鬼狼伝(105) 投稿者:vlad 投稿日:5月5日(土)15時26分
「……」
 その後ろから幾つもの声がする。
「どうなってますか?」
「浩之の声ですよね、これ?」
「勝負がついたんですか?」
 それに答えず英二はドアを開けて中に入った。
「藤田くん」
 歩み寄っていった。
 後ろから何人もの足音が追ってくるが気にもならない。
 視界がぼやける。
 おれが、涙!?
 無様に負けてもそんなものは流さなかったのに、なぜ今!?
 この青年の奇妙な咆哮が、一体自分の涙腺にいかなる効果を及ぼしたというのだ。
「藤田くん……」
 呼び掛けた。それがこの吠え続ける男の耳に届かぬのを承知の上で。
「君の、勝ちか」
 正直、意外といった表情であった。
 柏木耕一に勝利するとは……。
「おれの……」
 浩之がいった。
「勝ち?」
「そうじゃないのか?」
「こんなのが勝ち?」
「どんなのだっていうんだ」
「おれが気付いたら、耕一さんが倒れてて……こんなのが勝ち?」
「……」
 英二は無言で耕一の方に歩み寄って行った。
 耕一が上半身を起こしていた。頭を横に振っている。
「一体……何が?」
「はは、やられました」
 耕一の声に引き付けられるように浩之が身体ごとそっちを向いた。
 耕一は手短にことの経緯を話した。
「やられました」
 心底、そう思っている顔でいった。
「油断しました」
 油断する方が悪い。
 油断は敗北に直結する。
 耕一は敗者であった。
 闘いの渦中にあって油断した敗残の身であった。
 浩之は勝者であった。
「てめえぇぇぇ!」
 勝者が、叫んだ。
 敗者のように叫んだ。
 耕一が立ち上がっていた。
 とても敗者に見えない穏やかな顔で――。
「畜生っっっっ!」
 浩之が腰を落として身構えた。
 とても勝者に見えない険しい顔で――。
「どうして油断するんだよっっっ!」
 叫んだ。
 駈けた。
 耕一に向けて――。
 全身を一個の弾丸と化して――。
 右拳が打ち出された。
 耕一の左頬を打つ。
 左拳が唸った。
 耕一の右頬を打つ。
「油断するんじゃねえよお!」
 右足が耕一を打つ。
 左足が耕一を打つ。
「なんで! なんでっ! なんで油断するんだよっ!」
 叫びが耕一を打つ。
「こんなの……」
 悔しさが耕一を打つ。
「こんなのじゃ……」
 涙が耕一を打つ。
「胸張って行けねえじゃねえかよぉぅ!」
 浩之が耕一を打った。
「ごめん」
 耕一がいった。
 右足が旋回した。
 右のミドルキック。
 浩之の左脇腹に吸い込まれるように――。
 強風に吹き千切られた木葉よりも脆く、軽く、儚く――。
 浩之の身体が飛んでいた。
 壁に激突するまで飛んだ。
「まだまだぁ!」
 浩之が立つ。
 凄まじい激痛が脇腹を砕いているはずだ。
 だが、立った。
 向かっていった。
 走った。
 飛んで――。
 蹴った。
 痛いはずだ。
 痛くないはずがない。
 それでも――。
 蹴った。
「しッ!」
 耕一が腕を振って浩之の足を弾いた。
 浩之が頭から床に落ちた。
 落ちた次の瞬間には手を床に付いて逆立ちになり、耕一の顔を蹴った。
「ぐっ!」
 耕一の顔に蹴りがモロに入った。
「ぬあっ!」
 浩之が拳を振る。
「おおぅ!」
 耕一が拳を振る。
 拳と拳。
 交錯。
 脚と脚。
 交錯。
 頭と頭。
 交錯。
 肘。
 交錯
 膝。
 交錯。
 意思。
 交錯。
 己。
 交錯。
 全てが――。
 交わり――。
 浩之が倒れた。
 耕一が倒した。
 倒れた浩之が立ち上がる。
 倒した耕一がロッカーに手を付いて我が身を支えながらそれを待つ。
 立ち上がりざま浩之が突っ込む。
 迎え撃った耕一がパンチをかわされ顔に肘を貰う。
 浩之が続けて頭突き。
 耕一が目突きで牽制。
 浩之が怯んで顔を退く。
 耕一が頭突き。
 額で、浩之の顔を打つ。
 喰らった瞬間、浩之の左手が伸びる。
 耕一が退いた。
 コンマ5秒遅ければ右耳を掴まれていた。
 浩之が追う。
 左手を伸ばしてそれで目を突く。
 耕一がさらに退いてかわす。
 浩之の右拳が左手と入れ替わりにやってくる。
 耕一の顔を捕らえる。
 めち。
 耕一が自らの意思によらずして後ろに倒れていく。
 浩之、追撃。
 下方から、何かが来た。
 不可視の何か。
 あれだ。
 例のやつ。
 臓物を鷲掴みにしたあれ。
 顔を断ち割られるような凄まじい感覚が先行してやってきた。
「ちぃっ!」
 舌打ちしながら退いた。
 後ろによろめきながらの真上への蹴り。
 耕一が、右足を打ち上げたのだ。
 天を臨む蹴り。
 天を貫く蹴り。
 天を臨むに値する蹴り。
 天を貫くことが可能な蹴り。
 そいつが天に向けて――。
 浩之の目の前だ。
 縦に空気を割った。
 浩之の前髪が逆立って揺れる。
「っあ!」
 浩之が再び前へ――。
 上から!
 畜生!
 浩之の顔が苦渋に塗れ――。
 信じられない早さで耕一の右足が帰って来る。
 地へ打ち下ろされる踵。
 地を割るに値する踵落とし。
 落雷。
 ごお、と空気を騒がせ。
 雷が落ちてきた!
 誇張でなしに浩之は思った。
 急停止。
 できるかどうか!?
 するんだ。
 できねば……。
 死ぬかもしれねえ。
 目の前を駈けるなんとか足に見えないこともない物体。
 前髪がさらわれて額につく。
 汗に濡れた額にぴったりと貼り付いた。
 この短い時間に二度、寿命が縮んだ。
 白髪が増えたんじゃないか。
 そう思わせる天地を砕くような二撃。
 だが、当たっていない。
 すっげえけど。
 当たらなかった以上、ただの大振りな外れだ。
 怖がることは無い。
 この人がこれぐらいやるってのはわかってたことじゃねえか。
「おらっ!」
 浩之が前へ――。
「おう!」
 体勢を立て直した耕一も前へ――。
 前へ――。
 浩之の右――。
 耕一の左――。
 擦れ違い――相打つ。
 二人の顔が音を立てる。
 二人がよろめく。
 二人が後ろに泳ぐ。
 二人が体勢を立て直す。
 二人が、前へ――。
 前へ――。
 そちらにしか行けないかのように、前へ――。
 殴る。
 蹴る。
 叫ぶ。
 そして、泣く。
 細い流れが、目尻から頬へと――。
 殴。
 蹴。
 叫。
 そして、泣。
 繰り返し。
「楽しいな」
「はい」

