Beside 投稿者:yoruha 投稿日:9月26日(木)00時21分
「あ、店員さん追加注文。チーズケーキを」
「Yes! んー、アナタどこかで見た顔ネ!」

 金髪のウェイトレスの言葉に、にっこりと微笑む。
 余裕を持った笑み。ばれても構わない、ということだ。
 海外のレストランにも顔が知れていたか、と少し嬉しかったりする。
 気付かれて騒がれるのは困るけれど。

「ヘイお待ちッ!」
 店員が威勢良くケーキを置いた。
 言葉が、なんか間違っているような気がしないでもない。
 テーブルが揺れる。食器が鳴る。
 コップに張った水面が、テーブルの動きに呼応して、ぐるりと回って飛び跳ねた。
 そんなことは気にせずに、私はチーズケーキを受け取る。
 私の目の前には、軽めの昼食だったはずの空の皿。
 対面する位置に彼がひとり。静かに腰掛けている。
 まわりから見ている人間の視線にはどう映ったのかを考えてみる。
 兄妹か。親密な友人か。それとも仲睦まじい恋人か。
 まあ、恋人なんだけど。
「日本語が使えるレストランで良かったよ」
 つぶやく彼。
 日本とは違う暑さと環境に、若干、疲労の色が見える。
 彼の安堵の声に、小声で言い返す。
「私は気にならないけど」
「いや……一応、英語も話せるんだけど。どうも苦手意識が先に」
「うん、そうかも。確かに慣れてないと辛いわね」
 兄のせいで英語くらいは日常生活には困らない。
 独語や仏語とかも、使う機会は少ないけど覚えていたりする。
 小さく笑って、彼が口を開く。
「もう少し話せるようになっておかないと」
「ふふっ、少しくらい頼られてても大丈夫なんだけどね」
 彼の悩んだ顔。しばしの沈黙のあと、こくりと首肯。
 私たちは顔を見合わせる。
 プッ、と吹き出したのはどちらが先だったか。
 笑みを返して彼は言った。
「頑張ろう」
「と言うか、楽しみましょう」 
 私は折角のバカンスなんだから、と続けた。

 逃亡生活。
 そんな言葉は似合わないけれど。
 突然の引退宣言。追いかけたマスコミ。隠れた私。
 あらゆる噂、想像、空想。ときには真実のひとかけらを掴みながら。
 けれど未だ、答えに辿り着いた人間はいない。

 しかして、詳しいことはほとんど表には出ることはなかった。
 かわしつづけた追跡ゆえに、騒ぎは未だ留まるを知らない。
 休息のための、旅行。
 名も知れぬ小さな島。どこか遠くの夢の在り処。
 日本は冬のまま。ここでは泳げるくらいの気温がある。
 私たちは、一組の恋人であり、恋人でしかなかった。
 たとえ、私が大きすぎるほどの名を持っていたとしても。
 彼が、傷だらけの愛を持って、私の側に居続けていることも。

 なにもかも関係ない。
 ここにいるのは、幸せになりたかった恋人たちだけ。

 評判が上々らしいレストラン。
 地元のひとに訊いたらここを教えてくれた。
 島にある美味しい料理店はここしかない、というのもあるかもしれないけど。
 食事は不味いよりは、美味しいほうが良い。誰にとっても当然の理屈。
 だから私たちはここに来た。
 日本の誰もが知らないほど、小さな場所だけれど。
 銀色の波。暖かな陽光。綺麗な浜辺。透き通る蒼の世界。
 言ってしまえば、楽園みたいな島。
 私は、あと一週間くらいは日本を出たことすら知られない、と言った。
 彼はそう、とだけつぶやいて、店内に目を向ける。
 店の小ささのわりに、忙しそうに動いている金髪のウェイトレスが印象的。
 揺れる大きな胸。じっと見ているので、私は彼のほほをつねった。
 痛そう、でも止めない。
 む、と拗ねたような顔になっている、ガラスに映る自分の顔。
 手を離した。彼がつねった部分をさすりながら、謝ってくる。
 頭を下げた彼の顔に、私はコップを付けた。氷が割れる音が、パシリと響く。
 ほっぺたが赤い。彼は私の吐息を感じて。私は、耳まで真っ赤になって。
 目を合わせ顔を近づけ、あと数センチの距離。

