鬼狼伝(98) 投稿者:vlad 投稿日:11月27日(月)01時01分
 どうした。
 浩之、何がどうなってお前はそんなになっているんだ?
 なんだか、また一段とお前が小さくなったように見えるぞ。
 あの時のお前は何処へ行った。
 抜き身の刀みたいなお前だよ。
 餓狼の牙みたいなお前だよ。
 技術論とかを越えたお前だ。
 精神論だって何処かへ放り捨てたようなお前だ。
 餓えた生物がものを食べるみたいに闘っていたお前だよ。
 腹が減って飯を食うのに技術論が要るか?
 腹が減って飯を食うのに精神論が要るか?
 要らない。
 そんなお前だよ。
 そんなもの要らない、というように闘っていたお前だ。
 第1ラウンド終盤、首を傾げるようなところはあったけど、技術は前より向上している。
 でも、怖くもなんともないぞ。
 前は、怖かったぞ。
 そうだ。
 浩之、お前が怖かったよ。
 これ以上、こんなお前は見たくない。
 正直いってな、今のお前ならすぐに潰せる。
 そろそろ、終わらせるぞ。
 左、左、右で決めてやる。
 左のジャブを二発。
 なんだ浩之、そんなに縮こまって……。
 くそ。
 なんだか、気に入らないぞ。
 おれが好きなお前はそんなんじゃなかったはずだ。
 右だ。
 この一発で決めてやる。
 ガードなんて打ち破って――。
「!!……」
 打ち出そうとした瞬間、浩之が前に出てきた。
 期せずして、カウンターになる!?
 思ったのは一瞬だけだった。
 浩之の頭部は斜めに前進してきて、耕一の右腕の表面を滑るようなギリギリの距離で掻
い潜ってきた。
 前傾姿勢のまま、左でフックを放ってくる。
 スウェーで後方に逃げるには距離が近すぎる。すぐ後に右でストレートを打たれたら避
けきれない。
 むしろ組み付いて、前傾姿勢になっているのを幸い、上から押し潰すか。
 そうすればフックの威力などほぼ完全に殺すことができる。
 組み付かんとした瞬間、浩之の体が左に捻れた。
「くっ!」
 その形、下方から駆け上ってくる気配、そのどちらもが次なる攻撃の正体を告げていた。
 右のアッパー。
 それも、肘を曲げて弧を描くようなそれではなく、ほぼ腕を一直線に伸ばして打ち上げ
るそれだ。
 普通はあまり見られぬ形だが、耕一の方がやや身長が高いのと、浩之の腰が落ちている
今は十分に威力を耕一の顎に伝えることができる。
 組み付こうと前方に伸ばした両手の間を縫って、それは昇ってきた。
 真上を向いた耕一の目に、スポットライトの光が眩しい。
 当たる寸前に思い切り顎を上げて身を後方に反らすことでダメージを幾分和らげること
には成功したが、この状態では浩之の次の攻撃に対応しようが無い。
 いっそ、倒れるか。
 そう、思わないでも無かったが、耕一は無意識の内に転倒を回避するためにマットを蹴
った。
 耕一の顎が、右に揺れた。
 左から、浩之の右フックが飛んできてそれを貰ってしまったのだ。
 次いで、鼻頭に一発。
 貰った瞬間、鼻血が出たのではないか、と思ったが、幸い、鼻腔には血が流れ出る時の
独特の、生暖かいものが滑り落ちるような感触は無かった。
 耕一の体勢が定まる。
 こうなれば、もうそうそう攻撃が当たるものではない。最前のそれは、耕一の体勢が大
きく崩れていればこそ、面白いように当たったのだ。
 体勢を立て直した耕一の顔に衝撃が走る。
 右のストレートだ。思い切り喰らった。
 まさか!
 耕一はよろめきつつ、その直前の浩之の姿勢を思い起こす。
 どう考えても、右のストレートを打ってくるようには見えなかった……。
 そのためか、威力もそれほどではないが。
 浩之!
