鬼狼伝(97) 投稿者:vlad 投稿日:10月9日(月)04時35分
 会場から低いどよめきが上がり、次いでそれは歓声に変わる。
 第1ラウンドと第2ラウンドの間のインターバルでのことであった。
 一分間のインターバルをまだ三十秒残している時に、藤田浩之が試合場の隅で頻りにパ
ンチを打ち始めたのだ。
 それを見て、観客は浩之が試合再開を待ちきれずにそのエネルギーと闘争心を持て余し
てシャドーを始めたのだと思って歓声を送ったのである。
 だが、それは浩之の耳には全く入ってはいなかった。
「どうかな? 葵ちゃん」
 不安そうに尋ねる。
「いいですよ、第2ラウンド、その調子で行ってください」
「そ、そうかな」
 試合再開が十秒前に迫った。
 耕一が、中央に出てくる。
 第1ラウンド終盤に感じた突然のパンチの稚拙化も、あれは浩之に疲労が溜まったせい
だったのだろう、と思った。
 それが、僅か三十秒休んだだけで体力を取り戻し、闘争心が疲労を完全に駆逐したのだ
ろう、と。
 よし、第1ラウンドは少し様子を見過ぎた。次のラウンドはいきなり攻めてやるかな。
 以前闘った頃とどのようなところに変化があるのかを見たくて自分から積極的に攻めて
行くのを無意識の内に控えていたところがある。
 確実に上達している。
 だが、それを観察する余裕が耕一にはある。
 以前闘って勝った、という事実が耕一の自信に根を張っていた。
 そのことが侮りになり、油断になれば耕一の敗北を呼ぶであろうが、それに類するもの
は無く、いい意味での余裕が耕一にはある。
 第2ラウンド開始の時間、耕一は既に中央線へと立っていた。
 レフリーが、腕を振っている浩之を中央線へと促す。
「先輩! 今までやったことを思い出して!」
 背中に、葵の声が当たった。
 そして、第2ラウンド。

 今までやったこととはなんであろうか。
 練習。
 汗でずぶ濡れになるような練習をやった。
 だが、思えば練習でギリギリまで苦しんだことはあっただろうか。
 パンチもキックも、グラウンドでのポジション取りも関節技も、練習していればすんな
りと身についた。
 素質がある。と、葵が誉めてくれた。
 その眼に、自分を上回る天与の才への羨望と尊敬があった。
 僅かとはいえ、嫉妬すら混じっていたかもしれない。
 誉められれば悪い気はしない。
 すんなりと技が身につくことをいつしかそれほどには特別だとは思わなくなっていた。
 より高度な技、動きを習得しようとする時、その事前に不安は確かにあった。
 今度こそ、そうそう簡単には身につかないのではないか……。
 今度こそ、高い壁にぶつかるのではないか……。
 だが、思っていたよりもずっと楽にスムーズに自分の体は動き、干上がった地面に水を
垂らしたように自然と苦も無く吸収していく。
 それが楽しいのと、勝つのが嬉しくて格闘技をやっていたようなものだ。
 それは、確かにコンプレックスであった。
 才能が無い者がある者に抱くそれではない。
 この時の浩之が持ったそれは、特に決まった対象を持ったものではなかった。
 ただ、練習で限界まで苦しんだことが無かったというだけのことが、今は巨大なコンプ
レックスになっていた。
 それは錯覚であろう。
 必ずしも苦しみの量と強さ、正しさは比例しない。
 だが、錯覚も錯誤も一人の人間の精神を覆うには十分なだけの代物なのである。
 自然と浩之の思索は記憶の中より苦しかったことを探し出し、くみ出す作業を行ってい
