鬼狼伝(103) 投稿者:vlad 投稿日:5月5日(土)15時20分
 既に夕刻であった。
 エクストリームと呼ばれるアマチュア格闘技の大会が終わった。
 六部門の各上位入賞者たちが試合場に、そして表彰台に上り激闘とその結果を賞賛され
ている。
 一般部門男子の部のそれは異様であった。
 表彰台に誰の姿も無く、柏木耕一の優勝決定戦棄権により、月島拓也との試合で反則勝
ちをしたもののその反則の攻撃で怪我をして今は最寄の病院にいる三戸雄志郎が優勝した
ことが告げられ、表彰状もトロフィーの授与も行われなかった。
 一般部門女子の部準優勝者としてその場にいた来栖川綾香は表彰式が終わるとすぐに試
合場を下りた。
 すぐさまマスコミ連に取り囲まれる。
 足を怪我していなければそんなものは捌いて逃げられるのだが松葉杖のお世話になって
いる身ではそうもいかない。
 ある程度何かいわないと解放されそうにない。
「高校生部門から一般部門に出てみての感想は?」
「レベルの違いは当然感じました。でも、越えられない壁ではないと思います。準優勝が
その証拠です。私の年齢でも一般でこれだけやれるということを示せたと思います」
「それは、高校生部門のライバル達の一般部門参加を期待するということですか?」
「それは軽々しくはいえません。やっぱり、このぐらいの年齢だとまだ完全に格闘家とし
ての体が完成していない人もいるでしょうから」
「次回は当然優勝を狙うのでしょうが、そのためにどのような練習をしたらいいか、など
の計画はもう考えていますか?」
「来年のエクストリームを見据える気には今はなれません。とにかく、足が治り次第どこ
の誰でもいいから試合がしたいです」
「それは他の大会への参加ということですね」
「はい」
「来栖川選手の試合は今までは年に一度のエクストリームでしか見れなかったので、それ
は我々としても非常に楽しみです」
「とにかく、試合して勝ちたいですね。こんな気分になったのは久しぶりで……」
 綾香は口早に根気強く記者たちの質問に答えつつその包囲を抜け出す機会を窺っていた
が少し離れたところに長瀬源四郎の姿を見て表情を明るくする。
 セバス、お願い。
 その意思を含んだ視線にすぐさま気付いた源四郎が外側から人の環を崩していく。
 手で肩を押された記者が抗議の声を発しよう、としただけで、あとは物理的な力を行使
することも無く人垣が割れた。
「お嬢様はお疲れですので……また後日にしてくだされ」
 くわっ、と凄まじい眼光で射竦める。
 空腹の熊が目を逸らしたとか進駐軍の大佐が思わず会釈したとか様々な逸話を持つ長瀬
源四郎の眼光である。
 睨むことで人間の本能に死を予感させることができる男だ。
 記者たちはそそくさと去っていった。
「ありがと、セバス」
「恐縮です」
「と、それよりも!」
 綾香とセバスとそして芹香は既に選手用通路に入っている。
「浩之はどうしたのよ、表彰式に出てこれないほどにダメージ負っていたようには見えな
かったわよ」
「……」
「あー、んー、たぶん大丈夫だと思うけど」
 芹香が心配そうな顔になるのを見兼ねてそういったものの、何かあったのかと心配する
気持ちは綾香の中にある。
「とにかく、浩之の控え室に行ってみればわかるわよ」
 その浩之がいる控え室へ行くために角を曲がったところで壁が出現した。
 そそり立つ肉の壁。
 即座に姉妹を庇って前に出た長瀬源四郎に匹敵する広さと厚みを有するそれはそう広く
もない廊下を一人でほぼ半分塞いでいた。
「どした?」
 その背後にいたこれまた厚みのある肉体をした男が前の背中に声をかける。
「いや、なんか人が来ました。可愛い女の子が二人とおっかない爺さんっス」
 主人の孫娘を守るために臨戦体勢に入っていた忠誠なる源四郎の眼光を我が眼で真っ向
から受け止めてそのようなことをいえるだけで大したものだ。
「記者じゃなさそうだな」
「通りたいんですけどね」
 苛々とした様子を隠そうともせずに綾香がいった。どうして浩之が表彰式に出てこなか
ったのかを逸早く知りたいのだ。
「ああ、ああ、えーっと、女子の部でいい試合してたお嬢ちゃんじゃないか」
 男は幾度も頷きながらいった。
「高原さん、ほら、いい蹴り打ってた……えーっと、ほら」
「来栖川綾香だろう」
「そうそう、それ、その歳で初出場の一般で準優勝しちまうんだから大したもんだよ」
「そういうあなたは……」
「中條辰だ。一回戦で負けたけどな」
 途中から綾香も気付いていた。この巨体はどうしても印象に残って一回戦負けといえど
そうそう簡単に忘れられるものでもない。
 一回戦で柏木耕一に敗退した中條辰であった。
「で、その中條さんがここで何を?」
 いつの間にか綾香が前に出ていた。
 源四郎は一歩退き、綾香を前に出しながらもすぐさま変に応じられるような体勢と心を
崩してはいない。
「ちょっと頼まれて見張りをしてるんだ」
「頼まれて?」
「緒方英二さんにね」
 つまりはこうであった。
 浩之と耕一の試合を観戦した後、通路で話していたところ緒方英二が話し掛けてきて雑
談になった。
 二人には柏木耕一と試合をしたという共通点がある。
 それをきっかけにそれなりに話が弾み、おもむろに英二がその用件を切り出してきた。
 控え室までの通路に見張りに立って欲しい、と。
「一体どういう……」
「そんなもん、試合の後に控え室に見張り立てるなんていったら決まってんだろ」
 中條は心底嬉しそうな笑顔をしていった。
「なんか納得できねえとか、まだ殴り足りねえとか、そういう時によく控え室でおっ始ま
るんだよ」
 中條の後ろで彼の先輩である高原がおかしそうに笑っている。
 この他ならぬ中條がかつてそれをやったことがあるのだ。プロレスラーとしての試合経
験は二試合しか無いくせにそういう経験はある男だ。
「もしかして……」
 綾香にも、薄々わかってきていた。
「ああ」
 中條はまだ嬉しそうなままだ。
「喧嘩だよ」