 そう呼びかけてやりたかった。
 今度はどうした?
 今度は何が起きたんだ?
 こんな滅茶苦茶なパンチを打ってくるような奴だったか?
 思う間にも、二発、立て続けに貰う。
 藤田浩之というのは、流派を我流と公言している割には基礎がしっかりしていて、また
それに大きく外れるようなファイトスタイルではなかったはずなのだが……。
 それに、浩之。
 お前の、その顔はなんだ。
 必死だな。
 必死だ。
 それが一目でわかる顔だ。
 必死だ。
 それ以外の何物でもない。
 人間の表情がある一種類だけのものに染まることは滅多に無いが、その時の浩之の表情
はそれだけだった。
「はあっ!」
 浩之の口から気合が迸る。
「きえあっ!」
 喉を擦り切らせ、血を吐くような声だった。
「くきぃぇあっ!」
 人間の声帯を通した声とも思えぬ。
 耕一の耳に先ほどの公園での声が蘇る。
 月島拓也が、これとは違うが、やはりとても人間のそれとは思えぬ声を発していた。
 その時、拓也は真剣勝負の最中に、その相手にいらぬ情けをかけられたことを怒り、悲
しみ、鳴いていた。
 浩之の両腕が絶えず旋回して、凄まじく変則的な軌道を引いて耕一に拳を叩きつけよう
とする。
 何があったかは知らないが……。
 守りに入ってるお前より、こんなお前の方がいいな。
 そんなお前の方が好きだし……。
 そんなお前の方が怖いぞ。
 紙一重でかわした、と思った浩之のパンチが、耕一の耳に僅かに接触していた。
 じん、と熱が生まれる。
 打たれた痛みとは明らかに違うその熱さ――。
 ――斬られた。
 耕一の耳から細い朱線が宙にたなびいていた。

「きぃーあっ!」
 パンチが面白いように当たる。
 ガードに阻まれるものの方が多いのだが、それでも五発に一発はガードを潜り、その内
の二発に一発ほどは確実にダメージを与えている。
「いいね」
 誰にいうともなく、英二は呟いていた。
 視線は、浩之の顔と、絶えず旋回するその両腕に注がれている。
「彼は防御を全く考えていない」
 声に陶酔に近い響きがある。
 さすがに耕一も打たせっぱなしにはせずに時折反撃しようとするのだが、それが上手い
具合に行かない。
 浩之は防御らしい防御はしていない。
 パンチを弾くことも、防ぐことも、かわすこともだ。
 耕一の腕が伸びきる前に浩之が距離を詰めてきてしまうために十分な威力を発揮する前
に"当たってしまう"のだ。
 それでも、ダメージはある。それは蓄積していく。
 だが、そんなものにはおかまい無しだ。
「いいな」
 英二が呟いた。
 以前、理奈と由綺の二人で一度だけ全国ツアーをやったことがある。
 単独でならともかく、二人が一緒にというのは初めてだったためにかなり話題になった。
 沖縄から北海道までを転戦する間に、九州は鹿児島県にも立ち寄った。
 そこで、九州中の古武道諸流派が集まっての演武大会があるというので、忙しい中に暇
を作って見に行ったことがある。
 そこで、英二はそれを見た。
 英二が開場より少し遅れて到着した時、既にそれは行われていた。木刀を振っているか
ら剣術の一派なのはわかるのだが、今まで見てきたどれよりも単調であった。
 どの流派にも大体、上段、中段、下段、そしてそれから枝分かれした様々な変化がある
が、それには、上段一つしか無いようであり、さらにはそれを振り下ろす以外のことはほ
とんどせずに、例えば、小手を打つ――指を斬りに行く、といったような動きが無い。
 そして、響き渡るのはなんともいえぬ叫び声であった。
「あれが、示現流ですか」
 側にいた初老の男に尋ねると、果たして、そうだという。
 示現流。
 戦国末期、薩摩藩医、東郷藤兵衛重位をもって創始された剣術である。
 体捨流を学び、さらには自顕流を学び、示現流を興すに至る。
