Our way is FAR to GO(1)  投稿者:犬二号


沈黙の空間。
暗い紅色の光に染まる壁。
そして、中空に浮かぶ、意思を持つ赤い月。

ふと、思う時がある。
なぜ、自分はここにいるのか。
自分は一体、何をしたいのか。
そして、何をすべきなのか。

月の問いに答えられる者は、もう、いない。
全ては…自問自答である。

「…主よ」

が、少なくとも、月には、そんな声が聞こえていた。

『…貴様か』

月は、誰かに語りかけるというよりは、まるで自分の胸に言い聞かせるように、
そう呟いた。

「…あんたは、本当に、何がしたいんだ?」

影が…壁に、何かの影が映っている。

『…貴様に語る必要が、あると思うか…?』

その影は、人間のようではある。が、大まかな姿以外、どこにも人間とは似ていない。

「是非語って欲しいね。そうでなくても、あんたの行動は俺には理解不能だ」

人類の既存の概念の中から、一番近いものを強いて言うならば…

『…断る。貴様は、いや…』

そう…

『貴様らは、私を裏切った』

その影の姿は、悪魔そのものだった。

***

      連載SS「Our way is FAR to GO」
      第1話「世界は悪意に満ちている」

***

私の故郷は、喧騒に満ちた森の中だった。
緑溢れる、水の綺麗な場所だった。
その大地に、我々は支配者として闊歩していた。

我々は、手を使わずに物を動かす事が出来た。口を使わずに会話する事が出来た。
そのような能力を、生まれつき持っていた。
そして、その事を、疑問にすら思わなかった。

その気になれば、我々はさらなる力を手に入れる事が出来た。
黒光りする固い皮膚、翼、角、牙、そして尻尾を。
新たな餌場への大移動の時や、繁殖期、出産期の時、我々は姿を変え、翼を広げ、
翼全体に見えざる力を込め、そして大空を舞った。
舞い降りた向こうで、大きな獲物を倒し、その肉を食い付くし、そして雄も雌も
お互い繁殖行為に励む。そうして、新たな命を胎内に育み、出産する。

それ以外は、毎日のほとんどを、苔の上に横たわったり、水を飲んだり、魚や虫を
かじったり、新しい餌場の連絡などに費やす。それ以外には何もない、極端に平和な、
甘美な、そして怠惰な生活だった。
それが、我々の世界だった。

そして、それはもう存在しない世界の話だ。

***

全ての崩壊は、私がこの忌まわしき奇病を病んだ事から始まる。

***

我々は、故郷の外に出る事がなかった。
いや、出られなかったと言うべきであろうか。
外に出ようとすると、体の自由が、心臓や脳の働きまでもがきかなくなるのだった。
当然、命を失わざるを得ない。
地を歩く時は意識しないが、空を飛ぶと分かる。生温い湯の中に漬っていた体に、
急に涼風を当てたような感覚がするのだ。皮膚感覚ではなく、脳で感じる寒さだ。
涼しくて一瞬だけ気持ちがいいが、これ以上寒いと命に関わるのではないか、と
しばし感じる事があった。
実際、まれに、故郷の周辺の崖から滑り落ちて、凍え付くような恐怖と苦痛の念を
発しながら死んでいく同胞の思念が、私の耳に届く事があった。
私が病気を病むまでは、私がそれを聞いたのは精々三回くらいだったろうか。

私が病んでからは、その声は私の呼吸の数とほぼ等しくなった。

***

体の変調に気付いた時にはもう遅かった。
全身が、原因不明の熱と寒気と痺れに襲われ、一歩も動けなくなっていたのだ。

さらにおぞましい事に、皮膚が、繁殖期の時のよりはるかに固く、まるで石のように
なっていった。
全力で動こうとしたが、無駄だった。筋肉にまで、この石化は達していたようだ。

足が動かず、手が強張り、しまいには、朝起きた時に瞼すら上がらなくなっていた。
意識ははっきりしているのに、何も見えず、何も聞こえなくなっていった。

そして、能力を使おうとすると、全身にすさまじい激痛が走るのだった。それも、
氷のように凍てつく棘を全身にまとった、マグマのように熱い酸を吐く小さな蟲が、
何千匹、何万匹と這いずり回り、肉の部分をじわじわと消化液で溶かし、ブラシで
削ぎ落とし、食い荒らしていくような、そういうすさまじい激痛だった。
それが、肉の中と外、両方から侵食していくのだ。
全身をミンチにされるような苦痛の中で、私はいっそ、死を望んだ。