た。
 空手部の連中に負けた時、あれは辛かった。
 あの時の自分ならば、迷いなどは受け付けぬ精神状態をしていたはずだ。
 だが、お返しに殴って蹴って極め倒したりしている内にその恨みも薄れていった。それ
にこういっては連中には悪いが、それほど強い感情を抱き続けるほどの相手でもない。
 格闘技をやってきて、闘ってきて、苦しかったことがもう一つある。
 いうまでもない、耕一に与えられた敗北だ。
 あれは苦しかった。
 あれは辛かった。
 こいつをいつかぶちのめしてやると思った。
 だが、それも今は無い。
 勝ちたいとは思うが、ぶちのめしてやろうとかいう気にならない。
 この柏木耕一という男をよく知ってしまったからだ。
 相手を完膚無きまでに叩き潰そうという強烈な感情が無い。
 それが無くてはどうにもならない。
 この後、修練を積み、刻々とその人格と思想が変化していけばどうなるかはわからない
が、現時点では、藤田浩之という男は闘いの原動力に強烈な感情を必要とする。
 相手をぶちのめしたい。というストレートな欲求はそれに最も適したものなのに、それ
が沸いてこない。
 相手を倒したいという焦がれるような感情も持たず。
 自分の力にも技にも信用が置けない。
 勝てる要素がまるで無い。
 始まる前はああでもないこうでもないと勝つための方策を様々に思考していたというの
に、それをするのにすら気力が足りない。
 だが、それを肌に吸い付くように実感しているというのに負けたくないという思いだけ
はしぶとく残っている。
 ろくな闘いもせぬ内に耕一と、そしてなによりも自分に屈服しそうになっているのに、
最後に残ったちっぽけなプライドだけが痩せ我慢して孤塁を守っているようなものだ。
 試合、再開。
 とにかく、攻撃だ。
 パンチを打っていく。
 さっきまで打っていたパンチだ。
 葵が「それでいい」といったパンチだ。
 正直、自分でもまだ自信、確信が取り戻せないでいるのだが、葵がいうのだ。間違いな
かろう。
 葵は信用できる。
 だから、打った。
 自然と、体は動いた。
 さっきまで刻んでいたリズム。
 それに瞬間瞬間に小さなアレンジを加えながら体を動かす。
 それが少しでも一定化すると耕一ほどの相手には即座に読まれて行く先に罠を張られる
ように反撃を喰らう恐れがあるからだ。
「いいですよ! その調子です!」
 その声に引かれるように打つ。
 耕一の口の端に笑みが浮いた。
 浩之の動きに精彩が戻った、と見たのだ。
 だが、その内実はひどいものだ。
 葵が肯定してくれなければろくにパンチも打てない状態だったのだ。
 なんだ。
 おれはなんだ。
 少し前まで格闘家だ、なんて気取ってたおれの正体はなんだ?
 こんなのが格闘家と呼べるのかよ。
 セコンドに自分を肯定してもらわないと何もできないような人間を格闘家と呼べるのか
よ。
 色んな人に色んなものを貰ってここに来たよ。
 でも、これはそんな次元の問題じゃない。
 都築に、加納に、闘う理由を補強してもらったのとは次元の違う問題なんだ。
 自分を励ます声援に力が湧いた、とかそういうことじゃないんだ。
 葵ちゃんの言葉――誘導――が無いと闘えないような体たらくだぜ。
 葵ちゃんがいなかったら、おれは闘えない。
 おれは、なんだ。
 格闘家――。
 格闘技をする人間。
 それに変わりは無い。
 だったら、なんだ。
 格闘家――。
 どんな?
 どんな格闘家だ?