「止めて止めて……誰か止めてよ」
 あかりが、部屋の隅で震えていた。
 志保が強く抱き締めるが収まらない。
「あかり……あかり……あかり……」
 何度も呼びかけ、その度に続ける言葉を失う。
「長瀬さん」
 志保の視線の先に長瀬源四郎がいた。
「これも、止められないんですか?」
 詰問調であった。
 明らかに責めていた。
 この状況で、これを止められる力を持ちながらそうしない源四郎をだ。
 自分にそんな力があったら止めているのに。
「申し訳ありません」
 源四郎は志保にそう答えながら、魅せられたように浩之と耕一を見ていた。
「お兄ちゃん……大丈夫かな?」
 初音が恐る恐る尋ねる。
 二人の姉は無言。
 大丈夫なわけがないということが嫌というほどわかった。
 梓が、楓の手を取った。
 楓が、初音の手を取った。
 一人では耐えられそうになかった。

 浩之の血が、床に落ちた。
 耕一の血が、床に落ちた。
 二人の血が、床で混ざった。
 赤い色が濃くなったかのように見えた。
 その血溜まりを踏みつける。
 踏みつけながらも傷口から血を流す。
 血を流しながら、新たな傷を作り合う。
 なんのために――。
 そのような考えが入り込む余地も無かった。
 こんなことをしてなんになる――。
 余地、無し。
 ぴちゃ。
 ぴちゃ。
 ぴちゃ。
 血を踏む度に音が鳴った。
 血の池で全身を朱に染めてのたうつ罪人のようであった。
 その罪人が二人で何かの罰を受けているかのように闘い合っているように見えた。
 少なくとも、それを見ている人間にはそう見えた。

