鬼狼伝(100) 投稿者:vlad 投稿日:1月30日(火)00時54分
 気付いた時には、浩之が倒れていた。

 なんだ。
 おれがやったのか!?
 浩之――。
 倒れた浩之の顔を覗き込む。
 お前、眼球がくるっと上向いてるぞ。
 大丈夫なのか?
 大丈夫じゃないんなら、そのまま倒れてろよ。
 で……。
 おれがやったのか?
 あいつに強烈なの……右のフックだった……そいつを貰って体が捻れて、後の記憶が無
い。
 微かにあるのは、この野郎、だ。
 この野郎。
 ……そう強く思っていた。
 右腕に感触が残ってる。
 ってことは、右のパンチ。あそこから頭に当てていけるとなると、フックか。
 フックで捻られて、お返ししたのか。
 でも、お返しした記憶が無いぞ。
 この野郎、と思って、その次の瞬間が今なんだ。もう浩之は倒れていた。
 おれが、やったのか……。
 いや、間違いなく、おれがやったんだろう。
 まさか、誰かが乱入してきて浩之を殴り倒したわけじゃないだろう。
 おれが、やったんだ。
 おれのこの身体が……。
 この、右腕がやったんだ。
 無意識の内に、反撃したのか……。
 それなら、いいんだけど……。
 もしも、これをやったのがおれじゃなかったら……。
 いや、おれのこの身体が浩之を殴り倒したことは間違い無い。
 でも、その時におれの身体を動かしていたのが、おれじゃなかったら……。
 ヤツだったら――。
 浩之――。
 おい、大丈夫か!?
 死んじゃいないよな?
 そんなことになったらおれは何のために……。
 誰も死なせたりしないために……おれは……。
 あの前の段階で、「ヤツ」がおれの中から這い出してくるのを恐れるあまり、じっとし
て打たれるにまかせていたけど――それが裏目に出たか。
 英二さんの時は、それで上手く行ったんだ。
 でも、浩之は……。
 あいつは、思い切り打ち込んできた。
 ああいう男に、あの手は通用しなかったか。
 思い切ってこっちから打って出ておれの意識がはっきりとしている間に、おれがおれで
ある内に、おれが、柏木耕一が、藤田浩之を沈めてやるべきだったのかもしれない。
 浩之の奴、ぴくりとも動かないな。
 あいつを倒した時のおれが「ヤツ」だったとしたら、その拳にどれほどの威力が秘めら
れていたのか想像もつかない。
 いや、だが、明らかに首が曲がっているようには見えないし、レフリーがその顔を覗き
込みながら悠長にカウントを刻んでいることからして、死んではいないのだろう。
 それに……今、おれはおれだ。
 今の一瞬、意識が途切れたのは、純粋に、おれの記憶が一瞬飛んでいただけなのかもし
れない。
 そうだよ……。
 ヤツなど、もう出てくる余地は……おれの中には……。
 無いはずだ。
 千鶴さんだって、そういってたじゃないか。
 大丈夫だ。
 不安なことは何も無い。
 おれは、おれで――。
 柏木耕一で――。
 ん?
 浩之。
 立ったのか。
 ……なんだよ。
 人を化け物でも見るみたいに――。