 関ヶ原の合戦後に薩摩藩主となった島津家久の目にとまり「お家芸」となり、以後連綿
と続き、廃藩置県を経てからは一流派として受け継がれ現代に至っている。
 示現流には防御の型が存在しない。
 あるのは、攻撃のそれであり、それですらそれほどの種類があるわけでもない。
 一言でいえば、大上段から振り下ろす、というだけである。
 真っ向からの唐竹割、右袈裟、左袈裟、おおよそこの三つほどに限られる。
 達人の斬撃になると太刀行きが速すぎて防御も回避もかなわず、半端な技術などは一撃
で粉砕されてしまう。
 先制して強力無比の攻撃を送り込むことによって相手の防御を砕き、一刀の下に決し、
防御を不要とする、正しく「攻撃は最大の防御」を地で行く剣法である。
 だが、防御の型の無い戦法というものを一藩六十一万二千五百石の士の多くが二世紀以
上にわたって鍛錬、継承してきたのは一種異様ではある。
 防御の型が無い、となれば、どうしても自分が攻撃を受ける側に回った時のことを心配
せざるを得ない。
 示現流というのは、ようは闘いとなれば捨て身になってあらん限りの気迫と渾身の攻撃
を先に叩き込めばいい、という無骨で、だが一理ある実戦の一つの原則を体系化したもの
かもしれず、その時代の武士たちはそれを知っていたのではないか。
 相当の剣術達者でも「実際斬りあいになったら捨て身でかかるしかない」といい残して
いる。
 その時に見たそれに、どうしても浩之が重なるのである。
 剣と拳の違いがあるから、当然、そうそう簡単に一撃で勝負を決めるというわけにもい
かぬが、
「ぃえぇあっ!」
 喉を擦るようなその声も、

 その声、猿(ましら)に似て

 と、いわれた示現流特有の叫び声を思い起こさずにいられない。
 ほとんど間を置かずに繰り出される攻撃が浩之にとっての「初太刀」であり、おそらく
これが途絶えた時、耕一が反撃すれば為す術も無く倒される運命であろう。
 問題はこの浩之の「初太刀」が耕一を仕止められるかどうかであり、それは難しいだろ
うと英二は思っている。
 耕一はやや背が高いものの、それほどに肉付きが厚いわけでもないのに見た目以上に打
たれ強く、ダメージの蓄積がそれほどに無い現在の状況では一気に沈めるのは困難であろ
う。
 倒せたとしても、問題はルールであり、それを行使させるべく二人の間に立っているレ
フリーだろう。
 浩之がこのままこの連打を間断なく続けていき、耕一を倒せたとしても、耕一が倒れた
らレフリーは当然、ダウンを取る。
 そして、そこでテンカウントが入るとは思えない。耕一は立ち上がってくるはずだ。
 そこで浩之の一連の攻撃は途絶える。
 一度、そのような「間」を持ってしまって、その後すぐにまたあのような攻撃ができる
とも思えない。
「難しいな」
 所詮、燃え尽きる前の蝋燭かとも思う。
 だが、それとは裏腹に浩之の攻撃はより素早く、より強く、よりその間隔を狭めていく
一方なのである。
 僅かにだが、耕一の後退が始まっていた。
 そのようなシロモノが、あのような無茶苦茶な連打によって見られるとは思わなかった。
 浩之の連打には技術的に見るべきところは無く、むしろそのような観点から見れば穴だ
らけであったろう。
 ただ、一発一発のパンチに稚拙なところがあるにせよ、それは連打として非常によくで
きた有効なものであった。
 一つ一つの攻撃の間がほとんど無い。
 結局、これである。
 連打というのは結局、矢継ぎ早に攻撃を送り込み続けるのが目的なのだから結局それな
のだ。
 全身全霊を傾けた攻撃であり、防御にまで考えも余力も回っていない。
「藤田くん、いいんだな」
 英二が、何度目かの呟きを発した。
 反撃を喰って倒されてしまったもいいんだな。
 ここで仕止められなければやられてしまってもいいんだな。
