鬼狼伝(94) 投稿者:vlad 投稿日:8月10日(木)00時46分
 三人の必死の捜索も虚しく、試合開始時間は既に一分前に近付いていた。
 一分前など、本来は控え室を出ているべき時間だ。
「もう一度だけ、探してみましょう」
 息を切らせながらも、葵がいった。
「うん、頼むよ」
 と、いったのは佐藤雅史である。
「……あの馬鹿……」
 と、かなり本気で腹を立てながらも二人とは別方向に走り出したのは坂下好恵。
 男子空手部とのあれこれの一部始終を知っている好恵は、元々浩之のことを高く評価し
ていたが、今日でそれをさらに深めていた。
 実際見て、ようくわかった。
 エクストリームのレベルは高い。
 初出場で、また、これほど大勢の観客の前で闘うのも初めてでいながら、二回戦を突破
した浩之のことを高く評価していた。
 試合前にいなくなって、葵や雅史に要らぬ心配をかけなければ、藤田浩之への評価は上
がるだけであったろう。
「どこに行ったんだ。あいつは……」
 あまりブツブツと独語する好恵ではないが、今回ばかりは、ついつい自然と浩之への悪
態が漏れる。
 この無責任極まる行動に対して、葵と雅史が怒らず、心配する一方というのも好恵の浩
之への怒りを促進させていた。
 どうしても、浩之が二人に甘えている、と思えてしまうのだ。
 自分から、強くいっておく必要を感じていた。
 二階の通路をぐるりと見て回る。試合時間はもう過ぎているのだが、選手が入場してか
ら観戦しようと決め込んでいる人間が多く、通路にはまだ人が多い。
 その人々の間、というよりも隙間を見事なフットワークでぬっていった好恵は会場の外
を探してみようと思い、出入口へと向かった。
 会場から出た瞬間、好恵の視線は遠くへと向けられていた。
 出入口を出てすぐの五段ほどの短い階段を下りようとした時も、視線の位置は変わらず。
 階段を踏み外して転ぶようなことはない、という自信がある。
 だが、横合いから何かがやってきた。
「危ねっ!」
 と、叫んだそれに蹴つまづいて好恵の体が宙を舞う。
 今の声――。
 聞き覚えがある。
 藤田浩之だ。
 浩之に怒るよりも先に宙に浮いた我が身をなんとかしなければならないという防御本能
が働いた。
 このままだと前から、うつ伏せに倒れていってしまう。
 ならば、身を半転させて受け身を――。
 好恵の体が引っ繰り返る。
 来るべき、地面の衝撃を覚悟する。
 飛んだ高さと感覚で、大体いつ頃自分が地面に接触するかはわかる。
 おそらく、約一秒半後。
 両手が交差する。
 受け身を――。
 約0.5秒後。
 好恵の体は、固いが弾力を持った何かに接触していた。
 それが、よく鍛えられた肉体であるということを好恵は悟った。
「坂下、危ないじゃねえか」
 階段の最上段から浩之がいった。
「危ないのはそっちだろう!」
 瞬間的にカッと来て叫びながらも、好恵は自分が今、どういう状態になっているのかを
正確に把握していた。
 背を男の肩に乗せるようにしていた。男の手が腰に回っているので担がれているように
も見える。
 叫んだ直後に、体がするり、と滑るように落ちた。
 両足で地面に着地しよう、と思ったが、またもや好恵の体はその途中で停止した。
 男が、空いている方の手で好恵の両足を支えたのだ。
 自分を抱きかかえる格好になった男を見上げる。
「大丈夫か?」
 そういったこの男、覚えている。
 確か、柏木耕一。
 好恵が大丈夫そうだと見た耕一は、好恵の両足をゆっくりと地面に下ろした。
「浩之ぃ、お前が悪いぞ、今のは」
 耕一が苦笑しながらいった。
「いきなり横から足元に来られたら避けようが無いだろうが」
 という耕一の言葉で、何が起こったのかが理解できた。
 横からやってきた浩之が回り込む時間を惜しんで階段をショートカットしようとして跳
躍して横から最上段に乗ろうとして好恵が足を蹴つまずかせた、ということらしい。
 浩之が完全に悪い、と好恵も思った。
「あー、悪ぃな、坂下」
「……そんなことはどうでもいい」
 押し殺した声で好恵はいった。実際、謝ってさえもらえればその程度のことはどうでも
いい。それよりも、葵と雅史がこの男を捜していたのだ。
「何やってたんだお前は……葵と佐藤が捜していたんだぞ」
 不純度無し。
 純粋な怒りが声に篭もる。
「あー、悪ぃ、ちょっとな……」
「私はいい、葵と佐藤にいえ」
「おう」
「そういや……」
 と、耕一が時計を見やる。
「試合開始……しているべき時間だな」
「あ、やべ!」
「急ごう」
 耕一が早足で駆け出し、浩之もそれに続いた。
 やがて、それぞれの控え室への分かれ道へとやってきた。
 浩之は右へ。
 耕一は左へ。
 そして、再び会えばそこは試合場の上。
 闘う場所だ。
「それじゃあな、浩之」
「はい……負けませんから、おれは」
「ああ」
 そして、耕一は左へと……。
「ん?」
 好恵が、その先に立っていた。
「先程は、ありがとうございました」
 折り目正しく、一礼する。
「ああ、たまたまおれがあそこにいただけだから……えっと……浩之の知り合いだっけ?」
「坂下です」
「坂下好恵、おれの同級生ですよ」
 少し離れた所で立ち止まっていた浩之が付け加える。
「好恵ちゃんか」
「……坂下です」
 暗に「好恵ちゃん」と呼ばないでくれといったつもりなのだが、
「あれだな、好恵ちゃんはけっこう……」
 効果が無かった。
 はっきりと「好恵ちゃんは止めてください」といおうとしたところ……。
「いい体してるね」
 好恵、固まる。
「さっき抱きかかえた時思ったんだけどね」
「そ……」
 好恵は口篭もった。
 浩之が「耕一さん、頭おかしくなったんですか?」といった表情をかなり本気でしてい
るのには腹が立つには立ったが、あまりそちらにまでは気が回る余裕は無かった。
「何かスポーツやってるの?」
「……空手を少々」
「そう、こいつ、うちの女子空手部の主将なんすよ」
「あー、やっぱりね。筋肉質だったから」
「そーっす、いい体してますよこいつは。うん」
「……」
「睨むなよ、坂下」
「空手かあ。道着を着たらカッコいいんだろうね、好恵ちゃんは」
「ええまあ、なかなかいい男になりますよ」
「……」
「今は普段着だから、普通の可愛い女の子に見えるけどね」
「……え?」
「あの……耕一さん……」
「道着を着たらもっと顔が引き締まっていかにも空手家になるんだろうね。一度見てみた
いな」
「耕一さん……」
「なんだ、浩之?」
「こいつのどこが可愛い女の子なんですか?」
 その時、浩之の表情にも声にも、好恵をからかってやろうとかいう茶化す様子は無かっ
た。
 真摯であった。
 真剣に、心の底から沸き上がるどうしようもない疑問が、自然と口から漏れた……そん
な感じだった。
 真剣であった。
「……」
 それはそれでふざけていわれるのよりも腹が立ったが一歩大きく踏み込んで中段蹴りを
放っても届かない位置に浩之がいたので、好恵はまずは静かに一歩、浩之に近付いた。
 浩之も勘がいいので二歩下がる。
「えー、可愛いだろー」
「どこがですか、どこが!?」
 刻々と時間が過ぎる。
 既に試合が始まっているべき時間をとうに過ぎている。
 尻を蹴飛ばしてでも二人の立ち話を制止すべきか、などと思わないことも無かったが、
その決断をできる精神状態ではなかった。
「おれ、ボーイッシュな子って好きだぞ」
「いや、ボーイッシュっていうか……その辺の領域は既に通り抜けて……」
 いいつつ、浩之が三歩下がる。理由は推して知るべし。
「けっこうもてるんだろ? ……好恵ちゃん? ……好恵ちゃん!」
「あ……押忍、なんでしょうか」
「いや、好恵ちゃん、学校じゃけっこうもてるんだろ、って思って」
「同姓にはもてまくりだと思いますけど……」
「……同姓異性を問わず、そのようなことはありません、押忍」
 なんでいちいち耕一に両手で十字切って礼してんだろうなー、と思いつつ、浩之が念の
ために一歩下がる。
「えー、嘘だろ、もてるんだろ?」
「……いえ、そのようなことはありません、押忍」
「耕一さん、そろそろ行かないとやばいっすよ」
「おう、そうか、好恵ちゃん、またな」
「はい、頑張って下さい」
「坂下、お前はどうする?」
「葵と佐藤と落ち合う場所を決めてあるからそこに行くよ」
「ああ、そうか、頼むわ」
「……ちゃんと二人に謝っておけよ」
「おう」
 そういった浩之は、今度は下がろうとはしなかった。
「それじゃあな」
「ああ」
 好恵が身を翻して去っていく。そして、耕一の姿が既に小さくなっているのを見ると、
浩之は慌てて駆け出した。
 大きく、溜め息をつく。
「……一発ぐらい殴られるかと思ったけど……助かったな……」