 立った。
 ……。
 立ったぞ。
 ……。
 立っちまったぞ。
 ……。
 立たない方がよかったかな。
 震えがよ、止まらねえんだ。
 全身だぜ。
 奥歯はガチガチうるせえぐらいだし、膝だってしゃんと伸びやしねえ。
 こんなの、駄目だろ。
 闘えっこねえ。
 試合開始後の緊張していた状態が生易しいほどにやばい。
 試合が開始してからしばらくの間、おれが感じていた恐怖は、いわば幻想だ。
 自分で想像していた耕一さんの幻影に怯えていたようなものだ。
 それが、ようやく吹っ切れて……。
 攻めて攻めて、後一歩のところまで行ったってところで……。
 冗談じゃねえ。
 怖がっていたのは幻想だと気付いてぶち当たっていったら実像が幻想よりもでかかった
んだぜ。
 おれは、あんなのと闘っていたのか。
 おれは、あんなのに勝とうとしていたのか。
 人間――。
 だよな――。
 でも、とてもそうとは思えねえ。
 強烈なの、思い切りだぜ、テンプルにさ。
 物凄い手応えがして、弾き返されるかと思うぐらい腕に反動が来て、でも、打ち抜いて
やったんだ。
 首、捻じ切れるぐらいにさ。
 力、速さ、タイミング。
 最高だった。
 その、おれの最高の攻撃が効かなかったんだよ。
 そりゃ、全然痛くねえなんてことは無いだろう。
 相当に衝撃を与えたのは間違い無い。
 でも、それでも、ぶっ倒れてさ、よろめきながらカウントセブンぐらいで立ち上がって
くる、とかさ。それだったらいいさ。
 でも……。
 膝を着きもせずに、打ち返してきたんだぜ。
 効いてねえ。
 こりゃ、効いてねえ、ってことだよ。
 あれが効かないんなら、おれはどうすりゃいいんだよ。
 気を持ち直して――。
 そんな、気の持ちよう一つでやり直しがきくようなもんじゃないんだ。
 全身全霊の一撃だったんだぞ。
 これで駄目だったらもういいや、って思って打ったんだ。
 あれが、おれの全部だったから、これで駄目なら諦める。
 そこまで決意して、全てを乗せた一撃だったんだぞ。
 それが――。
 あんな返され方を――。
 畜生。
 なんなんだよ。おれはなんなんだよ。
 全てを賭けたって、効きゃしないんだぜ。
 なんなんだよ、あの人はなんなんだよ。
 おれのパンチが入って、あの人が倒れて――。
 おれの蹴りが入って、あの人が倒れて――。
 おれが腕を取って、あの人がタップして――。
 おれが首を絞めて、あの人が落ちて――。
 そんなことを、夢見ていたおれはなんだ。
 本当に、夢に見たことだってあるんだよ。
 馬鹿じゃねえか。
 極まりきった馬鹿だよ。
 そんなこと、夢に見ていいような男じゃねえだろ、おれは。
 くそ。
「藤田ぁ! わかってんのか!」
 背中に、声が当たってる。
 二回戦で闘った加納久の声だ。
 わかってんのか、っていうのは今度プロ入りするつもりのあいつが、自分を負かしたお
れが無様に負けて自分の価値が落ちて契約金その他に悪影響が出るのを恐れていて、それ
を「わかってんのか」っていう意味だ。
 まあ、加納なりの応援だな。
 でもな、加納さんよ。
 おれもさ、心の片隅にあんたのことを考える気持ちはあったんだぜ。
 おれが無様な試合したら、あんたの評価が下がっちまうから頑張ろう。とか、思っては
いたんだ。それを多少なりともバネにしていた部分はあったんだ。
 可愛いもんだろ。
 まあ、それもついさっきまでだけどな。
 駄目だぁ。
 ……悪ぃ。
 ……ゴメン。
 ……すまねえ。
 もうあんたの評価がどうなろうが知ったこっちゃねえや。
 評価が地に落ちようが、そのせいでプロ活動が上手くいかなかろうが、あんたが路頭に
迷おうが、んなこと知ったこっちゃねえや。
 それどころじゃねえんだ。
 あんたに貰った闘う理由も、もう効き目が無さそうだよ。
 くそ、おれは……それなのに……。
 なんで立っちまったんだろうな。
 あの最高の攻撃、全身全霊を賭けた――こいつが外れたら負けでいい――とまで思って
放った攻撃が効かなかった今、なんで立ったんだ。
 あのままテンカウントを聞いてりゃよかったんだ。
 負けでいいや、って思っているはずじゃなかったのかよ。
 なんで、立つんだよ。
 震えながら、なんで立っちまったんだ。
 負けるぜ。
 あれをあんな風に返してくるような人に勝てっこねえじゃねえか。
 なんで――。
「藤田――」
 誰か、おれを呼んでるな。
 ああ、うん。
 声でわかるよ。
 一回戦で当たった都築だな。
 あんた、おれとやった時にさ、最後に立ち上がってきた時、どんな気持ちだったんだい?
 まさか、あそこから勝てるとは思ってなかったはずだ。
 いかに、カウンターという、逆転劇を演出するのに最適の武器を持っていたとしても、
だ。
 だって、そのカウンターをぶち当てておれを倒したっていうのに、おれが立ち上がって
いる間に、当のあんたは力尽きて倒れちまってた。……そんぐらい、消耗していたんだも
んな。まさか、勝てるとは思っていなかっただろう。
 それでも、立ったんだな。
 なんでだい?
 ああ――。
 行けるもんなら、今すぐ聞きに行きたいな。
 おれはさ。
 気付いたら、立ってたんだ。
 止め止め、もう立つな。潔く負けを認めようや――。
 そういって、立とうとしている身体をたしなめるおれは確かにいたんだ。
 でもさ、まだやるぞ、まだやれるぞ、っていうおれもいてさ、そいつが立っちまったん
だよ。
 おれの99%は「もう止めようや」っていってるんだよ。
 でも、残りの1%がいうこと聞きゃしねえんだ。
 こいつ、99%を道連れに心中するつもりじゃねえだろうな。
 負けたくない、とは思ってるさ。もちろん。
 99%だって、そうだ。
 負けたくない。
 でも、しょうがないじゃねえか。負けは負けだ。
 でもさ。
 1%が認めないんだよ。
 少しでも負けの瞬間を先に先に押しやろうとしてやがる。
 まるで、そうやってたら勝ちが転がり込んでくるみたいにさ。
 ……。
 なんだ。
 つまりは……。
 おれの中に、この期に及んでもまだそんな気持ちがあるってことか。
「納得いくようにな」
 そういっていたのは、確かこの都築だったな。
 くそ。
 しょうがねえな、全く。
 まぁだ勝てると思ってやがる。
 まぁだ納得してねえってのか。
 どうしようもねえな。
 そんでさ。
 おれが、この1%がたまらなく好きなんだわ。
 99%がさ、この頑固でしょうがねえ1%をすげえ好きなんだわ。
 だから、もしかしたら……。
 心中してやるつもりなのかもな。
 この、何がどうなっても負けたくねえって気持ちとさ。