 浩之の控え室の前には七人の綾香が知る人間と、三人の知らない人間が立っていた。

 通路に急遽設置された関所は、
「この子らは通していいっていってましたよね、緒方さん」
「ああ」
 ということらしく、無事に通してもらっていた。今頃は記者連中に通せんぼしているこ
とだろう。
 あかり、志保、雅史、葵、好恵。そして緒方英二と理奈の兄妹。
 緒方兄妹がここにいる理由はいまいちはっきりとはわからないが他の皆は表彰式に出て
こない浩之を心配してやってきたのだろう。
 知らない方の三人は……それぞれに違った趣きを持つ女の子たちだ。共通点は客観的に
見て全員美人だということことだ。
 ここにいるということは浩之の知り合いなのかもしれない。あの男は無愛想なくせに妙
に、可愛い女の子とお近づきになることが多い。
「浩之、どうしたのよ? 表彰式にも出てこないで……」
 綾香はとりあえず葵に声をかけた。
「……なんて顔してんのよ」
 葵の、不安そうな顔が綾香をたじろがせる。そんな顔をされたらこっちだって元々不安
なところにそれを増幅させるようなものだ。
「浩之、中にいるんでしょ?」
 殊更笑顔になって一同を見渡すと葵だけでなくあかりも志保も雅史も似たような表情を
している。
「なによ、一体なんなの?」
 その中にあって一人だけ普段と変わらぬ顔で突っ立っている好恵に、綾香は尋ねた。
「藤田は中だよ」
 変わらぬ顔のままいった。
「なんで表彰式に出てこなかったのよ、そんなにダメージがひどいなら早く病院に……」
「ダメージが無いわけじゃないけど、藤田は元気さ」
「だったら……」
「立ち合いだよ」
 まだ、顔が変わらぬ。
「立ち合いって……」
 先程、聞き流してしまった中條の言葉が脳裏に蘇る。