 ちらり、と見るとコップの透き通った先に、じっと真剣にその様子を見ている人間がいた。
 振り向くと、思いっきり目を逸らす彼女。
「……エー、コホン。ワタシ、ナニモミテナイデスヨー」
「なんでいきなりエセ外人になるんですか」
 困ったように、彼が言った。
「あぅ」
 恥ずかしい。
 しかも、さっきまで(少しイントネーションはおかしかったが)日本語を話していたひとだった。
 天然という単語が頭に浮かんだ。知っている天然とは違うタイプの天然だけど。
「Verygood!! ラヴァーズならそのくらい人前でやらないとダメネっ!」
 自信満々な風体で、体を反らして胸を張り、親指を立てながら笑って去っていった。
 HAHAHAHAーッ!! と響く声。
 わざとらしかった。
 この状態で続けられるほどの根性は無かったけど、一応、彼に訊く。
「えーと、ど、どうする?」
「……続きはあとで、ってことにしておこうか」
 うん、と微笑む私。
 残っていたカップの紅茶を飲み干して、感情を済ませようと、立ち上がる。
 チップは……渡そうと思っていた相手は隠れて見ているから止めておく。
「じゃ、払ってくるわね」
「待ってる」
「ええ」
 彼の言葉に応えて、歩き出そうと一歩を踏み出した。

 その足音をかき消すように、別の足音が響いた。
 入り口のドアが大きく開く。
 からんからん、と可愛らしい鈴の音。
 小さく横を見ると、どこか見覚えのある顔。

 誰だったっけ。

 そんな思いを抱く。
 頭を回る記憶。直接会ったことはないだろう。
 ブラウン管。――そう、なじみ深いブラウン管の内部世界。近くて、遠い場所。
 近すぎて、目の前も見えないくらいで。だから遠くなった場所。
 っと、思い出した。
 最近になって名の知れてきた国際ジャーナリスト。
 確か、レポーターの真似事もやっていたような。

 確か名前は、長岡志保だったか。
 何故こんなところにいるのか。偶然にしてはなかなか厄介な相手。
 仕方ないから、目配せしておく。彼が不思議そうな顔をした。
 彼女から隠れるか、否かを考えて……座る。
 とりあえず、残すつもりだったチーズケーキの一切れを口に運んだ。


「やっほーっ! レミィいるー?」
「OH! どうしたのシホ? また最新情報でもアリマシタ?」
 どうやら金髪女性と知り合いらしい。
 案外に胸が大きい。彼の視線がそっちに行かないように、遮る。
 彼女たちの会話を聴きつつ、小さく手招きをした。
 不安顔の彼が近づいてきて、あっ、と驚きの声をあげた。ようやく気付いたらしい。
 彼の口をすぐに手で塞いだので、音は漏れなかった。
 苦しそうだけど我慢してもらいたい。少しの間を空けてから、手を離す。
 話に耳を傾けながら、視線で彼に注意を促した。
「って、日本語、まともに使えるようになってるくせに、なんでニュアンスがおかしいのよ」
「クセに決まってるネ!」
 AHAHAHA! と笑い合うふたり。
 仲間か親友か。どっから見ても、仲良しにしか見えない。
 こういうの、ものすごく羨ましい。
「はいはい。バイトが楽しいからって遊んじゃだめよ、ったく」
 こくこく、とうなずく彼女。
 満足げにぽん、と手を打つ長岡さん。
「そうそう。忘れるところだったじゃない……数年ぶりの志保ちゃんニュースよ!」
 大げさに手を振り、店内をぐるりと回す。拍手ーっ、と叫んだ。
 ギャラリーはいなかったが、レミィさんとやらがパチパチパチと手を叩く。
 どん、と床を踏みしめて、一言づつを強く言った。
「この島に、あの、緒方理奈が潜伏してるっていう情報が入ったのよ!」
 潜伏って。
 まあ、いいけど。
「尾が足りネ?」
「オ・ガ・タ・リ・ナ!」
「……YES! わかったヨ!」
 うんうん、と絶対分かってない様子で頷くレミィさん。
 こっちを見ながら言っているし。
「突如引退したトップアイドル! 噂が噂を呼び、今やその存在を探して走り回ってる人間だらけよ」
「で、そのリナがどーしたデスカ?」
 答えながら店の中に振り向く彼女。
「ここら辺にいる、って」
 ぎぎぎ、と音が出そうな動き。顔がこちらを向く。
 視線が合った。吃驚した顔になった彼女。
「話、だった、んだけど」
 息継ぎしつつ言葉を繋げ、彼女の方を見る長岡さん。
 私の名前は、緒方理奈。共にいる彼の名は、藤井冬弥。

