鬼狼伝(93) 投稿者:vlad 投稿日:7月30日(日)00時26分
「当たった」
「左……左のジャブでしたよね、今の」
 左ジャブ。
 幾多のパンチの中でも素早く打てる種類のそれである。
「当てるだけの軽いパンチだったようだが……少しは効いたぞ」
 さらに、柳川のジャブは拓也の顔を捉えていった。
「なんて顔してるんだ。月島さん……」
 浩之が呆然と呟く。
 さっきまでの自信はどこへ行ったのか、不安そうな顔で叩かれている。
「崩れたな……」
 耕一の見るところ、拓也は極限状態を迎えて感覚が鋭くなり、その感覚によって柳川の
攻撃を見切っていた。それに、さらに精彩を加えていたのが拓也がいつからか持った不動
の自信だ。自分には攻撃が当たらない、という自信だ。
 それがあったから、柳川の鋭い攻撃を紙一重でかわそうとする、などという芸当が可能
になった
 長い修練の末に意識せずに相手の攻撃をかわしてしまえるという境地に人間は達するこ
とができる。
 それを自らの経験として語る格闘家も少なくない。
 様々な要因が重なり合っての結果だが、その境地に拓也は格闘技を本格的に初めて一年
そこそこで辿り着いた。驚異的なことである。
 だが、いくら感覚が鋭くなったといっても、かわしにくい攻撃は存在する。
 例えば、素早いジャブである。
 完璧に触れもせずにかわすには後方に下がるのが一番だ。実力者のそれを顔を横に少し
ずらして紙一重でかわし、ましてやジャブにカウンターを合わせるなどほぼ不可能に近い。
 もちろん、単発で、いや複数当てたとしてもそれほどにダメージを与えられる攻撃では
ない。
 だが、今の場合、とにかく当てることが拓也攻略の糸口だ、と耕一は思う。
 当てることにより、拓也の自信を破壊するのだ。
 長い間の修練を積んで辿り着いた"境地"ではない。
 肉体的、精神的に追い詰められて一時的に感覚が鋭くなり、それに「自分にはどんな攻
撃も当たらない」という絶対的な自信が付与してのものだ。
「ここで踏ん張れなければ……月島くんは……」

 ゾッとした。
 今まで、この男と闘ってきて、腕を折られる!? 目をやられる!? と思った時に悪
寒を感じたことはあったが、この時のそれは異質であった。
 柳川裕也ではないものになったらどうです?
 その言葉に心底、ゾッとした。
 その後に拓也はいった。
 あなたも、なれるんでしょう?
 と……。
 ならば、あいつはもう月島拓也ではないということか。
 急に異常に感覚が鋭くなって、信じられないような見切りで攻撃をかわすようにはなっ
たが……。
 おれはならないぞ。そんなものには。
 おれは、柳川裕也であることを止めない。
 それで、どんなすごい力が手に入るとしてもだ。
 嫌なことは一杯あった。
 父がいなかった。
 好きだった上司が自分のミスで死んでしまった。
 心を開きあった友が自分が至らなかったために死んでしまった。
 でも……。
 母がいた。
 あの人の娘が自分を頼りにしてくれている。
 貴之が自分を兄のようだと……。
 月島拓也。
 お前の目を見れば少しはわかる。
 あまり幸福とはいえない人生を歩んできたようだが……。
 父か母か、あるいはその双方がいなかったのか?
 でも、妹がいるだろう。
 お前は――。
 とにかく、どんな軽いものでもいいから攻撃を当ててやる。それで、もしかしたらこの
男の自信が崩れ、付け込む隙が生じるかもしれない。
 自分が優位に立っていたなどとは夢にも思わない。とにかく、小さく、軽くでいいから
一発当てる。
 月島拓也――。
 さっき、見事なカウンターを決められた時、一瞬だけお前に負けてもいいな、と思った
よ。
 でも、もう負けられないな。
 お前はここで勝ったら駄目になる。そんな気がするよ。
 だから、負けるわけにはいかない。
 何様のつもりで、おれはこんなお節介なことを考えているんだろうな。
 貴之――。
 阿部貴之――。
 そういう友達がいたんだよ。
 おれがお節介だったら今も生きていたかもしれない男だ。
 お前と貴之……似ても似つかないし、付き合い方もだいぶ違ったし、正直いって重ね合
わせて見るのは難しい。
 でも、やっぱり、どこかで重なるんだよ。
 その質も、理由も、やり方も、全然異なっていたが、貴之もお前も、おれを慕ってくれ
た数少ない人間だ。
 こうなったらもうしょうがない。
 諦めておれのお節介を受けてもらうぞ。
 貴之と少しでも重なる奴を放っておけん。
 お前のその顔――月島拓也以外の、それ以上のものだ――とでもいいたげな見下した表
情を打ち壊してやるぞ。
 おい……月島拓也よ。
 妹がいただろう。
 そして、まだいるだろう。
 お前は、月島拓也以外のものでいいのか?
 おれは柳川裕也だ。
 過去に何があったとしてもおれはそれでいい。
 お前は――。
 おい……どうなんだ……。
拓也っ!?

