「白い杖の歌」 投稿者: カレルレン
          一

「くすぐったいよ」

 オレの指の動きに会わせて、みさき先輩は小さく呻いた。

「だめだめ。がまんして」

 先輩の背中をなぞる人差し指が、制服越しに肌を感じている。ふにふにと柔
らかかった。

「さ、終わったぜ。今、何て書いたか分かる?」

 先輩は後ろを向いたまま「う〜ん」と唸り、今し方オレの指がなぞった背中
の文字を読み取ろうと頑張っている。右手拳を顎に当て、真っ黒な瞳をぱちっ
と開き、長く綺麗な黒髪を風に靡かせ、背中一面に神経を集中させているのだ
ろう。

「あ、分かったよ。『うなぎ』だね?」体を椅子ごとこちらに向けて言った。

「ブブー。はずれ。『うさぎ』って書いたんだよ」

「うぅん、おしいなぁ。・・・でも『うさぎ』も『うなぎ』もあんまり変わら
ないよ」

「いや、大きく違うぞ。ほ乳類と魚類は、別物だ」

「一文字違いだよ」

 先輩は口をすぼめて不満そうにそう言った。それがとても面白くて、可愛く
て、笑ってしまった。
 放課後の食堂はオレたち以外に誰もいなくて、場違いなほどにがらんとして
いた。オレの笑い声も、先輩の声も、よく響きわたった。

「むうぅ、もういいよ。今度は浩平君の番だよ」

 先輩はそう言ってオレの肩のあたりをペシペシと叩いた。勢いで椅子がくる
んと回った。

「なんて書こうかな」

 オレの背中から先輩の弾んだ声が聞こえた。

 ピトッ、と背中に小さな感触が走り、先輩の指が滑り始めた。
 真横に先輩の指が走った。そしてそのまま真下になぞられ、斜め上に上がり、
また真横に長く走ってから、一度指が離れ、長く書かれた横線に直角に交差す
るように縦方向の線が引かれた。

 ・・・これは『み』だな。

 続けざまにまた、ピトッと指が置かれる感触を背中に感じた。弾むような感
じで文字が書かれる。

「ふふふふふ」

 先輩の声も弾んでいた。
 くりくりと背中で指がうごめく感覚は、確かにくすぐったかった。自然と頬
の筋肉も緩む。
 今度の文字は分かりにくかった。普段から文字を書き慣れていない先輩の指
が描く、暗号のような文字を解読する。

 ・・・今度の文字はたぶん『さ』だ。

 『み』と『さ』が続いたんだ。次の文字は自ずと予想できた。そしてそれは
最後の文字だろうということも予想できた。

「ふふ」

 楽しげな声とともに、オレの背中に文字が書かれる。答えが分かってしまえ
ば、でたらめに引かれる縦線や横線、幼い頃に見たっきりの記憶を頼りに書か
れるめちゃくちゃな「とめ」や「はね」も、全てが簡単に理解できた。そして
それはみさき先輩に覆い被さる暗い現実を、垣間見ることでもあってすこし悲
しかった。

 ・・・『き』


          二

 21時ちょうどに、電話のベルが鳴った。
 オレは居間にある黒革のソファーに寝そべりながら、垂れ流されるTVニュ
ースをBGMにして、乳白色の壁紙をぼんやりと眺めていた。

「こんばんは、浩平君」

 町中に張り巡らされた無数の電話線をかいくぐり、みさき先輩の声はオレの
耳に届けられた。緑を食べ尽くしてばかりの文明にも、その時ばかりは感謝せ
ずにいられなかった。

「よくオレだって分かったね。受話器を上げただけだってのに」

「いつも浩平君が電話にでるからね」

 受話器を通しての先輩の声が鼓膜を揺する。気持ちが良かった。

「それは分からないぞ。今、話しているオレは浩平じゃないかも知れないぞ」

「じゃあ、だぁれ?」

「浩平2号」

「はじめまして、浩平2号君」

 先輩はフフフと笑っていた。

 たとえホントに浩平2号がいたとしても、この可愛い笑い声はオレだけのも
のにしておきたい。誰にも譲りたくない。


          三

「おいしいね」

 口にスプーンを持っていきながら、みさき先輩は言った。

「ああ、うまい」

 いつものように、先輩の大食漢ぶりを上目遣いで見ながら、オレはAランチ
を食べていた。

「おかわりしようかな?」先輩は3つ目のカツカレーを平らげている。

 オレのスプーンは、先輩のスプーンの速さの5分の1で動いていた。

 昼休みの食堂は、オレたちを含めたくさんの生徒でごったがえし、冬の冷気
も吹き飛ばすほどの喧騒に包まれている。それでもオレの声と、先輩の嬉しそ
うな声は、お互いの耳にちゃんと届いていた。

「次は私もAランチにするね」

 浩平君といっしょだよ、と付け加えた先輩の口許は、カツカレーのルーがベ
トベトとくっついていた。スプーンを置き、楽しげに微笑む先輩とは対照的に、
口許にベトベトとくっついたカツカレーのルーが、オレの心に真っ暗な現実を
投げつけた。