蟲が肉の内で結晶を作り、肉全体に塩をすり込まれるような痛みが続いた後、
体の中に、何か固いものがたまっていくのが分かった。呼吸をする度に、筋肉の
動きに従って、その塊が、ごりっ、ごりっと肺や心臓を圧迫するのだった。

最初は砂利のようだったそれは、次第に、人間共が占いで使う、丸い水晶玉大の
大きさになっていった。
仕舞いには、一呼吸毎に、その、棘蟲と塩の結晶と砂利と水晶玉の群が、私の肉を
ありとあらゆる手段でずたずたにしていった。
その、生きている事に絶望する程の苦痛を味わう度に、私は悲鳴を上げた。
悲鳴を挙げる度に、呼吸器官が破裂するのではないかと思ったが、それでも私は
叫ばざるを得なかった。
呼吸器官が閉じていくに従って、それすらも叶わなくなっていったのだが。

横隔膜までもが固まった時、私は死を覚悟した。
酸素が体内から少しずつ失われていくのが、混濁していく意識にもはっきりと
感じ取れた。
死んだ同胞達も、こんな思いで死んでいったのかと思うとぞっとした。
他の老人達のように、ある日突然、ふっ、気を失って、そのまま死ぬのではない。
意識のあるまま、死を直に経験していくのである。
私は、心臓がぞくりと震えるのを感じた。が…その震えは、もう、体をこれ以上
生かすのには何の役にも立たない震えだった。

そして、あの激しい痛みが…意識が止まった。

***

…
何ダ、コレハ…
分カラナイ…
アノ悲鳴ハ、確カニココカラ聞コエテイタガ…
デハ、コレガ原因ナノカ?
何ナノダ、コレハ?
何ヤラ、血塗レダガ…
マサカ、生物ナノカ?
調ベテミレバイイ…語リカケレバ分カル…
…

***

仲間の声が聞こえる。

「…生キテイル…ドウヤラ、何カノ生物ノヨウダ」

そうか、まだ私は生きているのか。

「…意識ガアルラシイ…モウ少シ、語リカケテミヨウ…」

意識がある…
どうやら、私は夢を見ているのではないらしい。

「…我々ノ声ガ聞コエルカ…?」

聞こえる。感度良好だ。
さっきまでとは比較にならないほど、意識が明瞭だ。
それに、なぜだかしらないが、痛みもほとんど取れている。
峠を…越したのか。

「…答エタ、トイウコトハ…マサカ、我々ト同ジ、仲間ナノカ?」

その通りだ。もはや、病気のせいで、見る影もなくなってしまったが。

「…マサカ…信ジラレナイ…」

仲間の声が、映像として脳に流れ込んでくる。
相手は、一人、二人、…五人か。雄雌入り交じり、例の特殊形態で、警戒の表情を
している。大型の獲物を狩る時の、最小単位だ。
彼らにとっては残念ながら、私は獲物ではなく、同胞だったという所か。

「…イヤ…貴様ハ、獲物ダ…」

(…何?)
どういう事だ?

「貴様ハ、確認次第、殺ス事ガ決マッテイル…」

殺す?

何だって?
何を言ってるんだ?
なぜ私が殺されねばならないのだ?
おい、どういう事だ!答えろ!

が、そんな私の激しい当惑に対して、彼らの返答は一つだった。

「問答無用!死ヌガイイ!」

***

私は、自分が取った行動に、我ながら驚いていた。
今まで全く動かなかった体を、いきなりすさまじい高度にまで飛ばしていたのだ。
回避行動を取ろうと思ったのは事実だが、ここまで力が増幅しているとは思っても
みなかった。今まで、抑えられていた力が、一気に外に吹き出したような感じだ。

それにしても、一体どれほどの高さにまで昇ったのだろう。
私は、念を込めて、見えない瞳に力を込めた。

私の脳裏に浮かんだのは、故郷の森だった。
雄大な森の一画が、上から俯瞰して見えた。
我々がいつも飛ぶのより、さらに高空から臨んでいる、そんな風景だった。よほど、
高くに飛んでいるらしい。

そう言えば、故郷独特のあの感覚が、大分薄れている。
涼しい。
いや、むしろ、寒いくらいだ。
あの、峠に入っていた時の、全身を貫く氷の棘のような凍えには及ばないにしろ、
脳が冷水に直に浸されるような、キーンという頭痛があった。

やけに、静かだった。
いつもは、同胞のおしゃべりの声が、木の葉のざわめきのように聞こえてくるのだが、
それがない。

(何だ?)