 恋人。

 回りのことを気にして、藤井君と呼んでもいいのだけれど。
 恋人の名くらいは、名字よりもいつも名前で。
 と言うことで丁度、冬弥君、と呼びかけようとした瞬間だった。
 これ以上ないくらいに眼前で、真っ直ぐに顔が見えた。
 見間違い、で済ませられるほど遠くない。非常に近い。
 実は真横にいたんだけど。
 この距離で今まで気付かなかったあたり、なかなか面白いひとかもしれない。
「いたーっ!!」
 驚きの大声。その言葉が指し示しているのは、確実に私だろう。
 逃げるのには失敗したらしい。
 彼女たちはドアの前で話していたから、逃げるつもりも無かったけど。
 私はやれやれ、と言わんばかりに肩をすくめた。
「シホ、ラヴァーズを興味本位でじろじろ見ちゃいけないネ!」
 さっきまで興味津々に見ていた人物がいかにもなことを言った。
 兄さんみたいな切り替えの早さに、私は感心していた。
「って、この娘が緒方理奈よ! トップアイドル! 話題の中心!」
 長岡さんがこれでもかこれでもか、と説明する。
 レミィさんはうんうんと頷いて、こちらに申し訳なさそうに謝った。
「AHH……Sorry、全く気付かなかったデス」
「……あー、ちょっとレミィ、お客さん溜まってるわよ」
 指差す先には、入り口付近で待っている人間たち。
 レミィさんとやらが慌てて仕事に戻る。
「しまったデス! じゃあシホ、GoodLuck!!」
「英語で話した方がまともな口調ってのも、なんかねー」
 レミィさんにがんばれー、と手を振ってから、顔を私の方に向ける。
 いきなり真面目な表情。
「さて……、初めまして、緒方理奈さん」
「初めまして長岡志保さん」
 油断出来ない。
 単なる取材なのか、どこまで知っているのか。
「お話、訊かせていただけないでしょうか?」
 簡単に交渉を始めようとする彼女。
 今のレミィさんとのやり取りが嘘のように固い言葉だ。
 冬弥君はどうしたものかと思案顔。今のところ、黙っている。
 逃げるにも、宿泊先まで付いてこられるのも大変。
 ただ、何よりも先に言うことがある。私は口を開いた。
「その前に、ひとつ」
「はい?」
「無理して口調変えなくてもいいと思うけど」
「……う〜ん。やっぱり分かっちゃう?」
 がらっ、と言葉遣いが変わる。
 非常に違和感だらけの丁寧語よりも、こっちのほうが話しやすい。
「ええ。いつも通りの口調でどうぞ」
「そうさせてもらうわ。やっぱり志保ちゃんトークでやらないと調子も出ないからねーっ」
 ふっふっふ、と笑う。
 唐突にマイクを取り出し、口元に近づけた。
 ぱちん、とレコーダーの録音ボタンらしきものを押すと、テープの回る音が聞こえる。
 店内の喧噪に比べれば、とても小さい音。
 なのに、隠すつもりも無いらしい。なかなか根性のある記者さんだこと。
「はいっ。んじゃ引退理由、さくっと教えてちょうだい」
「話せない、と言ったら?」
 返した言葉は予想していたらしく、動揺は一切無かった。
 それもそうか。
「教えてくれるまで逃がさないわよ〜」
 にやりと笑う。よく笑うひとだ。でも、余裕のある笑みには嫌みがない。
 ……本当に敏腕らしい。これなら相手に不快感を与えないように、情報を引き出せる。
 知り合いの話によれば、業界のなかでは信用に値する方らしいけど。
 国際派のジャーナリスト。それなりに修羅場も経験しているはず。
「っと、その前に緒方理奈、略してオガリナさん」
「略さないで良いです」