 レフリーが浩之の状態を確認する。
「できるか?」
 と、聞いたのは、浩之が震えていたためだろう。
「なんだ。武者震いか」
 怖くてこんなに震えている人間が、わざわざ立ち上がってくるとは到底思えなかったの
であろう。
「……やります」
「……よし」
 レフリーが中央線へ戻るように促す。
「はじめっ!」

 やります。
 って、いったものの。
 いざ向かい合ったらどうしようもねえな。
 怖え。
 手足の届く位置に入ったら一瞬で殺されちまいそうだ。
 でもよ、逃げるわけにはいかねえよな。
 柏木耕一と藤田浩之の闘いなんだぜ。
 逃げるわけにはいかねえ。
 でも……。
 怖え。
 雅史ぃ。今まで手助けありがとうな。本当に助かったよ。
 あかり、ついでに志保。色々、心配かけちまったな。
 都築、加納。あんたらと闘えてよかったよ。本当に……。他にも、野試合とかした人ら、
今ではすげえ感謝してます。
 英二さん。あなたにも、ここぞという時に助けてもらいましたね。
 葵ちゃん。おれが格闘技を始めたのも、葵ちゃんがいたからだよ。
 親父、お袋。……まあ、ほったらかしだけどさ、おかげで気楽にやれてるよ。
 その他にも、おれが関わってきた大勢の人。
 その誰が欠けても、今のおれは――この藤田浩之は無かった。
 みんなのおかげで、おれはいるんだな。
 みんなのおかげで、藤田浩之はいるんだな。
 その藤田浩之なんだけど……。
 おれは今――。
 すっげえ逃げてえ。
 おれは今、藤田浩之を止めて逃げちまいたい気分です。
 でもさ。
 やっぱり、止めようたって止められるもんじゃねえってのはわかってんのよ、おれだっ
て。
 ちょっと、弱音吐いちまったな。
 だけど吐きたくもなるだろう。
 いや、もう、止めるよ。
 試合、再開しちまったもんな。
 自分だもんな。
 藤田浩之は――。
 自分だもんな。
「結局、最終的には自分だぞ」
 そういっていたのは英二さんか。
 うん、自分だよな。
 そして、自分っていうのは、藤田浩之だ。
 藤田浩之で行くしかねえだろ。
 おい、1%。
 お前だ、お前。
 藤田浩之の中でも、一番負けず嫌いで頑固で、負けないためなら死んじまってもいいと
思ってるお前だよ。
 藤田浩之がまるごと、お前に付き合ってやらあ。
 進むぞ。
 怖えけど。
 進むぞ。
 前に――。
 やっぱ怖えな。
 でも、進むぞ。
「っっっ!」
 なんか、いっちょう叫ぶか。
「っだぁぁぁぁぁぁっ!」
 おお、いい感じじゃねえか。
「おおおぉぉぉぅぅぅ!」
 足が、前に出るぞ。
「ういあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!」
 行ってやれ。
 行け。
 行くんだ。
 行っちまえ。
「落ち着いて、浩之!」
 雅史。忠告ありがとう。
 でも、こうでもしねえと前に進む気にならねえんだ。
 別に、狂っちまったわけじゃないから安心しろ。
 マットを、蹴り付けろ。
 前に、跳ね出していけ。
 思い切り、右のストレートだ。
 ぶん、と。
 打ち抜いて、顔に穴開けてやれ。
 右のストレートが、顔面に届くまで動くんじゃねえぞ。
 あ、消えた。
 やっぱり、無理な注文だったか。
 下に、消えたぞ。
 ただ、かわしただけじゃないだろう。
 うぶ!
 やっぱりそうだ。腹に凄い衝撃。ストレートをかわしざまタックルだ。
 そいつがカウンターになって肩が腹にぶち当たったんだ。
 倒されねえように両足を引いて……。
 引いて……。
 引こうとして……。
 引こうとした両足が浮いて……。
 ごふっ!
 落とされた。
 胴体に両手を回して、強引に持ち上げて背中から落とされた。
 くそっ、この人の方がちょっとタッパ(身長)があるからなあ。
 うわ。サイドポジション――横四方固めになってるじゃねえか。
 動……動けねえ。
 動……動かねえ。
 左腕だ。そこを狙ってる。
 V1アームロックで肘を極めてくるつもりだな。
 早くなんとかしなきゃやられるぞ。
 早く、早く。
 んなもん、肘を返して、ほら、外れた。
 あ!
 やべっ!
 おれが肘を返したのにぴったり合わされた。
 狙ってやがったな。
 V1を極めようとしながら、おれがこういうふうに外そうとしたらこう来るつもりだっ
たな。
 肩が――。
 みきっ、と。
 チキンウイングアームロック――!!

