鬼狼伝(96) 投稿者:vlad 投稿日:9月11日(月)01時35分
 立ち上がろうとしていた。
 立ち上がりながら、その顔が誰であるかを思い出した。
 確か、都築克彦……一回戦で闘った相手だ。
 カウンターが上手い、という以外はこれといったところの無い相手だったが、しぶとさ
でいったら今まで闘ってきた人間の中でもトップクラスだ。
 そしてその横、確か、加納久……二回戦で闘った相手だ。
 優れたボクシング技術を持ち、柔道仕込みの組技と寝技が上手い奴だった。
「藤田! お前わかってんのか!」
 加納がバンバンと試合場の隅を両手で叩いている。
「お前がここで無様に負けたらおれの評価がさらに下がるんだぞ!」
 そうか、こいつはそういうの気にする奴だったな。プロになって格闘史に名を残すとか
いってやがった。
「藤田」
 それほど大きくはないが、はっきりとした声でいったのは都築であった。
「おれの分まで、なんていわないが……納得いくようにな」
 その時、カウントエイト。
「ああ……」
 浩之は立ち上がった。
「藤田くん」
 英二が、都築と加納の背後に姿を見せていた。
「結局、最終的には自分だぞ」
 奇妙なほどに穏やかな顔をしていた。
「どんなに闘う理由があっても、結局『ここでいいや』と思うのは自分だぞ」
 穏やかな顔のままいった。
「辛い時にも『まだやってやる』と思うのは自分だぞ」
「……」
 浩之は黙って英二を見ている。
「自分だ」
 英二の目が一瞬だけ吊り上がった。
「そこには色々なものを持っていけるが、入れるのは自分だけだ」
 また、穏やかな顔に戻っていた。
「はい」
 少し、頭を下げた。
 誰に対して下げたのか、下げた時にはよくわからなかった。
 背を向けて、試合場の中央に向かいながら、なんとなくわかる。
 あそこにいた人、全てだ。
 葵、雅史、英二、都築、加納。
 あそこにいた人間、全てに対して、思わず頭を下げていた。
 自分をこの道へと誘い、基礎を教えてくれた葵。
 自らにも道がありながら、色々とサポートしてくれた雅史。
 闘う理由をくれた都築、加納。
 「結局自分だ」といった英二。
 色々な人に色々なものを貰った。
 色々な人に色々なものを貰ってここにいる。
 貰った色々なものを駆使してここまでやってきた。
 だが、この場所に入れるのは自分一人。
「すんません」
 浩之がレフリーと耕一に頭を下げる。
 浩之は、立ち上がった後に試合場の隅でセコンドその他と話している浩之を咎めようと
したレフリーを耕一が制していたことに気付いていた。
 葵に教えてもらった技術も精神も――。
 雅史が自分の時間を削ってまでサポート役をしてくれたことも――。
 都築と加納がくれた闘う理由も――。
 英二が教えてくれたことも――。
 生かすも殺すも、自分次第だ。
 闘う理由が、プレッシャーになるかバネになるかも自分次第だ。
 自分だ。
 中央線に戻り、耕一と向かい合った。
 レフリーが腕を振り、試合再開を促す。
 耕一が近付いてくるのに恐れは無かった。
 耕一に近付いていくのに恐れは無かった。
 強烈なジャブも怖くは無かった。
 打ち返したストレートは大振りではなかった。
 ようやく――。
 ようやく、スタート地点に立てた。

 結局、自分さ。
 耕一は思う。
 師匠もいっていた。最後は自分以外に頼るものは無い、と。
 格闘技をやって、良かったと思っている。
 肉体を苛めることをやって、良かったと思っている。
 体を鍛えていて苦しい時、何度反復練習をしても技が身につかなくて辛い時、そこで諦
めるか否かの決断をするのは自分だった。
 しかし、思えば、全部自分だったのだ。
 親父を好きだったのも自分で、親父を恨んだのも自分で、親父を許したのも自分で――。
 厄介極まりない"血"を持っているのも自分だ。
 伯父さんは、自分で死んだのだ。
 千鶴さんたちのことを思って、死んだのだ。
 伯母さんは、自分で死んだのだ。
 伯父さんと一緒に死んだのだ。
 後を託された親父もまた、自分で死んだのだ。
 千鶴さんたちのことを思って、死んだのだ。
 その後を託されたのがおれだ。
 柏木耕一だ。
 おれは、自分で死ぬ運命から免れた。
 だから、生きてやる。
 この血のせいで死なざるを得なかった人たちに代わって生きる。
 初めは動揺した。
 理不尽だと思った。
 なんで、おれだけがこんな血を持って、苦労しなければならないのだ。
 だが、結局、自分だ。
 それを全てひっくるめて柏木耕一なのだ。
 この試合場というのはいい。
 自分を試す格好の場所だ。
 ここは、耕一の闘いの一貫でしかない。
 あの血のことを知ってから、耕一の人生は常に闘いだった。
 自分が自分であるための闘いだった。