 ああ、そうか。
 格闘家であるか否かは問題じゃねえ。
 弱いってことだ。
 おれは確かに格闘家だが、どうしようもなく弱い種類の格闘家だってことだ。
 弱い。
 弱い。
 弱すぎるぞ。
 たかがこの程度で心を潰されそうになっているような奴は「強い」とはいえねえんだ。
 幾つかの野試合に勝って――。
 月島拓也との死闘を潜り抜けて――。
 都築克彦の執念を退けて――。
 加納久の技術を超えて――。
 おれは、おれが強いんだと思っちまってたよ。
 弱いのにな。
 本当は、こんな奴なのにな。
 弱い。
 こんな弱い奴見たことねえぞ。
 これなら、おれに負けた都築の方が「強い」ぞ。
 これなら、おれに負けた加納の方が「強い」ぞ。
 守勢から一転、耕一さんが打ってきた。
 強烈なストレートを受け止める。
 重くて速い、いいパンチだ。
 そして怖い。
 弱いからだ。
 弱いから、強い者を異常に恐れる。
 なんで、おれはこんな負け犬みたいな心で闘っているんだ。
 負け犬の方がまだ潔い。負けを認めて降参しちまうからな。
 おれは、心は負け犬のクセに体は虚勢を張っていやがる。
 なんで、おれはこんな惨めな心で闘っているんだ。
 前に、この人とやった時にはこんなことは無かったのに。
 前――。
 もうけっこう前だな。
 あの人が通っている、伍津という人の自宅にある道場だった。
 確か、英二さんもその場にいた。
 英二さんは自分が行く前に、既に道場にいて隅に座っていた。
 耕一さんは、道着姿で英二さんと何やら話していた。
「えっと……どちらさん?」
 気負いも何も無い様子で尋ねてきた。
「藤田浩之っていいます」
 刃物の輝きを帯びた眼で睨みつけながら答えた。
 そうだ。自分はあの時、刃だった。
「君はまるで抜き身の刀だな」
 英二に、そういわれ、それが理想だと答えた。
 そして、あの人はなんといったか……。
「刀なんてものは、使わない時には鞘にしまっておくものだ」
 と。
 それでも、抜き身の刀たらんという気持ちが無くなったわけではない。
 月島拓也――。
 こいつはまるで自分と斬り結ぶためにいたような男だ。
 人間の関節を断つために作られた刃物のような男だった。
 挑発してきた都築も斬り付けた。
 高度な技術を持つ加納も斬って捨てた。
 なのに、なぜか耕一にはその刃を向けられない。
 あれほど熱望し、渇望していた耕一との再戦なのに、どうしたことか。
 あの時の自分ならば――。
 抜き身の刀の自分ならば――。
 こんなことにはならなかった。
 その確信が浩之にはある。
 なんで、自分は抜き身の刀ではない。
 二度目だから、ではないだろう。
 拓也にも都築にも加納にも、二度目をやっても自分は刀になり、それで斬り付けていく
自信がある。
 やっぱり、耕一さんが特別なんだ。
 あれから、耕一さんのことをさらによく知るようになった、というのもあるのだろう。
 なかなかいい切れ味をしていると自分でも思っていた刀がナマクラになっちまった。
 あの時、自分は何を求めて闘っていたのか。
 一言でいえばピリピリとした、闘いの最中に身を置くことで得られる独特の感覚が欲し
かった。
 麻薬のように甘美な肌の表面がざわつくような感覚。
 今も、肌を刺すような痛みが無数に沸いている。
 違う。
 これはあの感覚じゃない。
 いや、あの感覚なのだが、それが痛みなのだ。
 これが、快楽でなければならないのだ。
 あの時の自分はそう感じることができたのだ。
 痛みを快楽に――。
 ナマクラを鋭利に――。
 弱さを強さに――。
 しなければ、負ける。
 また、負けるぞ。
 どうすればいい。
 この人を憎めばいいのか?
 餓えた狼のように噛み付いていけばいいのか?
