鬼狼伝(102) 投稿者:vlad 投稿日:3月27日(火)00時20分
「!……」
 落とされたら、その衝撃で……。
 そのことは浩之も当然思っていた。
 内心、是非とも思い切り落としてくれと願っていた。
 だが、耕一とてそのことはわかっていよう、そうそうこちらの思惑通りに落としてくる
とも思えない。
 だが――。
 落とされた。
 いいのか、極まるぞ!
 背を丸めて衝撃に耐えようとしていた浩之を衝撃が襲う。
 背中への衝撃ではなかった。
 物理的な衝撃ではなかった。
 マットに接触する直前に止めた!?
 ずるり、と抜けかかる。
 勢いをつけて落とそうとしてそれを直前で止めれば、浩之の拘束が外れる。
 理屈ではそうだが、そのまま引き込んで倒されないためには相当に足腰が強くなくては
いけない。
 このぐらいは予想の範疇内のはずだ。
 その時、耕一の左腕と首を絞め付けていた浩之の両足に生じた僅かな間隙に乗じて右腕
を侵入させた耕一が内側から拘束を破ろうとした。
「しま!――」
 った。
 首の後ろに回した左足に引っ掛けていた固定させていた右足のフックが外れた。
 ここが外されてしまえば三角絞めなど極まるものではない。
 耕一の右腕が外に向かって浩之の左足を押し退ける。
 さらに、大きく口を開けた隙間に耕一が右膝を突き入れ、中腰から腰を落とし、体重を
乗せたその勢いに浩之の左足は耐えられず、膝によってマットに打ちつけられてしまった。
 跳ね上げようにも耕一が体重を乗せているためにビクともしない。
 絶望的ともいえる状況だが、それも左足に限っての話だ。
 むしろ、相手が体重をかけている場所がはっきりしているということは、重心の位置も
大体掴めるということだ。
 左だ。
 浩之から見て左。
 今、耕一は体の中心線からやや左寄りに重心がずれている。
 ならば、崩せる。
 かといって馬鹿正直にその方向に崩そうとしても無理だろう。却って耕一にそれを悟ら
せてしまうかもしれない。
 耕一の左脇に触れている右足で思い切り押す。
 耕一の体が左に倒れかけた。
 気付いた。
 自分の重心が傾いていたことに耕一が気付いた。
 崩れた体勢を耕一が直す瞬間。
 ここ。
 この一瞬。
 ここで耕一が寸分の狂いも無く重心を中心線上に戻せるのならば浩之の企図は露と消え
る。
 だが、なにしろ咄嗟のことだ。
 左に戻す際に必ず少し余計な力がかかる。
 そこを、さらっていく。
 そこを、持っていく。
 浩之の右足が膝の位置はほぼそのままに、その先を旋回させた。
 踵が耕一の右脇に食い込むように接触する。
 右上の方向に吊り上げる。
 耕一の右脇を右回しに持っていくようにだ。
 浮いた右膝の下から左足を脱出させた。
 その左足が右から耕一の左膝を払った。
 左に――。
 右と同じく耕一の左足は膝立ちになっていた。
 重心が後ろにかかっていれば膝から脛、足の甲にかけての長い「線」にほとんど均等に
体重が乗っているために横から払ったぐらいでは微動だにしないのだろうが、この時の耕
一の重心は前にのしかかっており、左足とマットの接触ポイントは膝だけの「点」になっ
ていたので、これを横から腹って動かすことは可能であった。
 それにしても、左右の足の位置に無理がある。極度な柔軟さが要求される動きである。
 浩之の左右の足が作り出した円運動に完全に巻き込まれた耕一は右に――耕一自身にと
っては左に――倒された。
 そして体勢を直そうとした時には背筋に気配が当たる。
 後ろ――。
 取られた――。
 浩之の両腕が縦横に頭部を包もうとしてくる。
 裸絞め。
 これを防ぐ術はほとんど無い。
 女子の部決勝において来栖川綾香がこれを極めながら負けているが、それも綾香が既に
足首に甚大なダメージを負っていたからだ。
 先程、柳川が完全に極まった状態から外しているが、それに使用したのは技ではなく公
園に置いてあったベンチだった。
 浩之の体のどこにも、触れられただけで激痛が走るような故障箇所は無いし、ここは試
合場のど真ん中だ。
 一度極められればそのまま落とされる。
 耕一にできるのは何よりも技の成立を邪魔することであった。