 アームロックという言葉をその名称に含みながらも、V1が痛めつけるのは肘であり、
このチキンウイングのそれは肘と肩である。
 相手の手首を取って、もう一方の手を肩の下を潜らせそれで相手の手首を取った自らの
手を掴んで安定させその腕を引き付けることによって肩を上げさせる。
 肩が浮いて出来た空間に掴んだ手首をねじ込んでいくことで主に肩が、そして肘も極ま
る。
 警察などで採用されている逮捕術に、立った状態で腕を取りそれをねじりながら後ろに
回って相手の手を背中に押し付けて腕を極め前に倒して制圧する型があるが、痛める箇所
はそれと同じである。
 それを寝た状態で、しかも仰向けになっている相手にかけると、チキンウイングアーム
ロックの形になるのである。
 耕一の技はほぼ極まりかけていた。
 浩之は必死に力点をずらしてその瞬間を先送りにするのがやっとだ。
「……浩之」
 極められそうで極められない状況がしばらく続いた後、不意に耕一が浩之の名を呼んだ。
 未だに技は解けておらず、浩之が一瞬でも隙を見せれば即座に持っていかれる状態だ。
「……」
 浩之は警戒を色濃く表情に表しながら無言。
 無言のまま、じりじりと技が極まらない方向へと身体をずらしていた。
「極めようと思えばすぐにでも極められる」
 静かな、声だった。
 その静かさが落ち着きを、そしてそれが自信を窺わせる。
 そういう類のハッタリを吐く人間ではないだろう。
 と、いうことは、本当に耕一は極めようとすればすぐさま浩之の腕を捻り上げてしまう
自信があるのだろう。
 だったら、さっさと極めちまえばいいじゃねえか――。
 既に極まりかかっているために、肩にキリキリと痛みがある。それに耐えながら浩之は
思った。
 一体、なんのつもりでそんなことをいうのか。
「浩之、ギブアップしろ」
 ……は?
 ……なんだって?
 浩之は呆然とした。
 それが耕一の策であったならば、その瞬間に極められていただろう。
 今更、なんだってんだよ……。
 しぶとく技を外そうとしながら浩之は自問する。
 一体、なんでそんなことを……。
「わけありで、とことんまでやるわけにはいかないんだよ、おれは」
 なんだよ……それ。
 どんなわけだか知らないけど、そんなこというなよ。
 わかっちゃいたよ。
 耕一さんが格闘技をやっている理由がおれとは違うんだろうな、ってことはさ。
 自分は闘って勝つため。
 結局は、それであった。
 始めたきっかけとなると少し違うのだが、続けてきた理由はそれだ。
 しかし、耕一にはそれとは違った理由があるのだろうとは、漠然とだが思っていた。
 そう思ったのは、耕一が今まで「勝利」というもの自体への執念を見せたことがないか
らだ。
 最初に自分と闘った時も、今日の第一試合も第二試合も、どこかに「ここで負けても別
にかまわない」とでもいうような雰囲気がある。
 それがプレッシャーと無縁の耕一の闘いの一因であろう。
 でも……。
 それにしたって……。
 そりゃねえよ。
 そんなこというなよ。
 耕一さんはおれのよりでかい理由があるのかもしれねえよ。
 でも、試合場で闘っているんだぜ。
 もしかしたら、耕一さんが格闘技をやっているのは、こんな「ルール」の介在する生易
しいものじゃない闘いのためなのかもしれねえよ。
 でも、ルールはあるけど、ハンデがあるわけじゃないんだ。
 対等なんだ。
 対等で、闘っているんだ。
 こいつは男と男の勝負だぜ。
 そんなこというなよ。
「……まあ、いい」
 いつまでもギブアップせずに技を外そうとしている浩之の耳に微かに、そんな声が聞こ
えた。
 後は、まばたきの間も無い。
 チキンウイングアームロックだ。
「ぎっっっ!」
 浩之が叫ぶが、口から出たのは声とはいえなかった。声帯が発したには違いないのだろ
うが、それを人の声と呼ぶのには抵抗があった。
 だが、よほど我慢強い奴でなければ関節を逆に捻じ曲げられるとこういうふうな「音」