 できねえよ。
 おれは、この人が好きなんだから。
 どうする。
 負けるぞ。
 また、負けるぞ。

 おや? と思ったのは試合再開からすぐだった。
 打ち込んできた浩之のパンチに彼本来のスピードとキレが蘇っていたのを見て取って心
躍らせたのも束の間、激しい違和感が貫いた。
 一発一発を見た場合、しなやかで力強い、いいパンチに見える。
 複数のそれで組まれたコンビネーションでも、二つ、三つ、ぐらいまではスムー
ズに技と技が繋がっているように見える。
 だが、それ以上となると首を傾げざるを得ない。
 そのぐらいのことならば以前闘った時も浩之はしてのけたのだ。
 流水のようだった攻撃が所々で不自然に、ぶつん、と途絶える瞬間がある。
 なんとなく、ぎこちないような感じがした。
 おかしい。
 もっと無理なく連続して技を繰り出せるはずだ。
 まだ、疲労が残っているのだろうか。それとも、すぐに疲労が溜まって身体の各所にね
ばつくように張り付いてしまったのだろうか。
 一発、打っていく。
 受け止められた。
 刹那、浩之の面上をかすめたものを耕一は見逃さなかった。
 何かの間違いではあるまいか、とは当然耕一も思った。
 だが、それは確かに怯えであった。
 何を怖がる。
 浩之、何が怖い。
 そもそも、この男がなんであれ、闘いの最中にそんな感情を抱くのか。
 こいつは、もっと、ギラギラしてて……。
 そうだ。抜き身の刀だ。
 その刃の輝きが無い。
 それを隠す術を身につけたのかと思ってもいたが、どうも、そうではない。
 一体、何事がこの男に起こった。
 試合開始直後にはそのような様子も、その予兆も全く見られなかったはずだ。
 なぜ、こんなに鈍った。
 あの時の鋭さは、光はどうした。
 なんだ。
 なんだか……。
 お前が、なんだかさ……オープンフィンガーグローブをつけて構えて、パンチを打ち込
んでくるお前にこんなこと思うのはおかしいんだろうけど……なんていうんだろうな。
 浩之。
 なんか……初めて立ち上がった赤ん坊みたいだぞ……。
 なんだか、殴りにくいな。
 こういうところが先生の友人って人がいっていたおれの弱さなんだろうな。

 夏の到来を控えた六月末日であったと記憶している。
 もう既に暑さは本格化の兆しを見せ始めて少し動けばすぐに肌に汗が浮くような気候に
なっていた。
 その日も、空気は真夏日かと思われるほど熱を持っていたが、時折吹く風が救いであっ
た。
 耕一が約束の時間にやってきて道場に鍵がかかっていたので、住居の方へ師匠の伍津双
英を訪ね、連れ立って道場へとやってきた。
 鍵を開けた双英が先に入り、後に続いた耕一が後ろ手で建てつけの悪い扉を閉めようと
した時、
「今日は暑いが風がある。せっかくだから開けておけ」
 そういわれたので開け放したままでおいた。
 その後、基礎の練習を行った。
 腕立て伏せなどの筋力トレーニングもするが、この週に3,4回訪れる道場でやるそれ
は筋力増強よりも体を温めるためである。
 純粋に筋力をつけようとするためのそれは、何もここでやる必要は無いし、そういう類
のものは毎日のようにやってこそ成果があるので自宅アパートの駐車場や近くの公園など
でやっている。
 ここではそういったものよりも、実際に耕一が技を繰り出し、双英がそれに注意を与え
たり、若しくは双英がどこからともなく呼んでくる人間とスパーリングをしたりするとい
うものが主になる。
 時には双英が相手をする。
 少し前から歳には勝てん、といって防具をつけるようになった。
 その日は、体を少し温めた後に双英と差し向かいで座り、雑談などをした。
「勘は鋭い方かね?」
 そう尋ねられた。
 そういうものの鋭敏さにはあまり自信の無かった耕一だが、郷里の隆山で遭遇したある
一件以来、第六感とでもいうべき感覚が研ぎ澄まされたような気がする。
「そうですねえ……」
 こう見えてけっこう自信がありますよ……といおうとした刹那、正にそのけっこう自信
のある第六感が耕一に何かを告げていた。
 その何とも形容しようのない感覚の裏を取るために耕一は耳を澄ませた。
 僅かにだが、床が軋む音がする。
 何かが後ろから近付いてくる。
 そして、それが自分に敵意に非常によく似たものを有していることを耕一は看破してい
た。
 双英には、耕一に背後から忍び寄るものが見えているはずだが、その表情にはそれほど
劇的な変化は無い。
 どういうことか?