 オガリナオガリナと目の前で呼ばれても、あんまり嬉しくない。
「じゃ、理奈ちゃんって呼ぶわ。口調、元に戻したらどうかしら?」
「私からは……長岡さん、で良いですか?」
「志保ちゃんって呼んで」
「志保さん」
 隙が見当たらない。
 いつの間にか話の主導権を握られている。
 元アイドルと、敏腕レポーターの会話には思えないくらいだ。
 この手のひとは、私は苦手かもしれない。
 あまり回りにはいなかった系列の存在だ。
「ま、仕方ないわね〜。そのくらいで勘弁してあげましょう」
 こちらの抱いた苦手感覚は気付かれていたらしい。
 記者に対して親しい口調というのは、慣れていないけど。
 馴れ馴れしい、という感情は無い。このスタンスが彼女なりの距離の取り方のようだ。
 相手のことも考えて、その上で踏み込みすぎないようにしている。
 信用しても大丈夫かもしれない。もう少し、話を続けてから決めよう。
「えーと、理奈ちゃん」
「冬弥君は、ちょっと時間潰しておいてくれる?」
 正直なところ、この記者がどこまで知っているのかが分からない。
 下手に行動すると、冬弥君の方まで記者が大量に押し寄せかねないし。
「判った。何かあったら」
「失礼ね〜。このアタシが何かするとでも?」
「う……すみません」
 言葉のわりに、笑みは崩れていない。
 からかって遊んでいるのか。なかなかの手練れらしい。
 冬弥君を席に残して、私たちが移動する。
「じゃ、珈琲ください」
 いつの間にか忍び寄っていたレミィさんに注文をして、別の席に移る。
 とりあえずお昼の時間も過ぎて、客は引き始めていた。
 席に着く彼女。ここで話をするつもりらしい。
「レミィ、アタシもお願いね〜」
 イエ〜スッ!! と陽気な声が聞こえて来た。
 さて、それでは本題に入ろう。
「で、志保さん。何が訊きたいんですか?」
 ちっちっち、と指を振る動作。甘い甘いと言いそうな感じ。
「う〜ん、理奈ちゃんだったら判るでしょ? 誰が、何を知りたいのかくらい」
 ブラウン管の前の彼ら、彼女たちが知りたいこと。
 何故引退したのか、今どうしているか、というところだろう。
 それに答えることは、由綺にも影響が出る。
 私自身のことであるけれど、勝手に言うわけにはいかない。
 この道を選んだからには、傷付く覚悟は出来ている。
 傷つける覚悟かもしれない。
 だとしても、親友を売ることは出来ない。
 もう、友達として見てもらっているとは、思えないけれど。
 それでも、私は由綺のことが好きだから。
「と、言いたいところなのよねぇ……アタシとしては、その辺りはもう判ってるんだけど」
「……え?」
 この女性は、今、なんて言った。
 知っているのか。どうして。どうやって。何故。いつから。
「志保ちゃんネットワークをあんまり舐めないでもらいたいわね〜」
 ひらひらと振った手のひら。余裕か。
 でも、おかしい。
「だったら、なんで私に取材したいの?」
 その情報をメディアで出せば良い。私と冬弥君。そして、由綺と兄さんの話を。
 カマを掛けただけの可能性もある。これは駆け引きだろうか。
「理奈ちゃんがいなくなってしまったから、次のトップアイドルの森川由綺。その恋人の話」
 単語で引っかけるという意図かとも思ったが、これは違う。
 志保さんは、本当に知っている。
「さて、さっきの彼よね〜。なかなか顔は良かったけど……性格は、悪くないわね」
 少しばかり、こちらを伺う冬弥君を見て、彼女はにっこり微笑んだ。
 離れた席からは、こちらの声が聞こえないくらい距離がある。