          四

 イブ。
 一本の蝋燭が夜の教室に点った日、ふたつの真っ暗な瞳にオレの姿が映るこ
とはなかったけど、たったひとつの心はしっかりとオレを捕らえていた。


          五

 21時ちょうどに、電話のベルが鳴った。
 オレは居間にある黒革のソファーに寝そべりながら、夕方から降り出した冷
たい雨が縁側を叩く音をBGMにして、15秒ごとに切り替わるTVCMをぼ
んやりと眺めていた。

「こんばんは、浩平君」

 世界中に降り注ぐ無数の冷たい雨水をかいくぐり、みさき先輩の声はオレの
心に届けられた。うっとおしいばかりの冬の雨が、この時ばかりは大観衆の拍
手のように思えた。

「こんばんは、みさき先輩」

「あのね、ちょっと聴きたいことがあるんだよ」と先輩は言った。それはまる
で公園の緑の芝生の上に、真っ白な鳥の羽が舞い落ちるようなくすぐったいし
ゃべり方だった。「浩平君、チョコレート、好き?」

 オレはわざと間をおいてから

「好きだよ」

 甘い物は大好きだ、と付け加えた。

 明日はバレンタインデーだった。

「良かった。浩平君、チョコレート嫌いだったらどうしようって思ってたんだよ」

「チョコ、くれるの?」

「うん。ホントはね、内緒にしといて、明日、びっくりさせようって考えてい
たんだけどね」

「ありがとう、先輩」

 ホントにありがとう・・・

「でも期待しないでね。初挑戦なんだから」

「大丈夫なのか?」

「うん、お母さんに手伝ってもらいながら作ってるから大丈夫だよ。たぶん」

「たぶん?」

「うん、たぶん」

 てへへ、と笑う先輩。きっと可愛らしい口許からは小さなピンクの舌がちろ
っとのぞいているのだろう。そして長く綺麗な黒髪を頭の後ろで束ねて、それ
をゴムバンドかヘアピンか三角巾で留めていて、薄い青色のエプロンを着て、
それにたくさんのチョコレートが飛び散っていて、いつも優しく微笑む柔らか
い頬や受話器を握る手の平や真っ白な腕もチョコまみれで、柔らかく溶けたて
のチョコが電話機の上や木目の床にボタボタと垂れて、先輩は永遠にそれに気
が付くことが出来なくって・・・。

 ホントに、ホントにありがとう、みさき先輩。


          六

「動いちゃダメだよ」

 夕焼けに赤く染まるみさき先輩の顔が目の前にあった。
 放課後の屋上はいつものように肌が切れるほどに寒かったけど、オレと先輩
はそこにいた。

「分かってるよ」

 先輩の顔がさらに迫ってくる。徐々に徐々に。そして・・・

「う〜ん、浩平君の頭ってこんな形してたんだ」

 先輩の手がオレの頭を掴んだ。

「髪は思ったより短いんだね。うん、さっぱりしてていいと思うよ」

 髪の毛をクシクシといじられる。

「あ、これは眉毛だね」

 小さなふたつの手と二十本の指が、オレの顔の上を滑らかに滑る。

 先輩に顔の形を探られている間、オレは突っ立ったまま何も出来なかった。
すぐ目の前で先輩のピンク色の唇が光っていた。恥ずかしいやら、どぎまぎす
るやらで、先輩の顔をまともに見ることが出来ない。それなのに先輩の瞳は大
きく見開かれていて、それが余計にオレの恥ずかしさを増していた。
 真っ黒なふたつの瞳は夕焼けを赤く反射させていて、綺麗だった。

「これは目だね。あ、睫毛、長いね」

 暖かい両手の親指に、つーっと瞼を撫でられた。

 この時ばかりは、不謹慎だけど、先輩に降りかかった忌まわしい過去がオレ
に味方してくれたようだ。そうじゃないと、オレの、夕焼けより赤く染まった
照れた顔を、先輩に見られてしまっただろう。

「あ、鼻があった」

 頬に当たる先輩の手の平から暖かな体温が伝わってきた。

 オレにとっては65点の、みさき先輩にとっては75点の夕焼けの下、朱色
に染まった屋上の上に、オレたちはいた。確かにそこにいたんだ。

「私は浩平君の顔は見られないけど、こうやって、どんな顔なのかは分かるこ
とが出来るんだよ」

 と先輩は言った。


          七

 3月4日
 その日、桜の舞い散る公園の、ひとつのベンチにふたつのアイスクリームが
落ち、ふたつの真っ黒な瞳から大粒の涙がこぼれ、オレは2時までそこに居ら
れたけど、先輩は3時までそこに居た。


          八

 21時ちょうどになったけど、電話のベルは鳴らない。
 受話器を取るヤツもいない。ただそれだけだ。


          九

 春
 その日、屋上から空を見上げると、真っ青な天井が空にぶら下がっていたけ
ど、オレにとっては65点の夕焼けだし、みさき先輩にとっては75点の夕焼
けだった。


          十

 同じ日
 屋上に−−ふたつのアイスクリームは一年前に溶けてなくなってしまったけ
ど−−ふたつの真っ黒な瞳からやっぱり大粒の涙がこぼれ落ち、ようやくふた
つの心はひとつになった。


                              (終わり)
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こんにちは、はじめまして、カレルレンといいます。
「ONE」の川名みさきシナリオから即興小説を書きました。
起承転結を一切無視したものが書きたかったのですが、なかなか上手く
いきませんでした。精進精進。
では失礼します。

http://home4.highway.ne.jp/ksugi/renai.html