が出てくる。
「折れるぞ! 浩之」
 その声も、押し寄せ続ける大歓声に消されがちであった。もはや、この形になっては決
着はついたと観客が騒いでいるのだ。
「ぐぎぃ!」
 そんな音を声帯から搾り出しながらも、浩之はまだ諦めてはいなかった。
 堪えながら、この体勢から片腕でも反撃する術を探している。
 もはや折らせて、そこから反撃しようというのだ。
 かつて月島拓也と闘った時に使用した戦法である。
 それにしても、耕一が折った時に油断してくれなければおそらく成功は万に一つをさら
に微塵に刻んだほどしかあるまい。
「ぅぅぅぅぅ……」
 浩之の声が低く、くぐもったものになっていた。
 あまり大声を上げて痛がってはレフリーストップがかかるという懸念が浮かんだからで
ある。
「浩之っ!」
 耕一の声がする。
 だが、それよりも靭帯がぷつりぷつりと伸びて、切れていく音が遥かに大きな音量で聞
こえてくるような気がしてならない。
 実際は、まだ靭帯に損傷は無い。
 幻聴であろう。
 ぷつり。
 切れたかっ!
 浩之の耳には確かに聞こえていた。
 肘と肩に聴診器でも当てているみたいに鮮明に聞こえたような気がした。
 ぷつり。
 ぷつり。
 ぷつり。
 まだだ。
 まだ切れてない。
 それはわかる。痛みがまだそれほどではない。”一線を越えた”痛みではないのだ。
 だが、音は確かにはっきりと聞こえるのだ。
 ぷつり、と――。
 今にも、切れるかもしれない。
「浩之っ! ギブアップするんだ!」
「やだ!」
 叫んでいた。
 もう、そんな段階じゃないんだよ。
 できるものなら、穏やかに耕一を諭してやりたかった。
 自分がこの試合場に耕一と相対して立った瞬間から、幾度も揺れ動いてきたのだ。
 耕一の幻影に怯え、色んな人の力を借りてそれを振り切り、だが、自分の力に対するど
うしようもない疑惑が生じ、葵のおかげでそれも振り切り、全身全霊を傾けてぶつかって
いって、幻影よりも巨大な実像にぶち当たり、もう駄目かと思って――。
 それで――。
 最後に残った「負けたくない」という気持ち。
 もう勝てないと思い、もうこの人には負けた、と思い、だが、今なお頑強に孤塁を守る
その気持ち。
 ちっぽけな、藤田浩之の気持ちの百分の一ぐらいのそれに付き合うともう決めたのだ。
 元より無謀。
 腕の一本ぐれえなんだってんだ!
「浩之っ!」
 うるせえっ!
 折ってみろ、畜生!
 折れ、折れ、折っちまえっ!
「ギブアップするんだ!」
「そんなに……」
 そうだよ、そんなに……。
 そんなに試合を終わらせたいなら……。
 終わらせたいなら簡単だ。
 とことんまでやりたくないなら方法は一つしかないだろ。
 いくらなんでも、そんな生半可な気持ちでいる耕一さんに屈服するわけにゃいかないん
だよ。
「耕……一さん」
「浩之っ!」
「だったら、そっちがギブアップしろ!」
 瞬間。
 耕一の左肩越しに、二人の視線が正面からぶつかっていた。
 耕一が技を極めている側とは思えない弱々しい顔をしていた。
 奇妙であった。
 腕を破壊されつつある方が、相手にギブアップを要求しているのだ。
 だが、浩之は大真面目であった。
 そんなに試合を終わらせたいなら、耕一がギブアップすればいいのだ。
 だって、そうじゃねえか。
 それが一番手っ取り早いんだぜ。
 おれの腕をギリギリいわせながら、そんな情けない顔してまいったしてくれ、なんてお
れにいわねえで、そっちがさっさと試合場を下りちまえばいいんだ。
 そうだろ。耕一さん。
 あんた、わけありだとかとことんまでやれないとかいいながら結局……。
 結局……。
 ん?
 なんだ……。
 技の極まりが緩くなったぞ。
 まさか、本当にギブアップするつもりか?
 いや、でも、それにしては完全に技を解いていない。
 ええい、こっちはこんな大チャンス逃さないぜ。