私は塞がれた瞳で、さらに森を覗き込む。

森には同胞が寝転がっていた。
皆、一様に驚いたような表情で、地面に伏せっていた。
中には、飛んでいる最中に墜落したのか、無惨にも骨折した同胞の姿もあった。

…違う。こいつら、寝転んでいるんじゃない。
生命反応が見られない。

こいつら…死んでいるんだ。

私はそれに気付き、愕然とした。
沈黙の森。死者の森。
そう…
いつの間にやら、私の故郷だった所は、滅びの森と化していたのだ。

…どうして?

何で皆、死んでいるのだ?
どうして皆、一様に驚いたような表情をしているのだ?
予想外の「何か」が起きて、全員一瞬のうちに突然死したのか?
一体、なぜ…?

驚きのあまり、思考がまとまらない。
悲しみのあまり、何も考えたくない。
なぜ…何で、こんな事になってしまったのだ?
何が起きたというのだ?
なぜ、私の知らない間に、世界は滅亡してしまったのだ?

どうして…
…っ…
…どうして…

(なぜだ!何が起きた!誰か答えてくれ!答えろ!)

答えろっ!
答えろっ…
答え…

…

***

驚きと悲しみと怒りの混じり合う、私の複雑な感情と、虚ろな思考を掻き乱したのは、
またしても奴等の声だった。

「待テ!降リテコイ!コノ、裏切者メガ!」

(…裏切者?)
何の話だ。私が誰を裏切ったというのだ?

「貴様ハ、我々ヲ、我々ノ仲間全テヲ裏切ッタ!」

もっと分かるように説明しろ。問答無用でない、ちゃんとした説明を。

「イイカ!貴様ハ、我々ノ仲間ヲ、虐殺シタノダ!」

…虐殺…だと?

馬鹿馬鹿しい!私は、病んでいる間、ずっと動けなかったのだ。同胞を殺すだけの
力など、あったものか。何を言っているのだ、こいつらは?

「分カラヌヨウダナ!ナラバ、見セテヤル!貴様ガ一体、何ヲシタノカ!」
「貴様ニモ知ッテモラオウ!我々ガ貴様ノセイデ、ドノヨウナ目に遭ッタノカヲ!」

***

頭の中に、何かの映像が流れてくる。
上空からの映像、地上からの映像、色々な角度からの映像が、人数分入ってくる。

いずれにせよ、その映像には、一つ、はっきりと特徴があった。
まだ、皆、生きている。
生命の躍動感に溢れたイメージだ。
一瞬だけ、私の心が和らいだ。幻覚だとは知っていても、あの絶望的に荒涼な現実に
比べれば、よりこちらの方がリアリティが感じられた。

そして、異変はすぐに訪れた。

全身を貫く、凍えるような感覚。
冬も最中の大吹雪が、濡れて凍えた体を横切るような感触。
全身がが凍てつくような痛み。
いや、単に凍てつくだけではない。肉全体を貫くような、削ぎ落とすような、溶かす
ような、焼き尽くすような、染みるような、擦り付けるような、押し潰すような…

待て。
これは、私のあの時の感覚、そのままではないか!

唯一の違いがあった。
頭が割れるような痛み。
鐘の中に、爆薬を破裂させた後のような痛み。
誰かが、叫んでいる。身も世もない声音で、果てしない苦痛に悶えている。それが、
私の全身に重く響いているのだ。

周りの同胞達は、ある者は心臓を押さえ、ある者は脳を押さえ、そのまま事切れて
いった。
次々と死んでいく。ばたばたと死んでいく。あまりのすさまじさに、事態が正常に
把握、認識出来ない、言わば頭が空白になるほどの凄惨な光景だった。

…待てよ。

(…まさか…この声は…!)