 次のラウンドのことなんていいんだな。
 今の、この瞬間に放つパンチで彼を――柏木耕一を――打ち倒すことしか考えていない
んだな。
 一発一発が全力だ。
 そうそうできることではない。
 フェイントも何も無い。
 この一発で誘って……。
 この一発で怯んだら……。
 この一発で決めると見せかけて……。
 そういった感情が浩之の両拳には全く無かった。
 その拳に遊びが無い。
 その拳に緩みが無い。
 その拳に迷いが無い。
 そして、駆け引きすら無い。
 もちろん、小細工などどこを探しても無い。
 浩之がどのような経路を辿ってあの「境地」に達したのか、詳しいことは英二にはわか
らない。
 だが、その場にいた誰よりもより多くそれを理解しているとの自負はあった。
 同じ相手と闘い、そして絶望した自分にはそれがわかる。
 絶対に勝てそうにも無い相手と闘わねばならぬ、という追い詰められ方をした人間には、
なんとなくわかるのだ。
 そこで、英二は考えた。
 どうやったら勝てるのか、と。
 考えて細工をした。
 策を弄した。
 それでも結局は負けたが、英二なりに必死に足掻いたつもりだ。
 きっと同じところに藤田浩之も追い詰められたのだ。
 そびえる壁を排除するのに、英二はその水も漏らさぬような壁のどこかに穴が空いてい
ないかと探し、ここだと見極めるとそこを徹底的に突いていった。
 浩之は殴った。
 両腕を旋回させて立ち向かっていった。
 この差を若さの差と断じてしまっては弱気に過ぎるだろうか。
 だが、英二にはとてもではないが、あそこであれはできない。
 逆撃を喰わされるのもおかまいましにあのような攻撃に行けるほど若くはないのだ。
 これで倒せなかったらやられちまってもいいぜ。
 全身でそう叫んでいるようだった。

 勝ちたい。
 負けたくない。
 そう、自分は思っていたはずだった。
 だが、自らの全身を白刃と化して斬り付けていく必要を感じながらそれができずにいた。
 だって、あの人が好きだから……。
 そんな言い訳をしながら鈍らなまま闘っていた。
 負けたくない。
 そう思っていた。
 だが、それは思っているだけに過ぎず、さらにはそれだけが思いの全てではなかった。
 負けたくはない。だが、このままでは負けるだろう。
 そうも思っていた。
 それが、嫌というほどわかっていた。
 そんなことで勝てるような甘い相手ではないのだ。それはわかっていた。
 そして、最も唾棄すべき気持ちも生まれていた。
 今日負けても……また今度。
 そんなことを考えていた。
 また今度があると思っていたのだ。
 今日負けても、また耕一は闘ってくれる、と。
 疑いも無くそう思っていた。
 それに影が差したのは耕一の表情に変化を認めてからだ。
 なんだか寂しそうな、突き放したような……。
 見放された――。
 その思いは恐怖を伴っていた。
 ここで、このまま負けたら、この人はもう闘ってくれないんじゃないのか。
 もう、お前には闘う価値が無いといわれてしまうのではないか。
 嫌だぞ、そんなの。
 嫌だ。
 嫌だ。
 絶対に嫌だ。
 気付いた時には叫びながら拳を振っていた。
 抜き身の刀。
 その決して上手いとはいえないパンチがその輝きを帯びるのを実感した。
 そんなことに――闘う価値がないなんていわれるぐらいなら――。
 耕一さんをぶった斬ってやる。
 何発目かに放ったパンチが耕一の耳を掠った。
 耕一の耳から、つう、と赤く細い線が下った。
 思わず、自分の拳を見た。
 こいつは――。
 ――斬れる。

「付き合うな、馬鹿者!」
 後退する耕一の耳に声が叩きつけられる。師匠の声だ。
 その声で、自分が無意識の内に浩之の全エネルギーを込めた連打に付き合ってしまって
いることに気付いた。