 彼の表情くらいは見えるから、彼女は試した。そういうことだ。
「優しいってコトはこれで証明されたわね。心配そうに見てるなんてねー」
「そこまで知っていて、なんで私に取材したいのかが良く判らないんだけど」
「この情報。アタシ以外は知らないのよ」
 脅迫か。強請か。しかし嫌な予感はしない。むしろ、このひとは信用できそうとすら思っている自分。
 けれど、今までの経験からそんな単語が脳裏を過ぎる。職業病ってやつみたいだ。
 引退したのに、その辺りの感覚は変わらない。
 当分はこのままだろうなぁ、と口の中だけでつぶやく。
「理奈ちゃんの現状次第でスクープにしようかどうか迷ってたの」
「現状次第って」
 私の状況と記事にすることが関係あるとは思えない。
 余程人が好いか、それとも別の理由か。
「この国際ジャーナリスト。
 敏腕記者にしてインタビュアー、さらにはラジオのDJ志保ちゃんは、理奈ちゃんのファンもやってるのよ」
 胸を張る志保さん。やけに陽気な言い方でにこにこ笑っている。
 経験から来ている自信か、もともと自信家なのか。
 その姿は、格好良い。
「……ありがとう」
 引退したとはいえ元アイドル。
 ファンだったと言われれば嬉しい。
「引退されちゃったからねー。ちょっとばっかり困ったのよね」
「なんで志保さんが困るのか判らないんだけど」
「カラオケで理奈ちゃんの新曲歌えないからに決まってるわ」
「……はい?」
 自分のぼんやりとした声が耳に届く。
 えーと。
「これでも歌には自信があるのよ。カラオケクイーン志保ちゃんという綽名も持ってたんだから」
「へぇ……」
 相づちを打ちながら、少しばかり納得もしていた。
 バランスが良い。綺麗な声に、発声もしっかりしている。
 これなら及第点。歌手でデビューすればそれなりに上り詰められそう。
 容姿も良い。兄さん辺りは苦手にしそうなタイプだけど。
「外国生活が長くて、理奈ちゃんの歌は楽しみのひとつだったんだけど」
 歌の上手いアイドルは日本じゃ少なくてねー、と彼女は続けた。
 そうだろうか。そうかもしれない。
「まったく……やれやれよね〜。日本に戻ってから調べてみたら恋人スキャンダルだったし」
「それは、誰に訊いたんですか?」
 ちょっと失敗したかなぁ、と言う表情になった。
 誰か、ここを漏らした人間がいたのだろうか。
 私たちが来ていることは、ほとんど誰にも知られていないはず。
 この島のことを知っている人間なんて、限られている。
「色々よ色々! って、そんなことはどうでも良いわね。話、聞かせてくれないかしら?」
「……ええ」
 少しばかりの逡巡。うなずくと、彼女はメモを取りだした。
 これまでのテープレコーダーだのマイクだのは、実は飾りらしい。
 顔を近づけてくる。距離が縮まる。
 内緒話の要領で、小声の質問。
「えーと、まず、由綺ちゃんの恋人を寝取ったってのは本当?」
「本当です」
 知られていることを隠しても仕様がない。
 確認作業なだけだろう。むしろ、おかしな情報を流されるよりは良いはずだ。
 噂なんてものは、正しい情報があればすぐに消えてしまうのだから。
 志保さんは、取材内容を使うだろうか。大丈夫だと思うから、私は話しているけれど。
「んじゃ、引退はそのせいね?」
「そのせい、じゃなくて、そのため」
 責任を負わせるのは、自分にだ。
 私が悪い。間違っているとは思わないけど、傷つけたのは私。
 事実は事実として話す。
「はいはい。言いたいことは判るわよ」