***

「ソウダ!貴様ノ声ダ、コノ疫病神野郎ガ!」

奴等の声で、私は正気に戻る。

「コノ声ニ、何度モ晒サレ続ケタ結果、我々ノウチ、半分以上ガ犠牲ニナッタ!」
「イヤ!最早、ホボ絶滅シタト言ッテ差シ支エナイダロウ!」
「貴様ハ、ドウ言イ逃レヨウガ、我々一同ヲ絶滅サセタ張本人ナノダ!分カッタカ!」

そ…んな…
私が、故郷を滅ぼしたって?
あれほどいた仲間達を、ほとんど全員、あの呻き声で殺したって?
辛くて、苦しくて、どうしようもなくて吐いた悲鳴が、この森を滅亡に導いたって?

…馬鹿な!
馬鹿な馬鹿な馬鹿な!
そんな馬鹿な!
私が…嘘だ!そんなのは!
嘘だ!

「…往生際ガ悪イ奴メガ…ヤハリ、コイツダケハ許シテハオケヌナ…」
「イイカ!貴様ニ許サレテイル道ハ、タッタ二ツ!」

(…二つ?)
何の話だ?

「…貴様、今ココデ死ネ」

(な…)

「…サモナクバ、我々ニ黙ッテ殺サレルガイイ。コノ二ツダケダ、貴様ニ許サレテ
イルノハ!」

(…何だって…?)

私は、彼らが何を言っているのか理解出来なかった。

「ソウダ!少シデモ、貴様ニ我々ヘノ仲間意識ガアルトイウノナラ!我々ガコレ以上
死ナナイタメニ、貴様ハコレ以上生キテイテハナラナイノダ!」

(…死ね…だと!)

私はようやく、彼らの言っている言葉の意味を理解した。

「サア、選ベ!」
「選べ!自殺カ、処刑カヲ!」
「選べ!」

選べ選べ選べ選べ選べ…

(…選べ、だと!)
冗談じゃない!そんな事、選べるとでも思うか!

「…決マリダナ」

同胞の、冷たい死刑の宣告が聞こえたような気がした。
一瞬後、私の体が、太く鋭い、槍のようなものに貫かれていた。

***

気が付いたら、地上に、さっきまで私を糾弾していた同胞達が倒れていた。
全員、死んでいる。

私の体からは、激しい勢いで、大量の血と、そして赤い半透明の血塊が数個、勢いよく
吹き出していた。
この血塊だったのか、私をあれほど内側から苦しめていたのは。道理で、何やら、
体が軽い。いい気分だ。

が、ある時点から、今度は逆に、体が急激に重くなってきた。血が止まらない。
妙に…眠い。
ひょっとして、今度こそ本当に出血多量で死ぬのではないか?

ぼやけた頭で、必死に記憶を遡る。
恐らく、奴等は念力を集中させて、私の体に大穴を開けたのだ。
そして、私は…
大声で叫んだのに違いない。あの、同胞を死に導く苦悶の声を。

その結果が、今の現状だ。
そこまでは、何とか理解出来た。

しかし、どうしたものか…
まず、死ぬか否かが問題だ。

すぐに私は念力で無理矢理止血したのだが、失われた血の量は予想外に多く、また
それをもう一度入れ直す事は出来なかった。空気と大地に晒された血を取り戻して、
傷口が逆に化膿してしまっては意味がない。
今のままでもすぐに死ぬ事はないのだろうが、命が危ない事には変わりはない。

それに、正直、今、積極的に生きる意欲は失せていた。
正常に物を考える身体状況ではなかったし、それに死ぬほど眠かった。
何より…
故郷が、完膚なきまでに滅び絶えてしまっている。
しかも、私の責任で、だ。
この、誰もいない、何もない故郷で、どう生きろというのだ?
…生きる気力が、涌くはずもない。

(このまま…死ぬというのも…悪くないな…)

生きていて、何になる?
もはや、ここには私しかいないのだ。
そして、私は、かつての私とは、まるで違った存在になってしまった。
今までのように生きる事は、もう、不可能なのだ。

(…)