 反撃は後回しだ。
 顎を引き、自らの両手を使って浩之のそれを弾き、掴み、捻り、目的地への到達を妨げ
る。
「浩之、三十秒!」
 あれは……確か浩之の友人、佐藤雅史の声。
 三十秒。
 もうそれしかないのか。
 この状態からではあと三十秒では決着はつきそうにないな。おれだってそう簡単に極め
させるつもりは無い。
 本戦十五分、延長戦三分。
 十八分というのは二人の人間が死力を尽くして闘う時間としては決して短いものじゃあ
ない。
 たぶん、ことの初めから二人とも迷い無く躊躇い無く全力で闘っていたら、こうも長引
かなかっただろう。
 随分、遠回りしちまったな。
 なあ、浩之。
 今、どんな顔してる?
 この位置からじゃ見えないんだ。
 お前、どんな顔しておれの首絞めようとしてるんだ?
 おれか?
 おれはな――。
 って、自分の顔なんて鏡が無いとわかんないんだけど……。
 たぶん、いい顔だ。
 たぶん、おれ、微笑んでる。
 お前の裸絞めを防ぎながら、たぶん、微笑んでると思う。
 お前は――。
 その時、ぞくりと走った。
 悪寒。
 耕一の尾底骨の辺りから脊椎を駈けてうなじまで一気に来た。
 それが通った後もじわじわと寒冷の余韻が残るような嫌な悪寒だ。
 一見、どこにでもいそうな人のよさげな青年に見えて実はかなりの修羅場を潜ってきた
耕一の背筋にこれほどの凍てつく感覚を縦断させるのは容易なことではない。
 外見からはとてもそう思えぬほどに肝が座っている耕一である。
 殺気!?
 そこまではいかなくとも、限りなくそれに近いもの。
 わかったよ、浩之。
 こんなに自分を凍えさせてくれるお前がどんな顔をしているか、見なくてもわかったぞ。
 おれも……笑ってられないぜ。
 耕一がマットに着いていた両膝を起こして立ち上がろうとする。
 浩之が飛び付いて両足で耕一の胴を巻き付けしがみつこうとした一瞬前、耕一が上半身
を動かした。
 裸絞めを仕掛けるために耕一の頭部を両腕で絞め付けていたため、浩之の体もその動き
に振られて動いてややバランスを崩し、両足を跳躍させるタイミングを逃した。
 その僅かな遅れに付け込んだ形で耕一が浩之の腕を外した。
 横になって首を絞めようとしている右腕の肘を下から自らの右手で押し上げた。
 と、ほぼ同時に体ごと右に九十度回転する。
 鼻が潰れるかと思ったが、なんとか脱した。
 ちらりと浩之の顔が見えた。
 やっぱり――。
 いい顔してる。
 耕一に勝つためにその瞬間瞬間に全力を尽くすことしか考えていないような顔だ。
 あと三十秒しかないから……。
 そんなことでは塵ほども戦意を減退させていない顔だ。
 危ない。
 この顔を見ぬ前にその顔に気付かず、甘い考えで微笑んだままでいたらやられていたか
もしれなかった。
 たぶん、あと二十秒ぐらい。
「浩之、あと二十秒!」
 ぴったり的中。
 しかし、耕一が聞いたその雅史の声を浩之が聞いているかどうかは疑わしい。
 耕一が裸絞めから抜けて、そのままするりと浩之の背後に回ろうとする。
 背後から浩之の腰に回してその腹部の上でクラッチしようとしていた両手の内、右手は
予定の位置まで難なく到達したのだが、左手が捻られた。
 バックを取らせておいてアームロック!
 いや、取らせておいて、などという真似を今の浩之ができるかどうか。この場合、その
場の状況に本能的に応じてのことと考えるのが自然であろう。
「ぬっ!」
 耕一の本能もまた危機に際して動いていた。
 極められないように体を回転して逃れる。
 後ろ手に捻られた左手がもう少しだけ上に上げられればチキンウイングアームロックが
極まる。
 だが、背後を取っているならともかく、横から仕掛けている場合、立った状態ではこの
技を極めるのは難しい。
 こっちも自由に動けるからだ。
 耕一はぐるぐると回転しながら極めさせない。
 だが、浩之は愚直に、それしか知らぬかのように狙ってくる。
 ぐるぐる回る。
「あと十秒!」
 あと十秒か。
 あと十秒凌げば……。
 凌げば……。
 あと五秒ぐらいか……。
 悔いは無い。
 本当に、悔いは……。
 あと、ほんの少し。