 そんな風に、判った風な口を聞かないで欲しかった。
 あの痛みを知っているのだろうか。
 叩かれたときに生まれた、哀しい痛みを。
 叩いたときに感じた、胸に突き刺さった苦しさを。
 そして叫んだときに、心が軋む音が聞こえたことを。
 我が侭なだけだと、自分でも理解していると言うのに。
 止められなかったのは私の弱さ。
 奪ってしまったのは、単なる結果。

 志保さんは、目を細めた。
「んで、今ここにいるのは誰のためかしら?」
「……自分たちのため」
「そう」
 メモを取っているようには見えない。
 ペンを走らせてすらいないのだ。何を聞きたいのだろう。
 この女性は、どうしてそんなに哀しそうな目をしているのだろう。
 私に、何を言いたいのだろう。
「じゃあ……今、楽しいかしら?」
「……ええ」
 少しだけ、昔を思い出しながら。
 ほんの数ヶ月前の昔。
 切り離された世界のように遠い出来事。いつまでも残る記憶。
 けれど思い出にするには、辛すぎるくらいの。
「後悔は、した?」
「……して、ないわよ」
 言葉を探すように、口ごもって。
 してない。後悔なんて、してはいない。

「ふーん……本当に後悔してないの?」

 冷たい声。
 さっきまでと同じ人なのかと疑いたくなるほど、冷たい目。
 寂しそうな。苦しそうな。冷たい冷たい、視線。
 糾弾したいのだろうか。
 それはそうだ。
 恋人を寝取ったなら、誰だってひどい女だと思うに違いない。
 やっと手にした恋だとしても、傷つけなければ手に入らなかったもの。
 傷つけられたほうは、たまったものではない。
 きっと、由綺は私より強いけれど。
 私は、冬弥君を選んだ。
 奪ったのだ。
 言い訳なんてしない。出来ない。するつもりもない。
 そこまで考えたら、志保さんが口を開いた。

「もう一度訊くわね。後悔した?」
「……少しだけ。でも、私が選んだ道だから」

 答えを変えた私に、彼女は微笑んだ。
 正直に言ったことにか、答えそのものに対してかまでは判らない。

「んー、なら良かったわ」
 志保さんの笑った顔は、綺麗だった。
 表情が豊か。
「そうそう。もうひとつ訊きたいんだけど……」
 今度は気楽そうな口調で。
 こういう性格を演じているのか、こちらが本性なのか。
 優しい目になっていた。
「今、幸せ?」
「ええ……とても」
 即答した。
 この答えだけは躊躇うことはない。
「即答したわねー。妬けちゃうわよもう」
 にやり、とテープを取り出す。
 先ほどまで見せていた録音機のテープではなく、ふところに入れてあったらしい。
 騙された……みたい。仕方ないか。
 信用とは、騙されても許せると思うことだ。
 つまり私は今、このひとを信用している。
「ふぅ。これで日本に帰れるわ」
 ぼやき気味に言う。
 お仕事終わり、と今にも言い出しそうに身体を伸ばしている。
「記事にするの? 私のインタビューを手に入れた、とか言って」
「ああ、これはマスコミとは関係無いわよ〜。頼まれてたの」

 その言葉に目が点になった。流石に驚く。

「どういうことなのか、説明してくれません?」
「由綺ちゃんにね〜、『理奈ちゃんが、今、幸せかどうか訊いてきてください』ってね」
「由綺が……? なんで」
 何故、この流れでその名が出てくるのか。さっぱり解らない。
 見ると、手で長めの髪を流している。
「あ、これでも由綺ちゃんとすごく仲良いのよ。ふふん」
 自慢げに言った。
 訊くと、何かの番組で会う機会があって、意気投合したらしい。
「いや、そうじゃなくて」
「んー……あえて言うなら元恋人の幸せを願った、という共通点ゆえに、かしらね」
「由綺が?」
 少し、引っかかる言い方だった。
「『理奈ちゃんが幸せなら、彼もきっと幸せだから』とかなんとか言っちゃってね」 
「でも、それじゃ」
「そこでアタシの出番なワケよね。あーあ、まったくお人好しね〜」
 珈琲を運んでくるレミィさん。ふたつをテーブルに置いて、別の席に向かう。
 こちらに明るく笑いかけている。今更気付いたけど、すごい美女だ。
 なるほど。この店の繁盛の理由のひとつが判った。
「納得行かない? 由綺ちゃんがそんなことを頼むなんてことに」
「そうかもしれないけど。なんて言うか」
 どうして彼女に頼んだのか。
 仲良くなっていたとしても、そう簡単に頼むことじゃないだろう。
 特に、由綺なら。
「ふっふっふ。ちょっとした面白い話を聞かせてあげるわよ」
「……ええ」
 少し、興味深かった。
 どうして、なぜ、疑問ばかりを感じている。
 なにより彼女が。