 こんな相打ち覚悟の捨て身の相手とまともに打ち合うことはない。
 一発二発は貰う覚悟で組み付いていけば……。
 接近してしまえばパンチなどそれ程の威力は無いのだ。
 肘はルールで禁止されている。
 今の浩之がそれを覚えていて、なおかつ律儀に守るという保証は無いが、一発ぐらいな
ら喰らってやる。
 肘が当たった辞典でレフリーが試合をストップするはずであり、そうなればこの連打は
一時途切れる。
 一度途切れればまたすぐにこのような渾身の連打はできまいと、英二と同様に耕一も考
えていた。
「利用できるものは利用しろ」
 耕一は師匠にそう教えられた。
「ルールがあれば、それも利用しろ。勝つためになら使え」
 そんなこともいっていた。
 双英は戦後間もない頃に用心棒などをやっていた男だけに試合場で行われるルールある
試合と、そのようなものが無い闘争を明確に分けて考えている。
 前者で利用できるのは「ルール」であり、後者でのそれは「地形」だとよくいっている
し、雑誌のインタビューでもそう答えている。
 耕一は相手の体勢を崩して投げ倒す訓練をよくしているが、この時なども、
「側に机でも壁でも電信柱でもあったら、頭をそれにぶつけてやれ」
 と、いわれた、それが双英のいう「地形」を利用することの一端であるらしい。
 最近では、双英の弟子たちが開いている道場では、エクストリームや、その上にグラウ
ンドでの打撃を認められたプロでよく使われるルール用の練習が多く、そのためのコース
を設けているところもある。
 確かに、一対一でできる限り緩いルールで闘う、というのは双英がかつて持った理想で
あったが、それは所詮理想であり、実際に闘う際には相手が複数だったり武器を持ってい
たりすることが多かった。
 そういった場合を想定せぬのならばもはや武道ではあるまい、と双英は思っている。
 元々、そのような理想を持ちつつも用心棒稼業を営んでいた男が創始した流派だけに、
スポーツ格闘技と武道と、その両面を持っていたのが伍津流である。
その二面の内のスポーツ格闘技の面が重視されるのも時代の流れと隠居して第一線を退
いた双英だが、耕一という直弟子を新たに取ってからは、また指導者としての血が騒ぎ始
めた。
 そもそも耕一は大会などに出て試合に勝ちたいからやってきたのではなく、平常心を保
つためというのが第一目的であり、それに付随して闘争があった。
「可能性は低いのですが、いつかどこかで殺し合いに近い闘いをしなければならないかも
しれません。しかも、その相手はとてつもなく強いでしょう」
 そういった耕一に双英はしびれたといっていい。
 昨今、そのようなことを思って格闘技を始める人間は少ない。
 今回のエクストリーム出場は双英の意志が大きく、耕一が自ら望んだものではない。
 その意味では双英は耕一にすまないと思う気持ちもある。だが、このような場所で闘う
という経験も、何かしらの足しになるであろう。
 このことが耕一の考えを変え、プロになりたい、などと言い出しても双英は止めぬつも
りであった。
 むしろ、耕一の潜在能力に驚愕していた双英は、耕一が日の目を見る道を選ぶのは賛成
であった。
 もう、時代が違うのだ。
 あれほどの力を持った男は、ひっそりと二人だけの道場で終わるよりも、スポットライ
トの当たる場所で闘うのが良いのかもしれぬ。
 耕一の体が沈んだ。
 次の瞬間、跳ねるように前に飛んだ。
「見事」
 あれが自分の弟子なのだと思うと誇らしくなってくる。
「!……」
 だが、そのタックルが不発していた。
 上から、体重をかけて潰したのではない。
「ほお」
 感嘆の声が思わず洩れた時には、彼の弟子の顔が音を立てていた。
 腕をぶん回して前に出てくるだけの相手だ。カウンターを貰わぬ限り、タックルが決ま
るはずだった。
 なんだ!?