 ゴングが、鳴った。

 ありがとう、浩之。
 そういおうとした耕一の左腕に激痛が走った。
 チキンウイングアームロック。
 極まった。
 だが、ゴングは既に乱打されていた。
 鳴り響いていた。
「……ゴングか」
 浩之は耕一の左腕を解放し、ぐったりとした全身をゆったりとした足取りで運んで中央
線へと戻っていった。
 勝負は判定に持ち越された。
 三人のジャッジによって判定は下される。
 これには1ラウンドから延長ラウンドまでの全てが加味される。各ラウンド5ポイント
を振り分ける形式であった。
「20対19……柏木耕一!」
 そのアナウンスを浩之は無感動に聞いていた。
 そのアナウンスを耕一は歯軋りしながら聞いていた。
「19対19……ドロー(引き分け)!」
 そのアナウンスを浩之は無感動に聞いていた。
 そのアナウンスを耕一はほっとしたような表情で聞いていた。
「19対18……柏木耕一!」
 歓声が爆発した。
 柏木耕一の勝利が決定したのだ。
 もう一方のブロックの決勝戦が月島拓也の反則負け、そして反則勝ちをした三戸が病院
に運ばれたとあって、これが事実上の決勝戦と思われていた。それゆえの大歓声である。
 その歓声を浩之は無感動に聞いていた。
 その歓声を耕一は歯軋りしながら聞いていた。
「……どうも」
 浩之がぽつりと呟いて耕一に頭を下げ、背を向けて去っていった。
「……最後のアームロックは危なかった」
 耕一が、その背中にいった。
「……」
 浩之は無言。
「あと十秒あったらおれがギブアップしていたかもしれない」
「……3ラウンド……延長ラウンド……十八分闘って耕一さんの勝ちですよ」
 浩之はいった。
 声に抑揚が無い、張りも無い。
「そういうことですよ」
 故意に感情を押し殺した声であることに、耕一は気付いた。
「あり……」
 ありがとうございました。
 と、いおうとしたのだろうが、それを途中で切って、浩之はそのまま試合場を下りて行
った。

「どっちが勝者だかわからんな」
 そういったのは英二だった。
「納得してない」
 確信に満ちた声であった。
「そんなこといっても……」
 と、いったのは理奈であるが、英二はものの見事にそれを無視した。
 曲を作っている時の顔に似ていた。
 理奈がどんなに声をかけても聞いていない。
 少し叩いても無視する。
 かなり強く蹴飛ばさないとこっちを向かない。
 その時の顔だ。
「よし、おれがプロデュースしよう」
 英二が笑った。
 碌なことを考えていない時の笑顔だった。

「勝ったな」
 控え室に帰ると師匠が待っていた。
「はい」
「負けたような顔をしておるな」
 心底愉快そうに笑う。
「そう……ですか?」
「最後の腕絡みは危なかったな」
「……あと、十秒あればやられていたかもしれません」
「それで、そんな顔か」
「かもしれません」
 双英がふっと遠くを見る。
「どっちが勝ったかを決めるのは結局は本人だよ」
「はい」
「お前は自分が勝ったと思っていないのに、第三者がそれを決めてしまった」
「はい」
「それが気に入らないのだろうが」
「……なんだか、モヤモヤします」
「……たぶん、あの藤田とかいう若いのもモヤモヤしておるだろう」
「だと思います」
「やるか?」
「……?」
「うちの道場でもどこでもいい、あの藤田ともう一度勝敗がはっきりするまでやってみる
か?」
「……」
 迷いは一秒にも満たなかった。
「やります」
 いっていた。
「やります」
 自然と口から出ていた。
 自分が格闘技を始めた理由がなんであったのかを思う間も無かった。
 少なくとも、このように自ら闘いを求めるためではなかったはずだ。
 だが、手段が目的を凌駕した。
 いや、手段が目的と摩り替わった。
 手段である「格闘」に耕一が取り込まれた。
 本来の目的を忘れたわけではない。
 だが、間違いなくいえるのは、この納得のいかないモヤモヤした状態では先に進めない
ということだ。
 もう格闘技を止めてしまうというのならいい。
 だが、そうでなければ拳を振る度に、足を振る度に、モヤモヤとしたものが手足に絡み
つくだろう。
 決着だ。
 浩之と闘って決着をつけるのだ。
 判定による敗北を受け入れたように見えつつ、茫然自失とした浩之の顔が忘れられない。
 突然現れた男だった。
 とにかく自分と闘いたいといってやってきた男だった。
 闘うこと自体を目的としたような、その時の耕一にとっては少々理解しがたい種類の男
であった。
 闘って勝った。
 エクストリームで再び会った。
 自分への雪辱を期してやってきた浩之は見違えるほどに強くなっていた。
 優勝などではない。自分ともう一度闘って勝つために来たのだ。
 優勝を狙うというのなら、浩之は高校生の部に出場すればもっと楽に勝ちあがり優勝も
夢ではなかったろう。
 闘って勝つことが目的ではなかった。
 闘うための技術や精神を学ぶことにより平常心を保ち、自分の中にまだなお眠っている
かもしれない狂おしいほどに血肉に餓えたものの眠りを永遠ならしめるために。
 そして、家族を守るために……。
 だが、その前に闘って勝つことだけを目的に格闘技をやっている男が現れ、やがてその
男の目的は自分と闘って勝つことになっていた。
 こいつに、嘘はつけなかった。
 第一試合の中條辰、第二試合の緒方英二。
 彼らも強い男たちであり、耕一も手抜きしたつもりは無い。
 だが、彼らを相手にとことんやるつもりはなかった。
 中條との試合ではそこへ行くまでに勝負が決まった。
 英二との試合では危なかったが英二の心が折れてくれたために助かった。
 だが、浩之だ。
 とことんやるつもりで浩之は来た。
 とことんやってきた。
 異常なほどのしぶとさを見せる男だった。
 突然怯え出したり、突然狂ったような連打をしてきたり、突然開き直ったり、突然達観
したような表情で攻めてきたりと目まぐるしくその表情と戦闘スタイルを変えながらも、
結局倒されなかった。
 不思議な闘いをする男だった。
 だが、常にどのような状態でもいえるのがこいつが全力だったということだ。
 渾身、根限りの全力。
 その時々で出せる力は全部出してきた。
 へっぴり腰の妙なパンチを打っていた時も、この男にとってはそれがその時の全力だっ
たのだろう。それが耕一にはわかる。
 こんな男相手に手抜きはできない。
 そんなみっともないことはできない。
 そして――。
 おれも、こいつに勝ちたい。
 目的は、こいつに勝つためだけでいい。
 そう思った時、耕一は決断していた。
「失礼しますよ」
 思索を打ち切ったのはドアの開く音とそれに僅かに遅れてやってきた緒方英二の声であ
った。
「どうしたんですか?」
「納得している顔じゃないな」
 英二は、嬉しそうに笑った。