 喧嘩だよ――。

「相手は?」
 急速に、綾香の表情から不安、心配、そしてそれに類するものが消えた。
「……柏木耕一」
 聞かずともわかってはいた。
 この状況であの状態で浩之が闘うといえば、それ以外には無い。
「浩之ちゃん……どうしてもっていって……」
 眼は潤み、涙声のあかりが救いを求めるような視線で綾香を見た。
 しかし、綾香は既にその救いを与えられぬ精神状態になりつつある。
 そう、おそらくは、好恵も自分と同じ――。
「来栖川さん……なんとか止められないの?」
 綾香は、その懇願に首を振る。
「浩之がやりたいっていうならどうしようもないわ」
 視界の隅で僅かに、好恵が頷いたのが見えた。
「でも……もう、そんなの……もう、あんなに自分を痛めつけて……もう、あんなに何度
も倒れて……もう……」
「あかりちゃん」
 雅史があかりの肩に手を置いて振り向かせる。
「辛いけど……しょうがないと僕も思う」
 雅史の表情からは不安も心配も消えてはいないが、その声には不思議と力がある。
 志保と葵も雅史と同じだ。
 当然、このようなことは止めさせたいはずだ。
 今、浩之に必要なのは休息である。
 客観的に見れば当然そうだ。
 だが、主観的意見がそれ以外のものを求めて、この部屋に閉じこもってしまった。
 それを止められない。
 いや、あかりだってわかってはいるが、彼女はどうしてもそこに現れた綾香に口に出し
て救いを求めずにはいられなかった。
 浩之自身の意志を尊重するべきことなど百も承知の上で、しかしその身を案じてなりふ
り構わずに綾香に懇願するあかりを見ていた志保は後ろからそっと軽く緩やかに彼女の体
に両手を回した。
「……志保?」
「大変よねえ、あかりもー」
 声質もその調子も普段と変わりはない。
「そりゃさ、あれが物凄い馬鹿だとは覚悟してたとはいえさ、ここ最近で急速に馬鹿化が
進むしねー、苦労するわ」
 ケラケラとした笑い方も普段通りだ。
「馬鹿に惚れたら大変だわ、ホントに」
 だが、あかりの体を包む両手が優しい。
「これからも苦労するわよ、でも……ま、馬鹿に惚れちゃった宿命よね〜」
「……うん」
 段々とあかりの表情から様々なものが霧散していく。
「私……」
 志保の手に触れた。
 志保が、両手を解く。
「ここで待ってる」
 ドアの前に立った。

「……で、そちらの三人は柏木耕一さんの関係者なのかしら?」
 綾香は実は先程からかなり気になっていた三人の少女の方を向いていった。
「うん、あたし、柏木梓。耕一の従姉妹だよ」
「その妹の楓です」
「初音です。はじめまして」
「来栖川綾香よ」
「ああ、試合は見てたよ、いい蹴り打ってたね」
「柏木耕一さんも……中に?」
「うん……あの子の彼氏……なんだろ? 藤田ってのも相当の馬鹿みたいだけど、うちの
もかなりのもんだから」
 そういった梓に楓がやんわりと、
「……耕一さんは人が好いんです」
「まあ、お人好しの馬鹿だね」
「梓お姉ちゃん……」
 初音が困った顔をしながらいった。
 この三人が三様の態度でいながら、結局は従兄のそういう……お人好しなところとか、
そこから来る馬鹿なところとか、馬鹿ゆえに人が好いところとかが好きなのだろうという
ことは一目でわかった。
「……で」
 綾香が再び視線を転じる。
「理奈さん」
 その先にはドラマ撮影で一緒で知った仲の理奈がいた。
「緒方さん……どうしたんですか?」
 問い掛けると同時に、またも視線の先を変える。
 廊下の壁に背中をつけて床に腰を落とし顔を下に向けてうずくまっている緒方英二がそ
こにいた。
「あー、たまには落ち込ませた方がいいから、気にしないでね」
 と、理奈はそういうがどうしても気になる光景ではある。
「……やあ、来栖川さんのお嬢さん方に、長瀬さん……」
 僅かに顔を上げ、僅かに視線を上げて、英二が呟いた。
「どう……したんですか?」
「兄さん、さっきまではおれがプロデュースしてやるっ、とかいって張り切ってたんだけ
ど……」
 理奈がどことなく楽しそうな表情と声でいった。どうも、兄が落ち込んでいるのを見る
のが純粋に愉快であるらしい。
「兄さん、ほとんど出る幕無かったんだって」
 闘いをプロデュースする際に当然決めるべきは、

 何時?
 何処で?
 どのようなルールで?

