鬼狼伝(99) 投稿者:vlad 投稿日:1月18日(木)02時01分
「おう、雅史、サンキュー」
 下から差し出されたタオルを受け取りながら、浩之がいった。
 額に浮いた汗の玉を拭き取っていく。
「ん? どうしたんだよ?」
 浩之がはにかんだ笑みを見せながら、雅史に尋ねた。
 雅史が、いつになくジロジロと自分の顔を見ているのに気付いたからだ。横を見れば、
葵もそんな顔で自分を見ている。
「おれの顔、おかしいか?」
「いや」
 雅史が、首を横に振った。
「いい顔してるよ」
「なんだよ、いきなり」
 笑みが、苦笑に変わった。
「正直いってね、浩之が怖かったよ」
「ん? おれが?」
「最後の方の連打。浩之じゃないみたいで」
「ああ、あれか」
「てっきり浩之が『キレた』のかと思って……でも、今の浩之はなんだか穏やかな顔をし
ているよ」
「うーん、『キレた』のとは違うな……」
 俗にいう『キレる』という感情の動きは、堪忍袋の尾が切れた、という言葉がおそらく
語源なのであろうが、それの根源には「怒り」の感情があり、いわば、怒りが極まった時
の表現の一つである。
 先ほどの浩之に怒りなどは無かった。
 あの親の仇でも相手にしたかのような猛攻も、ただ攻撃に夢中になっていたら防御を忘
れていたに過ぎない。
 気付いた時にも、防御なんていいや、と思っていた。
 カウンターでもなんでも来ればいい。
 そんなもの、喰らってやる。
 喰らって駄目だったら、所詮そこまでだ。
 あそこで耕一に勝ちにいくのはあれしかなかったと今でも思っている。
 ああするしか、耕一からのプレッシャーを跳ね除けて、自分が――藤田浩之が藤田浩之
として闘うことを貫徹することはできなかったはずだ。
 これで負けちまったら、それでいい。
 あの、防御も何も無い、セオリーから外れたパンチを打ちまくる不恰好な攻撃に、全て
を賭けていた。
 駄目だったらおしまいだ。
 痛い目に逢って、一万を越える観客の前で無様をさらして、耕一に見放されて……。
 すっからかんの一文無しだ。
 だけど、勝ったら。
 一回戦二回戦を通じて実力者と認識された耕一を破れば、おいしい。
 いや、そんなこと以前に、耕一さんに勝つこと自体がとてつもなく嬉しいじゃねえか。
 おれは、あの人に勝ちたかったんだ。
 あの人に負けたあの日から……。
 あの人にだけ勝ちたかったんだ。
 都築も、加納も、そりゃそれぞれがそれぞれの強さを持った奴らだったよ。
 でも、あの二つの闘いはおれにとっては「過程」に過ぎない。
 その先に、あの人がいるからだ。
 そうでなければ、おれは都築の執念に――加納の技術に――負けちまってたかもしれな
い。
 強くなりたかったよ。
 格闘技を始めてからずっとだ。
 葵ちゃんが強くなろうとしているのを見て、おれもそうなりたかった。
 それで、葵ちゃんと頑張って……けっこう強くなったような気がしてたんだ。
 うちの学校の空手部の連中と揉めたのはその時だ。
 おれの強さってこんなもんだったのか、って思った。
 頭、踏んづけられたんだぜ。
 そんなの、初めてだったよ。
 葵ちゃんは、おれに何もいわないでいたけれど、見かねていってくれた。
「五対一じゃ……」
 あの日の保健室で、葵ちゃんはそういったきり、黙った。
 五対一じゃ、しょうがない。
 そう、続けようとしたのだろうと思う。
 でも、葵ちゃんは黙った。
 たぶん、おれが怖い顔で見返したからだろうな。
 顔中の筋肉が引きつって強張って、ろくな顔をしていなかっただろう。
 踏まれた時の跡が、消えてなかったはずだ。
 五対一じゃ、しょうがない。
 しょうがなくねえよ……。
 おれはさ、あの程度の連中なら五人いたって大丈夫だと思って喧嘩買ったんだからさ、
ショックはでかかった。
 先制攻撃には成功したんだ。おれがまず攻撃を入れていった。
 でも、五人を倒しきれなかった。
 いや、予想以上に連中が打たれ強くて、最初に叩いた奴らがすぐに復活してきて袋叩き
になっちまった。
 あれからだな。
 おれが本当に強くなろうとしたのは。
 あれからだな。
 おれが葵ちゃんと練習しなくなったのは。
 あれからだ。
 おれが葵ちゃんに、練習している自分を見せたくなくなったのは。
 畜生。
 野郎。
 ぶっ殺して……。
 そんなことを呟きながら拳を振るう自分を葵ちゃんにも、あかりにも、いや、誰にだっ
て見せたくなかった。
 だから、おれが練習するのは部屋の中とか、夜の公園とかだった。
 それを雅史に見られたんだったな。
 それから、あいつは何かと協力してくれた。あいつにもサッカーの練習があるはずなの
に……。
 一緒に走ったこともあったな。
 停学があけて学校に来た空手部の奴らを叩きのめしたけど……あそこで必要以上にやら
なかったのは、雅史のおかげだったと思う。
 雅史がいなかったら……。
 あかりだったら……駄目だったと思う。
 おれが、あかりの顔をまともに見れなかったと思う。
 雅史が、
「一緒に走ろうか」
 そういってくれたおかげだったと思う。
 あのまま、一人で……。
 畜生。
 そう呟いて拳を打つ。
 野郎。
 そう吐き出して足を突く。
 ぶっ殺して……。
 そう念じながら肘を振る。
 そんなことを一人でずっと続けていたら……人を殴り殺すことをなんとも思わないよう
な人間になっていたかもしれない。
 一線というものがある。
 それを境に向こう側とこっち側があり、笑いながら人を殺せるような人種が向こう側な
らば、おれはこっち側がいい。
 向こうに行ったら笑えなくなっちまう。
 あかりの前で笑えなくなっちまう。
 雅史の前で笑えなくなっちまう。
 ひしゃげた人間の顔を見下ろしながらでしか、笑えなくなっちまう。
 あそこでやらなくてよかった。
 だが、それで物足りなさを感じたのも事実だ。
 あんなに必死になって肉体をいじめてきたのに、奴らは拍子抜けするほどに弱かった。
 その時、あの人とやってみる気になったんだ。
 その前から、奴らへの復讐に備えて「十人抜き」と称して腕に覚えのある連中と野試合
をしていたが、その中にピックアップしていたのがあの人だ。
 でも、セバス……先輩のとこの長瀬の爺さんに「お前では絶対に勝てない」といわれて
外しておいたんだよ。
 その人と、やる気になった。
 あの時はまた、自分は強くなったと自惚れていたのかもしれないな。
 やって、負けて、今度はあの人が目標になった。
「雅史、今まで……」
 ありがとう。
 いおうとして浩之はいい止まった。
 ラウンド間のインターバル終了を告げるアナウンスが聞こえてきたし、何より、そこで
雅史にそんなことをいってしまったら気がくじけてしまうような気がした。
 終わってからでいい。
「なに? 浩之」
「いや、終わってからでいい」
 そう、全部終わってからだ。
 雅史たちに背を向けた。
 あの人も、こっちを向いたところだった。

