鬼狼伝(95) 投稿者:vlad 投稿日:8月29日(火)05時39分
 柏木耕一が歩いてくる。
 自分と闘うために、だ。
 こんなに嬉しいことはない。
 こんなに喜ばしいことはない。
 ぶるっ、と震える。
 武者震い、と思った。
 歓喜が自分の体を揺さぶっているのだ、と。
 震えが増していく。
 耕一が近付いてくるにつれて、徐々に、段々と、身体の震動が大きくなっていくのがは
っきりとわかる。
 こんなので闘えるのか?
 いや……大丈夫だ。こんな震え、始まったらすぐに収まるもんだ。
 耕一さん……さっき別れた時と同じ顔をしているじゃないか。
 つまりは、いつも通りの普段の表情だ。
 普通に日常生活をしているままの表情、そのままの顔で毎日飯を食っているんだろうと
いうような表情だ。
 自分で自分の顔を撫でる。
 顔の筋肉が残らず強張っていやがる。
 こんな顔で、飯は食わねえな。
 なんだよ、これ。
 おれ、ガチガチになってるぞ。
 さっき別れた時はなんともなかったんだ。葵ちゃんと雅史に平謝りした時も、入場して
くる時も、この試合場に立った時も、なんともなかった。
 あの人が、入場口に姿を現してからだ。
 ぶるっ、と来たんだ。
 それまでは、嬉しくて嬉しくて、再戦できることを喜んでいたんだ。
 それに割り込むように来たんだ。
 ぶるっ、とな。
 あの人がおれの正面に立ったぞ。
 3メートルかそこいらしかない。
 四方八方から声が来るみたいだけど、耳に入ってこねえな。
 駄目だ。こんなんじゃ闘えねえ。
 こういう時は、あれだ。イメージするんだ。
 いい具合なイメージを浮かべてリラックスを……。
 いきなりおれのハイキックがすぱーん、と側頭部を捉えて……。
 そんなもん、あの人にそうそう当たるわけねえな、軸足蹴られて倒されるのがオチだ。
 おれのワンツーがぱん、ぱーん、と顔面に……。
 そんな簡単にいったら苦労しねえよな、そんなの難なくかわされるに決まってる。
 タックルして倒して……。
 倒せないだろうなあ、潰されるに決まってる。
「それでは、正々堂々、悔いの無いように」
 ……? レフリーのおっさん、何いってんだ。おい。
「はじめっ!」
 おいおいおい、待てったら。
 もう始まるのか。
 名前のコールとかルールの説明とかその他とかはもう済んじまったってのか。
 おい、こっちは浮かんでくるイメージがどれもこれも後ろ向きで難儀してたとこなんだ
よ。
 カーーーン。
 と、ゴングまで鳴っちまった。こりゃやるしかねえな。
 少し救いがあるとすれば、あの人は立ち上がりからガンガン攻めてくるタイプじゃない
ってことだ。
 ほら、やっぱり、中央線から一歩も動かずにじっくりとこっちを見ているぞ。
 構えてもいない。
 あ、深呼吸した。
 くそ、相変わらずこの人は憎たらしいほどに落ち着いてるな。
 あの人に負けてから、あの人が学んでいる伍津流っていうの色々と調べたんだけど、闘
う時に気持ちを平静に保つことをやたらと口やかましくいっているところみたいなんだよ
な。
 理想は、戦闘時と非戦闘時の境界線を無くすことだ。
 とか、耕一さんの先生がいってたな。
 つまりは、戦闘になったら気持ちを切り替えるんじゃなくて日常の生活を送っている時
の気持ちでそのまま闘える。常に精神をそういう状態にしておく、ってことだ。
 若い頃は無理かもしれない。自分も若い頃は闘志ばかりが先に立っていた。
 って、こいつもあの先生の言葉だけど……あの人、二十歳かそこいらで実践できちまっ
てんじゃねえのか。
 お、動き出したな。
 構えて、前に出てきた。
 一歩踏み込んで打ったミドルキックが当たる、っていうようないいとこで止まりやがっ
たぞ。
 おれが手を出すのを待ってるんだ。
 下手な仕掛けをしたらそれに合わされて潰される。
 この距離は微妙だな。
 さっき、おれが加納に対してやったのと同じような位置だ。こっちから仕掛けるには少
し遠い。
 それに、今回ばかりは向こうから手を出させたい。
 だったら、おれの方から近付いていくしかないな。
 震えは……よし、止まってる。
 前に出るぞ。
 摺り足でミリ単位で前に――。
 キックだ。
 ミドルキックが脇腹に当たるぞ。
 ……来ねえか。
 前に……。
 こめかみがむずむずするな……汗の雫が伝っているのか。
 パンチだ。
 ジャブで顔を撫でられるぞ。
 ストレートなら打ち抜ける。
 ……来ねえか。
 と、いってもな、もうこれ以上前に出たら組み付くしかないぞ。
 客もブーブー騒いでるな。
 そりゃそうだ。お互いの距離、僅か5,60センチで睨み合ってるんだから。
 しかも、体勢を低くして組み合っていくような感じじゃない。少しだけ背を曲げて、拳
は顔の下半分辺り。
 つまり、打ち合いに行く体勢だ。
 しかし、距離は完全に打ち合うようなものじゃない。
 総合格闘ではこの距離は既にバカスカ打ち合っているか、どちらかがタックルに行って