 この三項目であった。
 二人の意志を優先する、というコンセプトで双方の意見を聞き、その調整を行う。そう
いうのもプロデュースの内だ。

 今すぐにでも。
 ここででも。
 ルールはいらない。

 見事なまでに一致した答えを得て、英二は「プロデュース」した。
 それからすぐに、浩之の側の控え室で、ルール無し――二人が「やっていい」と思うこ
とは全て許されるルール――で。
 始まったのである。
 英二が介入する余地がほとんど無かった。
 廊下で立ち話していた中條に見張りを頼んだぐらいか。
 どうしてもすぐに闘いたがっている二人であった。
 そういう二人の間に入っていくことなどできまい。
「あかり、といったか……あの子」
 突然、英二がいった。
「よくできた子だね、藤田くんは幸せ者だよ」
 突然そんなことを言い出した真意がよくわからず理奈も綾香も沈黙している。
「おれだったら嫉妬してるもん」
 そういった英二の思いがすんなりと綾香の中に入ってきた。
 自分の懇願すら振り切って男が行ってしまう。
 闘いに行ってしまう。
 嫌いになったとか、そういうことじゃない。
 好きであり、愛していながら、それでもそっちへ行ってしまう。
 束縛しきれない何か魅力のあるもの。
 自分よりもその男にとって魅力のあるもの。
 そっちへ行ってしまう。
 それがなんであろうと、自分がその立場だったら果たして平静でいられるだろうか。
 装うための平静に身を包んで、その奥にあるものを誰にも悟らせない……そんな自信は
ある。
 だけど、あんなふうに静かに男の帰りを待てるだろうか。
 そんなことを思いながらも、綾香には別の思いもある。
 私だって、あっち側だ。
 本質が、あっちだ。
 たぶん、好恵もそう。
 葵は、まだちょっとその域にまで達していない。むしろ、ずっとそんなところには足を
踏み入れないタイプかもしれない。
 闘いに赴く人間。
 それが私で、好恵で、浩之で、柏木耕一で……さっき公園で闘っていた柳川裕也と月島
拓也もたぶんそれで――。
 愛するものがありながら、それに行かないでくれと懇願されながら、それでも行ってし
まう人間。
 あの、神岸あかりには、浩之のその時の気持ちはわからない。完全に理解の外であろう。
 だが、理解できないが、それを許して受け入れて帰りを待っている。
 自分だったらたぶん、悩みながらも結局はそれを理解し、許し、受け入れて――。
 思考が途絶える。
 音がドアと壁を通じて廊下にいる人々の耳にまで達していた。
 金属音。
 金属が、固いものにぶつかる音。
 金属同士がぶつかり合う時のそれとは微妙に異なる音。
 しかも、その音量からして、相当に大きな物体だろう。
 始まっている。
 中で、もう始まっている。
「っちぃい!」
 声が聞こえた。
 人間が渾身の力で人を殴ったり蹴ったりする時に出る、喉を気道の壁に擦り合わせて出
すような声。
 たぶん、これは浩之の――。