 あの日、冬弥君を奪ったときのこと。
 由綺の見せた目と同じ……寂しそうな目をしたように見えたから。


「昔ね。アタシには親友がいたのよ……あ、今も親友だけど」
「さっきのひと?」
「あー、レミィも親しかったんだけどねー」
 違うらしい。たぶん、私は知らないひとなのだろう。
 懐かしい思い出を語る口調で、志保さんは話始めた。
「そりゃもう一番の親友だったわ……仲良し四人組。
 アタシとその子、あと男がふたり。その子はふたりの男共と幼なじみ」
 ふぅ、と水の入ったコップを握りしめて、ため息を吐く。
 いつの間にか取り替えられていた。かなり話に熱中していたらしい。
 話に集中する。冬弥君は静かに待っているみたいだ。
 かなり時間が経っているけれど、この際ちょっとばかり長くなるのは仕方ない。
 視線で合図。安心したのか手を振って、彼も珈琲を頼んだ。
 冬弥君なら待っていてくれるから大丈夫。
 あの頃は馬鹿やってたわー、と志保さんは笑った。
「そのうち一人の男と、幼なじみの女の子、つまりはアタシの親友ね。
 まあ、恋人にいつなってもおかしくないけど、そこから先に進めない。
 ふたりは、そんな関係だったのよ」
「でも、それなら問題無いんじゃ」
 私の言葉に、志保さんは頭を横に振った。
 世の中そう上手くはいかないらしい。
「自覚してたのか、それともしてなかったのかは知らないけどねぇー。
 そいつがあかりを心配させる行動ばっかりしてたの。他の女とどんどん仲良くなるし」
「えーと、志保さん。あかりさんって誰?」
「っと、ゴメンゴメン。あかりは、アタシの親友の名前なのよ。
 それで、どこまで話したっけ?」
「他の女と仲良くなる、までだけど」
 彼女は、苦労していたはずだ。
 好きなひとの行動ほど、心を揺さぶられることは他に無い。
 冬弥君が他の女性を見ていれば、辛いし苦しいし、何より哀しい。
 ……由綺も、こんな感覚を味わっていたのだろうか。
 志保さんが先を続けた。
「そうそうっ。アイツがどんどん他の娘と仲良くなっちゃったから、このままじゃあかりが可哀想。
 アタシが人肌脱がなきゃいけないっ! な〜んて思っちゃったりしたんだけど」
「だったら」
「話はまだ途中なのよね。これで巧く行けば良かったんだけど……
 色々動いてるうちに、アタシがその男と近くなりすぎたのよ」
 あのころは若かったから失敗しちゃったのよね〜、と彼女が笑みと共に吐き出した。
 いい思い出なのか、嫌な思い出なのか。
 見ている限りでは判断がつかない。
「……それってつまり」
 幼なじみから奪った、ということだろうか。
 志保さんは珈琲に口を付けた。私もそれに倣った。
「たぶん想像してるのとは違うわよ。
 まあ、惚れたことには変わりないか。この志保ちゃんの一生の不覚ってヤツね」
「それで、どうなったの?」
 微笑して、カップを置いた。
 涼しい口調。
「完全に聞き手に回っちゃってるわねー。ま、その後はアタシから離れたわ」
「どうして……好きだったんでしょう?」
「好きだったからこそ、よ」
 完全に疑問顔の私に、志保さんは微笑んだ。
「アタシよりも、アイツを幸せに出来るあかりの方がいいと思ったの。
 放っておけば確実にくっつくふたりだったからねー」
 やっぱり予想通りになったんだけどね、と感慨深げに語る。
 ふたりとも、好きだったのだろう。だから、身を引いた。
 そういうひとには、見えないのに。
 そういうひとにしか、出来ないことをして。
「それでアタシは海外に渡り、ジャーナリストへの道を拓いた」
 大成功して今に至る、これでおしまい、と彼女はつぶやいた。
 国際ジャーナリストなんて、そうそう数がいないから厳しい道に決まっている。
 苦労したのだろう。このひとは。
「面白くなかったならギャラはいらないわよ」
「ここ、奢るわ」
 私はそう言って、彼女の言葉を否定した。
 楽しい話と言うわけではなかったけれど、意味はあった。
 そう思うから。
「ありがと理奈ちゃん。ま、世の中にはそういう恋もあるのよ」
「志保さん、もしかして由綺にもその話を」
 軽く語尾を上げたが、志保さんはさらりと無視した。
「……やっぱり志保ちゃんって呼んでもらいたいわね」
「遠慮しておくわ」
「そうそう。また忘れるところだったわよ。
 『幸せになってね』って言っておいてくれ、って由綺ちゃんから」
 わざわざ声を真似る。芸の細かいひとだ。
「そうそう、理奈ちゃんに教えておいてあげる。
 アタシはそんな関係があったことをあかりに言ったし、それでも今も親友。
 ま、アイツには黙ってるとか言ってたんだけどねー。
 自分が好きなひと、親友だと思っている相手なら、幸せになってもらいたいのよ」
「分かってる、つもりだけど」
 たぶん、それこそが由綺が願っていること。
 優しくて、お人好しで、どこまでも天然で、私のライバルだった由綺。
 もうすぐ頂点まで辿り着くはずだ。私が居た場所に。
 あの娘なら、いつまでも輝ける。
 スポットライトの光線に囚われずに、自らの輝きで。
「愛のキューピッドなんてアタシには似合わないけど。
 ちゃんとふたりは幸せだって言っておいてあげる。んじゃね〜」
 トン、と椅子が音を立てた。
 志保さんはレミィさんに近づいていって、二言三言話しをする。
 一緒に、そのままドアの向こうへと消えていった。