 自分がギブアップする。
 その選択肢は耕一の中にあっておかしくないはずであった。
 現に、反則スレスレの攻撃を仕掛けてきた緒方英二との闘いで、その人間性よりも獣性
を要するような闘いに応じてしまい、自分の中の「ヤツ」が目覚めてしまうのを恐れた耕
一は反則のグラウンドでのパンチを貰った時に、そのまま倒れていて試合を放棄してしま
おうとしたことがある。
 自ら負ける。
 それは、ありえるはずであった。
 しかし……。
 結局、こいつか。
 耕一は、思う。
 あの時も、必死に、立てという浩之の姿を見て、ついつい立ち上がってしまった。
 そして今も――。
 自ら負ける。
 それが一番いいはずなのに……なんでおれはこいつにギブアップしろ、ギブアップしろ
と頼んでいるんだろうな。
 そうか……。
 「ヤツ」を目覚めさせないために、とかいいながら結局。
 結局。
 ん?
 しま……った。
 つい、力を抜いてしまったか!?

 浩之が渾身の力でブリッジをして耕一を跳ね上げる。
 その際に極めた腕が逃げられてしまっていた。
「くそっ!」
 耕一が苦渋を舐めた顔をしながらまた上に覆い被さる。
 まだ依然としてポジションは耕一が有利。
 だが、浩之の両足で右足が絡め取られてしまった。これでは先程のようには自由に動け
ない。

 しまった。
 耕一は強く思っていた。
 思ってから、内心苦笑する。
 自分は何をそんなに悔しがっているのだろう。
 このエクストリームは自分の中でそれほどの価値があるわけではない。師匠にいわれた
のと、少し腕試しのつもりだった。
 それなのに……。
 そうか、やっぱり。
 結局、おれは……。

「ほう」
 その師匠の呟きはもちろん耕一の耳には届いていない。
「あやつ……」
 伍津双英は耕一の顔を見ていた。
「闘いながらあんな顔をするのか」

 ゴングが鳴った。
 第3ラウンドを終わって決着つかず。
 勝負は延長戦に持ち越されることになった。
 両者、立ち上がった。

「耕一」
「……先生」
 係員が用意してくれたパイプ椅子から立ち上がって、双英が試合場の傍らにまでやって
きていた。
「いい顔だな」
「そうですか」
 少し、笑った。
 ボクシング、キックボクシング、柔道、サンボ、空手、テコンドー、レスリング。
 そして、時には総合格闘家。
 色んな奴を呼んでこの弟子と闘わせたが、こんないい顔をしているのは見たことがなか
った。
 その双英が呼んだ人間との闘いに耕一は悉く勝利したが、その勝利の瞬間でさえ、こん
ないい顔はしていなかった。
 一分間の休憩はすぐに終わった。
 再び、耕一は闘いに赴く。
 やはり、いい顔をしていた。

 そうか。
 浩之の顔を見ながら思う。
 そうか。
 結局、おれは……。
 藤田浩之。
 この男に……。
 こいつに……。
 勝ちたい。
 こいつに……。
 負けたくない。

 おれは、勝利だけを目的に闘いたい。

 おれは、こいつに……。
 勝ちたい。
 負けたくない。

 耕一の眼光が鋭さを増していた。
 勝利に貪欲になった人間の目であった。

                                     続く

     あー、どうも、vladです。
     100回目となりました。
     あとは野となれ山となれ。

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