 最後に英二が扉を閉めて出て行った。
 その時、浩之と耕一はそう広くもない控え室に二人きりになった。
 互いの顔を見合う。
 耕一が微笑んでいて、浩之は照れ臭そうに顔を逸らした。
 ――ありがとうございました。
 洩れそうになった言葉を飲み込む。
 本来、耕一は受けなくていい闘いである。
 判定とはいえ満場の中で勝利が確定しているし、その試合内容も終始優勢な時間を多く
占めており、観戦した人間の誰もが納得のいく結果であった。
 耕一は、もう勝っているのである。
 いくら浩之が納得いかないとはいっても、負けは負けだ。
 だったらあのまま続けていたら勝てたのか? といわれれば浩之自身が首を横に振るし
かない。
 そんな状況で試合が終わったすぐ後に、流した汗が乾かないような時に受けてくれた。
 いや、英二の話では耕一は自らそれを望んでいたとすらいう。
 耕一といえど楽な試合ではなかったはず。その程度には善戦したつもりだ。
 苦労して掴んだ勝利だ。
 それが、この控え室での「第二試合」において無に帰すかもしれない。
 記録に残るのはエクストリームの試合だ。
 人々の眼に触れるのもエクストリームの試合だ。
 なんの記録にも残らず、誰の眼にも触れないこれから始まるこの闘い。
 そのくせ、これに敗北することは先程の勝利を無にするに等しい。
 ごく普通に考えればメリットは無く、デメリットばかりが大きいはずの闘いである。
 だが、英二がいっていた。
 耕一は、納得できていないと、はっきり明言したというのだ。
 だから、ここまでやってきたのだ。
 メリットもデメリットも無い。
 この闘いで納得が得られるのならば、それが最大のメリットなのだ。
 そういう価値観に従って耕一はここにやってきた。
 それは浩之にも通ずるものである。
 そうでなければ、こんなことはしない。
 同じ価値観を有する同じ人と――。
 同じものを求める同じ人と――。
 闘う。
 月島拓也いうところの「同志」であろうか。
「ルール……」
 やっと、浩之が口を開いた。
「ルール……どうしますか?」
「……」
 間髪入れずに耕一が首を振っていた。
 左右に、ゆっくりと。
「いや、いいだろ」
 ゆっくりといった。
「お前がしていいと思ったらなんでもしていいよ」
「……」
「おれも、そうする」
「はい」
 それが何を意味するかがわからないわけではない。
 なんの制限も無い闘い。
 それは極まれば命を奪い合う、殺し合いである。
 だが、殺し合いがしたいのかといえば、否である。
 耕一だってそうだろう。
 そのようなものに身を浸すには浩之も、耕一も、互いに情を持ち過ぎている。
 殺人を嗜好するような趣味も皆無だ。
 この二人が人に殺意を抱くには、膨大な憎悪を必要とするだろう。
 相手を殺そうとはしていない。
 それが、この二人を微笑ませていた。
 それは、例えそのようなルール無しという「ルール」であっても死まではそれが行き着
かないであろうという安心感からか。
 浩之はそれは違うと思う。
 ことの初めから殺してやろうとか再起不能にしてやろうとか考えていないし、できるだ
けそのようなことはしないつもりであるが、もし相手がそれをやってきたらそれでもいい。
 そう、思う。
 耕一も、そう思っているに違いない。
 そうなったら、そうか、と思うだけだ。
 お前は、それをしていいと思ったんだな、と納得するだけだ。
 憎んだりはしないだろう。
 何が起こっても。
 どんな傷跡が残ろうとも。
 例え、齢を重ねることができなくなろうとも。
 殺し合いになりかねない闘いだが、それに憎悪が混じることはないだろうと浩之は確信
していた。
 つまるところは、
 ――おれは、この人が好きなんだ。
 そう思う。
 そして、おそらく――。
 ――この人もおれが好きなんだ。
 そうでなければこんなことをする説明がつかない。
 好きだからそんな闘いをする。
 好きだからそんな闘いができる。
 これは説明にならないかもしれない。
 しかし、この説明が理解されないことなど承知。
 おれと、この人だけが理解できればそれで十分だ。
 誰も介入できない。
 誰も間に入れない。
 緒方英二の言葉を聞けば浩之はその通りと同意するだろう。
 女がいたら、嫉妬する。
 浩之と耕一の間の距離は3メートル前後しかない。
 すぐにでも間合いに入れる距離だ。
 だが、どのように素早く、例え予備動作の無い攻撃を繰り出したとしても奇襲を行える
距離ではない。
 どうしても動きが悟られて構えをとられてしまう……そんな距離だ。
 そんな距離を間に置いたまま、浩之はぐるりと室内を見回した。
 なんの変哲も無い控え室だ。
 控え室、というよりロッカールームといった方がその状景を想像しやすいかもしれない。
 縦に長いロッカーがドアのある壁を除く三面の壁にズラリと並び、中央には鉄パイプを
組んでその上にスポンジを、さらにその上に合成皮を貼り付けた椅子がある。
 椅子といっても背もたれがあるわけでもなく全長2メートルに及ぶために大の男が悠々
とその身を横たえベッド代わりにすることもできる。実際に試合から帰ってきてすぐにこ
の上に横になってしまう選手も多い。
 他には特に何も無い。
 試合を終えた選手が順次姿を消すことによって次第に殺風景となっていき、今は浩之が
一つのロッカーを使っているだけで他は全て空のはずだ。