私は、ゆっくりと、全身から力を抜いていった。
高度がどんどん落ちていく。このまま地上に墜落したら、私は死ねるだろうか。
傷口が再び開く。あとどれほど血を失えば、私は死ねるのだろうか。

もう…どうでもいい。
私は、意識的に、また無意識的に、自らの手で全てを葬り去り、そして今、自らをも
葬り去ろうとしている。
眠い…
今度こそ…誰も邪魔するな。
今、邪魔されれば、私は…

***

…奴ダ…
…仲間達ハ、殺サレテシマッタノカ…
…ドウヤラ、大分弱ッテイルヨウダ…
今シカナイ!
殺セ!
殺セ殺セ殺セ殺セ!

***

(…ッ!)

私の望みは、またしても妨げられた。
生き残っている同胞達の、恐らくこれで生き残り全員なのだろう、数十名の悪意が、
声という形で私の脳に響いた。
気が付いたら、奴等が全員特殊形態で、私に向かって念力を放っていた。集中砲火だ。

(…くっ!)

あれほど死にたいと思っていた私が、再び体に力を込め直し、奴等の念力を躱した。
傷口を掠めていく念力が、私に生きている実感を呼び戻させる。

(…何で…)

奴等が出てこなければ、あのまま私は黙って死ねたのだ。奴等だって、当然その方が
よかったのだろう。私さえいなければ、奴等は再び、緩やかながらも、確実に前に
進めたのだ。
それを…結局、こいつらは、自分自身の選択で、その未来を潰した。

(…貴様ら…ッ…!)

死ぬのは後だ。
こいつらだけは、一人として生かしてはおけない。
私は今、究極に怒っていた。

***

私は戦った。感情のおもむくまま、戦い続けた。

殺したい相手に向かって、思い切り叫び声を上げ、ありったけの念力を叩き込んだ。
相手は、派手に吹っ飛んで、そのまま二度と起き上がってくる事はなかった。

が、その瞬間、奴等は私の傷口を狙って、再び集中砲火をかけてくる。
何発か被弾し、私の損傷はその度に蓄積していった。
疲労と損傷と、そしてどうしようもない感情の鬱屈した迸りを胸に、私は暴れた。
どこまでも、体力の続く限り、奴等を屠っていった。

そして、私は確実に追い詰められてきていた。
滞空高度が、確実に落ちてくる。
周りの映像が見えなくなる。悪意の声が聞こえなくなる。

(ぐっ!?)

…そして、注意力が散漫になる。

「…今ノハ深イ!効イテイルゾ!」
「アト一息ダ!」
「喰ラエエエッ!」

全身を、激しい痛みが貫いた。
傷口が広がっていく。

(…何っ!)

そして、私は地上に墜落した。
鈍い痛みが走る。どうもこの様子では、私の外皮にヒビが入っただけのようだが、
それが逆に鈍痛を耐えがたいものにしている。
そろそろ、体力の限界のようだ。

(ヨシ!アト一息ダ!)
(アトハ、崖カラ突キ落トスダケダ!)

崖?
…崖、だと!
今の状態で、崖から突き落とされたら…

『…死ネエエエエエッ!』

(あ…)

数名分の悪意が、私の体を突き飛ばし…
そして、私は落ちていった。故郷の外、噂に知る、あの地獄のような世界へと。

***

鈍い意識の中で、それでも落下の感覚が、さっきとは比べ物にならない鮮明さで、
私の全身を襲った。
寒気と、吐気と、喪失感が、脳をよぎっては、血と共に体の外から流れていく。

そして、最後に、奴等の声が聞き取れた。

『…ヤット、アノ疫病神ヲ倒シタゾ…』
『ヤット、奴ヲ殺セタンダ…』
『コレデ、我々ニモ平和ガ戻ッテクル…』
『サマアミロ、疫病神メガ!』

…疫病神…

それを最後に、私の意識は、再び永遠の闇の中に、深く、深く沈んだ。

………
……
…

***

…
……
………

赤い月は、昔の事を思い出しながら、淀んだ紅の光をその表皮から放っていた。
余程、興奮しているのだろう。独り言なのか、誰かに語りかけているのか、判別と
しない何かを呟いている。