 3ラウンド。
 作戦は特に無い。
 奇襲が通じるような相手でもない。
 特にここを衝いていけば、という弱点を抱えているわけでもない。
 正面から殴り合いに行こう。
 まずは、一発、思い切り……。
 外れたらどうする?
 外れたら……もう一発思い切りだ。
 それも外れたらもう一発。
 当たるまで思い切りだ。
 レフリーの手、邪魔だ。
 早くどけ。
 その手が、上がった。
 いいんだな?
 ゴングが鳴った。
 OKだな。
 行くぞ。
 浩之の足がマットを蹴っていた。
 まず一発……。
 その一発を打つ前に浩之にある予感があった。
 とんでもなくいい予感だ。
 信じられないほどだ。
 耕一に対してどのような攻撃を送り込んでもそれが当たるような気がした。
 こんなことは初めてだ。
 思い切り右ストレートを打つ。
 それが当たる。
 それ以外のビジョンが浮かんでこない。
 耕一の構えは前と変わっていない。
 それなのに、当たる気がする。
 おいおい……いーのかよ?
 思わず、心中に呟いていた。
 打った。
 一直線。
 十二分に体重の乗った遊びの無いストレート。
 最短距離を最大速度で突っ走って、耕一の顔に行き着く。
 それを阻むものはなく、耕一の顔の位置も変わらず。
 当たる。
 打ち抜く。
 首が曲がった。
「があっ!」
 わけもわからずに叫んだ。
 左のフックが弧線を引きながら耕一の顔を左に向かせたのは次の瞬間であった。
 また次の一瞬には右のパンチが入る。
 そのまた次の一瞬には左のそれが食い込む。
 手足を拘束された人間を叩くよりも易く、浩之は耕一を殴り続けた。
 思わぬ好機。
 おそらく、自分がこの男に勝てるかもしれない最初の瞬間だ。
 この機を逃せば、これ以上の僥倖は巡って来ないのではないか。
 だったら、殴るしかない。
 あまりにも脆いことに対して奇妙に思う気持ち、罠かと警戒する気持ちも無いわけでは
ないが、それらを考慮し、差っ引いたとしても、行く以外の選択肢が無かった。
「行っ!……」
 行ってやる!
 そう吼えようとして言葉になりきらなかった。
 パンチを食らい続ける耕一から、何も感じられない。
 罠でもなんでもねえ、こりゃ効いてるぞ。
 そう確信できるほどに、耕一からは何も来なかった。
 例え、彼が剥き出しの闘気を忌むべしという心得を実践しているのだとしても、これだ
け殴られて反撃も何も無いのは明らかにおかしい。
 物理的に反撃できぬまでも、そういう気配が――殴り倒してやる! という浩之が発す
るそれに反発する、やられてたまるか! という気配が返ってこないのはおかしい。
 結論。
 本当に効いている。
 だったら、行くしか無いではないか。
 こんな耕一は初めてだ。こんな好機はそうそう無い。
 いや……こんな耕一を一度……何処かで……。
 自らが相対した時の記憶ではない、誰か他の人間と闘っている時のそれの中にいた耕一
が今と同じような、彼らしくも無い不甲斐ない姿をしていた。
 パンチを送り込み続けながら、それが蘇る。
 きっかけは、聞こえてきた声だ。
 微かなそれが耳に入った時に、思い出した。
 英二だ。
 緒方英二との試合で耕一が今のようにほとんど反撃もせずに打たれ続ける場面があった。
 そのままノックアウトかと皆思ったであろうし、浩之も思った。
 それだけ英二の攻撃は鋭く素早く、いいリズムに乗って繰り出され、耕一の防御は「な
っちゃいなかった」のである。
 あの時は確か……英二が一気に勝利を決すべく、蹴り……足の運びや上体の動きからい
って、右のハイかミドルキック……を叩き込んで行こうとしたが、なぜかそれを直前で止
めてしまい、大チャンスを逃してしまった。
 以後、それ以上のチャンスは巡って来ずに、英二は敗れている。
 あそこでなぜ行かなかったのか……疑問に思ってはいたが、それを英二に聞く機会を逸
してしまった。
 あの敗戦に人が変わるようなショックを受けていた英二に、そのようなことを尋ねるの
は憚られたからである。
 だが、あの試合を思い出してどうにも引っ掛かるのはここであった。
 いや、本日この場で行われた無数の試合の全てを総括しても、これだけ疑問の残る試合
は無い。
 なぜ、あそこで行かなかったのか?
 耕一のあの時の状態――そもそも、あの耕一のいきなりの弱体化も疑問ではある――か
ら考えて頭部を強襲するような蹴りでも命中していた可能性は強い。
 闘いには流れがある。
 あの時、流れの主流は間違いなく英二であり、その勢いは一線を越えていたと浩之は思
っている。
 もう、勝っていたといって過言ではない状態だったのだ。
 あそこで強力な攻撃を当てることができたら……。
 英二がそれをわかっていなかったわけではなく、彼はしっかりとそれを察知し、自分が
闘いの流れに乗っていることを自覚し、止めの一撃を放たんとしていた。
 その流れがぶっつりと途絶えた。
 それを断ったのは耕一ではなく、英二だ。
 そこが、大疑問なのである。