 真っ直ぐに左手が伸びていって、拓也の顔面を捉えた。クリーンヒットとはいえないが、
眼鏡無しでのぼやけた視界の中でしてのけたことだから上出来だ。

 一発、二発、三発。
 左のジャブが連打された。
 そして、右。
 ストレートが一直線に顔面を叩く。
 ぎこちない動きで拓也がかわそうとするが、かわしきれない。
 思い切り振りぬいた右のミドルキックが腹部へ――。
 拓也は、ふっ飛ばされた。

「月島くん、立てるか」
 この声……緒方英二か……。
 月島……それは僕のことか?
 ああ……僕がさっきまで"そうだったもの"の名前か。
 違うんですよ。僕はもう。
 緒方さん、僕はもう月島拓也じゃないんですよ。
 だって、それじゃあの人に勝てない。
 今まで闘ってきて僕はわかってしまったんですよ。
 月島拓也は柳川裕也に勝てない。
 勝てないんですよ。
 僕じゃ、月島拓也じゃ勝てない。
 だから、月島拓也なんかでいるのが嫌になったんです。
 だから、止めです。僕はもう、そうじゃない、それ以上のものになった。
 口でいっているだけじゃないんですよ。さっきの、さっきの見たでしょう? あの人の
鋭い攻撃を紙一重で、ミリ単位で、スレスレでかわして、あの人を手玉にとってた。
 あれはすごかったでしょう? あれなら柳川裕也に勝てますよ。
 今は、何かの拍子に軽い攻撃を貰ったんで戸惑ったんです。すぐに立つから、そうした
らもう何も貰いませんよ。
 立つぞ……。
 あれ? なんだか足に来ているぞ。
 おかしいぞ、これじゃ月島拓也みたいじゃないか。そうではないものになった時、こん
な疲労は無くなっていたのに。
 ん? なんだ? 何かが……緒方英二以外の何かが僕の側に……。
「英二さん、もう止めさせないと」
 拓也の傍らに片膝を着いていった御堂静香に、英二はゆっくりと頷いた。
 拓也がある一線を越えたことは英二も感じていた。
 越えて、本能が理性を超え、精神が肉体を越え、拓也は闘っていた。
 この辺りが潮時かもしれない。英二といえど、どちらかの死をもっての決着を望んでい
るわけではなかった。
 拓也の手が静香の肩にかかった。
「寝ててください。すぐに救急車を呼びますから」
「まだやれる」
 静香によっかかるようにして拓也は立ち上がった。だが、静香が拓也の手が置かれた肩
を少し引いたら、それだけで倒れてしまいそうだ。
「まだまだ」
 行ける。
 月島拓也ならばもしかしたらここで倒れたかもしれない。だが、それ以上のものである
僕はまだ行けるはず。
 柳川を見る。
 落ちていた眼鏡を拾ってかけたところらしかった。
 左のレンズがひび割れていてその向こう側はわからないが、右のレンズ越しに見える柳
川の左眼は鋭い視線で拓也を見ていた。
 鬼。
 拓也の全身から血の気が引いていった。
 あれだ。鬼の顔だ。
「おい……」
 拓也は見入られたように、その顔を見ていた。
 英二が何かを叫んでいるようだった。
「え? ええ?」
 すぐ横でそんな声がした。
 柳川は見ている。
 まだ、鬼の顔だ。
 何がこの男の顔をそうさせているのか。
 僕……か?
 いや、違う、そうではない。
「おい……」
 柳川が右腕を引いていた。
 あ、殴られる。
 そう思いながらも拓也は動けなかった。
 光が見えた。
 それでも、動けなかった。
「そいつに触るな」
 顔面を貫いたのは、拳というよりは、その形をした力そのものであった。
 一瞬、体が逆さになったのがわかる。
 爪先が大きく弧を描いた。
 うつ伏せになって倒れる。
 起き上がろうとしたが、引っ繰り返って仰向けになっただけであった。
 空が青かった。
 さっきの空だ。
 地面が暖かかった。
 さっきの地面だ。
 妙に頭がスッキリとしている。
 ああ……足音が幾つか近付いてくる。
 瑠璃子もいるのかな……。
 僕は月島拓也……それ以外のものになどなれなかった。
 月島拓也が柳川裕也に勝たねば意味が無かったのに。
 瑠璃子……僕はまたやり方を間違ったのかもしれないよ。
 月島拓也であることを止める必要など無かったのに……。

「浩之!」
「はい」
 浩之と耕一が足早に駆け寄っていった時、月島拓也は仰向けになって四肢を伸ばして空
を見ていた。
「大丈夫っすか?」
 浩之が拓也の顔を覗き込んでいる英二に尋ねる。
「なんとかね」
 あの時、咄嗟に静香に拓也から離れるようにいったのだが間に合わなかった。
 思い切り殴られていたのであわや、と思っていたが、なんとかなりそうだ。こちらのい
うことには何も答えないが、意識はあるようで、ただ、空を見ていた。