仕掛けられた方が倒されるにしろタックルを潰して上に覆い被さるにしても闘いはグラウ
ンドへと移行しているはずなのだ。
 この距離でこの構えで、しかもどっちも一発のパンチも出していない。
 考えてみりゃおかしな状況だ。
 絶対先に手を出さねえ、と思いながらどんどん近付いていったらこうなっちまったんだ
よな。
 んで、耕一さんは……全然動く気配が無いな。
 ついでに隙も無え。
 あ、ちょっと笑った。
 この状況、楽しんでるんじゃねえのか?
 おれは、これっぽっちも楽しくないぞ。
 おっ、気配が変わったぞ。
 見た目には全く動いていない。それでもなんか動きそうだというのがわかる。
 もしかしたら、動くか。
 よし、こっちはそれを待ちに待っていたんだ。
 動いたら、それに合わせて仕掛ける。
 動け。
 耕一さんがすうっと……下がった。
 下がる!?
 この期に及んでそりゃねえよ。
 と、思ったら少し下がってすぐに前に出てきたぞ。
 軽いフェイントだな、そうこなくっちゃ。
 左でジャブを打ってくるような姿勢になってるな。
 打ってくるかな?
 顔面をガードして――。
 来た!
 ホントにジャブか!? にしては強すぎるぞ。
 右腕が痺れた。
 骨を直接叩かれたみたいな震動だ。
 もう一発、同じところに来た。
 痛え。
 もう一発。
 んで、また一発。
 まさか、とは思うけどよ。この人、まさか、このままおれの右腕破壊するつもりじゃな
いだろうな。
 まさかな……。
 痺れなんてのはしばらくすりゃ無くなるし、急所以外へのちょっとした打撲程度の痛み
は試合中は気にもならないもんだ。
 でも……そのまさかがもしかしたら実現しちまうような気がするからこの人は怖いんだ
よ。
 連続して左ジャブを打ってくる。
 接近して中に入ろうにも、ジャブだから向こうの重心が前に出てない。組み付いても倒
せないだろうし、それ以前に、右で迎撃される恐れありだ。
 左半身をほとんど直角に近い角度でおれに向けて左ジャブを打ってくるのは、たぶん、
下手にこっちが突っ込んだら腰の回転に乗せた右でカウンターを喰わそうというのだろう。
 そうはいかねえ、とはいうものの、このままじゃやばいな。
 どこかで反撃をしないと……。
 素早く間断なく繰り出されてくるこのジャブの連打の間になんとか隙間を見つけて……。
 とにかく、反撃だ。
 反撃するんだ。
 一発でいいから反撃を――。
 リズムを掴め。
 このジャブのリズムをだ。
 まるっきり一定のリズムで打ってくるなんていうことはないだろうけど、それでも、あ
る程度は読める。
 そろそろ来るってとこで前に出てやった。
 右腕に走る衝撃が弱い。
 やった。殺した。
 ジャブが充分な威力を持つ前にこっちから当てて殺してやった。
 よし、そのままその右でストレートだ。
 ようやくこっちから攻撃ができる。
 そう思ったら、押し潰されそうになっていた心が一気に解放されたみたいないい気分だ。
 最高の気分だ。
 心が解放された。
 ずっと攻撃を受け続けて押し潰されそうだった心が――。
 ちょっと待て。
 なんだそりゃ、それが理由か。
 この右ストレートのわけはそれか!?
 とにかく反撃をと願っていたのも結局、それか!?
 そうか。
 怖くてたまらなかったんだな、この人がよ。
 心が押し潰されそうで、それが怖くて、反撃したかっただけなんだ。
 その証拠に、今おれが打っている右ストレート、すっげえ大振りだ。
 怖いから、大振りなんだな。
 こんな大振りなの疲れてもいない相手に当たらねえよ。
 押し潰されそうだった心を解放したかったから、大振りなんだな。
 当たらねえよ。
 並の相手にだってこんなの当たりっこねえ。
 ましてや、相手は耕一さんだぜ。
 ほれ見ろ、伸び切った右拳の先にはなんにも無え。
 おれがビビって打った大振りの右ストレートがどういうふうに伸びてくるかなんてのは
とっくにわかっているってことかよ。
 掻い潜って、思い切り懐に入られた。……やべえな。
 とんでもねえ馬鹿だ。
 もちろん、おれがだ。
 以前に闘った時のことを少しでも思い出せる心理的余裕があったら、こうも馬鹿な真似
はしなかったはずだ。
 剥き出しの闘気は忌むべし。
 あの人が学んでいる伍津流の心得だってさ。
 そいつをほぼ忠実に実行している耕一さんは攻撃してくる前の一瞬にだけ、闘気ってい
うのか? いや、それ以外にいいようが無いもんを出す。
 耕一さんにいわせるとおれなんかは全身から溢れさせながら向かってくるらしい。
 さっきの左ジャブ、確かに強かったけど、それが無かったもんな。
 それがわかってりゃ、一人で勝手にああもビビってあんな不用意な攻撃には出なかった
んだろうが。
「いっ!」
 思わず、情けない声が漏れちまったよ。
 一瞬だけだけど、下から来たんだよ。
 闘気ってやつが――。