 浩之がロッカーの角を手で叩いた。
 軽く、乾いた音が鳴った。
「そこに頭ぶつけたら痛いだろうな」
「そうっすね」
 浩之が椅子の鉄パイプの部分を爪先で軽く叩く。
 コツコツと鳴った。
「その椅子蹴飛ばして足に当てたらいいかもな」
「そうっすね」
 耕一が居並ぶロッカーの一つを手で引いて傾ける。
「くっついてるわけじゃないんだな、単体のロッカーを並べてあるだけだ」
「でも、持って振り回すってわけにも……」
「そうだな」
 耕一がロッカーから手を離して元に戻す。
 二人とも、この部屋にあるものを使うことを前提に話をしている。
 リングやエクストリームの試合場のようなところではなくこのような場所での闘いでは
相手の体勢を崩したらきれいに投げるよりも壁やロッカーなどに頭をぶつけてやった方が
よほど効く。
 そういう「武器」の使用はありだと浩之は思っている。
 対等であるからだ。
 耕一だって同じように自分の頭を壁にぶつけることができるのだ。
 今、身には何も帯びていない。
 おそらく、耕一だってそうだろう。
 その状態でこの部屋に入ってきた。
 部屋の中に何があるかを確認する時間が双方にあった。
 ならば、対等だと浩之は思っている。
 きっとこの人だってそう思っているに違いないと浩之は思っている。
 これで十分。
 おれとこの人にとってはこれで――。
 レフリーがいなくても――。
 明確なルールが無くても――。
 この二人の間での勝負にはなんの支障も無い。
 これで勝てたら、おれは耕一さんに勝ったんだと胸を張っていえる。
 これで勝てたら、おれはこの人より強いと胸を張って行ける。
 比べ合い。
 おれとこの人の――。
 どっちが強いか――。
 対等の条件下で闘い、勝たねば意味が無い。
 なんでもありでただ勝てばいいという闘いであれば、こんな非効率的なことはしない。
 こんな自ら闘いに身を投じるような無茶な真似はしない。
 護身術とはまったく異質の精神。
 武道が、格闘技が、自らの身を守るために生み出された――「護身」が母体なのだとす
れば、それは奇妙に歪んだ奇形。
 なんでもありの闘いの中を潜ってきた武道家は口を揃えていう。
「避けられる闘いは避ける」
 なんでもありの実戦には不測の事態がつきものであり、そもそも実戦で一番怖いのがそ
れである。
 それとはまったく異質。
 それが、浩之がこれから行う闘いであった。
「ここの柱の角なんてけっこう……」
 耕一が柱に触れている。
「ねえ……」
 浩之が、それまでとはやや異なる質の声を出した。
 ねっとりとした声だ。
 だが、その絡みつくようなそれが不思議と嫌ではなかった。
「いつ始めますか?」
 涎を垂らしそうな声でいった。
「もう始まってるんじゃないのか?」
 耕一の声も表情も平静たるものだ。
 元々、はじめの合図で始まるような性質の闘いではない。
 双方に闘う意志があることがわかっている以上、いつ突っかかっていってもいいのだ。
 油断は敗北に直結する。
 いきなり殴りかかられても、ああそうか、と思うだけだ。
 お前はそれをしていいと思ったんだな、と――。
 だからこそ、先程から二人ともなごやかに話をしながらもそれへの警戒を怠っていなか
ったのだ。
「はは、やっぱりそうでしたか」
 浩之が苦笑した。
 つまらないことを聞いてしまった、という顔だ。
 そんなことはわかっちゃいたんだよ、という顔だ。
「でもね……耕一さん」
「ああ」
「どうにも困ったもんでさ」
「ああ」
「後ろから蹴飛ばしてやろうとかいう気にならないんだよ、これが」
「ああ……」
「どうも、なんかこう……」
「おれもそうだよ」
「……」
「おれもそうだよ、浩之と同じだよ」
 浩之が苦笑していた。
「よし」
 そういった時には晴れたような顔になっていた。
「耕一さん」
「おう」
「いっそのこと、いっせーのせ、で始めましょうか」
「おう」
 耕一と浩之が向かい合った。
 それもいい。
 耕一は思っていた。
 この闘い、二人を共通に制限するルールは無い。
 それぞれが心の中にある――はっきりといってしまえば闘う上で自らに勝手に課してい
る――ルールに従うのがこの闘いだ。
 誰にそうしろといわれたわけでもない。
 時には、それに従うことが勝利への道を細く行き難いものにしてしまうことがわかって
いてもだ。
「よし、それじゃ……」
「はい」
 二人の距離は50センチも無い。
 パンチが余裕で届く位置にお互いがいる。
 二人ともリラックスして全身から力が抜けているように見える。
 いつ殴りかかられてもいいように……。
 だが、浩之はとあることに気付いてしまった。
 この人……。
 本気の本気で「いっせーのせ」で始めるつもりだぜ。
 いや、浩之にもその気持ちが無いでもなかった。
 それもいい、と思っていた。
 だから、こんなことを提案したのだ。
 だが、耕一がそれを守らないことを想定して……いや、むしろ破ってくるものと思って
耕一と向かい合っていた。
 それに対して耕一である。
 あー、こりゃ完全にそのつもりだな。
 それを確信した時、浩之の――。
「いっ」
 耕一がそういった瞬間、浩之の右拳が一直線に顔面を貫いていた。

                                     続く

     どうもvladです。
     103回目ですな。
     ラストまでいきます。