「柳川……さん……」
 怯えた表情で足を震わせた静香が柳川の前にいた。
「安心しろ」
 両手が静香の両肩に置かれた。
 嘘のように震えが止まる。
 震えの元だった柳川の鬼のような顔が、軽い微笑を浮かべただけで、それは収まった。
「おれがいるから安心しろ」
 そういわれただけで、不思議に不安がおさまっていく。
「今度は……失敗はしない」
「はい……大丈夫」
 静香は柳川に聞いて知っていた。
 かつていた彼の親友のことと、それが柳川曰く「自分のせいで」死んでしまったという
こと。そういえば、父の死に関してもこの男は責任を感じていた。
「大丈夫です。柳川さんなら」
 ふっ、と柳川の全身から力が抜ける。
 やはり、おれは柳川裕也でいい。
 力が抜けて、拓也のことが気になって見てみると、名前は知らないが彼の妹と一緒にこ
の場にやってきた青年の肩を借りて立ち上がっているところであった。
「……柳川さん……」
 澄んだ表情だった。
「負けです」
 あっさりといった。
「月島拓也が、柳川裕也に負けたんです」
「勝ちとか負けはどうでもかまわん」
 柳川はいった。
「楽しかったですよ」
 拓也はいった。
「おれも……別に楽しむつもりだったわけではないが、楽しかった」
 柳川が、背を向けた。
 拓也は、笑っていた。
 楽しかったというのが嬉しかった。
 自分だけがそうで、この人は仕方なく付き合っているのだろう、と思っていたのだが、
そうじゃなかった。
 そして、疑問に答えが出た。
 足りなかったものは、柳川が自分のところまで来ない、とかそういうことじゃない。
 喜びだ。
 相手の攻撃をかわした時の喜び――。
 相手に攻撃を当てた時の喜び――。
 それが足りなかった。
 負けたが、それを得た。
 嬉しくて嬉しくてしょうがない。
 おかしくなったか!?
 周りの人間が危惧せざるを得ないほどに、拓也の顔に次から次へと笑みが浮かんでいく。
 瑠璃子が微笑みかける。
「よかったね、お兄ちゃん」
「ああ……よかった……とてもよかったよ……」
 そういってから、拓也は自分が祐介に肩を借りて立っていることに気付いた。
「君にも世話になるな……」

「終わった……」
 浩之は時計を見た。
 約十分の死闘であった。
 レフリーもおらず、中途でのブレイクも無く、膠着状態がそれほど長くあったわけでも
ない戦いにしては長引いた方だろう。
「この馬鹿ッ!」
 そう叫ぶや、何かが浩之の背中に負ぶさった。
「何しやがる!」
「あんたの試合がもうすぐでしょうが! しっかり時計見なさい!」
 両足で胴を絞めながらのフェイスロックで浩之の顔を捻りながら志保が叫ぶ。
「あ!」
「あ、じゃない!」
 確かに、試合開始二分前になっている。
「浩之、走れば間に合う!」
「よし、志保、下りろ!」
 耕一に僅かに遅れて浩之が走り出す。
 走りながら、自分はこの男とこれから闘うと思うと様々な感情が泡立つように沸き上が
ってくる。
 今の闘い、勝者無き闘いであると浩之は思う。
 拓也ははっきりと負けを認めたし、柳川は自分を勝者であるなどとは思っていないだろ
う。
 そこにあるのは、勝利とか敗北とかいうものではなく、二人の男が死力を尽くして闘い、
傷付いたという厳然とした事実だけだ。
 だが、それでもそれをした二人にも、見ていた自分にも得るものはあった。
 これから自分が行くところには、レフリーがいて、明確なルールがあって、それが勝者
と敗者を決定するシステムがある。
 それでも、それに勝ちを認められるだけでは意味が無い、と思う。
 そのシステムに勝利を与えられても、自分で勝った気がしなければ無意味だ。
 この人相手に姑息なことをする必要は無い。
 願わくば、試合が終わった時に、さっきの拓也のような顔で笑いたい。
 耕一の背中が見える。
 それほど肩幅が広くないのに、不思議と大きく見える背中だ。
 その背中を見て走っていたら、急に抜きたくなった。
「お先ッ!」
 加速して耕一を抜く。
「あ、おい、待てよ」
「あはははは! どうすか、おれの背中を見て走る気分はぁ!」
「ガキか、お前はあ!」
 走りながら二人とも笑い出していた。
 笑いながら、二人は闘いの場を目指していった。

「なんか……競争してるね、浩之ちゃんたち……」
「……何やってんだか……」

                                     続く

     どうも、vladです。
     92と3回目であります。
     なんじゃかんじゃで柳川×拓也に12回、約三ヶ月もかけてしまい
     ました。反省しております。間延びしすぎです。ペース配分間違え
     ました。
     今まで、大体週に一話という具合にやってきたんですが、次回から
     の浩之×耕一戦(これが最後になるでしょう)に関しては、それに
     こだわらずに書こうと思っています。だから、どのぐらい時間がか
     かるのか、全くわかりません。
     まあ、やったるしかないんですけどね。