 好恵が約束の場所に行くと、既に葵と雅史が待っていた。
「どうでしたか?」
「どうもこうもない。さっき会ったよ」
「え、本当ですか!」
 我が事のように葵と雅史が笑顔になるのと、場内がざわめいたのはほぼ同時であった。
「やっと入場が始まったか」
 試合開始時間より十分近くが経過している。
「それじゃ、僕たちは浩之のところへ行くよ」
「私は、客席から見ている」
 二人と別れて好恵が場内へと入ると、丁度、浩之が試合場の上に到達していた。
 好恵が席に帰ると、前方と横に見慣れた顔が無い。
 前にあかりと志保、横に綾香と芹香とそれに付属するように長瀬源四郎がいたはずなの
だが、いない。
 好恵はずっと葵と雅史に頼まれて浩之を捜していたのでいなかった。先の拓也と三戸の
試合が終わった後に休憩のために通路に出たりしていたようだが、試合開始時間をとうに
過ぎた今、既に席に戻っていると思っていたのだが。
「あー、間に合った。まだ浩之が入場してきたとこよ」
 その声とともにやってきた綾香が好恵の横に腰を下ろす。
「……みんなしてどこへ行っていたんだ」
「んー、後で話すわ、けっこう面白いことがあったから」
「じょーだんじゃないわよ、あたしは見てるだけで疲れちゃったわよ、あんなの」
 そういいながら好恵の前の席にやってきたのは志保。
「あー、よかった。間に合ったみたいだね、浩之ちゃん」
「っていうか……試合する二人とも行方不明になってたから」
 綾香が苦笑する。
「片方だけだったらとっくに不戦勝になってるわよ」
「あ、そうかあ」
 厳しい大会ならば、両者失格になっていてもおかしくはないが、エクストリームという
アマチュアという枠に入れるにはプロ的な側面を多く持つイベントにおいては、もう一方
のブロックの決勝が、月島拓也の反則負け、そして勝者の三戸雄志郎が病院に担ぎ込まれ
ている以上、この試合を両者失格にするのは避けたいところであった。
 三戸の優勝決定戦棄権が濃厚であるからには、この試合の勝者がそのまま優勝者となる
可能性が高いのだ。
 客もそれはわかっていて、これから始まるこの試合を優勝決定戦を見るつもりで観戦し
ようとしているといって過言ではない。
 ここで、このまま両者失格となり、腕を折られて病院に運ばれた三戸が優勝となっては
イベントとして「格好がつかない」のである。
 その辺りの事情があり「手違いがあり、試合開始時間が遅れる」というアナウンスをし
て二人が現れるのをジリジリと待っていたというわけである。