 話が終わったのを見て取ったのか、冬弥君がこちらに向かってきた。
 私は立ち上がって、彼の手を取る。
 少しだけ、目には涙が溜まっているような気がしたけれど。

 私は、しっかりと笑みを浮かべた。

「騒がしいひとだったね」
 冬弥君は正直に感想を言った。
 それだけじゃない気がする。志保さんも優しいひとだ。
 でも、騒がしいという感想は私も抱いた。同意しておく。
「確かに、そうね……」
 笑みを交わして抱き合う。
 幸い、他の客はもういない。
 店内にレミィさんが帰ってくるのが見えた。
「どんな話だったかは、訊いたほうがいいのかな」
「あとでゆっくりと話すわ」
 こちらの様子から考えたのか、心配そうに言う彼。
 冬弥君にも言っておくほうがいい。
 優しいあの娘の言葉は、彼にも聞く権利がある。
 不安だらけでも、前に進むしかない私たち。
 過去は消せないし、過去があるからこそ自分たちは今を歩いている。
 今より、もっと幸せになってみせる。絶対に。

 テーブルの上に置いてあった勘定書きが消えている。
 奢ると言ったのに、志保さんはどうやら払ってくれていたらしい。
 私たちは、笑顔で手を振っているレミィさんに挨拶をして、ドアを出た。


 距離が、遠くなっても。
 離れてしまっても、側にいたとしても。
 彼女は、本当に私たちの幸せを願っている。そういう娘だ。

 許されなくても、傷つけあっても。
 まだ私は、親友でいてもいいのだろうか。

 淡い色の太陽が、強く輝いている。
 スポットライトよりも眩しい光が、私たちを優しく包みこんだ。
 傍らの冬弥君に微笑んで、私は歩き出す。


 この島から出たら一番に、由綺に会いに行こうと思った。



 Fin.


――――――――――――――――――――――――――

えー、初めましての方々、初めまして。
yoruhaと申すナマモノです。以降宜しくお願いします。
初めましてじゃない方、……ツッコミ禁止でお願いします。(マテ

一回くらい、ここに出してみたかったんですよぅ。(笑
ということで、理奈エンド後の一コマを書いてみましたー。

では、これにて失礼します♪ さらばですー。