 だが、考えてみれば、あそこで英二が攻撃の手を止めるのは明らかにおかしいのだから
あれは英二の意思によらぬ行動であったと考えるのが自然ではないのか。
 ならば、やはり。
 耕一だ。
 耕一が何かをしたのだ。
 具体的に何をしたということはなくとも、英二が何かを感じて攻撃を止めたのだ。
 あの時の耕一と今の耕一がほとんど鏡映しのように重なるからには、その英二に攻撃を
思いとどまらせた「何か」がこれから浩之を襲うことは十分ありうる。
 何が来るのかは知らないが、とにかく、この一連の攻撃を止めるつもりは無い。
 どちらかが倒れるまでこの攻撃は止まない。
 それがこの藤田浩之の意思だ。
 何が来てもこの意思は貫徹する。
 息の続く限りの連打を打ち込む。
 息が切れても一息入れればまた行く。
 何がやってきても、そんなものは意思で貫く。
 何が押し寄せてきても、そんなものは意思で押し返す。
 この人をぶっ倒す!
 それが意思だ。
 意思というよりも、強烈な願望であるというべきか……いや、この場この時に至ってそ
のような詮索は不要。
 これ、だ。
 意思、願望、或いは自分がこの人を倒すなどただの妄想に過ぎぬか。
 そんなことはどうでもいい。
 この人をぶっ倒す!
 これ、だ。
 これを貫徹する。
 これをもって、何が来ようと粉砕する。
 あの英二に、絶好のチャンスへの渾身の一撃を躊躇させたものが来ようと、そんなもの
は関係無い。
 倒すのだ。
 なんとしても倒す。
 どのようになっても倒す。
 一秒。
 否。
 それをさらに切り刻んだ秒以下の寸刻でもいい。
 自分が長く立っていられればよい。
 それで、いい。
 これ、だ。
 なんでも来い。
 おれにはこれがある。
 これがあるから、絶対に攻撃は止めない。
 これがあるから、絶対に倒れない。
 これがあるから、絶対に負けない。
 一体、何をぶつけてくるのかは知らないが、おれは英二さんとは違うぞ。
 おれは、もう「何か」が来ることはわかっている。それが何かは知らないが、あの英二
さんの手を止めたほどの「何か」であることはわかっている。
 それに対する覚悟もできている。
 それに対する武器も準備完了だ。
 これ、だ。
 来い。
 来ないなら、このまま倒しちまうぞ!
 ほら、左右のワンツーが小気味よく耕一さんの顔を揺らしている。
 顎が上がった。
 目玉がほとんど動いていない。
 視線が上に向いてやがるぞ。
 ってことは、下だ。
 下が死角だ。
 背中を、流れが押しているのを感じるぞ。
 ここだ。
 距離を詰めて、左のショートアッパー。
 戻りかけた顎をもう一度突き上げてやった。
 左拳を下ろしながら左肩を後方に捻っていって、同時に右を前方に――。
 腰も回転させる。
 膝もだ。
 今の、左のショートアッパーは死角からの攻撃であると同時に、身体を捻るための行動
だったんだ。
 この、次の一発。
 右フックに渾身の力を宿らせるために、左に身体を捻ったんだ。
 その捻れを戻すと同時に右を打ち出す。
 行くぞ。
 何か、来るのか!?
 何が来ても大丈夫だ。
 これ、がある。
 いや、それ以前に、もうどんなおっかないものが来ようと、後戻りできないほどにこの
一発に力を全部預けちまった。
 右のフックだ。
 頭を刈り取ってやる。
 首なんか千切ってやるつもりでぶん殴ってやるぞ。
 何かあるなら出して……。
「っ!」
 浩之の目に映ったのは、耕一の目であった。
 靄がかかったような、薄ぼんやりとした眼差し。
 なんだ!?
 どういう目なんだ。これは――。
 どういう感情を抱いているとこういう目になるんだ!?
 直接的な恐怖は無い。
 その眼光は鋭さなどは微塵も無い。
 むしろ、心配になるほどに弱々しい。
 どうしたんすか?
 思わず、そう尋ねてやりたくなるような目だ。
 だが、怖い。
 直接的には怖くなくとも、なんだか、怖い。
 どうしたんすか?
 どうしたのか?
 どうした? ……。
 そうか。
 わからないのだ。
 なんだか、わからないこの目。
 おそらく、いや、絶対にあの時の英二が見たのも、この目だ。
 未知の恐怖。
 なんだかわからないものへ、本能的に抱く恐怖。
 だが、それでもただ漠然としているだけならば、これだけの恐怖は沸き起こるまい。
 何か。
 人間に根源的な恐怖を与える何らかがその目の奥にいる。
 それが、見ている。
 その前にかかった薄い靄が、それを遮る防壁か――。
 そのようなもの、いつ破れてもおかしくない。
 怖い。
 悪寒が幾筋も尾を引きながら浩之の身体を縦断した。
 正解だ。
 後戻りできぬ状態に、自らの身体を持っていったのは正解であった。
 行くぞ。
 何があろうと、もう後戻りはできないのだ。
 それがなんなのか――。
 知るかよ!
 知らねえよ!
 わかんねえもん考えたってしょうがねえ。
 こっちは、後は打つだけだ。
 全身の捻れを戻して、右フックを――。
 打った。
 拳が半円を描いた。
 それは拍子抜けするほどにあっさりと、耕一のテンプルに到達した。