 背中にのしかかる。
 闘う理由がだ。
 それは、重量と同時に温度を持っていた。
 ずっしりとした、熱いものが背中に貼り付いたように乗っている気がする。
 ここで負けたらどうなる。
 善戦できればまだいい、無様に手も足も出ずに負けたらどうなるか。
 藤田浩之は弱い、といわれるかもしれない。
 それはいい。
 それはかまわない。
 実際、自分はまだ未熟だ。そういわれるのはかまわない。
 だが、それだけで済まないかもしれない。藤田浩之が弱い、といわれるだけでなく、そ
の藤田浩之に負けた都築克彦、加納久も弱いのだといわれるかもしれない。
 冗談じゃない。
 強い奴らだった。
 加納は素晴らしい技術を持った選手だったし、技術という点でいえば遥かに劣るが、都
築は凄まじい勝利への執念を持った選手だった。
 加納の技術にも、都築の執念にも、戦慄を覚えた。
 すごい奴らだった。
 そいつらが、弱いといわれるのは浩之には耐えられなかった。
 負けるよりも、それは辛いことだった。
 背中に乗ったそれは、重い。
 重いが、のしかかっているだけではなく、それは背中を押してくれた。
 不安は、確かにあった。
 浩之も試合開始直後よりもだいぶマシになったとはいえ、やはり耕一は強い。
 立ち上がってから、ほとんど攻撃を貰ってはいないが、浩之の攻撃もまた突風を受け流
す柳のような体さばきと鉄壁の防御の前にクリーンヒットを許されていない。
 それに、耕一は際立ったハードパンチャーというわけではないが、たたみ込むような間
断無い攻撃を送り込んでこれる選手だけに、一発のクリーンヒットがすぐさま敗北に直結
する恐れは十分にある。
 まだ、油断はできない。
 まだ、無様をさらす可能性が無くなったわけではないのだ。
 負けたら、自分だけではなく、それ以外のものまで貶められるかもしれないのだ。
 おれ一人の闘いじゃない。
 それが浩之を駆り立てるとともに、不安の元でもあった。
 嫌かと問われれば、はっきりいって嫌だ。
 その背に乗っているものを投げ出せるものなら投げ出すのもいいかもしれない。
 そんなの関係無いよ、と。
 おれ個人の個人的な闘いなんだから関係無いよ、と思えれば楽であった。
 楽ではあるが、とっくのとうに耕一の猛攻を喰って別の意味で楽になっていたかもしれ
ない。
 重いし、それを背負っているととても不安だ。
 だが、やっぱり投げ出したくは無かった。
 それを背に乗せて闘うのは、苦しいだけではなかった。
 自分がそういう立場で闘うことが、嫌というばかりではなかった。
 不安の元だが、それはそれだけではなかった。
 それは、不安の元でありながら、一見それとは別のものの源泉でもあった。
 背中に乗っているものがある。
 重い。
 だが、悪い気分じゃない。
 背負って重いが、背負って潰されていないということは、おれもそれに耐え得るぐらい
のもんだってことだ。
 それを含めても悪くないよな。
「おう!」
 重く速い蹴りを受けながら、浩之の口から洩れていた。
 不安ともう一つのものが、浩之の唇を笑みの形に曲げる。
 それは、恍惚であった。
 恍惚も不安も浩之の中にあった。
 二つとも、同じところから生まれてきていた。

「あっ!」
 初音が目を伏せる。
「大丈夫! 当たってない当たってない!」
 そういいながら、梓が手を初音の肩に置く。
「お兄ちゃん、大丈夫だよね」
「ああ、耕一の奴すごいよ、紙一重でかわしてる」
「それじゃ、大丈夫だね」
「大丈夫大丈夫、なっ」
 と、右隣に座っているもう一人の妹に声をかける。
「うん」
 楓は頷いた。
 落ち着いている。
 梓は、今日、楓が動揺するのを二度感じた。
 一回戦、耕一が中條辰に急角度のバックドロップを喰らった時と、二回戦、緒方英二の
パンチが立て続けに耕一の顔面を捕らえた時、この二回だけだ。
 今、楓は動揺していない。
 一回戦や二回戦ほどの危機にはまだなっていないということだ。大丈夫だろう。
 梓は、楓のこういう勘のようなものには信頼を置いている。