 掌底で顎を突き上げた。
 右ストレートを掻い潜って接近し、その右腕を左肩の上に担ぐようにして左手で浩之の
肩を掴み、右の掌底で顎を突き上げた。
 打ち抜いたわけではないが、それほど軽く打ったわけでもない。
 浩之の顔が天を仰いで隆起した喉仏が晒される。
 そこへ耕一の右腕が入った。
 下から肘を突き上げるようにして入れていった。
 耕一の右足が浩之の右足を後ろから、思い切り刈った。
 上半身を左に巻き込むように刈った。
 柔道でいう大外刈り、乃至は大外巻き込みと原理は等しく、その変形版といったところ
だ。
 浩之は当然受け身を取ろうとした。
 下が板敷きやコンクリート、アスファルトなどよりも比較的柔らかいマットとはいって
も頭を強打するのはまずい。

 顎を引こうとして異物感を感じる。
 この邪魔なの、この人の右腕か!
 畜生。
 声は出ずに、口がそういった形に動いていた。

 選手控え室のモニターに、その試合の映像は流れていた。
 男は、シャワー上がりで濡れた髪の毛をバスタオルで拭いながらそれを見ていた。
 試合の後、色々とこれからのことを考えてついつい長い時間シャワーを浴びすぎて逆上
せてしまった。
 出た結論は一つ。
 エクストリーム二回戦敗退という非常に不満の残る戦績を引っさげてプロになる。
 無名の相手に一本負けしてしまったこの戦績を持ってプロに殴り込む。
「なあに……」
 それをあまり気に病むことも無かった。
 この大会が終わった頃には、あいつは無名じゃなくなっているはずだ。
 そうなれば、自分の評価だって地に落ちるというわけでもないだろう。
 後は、実際に試合をして勝っていけばいい、彼にはその自信があった。
 あいつ、まだ高校生だっていうが、将来的にプロになる気はあるのかな。だとしたら、
是非とももう一回やってみたい。
 藤田浩之。
 若くて、荒削りで、そのくせ妙に粘りのある男だった。
 ゴングが鳴ったのはその時だった。
 あいつの相手は柏木耕一。
 こっちもこっちでどうやら只者ではない。
「勝てないにしても、無様に負けんでくれよ」
 彼は願った。
 契約金とか、その他にも色々と影響してくるのだ。
 それはそのまま、そう遠くもない将来会いに行く恋人の両親の心証にも影響するのだ。
「頼むぜぇ」
 開始一分後、藤田浩之はほとんど何もできないままに投げ倒された。
「……」
 ジャブの連打を貰って、大振りの右ストレートを打って、すぐに投げられてしまった。
「……わかってんのか、あのガキ!」
 加納久、二十五歳。
 一瞬だけ頭を抱えた後、すぐに立ち上がった。