「よしっ!」
 試合場下で、英二があらん限りの大声で叫んでいた。
 耕一の防御がまずくなり、浩之の攻撃がよく当たるようになった時点で、英二はあの時
のことを思い出していた。
 最大のチャンスに右のハイキックを打ち込もうとした時のことだ。
 靄がかかった耕一の目。
 それに恐れをなして、自分は攻撃を躊躇った。
 それなのに、浩之は行った。
 断言してもいい、浩之が右フックを打ち込む直前、耕一の目に、あの時と同じ靄がかか
り、そして、その奥底の何かが浩之を一瞥したはずだ。
 それでも、行った。
 おれはまだ若い。
 いつもそう思っているが、この時ばかりは、自分がとんでもなく老いてしまったのでは
ないかと思う。
 浩之は、行った。
 右フックを打ち込んで……いや、身体ごとぶつけていくように行った。
 耕一が頭を引いたり、ずらしたりしてかわしたようには、英二の位置からは見えなかっ
た。
 あの勢い、あの速さ、あの体重の乗り。
 一撃必殺といって差し支えないほどに威力を帯びている。
 オープンフィンガーグローブをはめていなければ、耕一の頭蓋骨と、そして自分の拳も
もろともに砕くような一撃だ。
 渾身、根限りの一撃。
 おそらく、現時点の身体能力、技術、経験で、浩之が打てる最も強い攻撃だ。
 そんなことは無いだろうが……。
 まさか、そんなことは無いとは思うが……。
 これで倒れなかったら……もう浩之に耕一を倒す術は無い。