 思うと同時に体が動いていた。
 腰を浮かし、次の瞬間には180度体の向きを変える。
 男であった。
 豊かだが、白い部分の方が多い頭髪。かなりの高齢に見える。
 着古した上下のトレーナーはゆったりとその体を包んでいる。
 幾筋かの皺の刻まれた顔には徹底的とさえいえるほどに緩さが無かった。
 だが、その厳しい表情は耕一を刺激したものの一貫に過ぎぬであろう。
 それは、その手に握った――耕一が振り返った瞬間に"棒状の光"に見えた――刀であ
ったろう。
 鍔などはついていない、シンプルなものだ。
 おそらく、無銘であろうが、輝きが尋常ではないように見えた。
 この老人の凄絶な意を帯びたせいなのだろうか。
 耕一は動かない。
 中腰でその老人に向き合っている。
 老人もまた、動かなかった。
 斜めに床を指した切っ先を頭上に掲げて上段から斬り下げてくるにせよ、中腰の耕一目
掛けて下段の攻撃を仕掛けてくるにしろ、距離が遠い。
 およそ、十メートル。いかに刀を持っているとはいっても、一歩や二歩の踏み込みで届
く距離ではない。
「遠い」
 老人の口から搾り出すような声が洩れた。
「気付かれるにしても……もう少し近づけると思ったが……」
 その言葉が消えるのを境に老人から流れてくる敵意が途絶えた。
「なかなか、いい勘をしているでしょう」
 と、いったのは師匠だ。
「うむ、全く」
 いいながら老人は背を向けて道場の入り口まで歩いていき、外に出て行ってしまった。
 この時点で耕一は大体の事情を了解していた。
 どうやら、この老人と師匠がグルになって自分の「勘」とやらを試していたということ
だ。
 開けようとするとどうしても音が鳴る建てつけの悪い扉を開いたままにさせておいたの
もそのためだろう。
 老人が戻ってきた時、刃は鞘に収まっていた。
 その白鞘の刀を傍らに置いた老人と耕一と双英で三角形を作るように座る。
「いい勘をしているね、耕一さん」
 先ほど、凄まじい殺気で耕一を振り向かせたとは思えぬ温顔であった。
「いえ……なんていうんでしょう。殺気……のようなものが凄かったんで、嫌でも気付き
ましたよ」
「さすが……というべきですかな」
 双英にいわれて老人が苦笑する。
「人斬り岩国か……まぐれだよ、あんなものは」
 老人は、岩国といった。双英の昔からの知り合いだという。双英のことを「そーちゃん」
などと親しげに呼ぶのでよほど親密な仲らしい。
「しかし、相手は正真正銘、剣道五段の猛者だったのでしょう」
「五段の先生とまともに立ち合ったわけじゃないよ。十人ぐらいが入り乱れていたからな
あ……あの人も身を持ち崩してからはほとんど鍛錬などはしとらんかったそうだし」
「右腕を斬ったと聞きましたが」
「横から無我夢中で斬りかかっていったらたまたまそこに当たったんだよ。腱が切れてし
まってなあ、用心棒なんぞできなくなって、その後はどうなったか知れん。気の毒とは思
うがあの時はやらねばこっちがやられていたよ、剣道五段の先生だって散々あっちの奴ら
がビビらせてくれていたからな、余計にそういう気持ちになっていた」
「剣道を本格的にやられたのはそれからでしょう」
「出所してからだ。人斬りなんぞといわれてな、少しは剣が使えねば格好がつかない、と
か思うておったよ、後で考えると馬鹿馬鹿しい限りだが……極道というのは見栄を張るの
が性といってもいい」
 岩国はそういって、また苦笑した。
「結局、こうなっちまったから今は満足には使えぬがね……」
 眼前に掲げた右手には親指が無かった。
「丁度、そーちゃんが源ちゃんを追っかけてどこかに行っちまった後だよ」
「そうでしたなあ……」
「しかし、耕一くんはいいねえ」