「堅くなってるな……」
 まさかあそこであんな大振りのパンチを打っていくとは思わなかった。
 あれほどのレベルの選手に、試合序盤でのあの不用意な大振りパンチは反撃してくださ
いといっているようなものだ。
 巻き込んで足を刈る投げを喰らって、そのまま袈裟固め、そこから横四方固め――サイ
ドポジション――か、隙あらば腕拉ぎ逆十字固めも狙っているはず。
 袈裟固めにしても、それでギブアップを容易に奪えるような技ではないが、強引に首を
極められれば苦しいのは確かだ。
 まさか、このまま終わるのか?
 あの藤田浩之が、大振りのパンチを一発打っただけで終わるのか?
 不思議なことではない。
 どんなに素晴らしい素質を持っていても、負ける時はあっさりと負けてしまう、そんな
ことは珍しいことではない。
 藤田浩之。
 若く、自分などとは比較もできぬぐらいに素質のある男だ。
 若さと素質。
 その両輪が生み出すのは可能性だ。
 あの藤田浩之は、目が眩むような、羨ましいほどの可能性に満ちている。
 その彼がここで、このまま終わるか。
 そういうこともあろう。
 そうなるのが当然といっていいのかもしれない。
 格闘技の経験がそれほど無い上に、まだ若い。
 "これまで"よりも"これから"の方が多い人間だ。
 しかも、自分とは違って、多大な可能性を含んだ"これから"だ。
 ここで負けても、また次がある。
 むしろ、彼は敗北を次なる跳躍のバネにできる人間だと思う。
 だが、こんな不完全燃焼といっていい形での負けは無念に違いない。
 先程、完全燃焼した試合を終えた自分にはわかる。不完全燃焼のまま負けるのは嫌だ、
と。特に彼はそういう傾向が強いのではないか。
 それを、彼は一階席の一番後ろから見ていた。
 先程までの試合は医務室にあったモニターで見ていたのだが、医師の許可を貰えたので、
浩之の試合が始まる直前ここまでやってきた。
 例えば、この時、彼が自分の部屋でこの試合を見ていたとしたら、残念だと思いながら
も、あっさりと負けることもある、まだまだこれからがある、と納得して試合の行く末を
見守っていただろう。
 だが、その時、彼はそこにいた。
 敗退したとはいえ出場選手なのだから、一般客は入場できない選手用通路に入ることが
でき、試合場のすぐ側にまで行くことができる。
 ならば、行くべきだ。
 あの藤田浩之がらしくもなく堅くなって、苦戦をしていて、そして、彼は自分が少し歩
けば行くところにいるのだ。
 行くべきだ。
 行って何ができるか?
 そのようなことを思う間も無かった。
 既に足が動いていた。
 思い当たった時には、もう試合場は近かった。
 ここまで来たら、行くしかないではないか。
 なんだ。結局、色々と屁理屈をこねてでも行きたいんじゃないか。
 急ぎ足で歩いて行く。
 前だけを見ていて、横に気を配るゆとりすら無かった。
 肩が、擦れるように何かに当たった。
「あ、失礼」
 そういった先に、見覚えのある顔があった。
「あんたは……」
「お前は……」
 いいながらも、二人とも同じ方向へ向けて足を動かし続けている。
「加納久……」
「確か……都築だな……」
 それだけいって、どこに何をしに行くともいわずに、同じ場所を目指して歩く。