「ねえ」
 志保は声をかけられた。
 泣きじゃくるあかりを抱き締めながら、志保は顔を声の元へと向けた。
 梓が、困惑した笑みを浮かべながらそこにいた。
 梓の手は楓の手を握っていた。
 楓の手は初音の手を握っていた。
 初音の手は梓の手を握っていた。
「あたしらも仲間に入れてくれないかな?」
 志保が、三人に向けて手を差し出した。

 五分。
 浩之が落ち、耕一が落ち、二人の常軌を逸した闘いが始まってからそれだけの時が刻ま
れた。
 空を切り裂く速度は色あせていた。
 力も、目に見えて衰えていた。
 午後過ぎから試合場で三試合。
 それから、ここで闘い、ペース配分もクソも無い全力の喰らい合いを始めて五分。
 当たり前だ。
 ここまでやって力も速さも判断力も鈍化せぬはずがない。
 打つ。
 打って。
 打ち。
 打たれて。
 打。
 鉄を舐めているような口の中。
 血を何度も飲み下した。
 少し距離を取った。
「浩之」
 耕一がいった。
「楽しいか?」
「いや、全然」
 苦笑を交わす。
 疲労が、苦痛が、既にこの闘いを楽しむ余裕などとうに奪っていた。
 楽しくもなんともない。
 疲れるだけだ。
 痛いだけだ。
 苦しいだけだ。
 辛いだけだ。
「止めるか?」
「ははっ」
「ははっ」
「ははっ」
 同じ声で笑う。
「今のは、忘れてくれ」
「はい」
 ゆっくりと前へ――。
 二人とも、前へ――。
 打。

「よくやるな……」
 ドアのところに、柳川裕也が姿を見せていた。
 それを押し退けるようにして月島拓也が入ってきた。
「おお」
 肉が肉を打つ音。
 骨が骨を打つ音。
 肉が肉を削る音。
 骨が骨を削る音。
 素晴らしき名曲を聴いたような恍惚とした顔で、拓也は数歩前に出た。
 緒方英二の横に立った。
「僕は……この二人大好きです」
「おれだってそうだよ」

「しゃッ!」
「けぇい!」
 打。

 止めたい。
 止めたくてしょうがない。
 もう眠りたい。
 もう殴りたくない。
 もう殴られたくない。
 もう傷付けたくない。
 もう傷付けられたくない。
 嫌で嫌でしょうがない。
 なんだって自分はほんの少し前まで、こんなことを楽しいと思っていたのだろうか。
 もう血を飲みたくはない。
 もうこの大好きな男の血で自分を染めたくはない。
 もう――嫌だ。
 止めたい。
 止めたくてしょうがない。
 止めたからって誰も文句はいえないはずだ。
 止めたい。
 もう眠い。
 打。
 痛。
 血。
 嫌だ。
 でも、止められない。

 おれは死ぬかもな。
 浩之の、実感である。
 リアルに形を持ったような「死」が両翼で自分をすっぽりと覆ってしまおうとしている。
 耕一さんに殺される。
 違うな。
 自分で死ぬんだな。
 そうだ。
 これは、自殺だ。
 緩慢な、自殺。
 悔の無い――。
 ありがとう、耕一さん。

 おれの中にこんなものが。
 耕一の、実感である。
 自分の中に存在し、今、血塗れで踊っている闘争本能に自分で戸惑っている。
 ヤツじゃない。
 これは、違う。
 おれの中に、ヤツじゃない、こんなものが――。
 そうか。
 ヤツはもうすっかり眠っていたんだな。
 おれが恐れていた影は――。
 おれか。
 結局、こいつもおれの中にいたおれ。
 おれだったんだな。
 今まで、ごめんな。
 無理に押さえつけちまったな。
 おれなのに……お前もおれなのに……。
 これからは、お前も、おれで――。
 浩之に感謝しないとな――。
 ありがとう、浩之。