「全然当たらないね」
 声はまだ落ち着いているが、そういった雅史の表情は彼らしくもなく焦りの色が濃かっ
た。
「いえ、いいパンチですよ」
 葵が、声を励ましていう。
 雅史は浩之のことをよく知り、さらには献身的なところもあり、サポート役としては十
分の資質を備えていたが、セコンドとしては、どうしても格闘技に対する造詣が浅いとい
う欠点があった。
 だから、浩之が繰り出す攻撃のことごとくがかわされるのを見ていると、段々と不安に
もなってくる。
 その部分は自分の役目だ、と葵は思っている。
「先輩、いいパンチを打ってますよ」
「確かにな」
 と、いったのは加納久だ。
 柔道家から総合格闘に転じるためにボクシングを習ったこの男は、出稽古先のジムで、
もう少し若ければ(当時、加納は二十三歳)プロボクサーになってやっていけたといわれ
たことがある。
 その加納の目から見ても見事なパンチであった。
 空を切っている理由はいうまでもなく、相手の耕一もまた只者ではないからである。
 忌々しいが、自分なら何発か喰らっているかもしれない。
 だが、試合開始直後よりはだいぶいい感じだ。

「シッ!」
 歯と歯の間を掻い潜るように出た吐気が音を出す。
 ダウンから立ち上がって、体がスムーズに動くことを実感していた。
 それまでが各所に錆の生じた機械であるとすれば、今は油をさしたようだ。
 いいパンチが打てている。
 そう思う。
 しかし、当たらない。
 いいパンチだと我ながら思っている。
 が、当たらない。
 ジャブからストレート。
 直線の動きで耕一を捕らえようとするが当たらない。
 ジャブは間合いを外して、ストレートは手で弾いてかわされてしまう。
 第1ラウンド、四分経過。
 ここで、浩之は休んだ。
 明らかに、打ち疲れだ。下手をすると軽くジャブを貰うダメージよりもパンチが空振り
した時の疲労の方が辛いものだ。
 だが、体を休めつつも気は抜かない。
 抜けばやられる。
 案の定、浩之の攻撃が止んだのを見澄まして耕一が出てきた。
 浩之は体力と、それよりも気力を振り絞って反撃した。
 ここで下手に防御に回れば、そのまま回りっぱなしになって一度も攻勢の機会を与えら
れずに潰されると恐れたからだ。
 耕一の突進にはそれほどの威圧感があった。
 カウンターを狙って拳を突き出すが、当たらない。
 読まれたか。
 そう思い、思うと同時に次の攻撃を送り込む。
 ジャブ、ジャブ、ストレート。
 もう自分はどのぐらいのパンチを打っただろうか。
 十発……二十発……三十発、いや、もっとか。
 一発も狙ったところへ当たらない。
 おかしいぞ。
 おかしい。
 いくらこの人がすごいっていっても、これだけ打ち込んでるんだぜ。一発も当たらない
なんてことがあるか?
 ってことは、おれはこれでいいと思ってたけど、知らず知らずの内にパンチの打ち方を
間違っていたのか?
 す、少し打ち方変えてみるか。
 ほら、これならどうだ。……やっぱり当たらねえか。
 それじゃあ、これなら……。