 手応えが無かった。
 体勢を低くしたタックルは、相手にとっては目標物が小さくなって突っ込んでくるもの
なので打撃が当たりにくくなる、という効果があるが、その代わりにどうしてもこちらの
視界が狭くなるというリスクがある。
 完全にかわされた、などということはありえない。浩之が前に出てくるのに合わせて行
ったのだ。瞬間移動でもしない限り無理だ。
 両肩に、何かが触れる感触があった。
 おそらく……。
 それ以外に無い。
 だが、耕一は半ば無意識の内に顔を上げていた。
 やはり、思った通りだ。
 浩之は両手を伸ばして耕一の両肩に当て、それを突っ張っていたのだ。
 だからといって押し返すわけでもなく、むしろ耕一のタックルの動きに押されるままに
後方に飛んでいた。
 タックルの勢いは既に無くなっている。
 すなわち、耕一の体は今、停止している状態だ。
 そして、両手を突っ張っていた浩之との間には距離がある。
 まずい。
 一瞬でそれを悟った。
 両肩に何かの感触があることから、おそらく両手を伸ばして押し当てていることは読め
ていた。しかし、それが視界の中に入っていないことからついつい自分の目で確認したく
て顔を上げてしまった。
 上げるべきではなかった。
 両手で頭をガードしながら体勢を立て直すべきだった。
 それで相手に与えた隙は一瞬だけだ。
 だが、寸刻のそれすらも許されぬのが格闘である。
 上げた顔に、膝が来た。
 両手をマットに突いた。
 いや、マットを両手で突いた。
 その場で跳ね上がって再度組み付いて行った。
 横から顎に何かが来た。
 肘!?
 だが、それにしては堅くない。この弾力はおそらくオープンフィンガーグローブのもの
だろう。
 しかも、横といっても真横からではない。と、いうことは既にある程度の距離を取って
いるということだ。
 甘く見た。
 一心不乱の前進しか知らぬような攻撃を受け続けて誤解してしまった。
 浩之は意外に冷静だ。
 拳を振り回しながら前に出てくるだけでなく、必要とあらば適度の距離を取ってからパ
ンチを送り込んでくる。
 これは……。
 てっきりそうであろうと思っていたが、これは、「キレた」というのとは違う。
 また、膝。
 腕によるガードが間に合わない。
 腕と腕の間を潜り抜けて上昇してきた。

 足元に、倒れていた。
 タックルに来る気配が察せられたので肩に手をついて打撃を叩き込める距離を保ち、丁
度いい具合に耕一が上げた顔に膝を打ち込んでいった。
 その耕一が執拗にタックルをしてきたのに右のショートフックを合わせていき、そして
もう一発、膝。
 遂に、倒したぞ。
「おおおおおおおおぅ!」
 叫んでいた。
 それに被せるように第2ラウンド終了のゴングが打ち鳴らされており、それが乱打され
る間に、耕一が起き上がっていた。
 やられた。
 見事だ。
 おれも、あんな風に闘えたら気持ちがいいかもしれない。
 浩之が、第3ラウンドもああいう風に来るのなら、それを真正面から受けて立ってやる
のもいいかもしれない。
 師匠に怒られたって構うもんか。
 付き合って、馬鹿みたいに打ち合いたい。
 だが……。
「そうもいかないんだよな、おれは」

                                     続く

     どうもvladです。
     98回目である。
     じゃあ、おれはこみパSS書くから諸君も気張れや。

 

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