「一人に……なりてえ」
 そういわれて、雅史も葵も、控え室のドアの前で立ち止まりその中に立ち入って行こう
とはしなかった。
 シャワーを浴びる気にはなれなかった。
 じわ、と眼球が潤んだ。
 眼窩の奥から熱く滲み出てくるこの感触。
「ははっ」
 軽く、笑った。
 嘲笑に似た笑いだった。
 泣いてるぞ。
 部屋の壁にかかっている鏡と向き合った。
 ははっ。
 なんだこいつ。
 泣いてるぞ。
「負けた」
 呟いた。
 つう、とそれが頬を伝った。
「ははっ」
 情けねえ奴だ。
 泣いてるぞ。
 負けて、泣いてやがる。
 ははっ。
 涙だ。
 ははっ。
 目が真っ赤だ。
 ははっ。
 いい歳こいた男がよ。
「ははっ」
 泣いてるぜ。
「ひはっ」
 無理して笑おうとして、笑い声が裏返ってやがるぜ。
 泣いてるよ。
 何が不満で泣いてるんだよ?
 簡単さ。
 納得してねえんだよ。
 判定で負けを宣告されたのに、それを受け入れられないで泣いてるんだよ。
 あんなもん、試合全体を見ればどっちが優勢だったかは明らかだろうに。
 ははっ。
 涙が止まんねえぞ。
「負けた」
 そんなこといって、心のどこかで認めてねえクセによ。
 未練がましい男だぜ。
 で、なにしてる?
 ――控え室で泣いてる。
 ははっ。
 馬鹿じゃねえのか。
「おおぅ!」
 叫んで、拳を振る。
 右のストレートだ。
 へなへなしたパンチだな。
 こんなの蝿に受け止められちまわあ。
 全身に力が入らねえ。
 もう、おれは終わりかもな。
 なんか、このまま不完全燃焼のまま腐っていくんだろうな。
 ははっ。
 元々、おれなんかはそれがお似合いの……。
「失礼するよ」
 英二が控え室に入ってきた。
 部屋にいた浩之は知るよしもないがその前にドアの前で雅史と葵を説き伏せてようやく
入室がかなった。
「いい顔してるじゃないか」
 満更、皮肉でもからかっているでもなさそうな英二の声だった。
「……おれは君よりもっとまずい負け方をしたのに、涙が出なかったよ」
 そういった英二は、際限無く溢れてくる浩之の涙を羨ましそうに見詰めていた。
「……なんの、用ですか」
「オファーだよ」
「……?」
「納得いってないんだろう?」
 英二が、嬉しそうに笑った。
 浩之の涙が止まっていた。

                                     続く

     どうも、vladです。
     101と102回目ですな。
     難産でしたな。
     まあ、おれの知ったこっちゃありませんな。
     みんな辛い、おれだって辛い。