「?……」
 それに一番最初に気付いたのはやはり、一時期、浩之と一緒に練習したことがあり、そ
もそも格闘技の基礎を彼に教えた葵であった。
 それに僅かに遅れて都築が気づいたが、それでもすぐに確信を持てたわけではない。
「……パンチの打ち方が……少し変わったか?」
 誰にいうともなく問い掛けるような口調が、都築の迷いを現していた。
「変わりました」
 断言したのは無論、葵。
「でも……」
 悪くなってるじゃないか、という言葉を都築は心中で呟いた。
「悪くなっています」
 断言したのはやはり、葵。
「腰が、入ってません」
「そう……だよな」
 自分のように非才な者から見てもそれとわかるというのに、一体どうしてあの藤田浩之
があんなへっぴり腰でパンチを打っているのだろうか。
 羨ましいぐらいの才能を持った男だ。
 それは、隣に立っている加納久もそうなのだが、加納には子供のころから柔道をやって
いたという実績がある。その加納を格闘技を始めてから一年たらずで倒したというふざけ
た男があの藤田浩之だ。
 色んなジムや道場に出稽古に行くことにより都築は凡才が遠く及ばぬ才能というものの
存在は嫌というほど知っている。
 自分が何度も何度も練習してようやく得た動きや技をほんの数度、ひどい奴になると人
がやっているのを見ただけでマスターしてしまう。
 そういう人間が少数ながら、確実に世に存在する。
 藤田浩之もどちらかといえばそちらに属する人間だ。
 そういう浩之がなぜだろうか。
 何か考えがあってしていることであろうか。
 だが、そうは思えない。
 だとすれば、悩んだ末に、迷った末に出した結論があれだろうか。
 天才の迷い、という話を都築は思い出す。
 以前、出稽古先の師範代から聞いた話だ。なんでもない動きをマスターするのに長時間
を要して、自らの非才を嘆いた都築に彼はいった。
「しかし……ほとんど練習もせずに得たものって……いざとなったら弱かったりするらし
いよ」
 その師範代は「自分も非才な身だから自分の体験じゃないんだけど」と前置きして、彼
がかつて出会った格闘家についての話をした。
 全身に才能が詰まっているような男で、その師範代の同期だったらしいのだが、ある大
会に出て決勝戦で敗れてしまった。
 追い詰めたものの、逆転されてしまったのだ。
 試合後の控え室でどうにも納得できなくて問い質した。
 どう見ても最後の最後の詰めが甘かったというか、もう少しだというところで動きがお
かしくなってしまい、そこに付け込まれたように見えたのだ。
「何やっても倒れないんで、迷った」
 それが答えだった。
 確かに、相当にしぶとい相手だったが……彼ほどの才能のある男がそんなことで迷うも
のなのか。
「これじゃいけないんじゃないか……そんなことを考えてたらいいのを貰ってた」
 男は悔しがる以前に呆然としていたという。
「天才は技を修得するのに苦しみが無い」
 師範代はそういっていた。
 非才を嘆き、実際に非才であった都築を励ますためにその話をしたのであろうが、今、
思い当たることがある。
 ロクに練習もせずに得た技は、いざ通用しない相手が現れた場合に脆いのではないだろ
うか。
 凡人は練習をする。
 一つの、天才から見ればくだらない技を得るのにも歯を食い縛る。
 そこに苦しみがある。
 自分は駄目な奴だという悲しみがある。
 修得したものは、その上に乗る。
 土台に、苦しみがある。
 土台に、悲しみがある。
 嫌なことは覚えているものだ。
 喜びと同程度の鮮烈さで、苦しさも悲しさも記憶に刻み込まれる。
 迷った時、その迷いを断つのは苦しんできた量だ。
 天才にはそれが無い。
 下手をすると、得た時の喜びすらない。
 迷った時、その迷いを断てるだけのものが無い。
 いっそ、自分が一番強い、自分のなすことは全て正しい、と思えるような独善的なもの
がある方が救われる。そういう人間は迷わないからだ。
 だが、浩之はそこまで傲岸不遜な人間ではない。
 藤田――。
 藤田、さっきのでいいんだ。
 藤田、自分を信じろ。
 そういってやりたかった。
 もう少しで、第1ラウンドが終わる。
 浩之がもしラウンド終了のゴングを聞いて帰ってくるところができたら、いってやろう。
 だが、その都築の視線の先で浩之の体が右足を軸にして回転していた。
 巻き込んで、片足立ちになったところを足を払う。払い腰に似た形で浩之が投げられて
いた。
 残り、二十秒。
「先輩、落ち着いて!」
 葵の叫びが消えぬ内に、浩之は背後を取られた。
 スリーパーホールド(裸絞め)が来る。
 手を入れて防ぐ、と、その手を狙って腕ひしぎ逆十字固め。
 投げられてしまった理由は明白。下手なパンチを打ったために浅いとはいえカウンター
を貰って懐に入られてしまったのだ。
 残り、十秒。
 耐えられる。
 危ない状態ではあるが、後十秒では極められまい。
 腕ひしぎを両手のクラッチで防いだ時、ゴングが鳴った。

 浩之が両肩を落として帰ってくる。
「先輩、どうしたんですか? 最後の方、動きがよくありませんでしたよ」
 葵が心配そうに尋ねる。
「葵ちゃん」
 浩之がいった。
 情けない顔をしていた。
「わからないよ」
 情けない顔のままいった。
 やはり……。
 都築は、当たって欲しくなかった予感が的中したことを嘆くよりも、これほどの男が、
こんな顔をしているのを見て悲しくなった。
「葵ちゃん……パンチ……」
 浩之が試合場の隅にへたり込むように座りながら呟いた。
「パンチ……パンチの打ち方、わかんなくなっちまったよ……」

                                     続く

     どうも、vladです。
     96回目となりました。
     書きたいものが増えてきて、ちょっとこれを投げ出したくもなるん
     ですけど、後四回ですんで、まあ今更投げれないなあ、と思ってま
     す。

     選ばれしものの恍惚と不安、二つながらにして我にあり。