『いいか…世界は、運命などというものは、合理的に動いてなどいない…世界を
動かしているのは、ごみごみとした、気紛れな、穢らわしい悪意の群に過ぎぬ…』

その言葉に、さっきから微動だにしなかった、悪魔の影がわずかに揺らぐ。

『私が貴様らの天敵と化したのも、どこぞの街で神隠しが起きているのも、
整合性を欠く理…世界そのものの有する、悪意によるものなのだ…』

月の声は、語りかけるというより、子供に伝わらない説教をあえて行おうとする、
親の持つ苛立ちを多分に含んだものだった。

「…あんたもその被害者だった、と…ふん。あんた、あくまで、そこにこだわるか…」

しかして、悪魔はそんな月に対し、冷ややかにそう返した。

『…貴様こそ、なぜそれが理解出来ない…あれは不幸な事故から始まったのだ。
その事は明白だろう?なぜその点を無視しようとする?』

月の苛立ちが、一層あらわとなる。

「ふん。あんたの、あの一連の『事故』とやらに関する責任は、どうあれ変わりは
ないんだ。あんたが我々を殺したという事実は残るんだからな」

悪魔は、もはや嘲笑さえ浮かべず、純然たる軽蔑だけを言葉の端に乗せていた。

「で、あんたはそれに関して、実際に何の責任を負っている?何も背負ってはいない
だろうが。あんたがどう言い逃れしようと、私には実際にそう見えるんだから、
仕方があるまい?」

軽蔑の声色が、だんだんと、月の持つような、不毛さへの苛立ちの声色に変わる。

「あんたが我々の言い分を聞かないのに、どうして我々があんたの言い分を聞ける?」

月は、はっきりと、悪魔の言葉に嫌悪感を示したらしい。愚かな、と吐き捨てて、
数瞬の呻き声の後、こう続けた。

『…私は現実問題を話している…それなのに、なぜ貴様は、それを一々、社会的な
問題に翻訳して話を進めようとするのだ…私には理解出来ない』

悪魔も同じく、相手にどうしようもない嫌悪感を示したようだった。相手の言葉を、
そのままそっくり返した。

「…あんたこそ、人が社会的な責任を取れと言ってるのに、なぜそれを、世界だの、
運命だのの話にすり替える?」

長い沈黙が、二者の間に流れた。緊迫し切っていた空気が、どろり、と腐敗していく。
空気が解れたという類のものではない。むしろ、これ以上話し合っても無駄だ、という
お互いの苦い合意によるものだった。
こんな事でしか、合意出来ないのか。両者の胸に、絶望的な虚無が広がっていく。

『…失せろ。またも、貴様とは平行線だったようだな』

月が、やる気のない、しかし悪意だけははっきりと残っている声で、そう宣言した。

「…まあ、いいさ。次に私が出てくる時には、もう少し考え直す事だな。さらばだ」

悪魔は、少し虚勢を張って、そう捨て台詞を残し、音もなくその影を消し去った。

そして、後には、月だけが残った。

***

残された月が、己が暗い紅色の光すらも苦々しげに、何事かを呟いている。

『なぜ、こんな単純明快な真理を、己が歪んだ感情のために、あえて無視する輩が
多いものか…』

なぜ、それが理解出来ない?

『責任問題で解決すると、なぜ奴等はああまで信じているのか…』

月には理解出来ない。

『奴等は所詮愚か者だ。世界の鉄則を無視し、自分達の我儘を貫こうとするだけのな』

月はもはや、同胞を一切信じていない。
同胞が、月の事を一切信じていないのと同じくらいに。

『…奴等が何と言おうと、世界には唯一の、<奴等自身をも>支配する真理がある…』

そして、彼には、たった一つだけ、心から信じられる事がある。
それは…

『世界は悪意に満ちている。それがこの世の鉄則だ』

***

      第1話「世界は悪意に満ちている」(終)

***

あとがき

今回、まえがきを省いたのは、既に言った事ですが、一度このSSの保存データを
飛ばしたせいです。まえがきを考えている暇がなかったんですね。ごめんなさい。

「FARGO・1」、このような内容になりましたが、いかかでしょうか?
感想頂ければ幸いです。
こちらからの感想は、また後日という事で。

では、手短かですが、以上です。
「FARGO・2」、乞うご期待。