!?」
「護、そのまま・・・お願い・・・」
 詩子の体から無数の星屑が舞い散っていく。それまでの
魔法の加護が、次々と詩子から離れていく。
 詩子は俺の首筋に顔を埋めたままで、表情が読みとれない。
だが星屑の四散は止むことがない。
「さよなら・・・護」
「詩子!」
 魔法は解けていった。それは幻想の終焉だった。
 詩子の体から少しづつ体温が失われ、腕に伝わる感触も弱くなっていく。
俺はそれを認めようとせずに、腕へ力を込める。
「詩子!!」
「髪飾り・・・大切にするよ・・・」
 
       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 意識が途切れていた。気がつくと俺は一人、森の広場に立っていた。
森は何も言わない。答える者はいない。俺は脱力して、その場に倒れ込んだ。
「・・・・・・」
 ・・・夢?
 それまでの記憶の一切が希薄になっていた。それこそ夢を見ていたように、
ひどく曖昧なのだ。
「あれ・・・?」 
 ウィンドブレーカーがない・・・これだけ寒いのに、なんでだ?
 いい天気で・・・といっても真夜中だけど。頭上には綺麗な星空が見えた。
「・・・・・・」 
 ふと、手に違和感を感じる。俺は顔の前に左手を持ってきた。
「・・・・・・」
 赤と白のコントラスト・・・髪飾り?
 俺はがばっと上半身を起こした。
「詩子!!」
 目の前には、足跡と思われるものが森の奥へと続いていた。
「詩子!!」
 俺の声は無意味に響き、森へと消えていった。

        ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「・・・でだな、住井。あの後・・・」
「・・・・・・」
「・・・聞きたくないのか?」
「興味ないな」
「なんだよ。お前、あんなに俺をたきつけてたくせに・・・」
「・・・・・・」
「まあ、いいけどな」
 春の陽光は暖かで、その恩恵は誰にもわけへだてなく訪れる。
しかし俺の心はどこへいってもなにをやっても、冷めっぱなしだった。
「・・・いい天気だ」
 教室のイスに寄りかかり、空を仰ぎ見る。
 空はどこまでも続いているようだった。どこまでも果てなく、続いているようだった。
「住井・・・お前は、彼女できたか?」
「・・・・・・」
「そんなこと言ってられないか、もう俺達も3年だしな・・・」
「・・・・・・」
 
 俺は今も時々、あの森へと行くことがある。
 行って、一人あの広場で寝そべる。あの時と違い、もう森の声が
聞こえることもないが。
 あの髪飾りを持って、俺はそこに居続けた。かつて詩子がそうしていたように。
 戻ってくるとは、思っていなかった。かつて再会できたことだけでも
奇跡そのものだったのだ。そうそう奇跡は起こらない。
「ふあ・・・」
 それでも俺は、そこを離れることがなかった。いつまでも、
森のざわめきに耳を傾けていた。

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