 袈裟固めをかけられていたが、それで済んで良かった、と思うべきであろう。
 腕で顎を上げさせられて満足な受け身が取れず、後頭部を打った際に、耕一は隙あらば
そのまま決めようとしていたのだ。
 二人とも、その体勢のまま固まったように動かない。双方の位置関係からして、耕一が
攻めあぐねていたといっていい。
 浩之は、じりじりと待った。
 不利な体勢のまま待つのは精神を削る苦しい作業だったが、それでも下手に動けばさら
に不利になる。
 袈裟固めで一気に極めるのは難しい。下手な動きをせずにじっと耐えていれば、必ず向
こうが次の段階へ進もうと動く。
 この状態のまま全く動かない相手もいようが、耕一に限ってはそれは無いだろうと浩之
は踏んだ。
 長時間、じっと動かない状態が続いた後、耕一が仕掛けた。
 体を返して、腕ひしぎ逆十字固めを極めに行こうとしたところ、浩之がそれを読んでい
たとしか思えない動きで外しに来た。
 耕一の動きに合わせるように身を起こして上になる。
 だが、それでも下からの腕ひしぎを耕一は狙った。
 浩之は狙われた右腕を引き抜くとともに後退する。
「ほう……」
 奇しくも、師弟のそれぞれの口から同時に洩れていた。
 柏木耕一と伍津双英。
 耕一は身をもって、そして双英は間近で見ていて悟った。
 袈裟固めをかけられて、脱出の機会を待っている間、浩之が絶妙にある時は力を入れ、
ある時はまた抜き、耕一の仕掛けを誘い、それに合わせるようにまんまと技を外してしま
ったのことを看破したのだ。
「若いわりには……」
 抜け目の無い駆け引きをする。
 藤田浩之。
 無名であるし、一回戦二回戦と苦戦を続け、さらには耕一に以前道場で立ち会って勝利
したと聞いていて、怖い相手ではないだろうと思っていたのだが……。
「これは……案外と手強いか……」
 立ち上がった耕一が微笑む。
 やるじゃないか。
 その笑みがそういっていた。
 確実に、以前やった時よりも強くなっている。
 だが、それを誇るような素振りは浩之には無かった。
 それだけの余裕が無かった。
 見事な抜け方であったが、反面、それだけであらゆるエネルギーが尽きたように思った。
 むろん、それは錯覚だ。実際には浩之の体にはその若さと日頃の鍛錬に見合うだけの力
が満ちている。
 だが、精神の衰弱が激しい。
 勝てねえ。
 際限も無く、沸き立つ。
 ただの左ジャブの連打で隙だらけの攻撃を誘われた。
 やっぱり、あの人には勝てねえんじゃねえのか。
 際限が無い。
 勝てない。
 勝てないのならば、どうすれば勝てるのか?
 それを考えるゆとりすら無かった。
 いや、今の精神状態でそれを考えようとしてもすぐさま「どうやっても勝てない」とい
う結論が出るだけだ。
 勝ちたい。
 負けたくない。
 それだけでここまでやってきた。
 その原動力が「勝てない」と思っただけで根こそぎ消失したかのような感じがする。
 ここで「それでも勝たねばならない」と思うことができなかった。
 それだけのものが無い。
 なんだ。
 ここまで薄っぺらかったのか!?
 おれの"理由"はこの程度でこうも脆く――。
 おれは一体……。
 なんのために闘っているんだ。
 勝ちたいから。
 負けたくないから。
 それでいいと思っていたし、今までだってそれでよかった。
 だけど、この相手は……この人は、それじゃ駄目だ。
 足りない。
 おれ一人の意志の力じゃ支えきれない。

「いかん……」
 英二が歩き出す。
 理奈はこの試合の前に自分の席に帰っていったので今は一人だ。
 一人で、選手通用口の付近で観戦していた。
「いかん……」
 また、呟いた。
 浩之の心が折れる。
 いけない。
 あの悔しさを、浩之には……。
 英二の視線の先で浩之が舞う。
「……まだ間に合う」

 右のストレートだ。
 試合再開後の立ち上がり、左ジャブの連打に怖気づいて後方に退いた瞬間を狙い撃ちに
された。
 思い切り踏み込んで右だ。
 ダウンだ。
 勝てないのか。
 なんとか身を起こす。
 視界に、葵と雅史をおさめる。
 それとは別に見覚えのある顔と顔。
 ……誰だっけか、こいつらは?
 誰でもいい。
 葵ちゃんでも、雅史でも、この二人でもいい。
 誰でもいい。
 誰でもいいから、おれに闘う理由をくれ。

                                     続く

     どうも、vladです。
     95回目ですな。
     最後は週刊ペースにこだわらない、とはいったものの、前回と間が
     空くこと二週間余、こりゃ空けすぎですな。
     まだ、この最後の戦いについて全てを決定しているわけではないの
     で、その辺りを固めるためにも、次回はまた二週間後ぐらいになる
     でしょう。
     ま、投げ出しはしませんので。