「……はあ……」
 突如、そういわれて耕一は上手い言葉が返せずに曖昧に頷いた。
「そーちゃんから面白い弟子がいると聞いたので、いっちょうその勘働きを試させてもら
ったが、予想よりもずっといいねえ」
「どうも、ありがとうございます」
「振り返った時の顔がいいよ。こんな老いぼれとはいえ、真剣を持った人間が睨みつけて
いるというのに、気後れ一つせん。よほどの修羅場を潜ってなさるね」
「……」
 正直、彼が以前向き合ったことのある"生き物"と比べれば真剣を持った岩国はそれほ
ど怖い存在ではなかった。
「それに、目の底が深いよ」
「目の……底ですか?」
 いまいち、岩国のいう意味がわからず、耕一は反問した。
「目が合った時、その底が見えんというかな……とにかく、底知れぬ気がしてな、その前
までは例え気付かれたとしても、形だけでも打ち込もうと思っていたのだが、そんな気も
失せた」
 岩国は、からりとした表情で笑っていた。
「君を斬るのには苦労するだろうな、なんだか、斬りたくない……そう思わせる何かを持
っているよ」
「……そうなんでしょうか」
「それも、耕一くんの強さだな」
「……」
「もうわかっとると思うが、わしは以前は極道稼業……つまりはヤクザをやっていた男だ
がね、そんなことを戦後の頃にしておるとね、人を単に腕力でねじ伏せるのとは全く別の
強さがあることがわかってくるものだよ」
「はい」
「でも、君はわしみたいもんが後ろから斬りかかってきても難なく倒してしまうだろうが、
よちよち歩きの幼児がナイフを持って近付いてきたら、それに刺されてしまうのではない
か、と思うよ。幼児がナイフというのはあくまで喩えだがね」
「はあ……」
「とにかく、そういう弱さがあるような気がするのだよ」
「弱さ、ですか……」
「でも、それがあるから、君にはさっきいった強さがあるのかもしれんね」
「弱いから……強い」
 何気なく呟いたその言葉が、なぜか耕一の心に残った。

 軽くだが、顔に入った。
 浩之の左ジャブだ。
「おう」
 不自然なほどに耕一がよろめく。
 ――よちよち歩きの幼児に刺された。
 そうとしか、思えなかった。
 浩之は依然としてぎこちないのに、思い切りパンチを貰ってしまった。
 なんだか斬りたくない……そう思わせる何かを――。
 まさか、浩之、そうなのか。
 おれを斬りたくないと思っているのか。
 だから、以前のような……抜き身の刀のようなお前になって斬りかかって来ないのか。
 それを失わせたのは、もしかしたら、あの時、あの人がいっていた「何か」か?
 それがおれの強さなのか。
 だったら、この機に乗じて浩之を倒してしまっていいということか。おれの強さが招い
たこの状況ならば十二分に利用していいということか。
 でも、なんだか嫌だな。
 藤田浩之と闘っている気がしない。
 浩之――。
 お前、らしくないぞ。
 なんだか、寂しいな。

 浩之の表情が変わる。
 耕一さん――。
 なんだよ、その顔……。
 なんだよ、その目……。
 ぞくり、と悪寒が浩之の中を這い上がった。
 まさか――。
 まさか――。
 この人の中で、おれの存在が取るに足らぬものになりつつあるのか!?

                                     続く

     どうも、vladです。
     97回目。
     間空けすぎ。
     でも、一話の分量は以前の2倍以上になっている。すなわち、そう
     せんと100話で終わらん(笑)
     予定では、十月中にもう一話、十一月にもういっちょ、十二月に最
     後の一発でめでたく年内完結。どうも、ありがとう! なのである。