 ありがとう。
 打。
 本当に、ありがとう。
 痛。
 お前がいなければおれは――。
 あんたがいなけりゃおれは――。
 倒。

 浩之が倒れた。
 耕一の右のフックが顎を横から叩いたのだ。
 振りぬいたフックだった。
 振りぬきすぎて回った。
 足がもつれて、倒れた。
 耕一が倒れた。
 浩之が立ち上がろうとする。
 耕一が立ち上がろうとする。
 立ち上がれない。
 それだけの力が足に残っていない。
 手を床に付いたまま突進する。
 ふらふらと泳いでぶつかった。
 闘うだけの力がどこにも残っていない。
 残り無し。
 全て使い切った。
 残っているのは、命だけであった。
 二人とも動かない。
 誰がいうともなく、誰もが二人に歩み寄っていった。

 雅史がいた。
「もういいよ、もう勝ちとか負けとかもういいじゃないか」
 勝ち? 負け?
 なんだ、それは?
 なんだか、そういうもののために闘っていたんだっけか。
「浩之ちゃん、浩之ちゃん、浩之ちゃん、浩之ちゃん」
 あかりだ。
 泣いてる。
 相変わらずだな。
「あかり……腹減っちまったよ」
 いや、その前に眠いな。

「おい!」
 なんだよ、梓、泣いてんのかよ。
 まいったな……。
 そういや、あれだ。
 全然部屋掃除してないんだよ。
「耕一、もういいだろ? もうどっちが勝ちも負けも無いよ」
 ああ、そうか。
 勝つために闘ってたんだな。
 負けないために闘ってたんだな。
 そうだったな。
「心配かけたね」
 楓ちゃんの手を取る。
 初音ちゃんの手を取る。
 ごめんね。
 もちろん、梓もな。
 ……。
 ちょっと、寝かせてくれないか。

「無理か」
 柳川がいった。
「さすがに」
 拓也がいった。
「お前がそういうのならそうなのだろうな」
「これ以上できないこともないでしょうが……」
「壊れるな、二人とも」
「ええ」
「お前なら、続けるか?」
「相手があなただったら……或いは」
 にいっ、と笑った。
「初めから見ていないのでなんともいえませんけど……」
「ああ」
「これは……闘いだったのでしょうか」
「……闘いであることに間違いはあるまい」
「でしょうね。でも……二人とも勝利を得るのに非効率的なことばかりしていました」
「ああ」
「勝者と敗者を決めるのが闘いでしょう」
「……」
「あれは闘いではなかったのでは?」
「よくわからん……ただ、こいつらにしかできない……違うな」
「……」
「こいつらしかこんなことはしないだろうな」
「そうですね……でも……」
「ああ」
「僕とあなたとだったら……或いは」
 にいっ、と笑った。
「さあな」
 柳川が背を見せた。
「行くんですか?」
「人を待たせているんでな」
「また今度」
「いや……ああ、また今度な」

 英二が何かを呟いている。
「どうしたの? 兄さん」
「理奈か」
「何をブツブツいってるのよ」
「あの二人の闘いを見ていたらいい曲が浮かんだんだ」
「そうなの?」
「ああ、レコード大賞確実のやつ」
「へえ」
「由綺のはこないだ書いたばかりだから、これはお前の、って思ってたんだ」
「うん」
「でも……」
「何?」
「忘れた」
「は?」
「二人が倒れた瞬間、全部忘れた」
「……しょうがないわね」
 理奈が、苦笑する。
「誰も信じてくれないだろうけど……絶対、絶対に凄い名曲だったんだ」
「ふうん」
「惜しいことをした」
「残念だったわね」
「おれは……なんてことだ」
「どうしたの?」
「また、あそこに行きたいと……」
「いいんじゃないの?」
「そうかな」
「兄さん、懲りない人だもん」
「そうかな」

 汗を握り締めていた手を開いた。
 葵が大きく溜め息をつく。
「なんだか羨ましいわね」
 綾香がいった。
 源四郎が沈黙したままその後ろに控えていた。
 芹香は浩之のところに行っている。
 「痛さの無くなるおまじない」のためだ。
 好恵が部屋を出た。
「好恵!」
 呼び止めながら綾香が後を追い、葵がまたその後を追った。
「もう帰るの?」
 廊下にいた好恵が振り返った。
「帰って、稽古だ」

                                   続く

     どうもvladです。
     これが105回目です。
     あんまり仕事が忙しくない時なら誰の挑戦でも受ける。