 耕一が入場してくる。
 さっき別れた時と全く同じ顔だ。
 当たり前なのだが、それが不思議だ。
 浩之は我知らず自分の顔を撫でていた。
 おれの顔はどうだろう。
 さっき別れた時と同じ顔をしているのだろうか。

「浩之ちゃん……頑張って」
「絶対、勝ちなさいよ! あんた!」
 そのあかりと志保の声を下方に聞きながら、綾香が隣席の好恵を見ながら口を開いた。
「果たしてどうなるかしら……浩之、思ったよりやるようだけど、一回戦二回戦ともに楽
に勝てたとはいいがたいわ……むしろ、苦戦」
「そうだな」
「相手の柏木耕一、強いわよ。一回戦のプロレスラーも、二回戦の緒方英二も決して弱い
相手じゃなかったのに、最終的にはほとんど一方的に打ち負かしている」
「ああ……あの人は強いよ」
「でも、浩之に勝機が無いわけじゃない」
「……ああ」
「変に恐れず、自然体に……って、まあ、私たちにはここから応援するしかできないんだ
けどね〜、アドバイスは葵にまかせといていいと思うわ」
「そうだな」
「え、何? 姉さんも浩之を応援してるって? うん、してあげて、あいつには凄い効果
あると思うから」
 こくり、と頷いた芹香の後ろに立つ、と後ろの人間の邪魔になるために横の通路に片膝
をついて控える老漢に綾香の視線が向く。
 ちなみに、彼を注意しに来た大会係員は睨まれて退散した。
「セバス、どう思う?」
「柏木耕一が勝つでしょう。彼は強い」
 即座に断言する。
 彼が、伍津双英の道場で耕一と立ち合って敗れた、ということを知る者は少ない。
「ですが、お嬢様方が応援なさるのなら、私もあの小僧を応援してやろうと思います」
「あははは、それでOKよ、姉さん、セバスも浩之応援してくれるって」
「……」
「ははッ、御礼を下さるなど光栄です」
「好恵も浩之応援してあげるんでしょ?」
「私は……」
 どっちを応援するとかじゃなくて、いい試合が見れればそれでいい。
 そういおうとして、好恵は口篭もった。
 一度、深呼吸して、それをいおうとした時、
「ん? 柏木さんの応援するの?」
 綾香が口を挟んだ。
「……悪いか」
 意図したのとは、全然別の言葉が出ていた。
「……悪くは……ないけど」
 妙にむすっとした好恵を不思議そうに見ながら、綾香はいった。

                                     続く

     どうも、vladです。
     94回目となりました。
     今回は遊びですね。ほとんど(笑)