 どうだっ!
 十分な感触が拳を伝わり、手首を震わせ、腕を伝わり、全身を震わせた時、浩之は心中
に叫んでいた。
 どうだっ! 見たか!
 これだ。
 こんなパンチが打てるようになったんだ。
 こんなパンチをぶち込めるようになったんだ。
 どうだ、耕一さん。
 このまま、打ち抜いて……。
 打ち……。
 抜いて……。
 どうだ。
 振り切ったぞ。
 打ち抜いたぞ。
 おれのパンチが、耕一さんの頭を打ち抜いたぞ。
 おれが、耕一さんを貫いたぞ。
 おれが――。
 耕一さんを――。
 倒れろ。
 倒れるんだ。
 いや、んなこと願うまでもない。
 耕一さんは、倒れるしかないはずだ。
 もしも、倒れなかったら……あるわけが無え。
 あのパンチを思い切りテンプルに食らって立っていられるわけが無え。
 体重200キロで脂肪が一欠けらも無し、首が顔よりずっとぶっとい、とかいう奴じゃ
ない限り、無理だ。
 耕一さんの体重、首の太さ、その他もろもろ――。
 耕一さんの体のサイズで、あのパンチに耐えられるわけが無い。
 勝ったぞ。
 おれが――。
 耕一さんに――。
 倒れろ。
 おれの右フックを貰って、顔が右を向いているぞ。
 膝も曲がっている。
 倒れるぞ。
 もうすぐだ。
 すぐに、かくん、と行く。
 操り人形の糸が切れたみたいに崩れて――。
 その時こそが勝ちだ。
 おれの――勝ちだ。
 もう、すぐだぞ。
 倒れるぞ。
 かくん、とだ。
 糸が切れたみたいに――。
 かくん、と。
 倒れるぞ。
 これで倒れなかったら――。
 ――この人は人間じゃねえ。
 倒れるぞ。
 かくん。
 ほら、かくん。
 かくん、と。
 かくん、だよ。
 かくん……。
 かくん……。
 かくん……。
 ……おい。

 右に捻れた耕一の体がその反動を利するかのように勢いをつけて左に捻り返された。

 ……おい。

 右のフック。

 ……おい。

 空に弧を引いて――。

 ……おい。

 空を切る音が、聞こえた。

 ……んな。

 音の後に、すぐに衝撃が来た。

 ……馬鹿な。

 一瞬だけ途絶えた意識が戻った時、浩之は立っていた。

 ……これは……。

 一瞬だけ、立っていた。

 ……この人は……。

 すぐに倒れた。

 ……人間じゃねえのかよ……。

 倒れた浩之の身体に絶えることなく震えが生じていた。
 奥歯がカタカタと鳴った。
 泣きたくなってきた。

 浩之は、自分が倒れる直前、耕一の右フックによって一回転していたことに気付いては
いなかった。

                                     続く

     どうも、vladっす。
     99回目です。
     次回で終わったら誰も苦労しません。
     

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