鬼狼伝(92) 投稿者:vlad 投稿日:7月30日(日)00時24分
 衝撃が頭を突く。
 その度に、思考力がすとん、すとん、と押し出されていくようだ。
 せっかく立ったはいいが、これではまるで殴られるために立ったようなものだ。
 なんとかしなければ……。
 思いながら、守勢に回った状況をどうすることもできない。
 もう何発か強烈なのを貰ったら、そんなことを考えることもできなくなりそうだ。
 右手で殴ってくる気だな、っと、左か。
 なんだ。簡単なフェイントじゃないか。どうしてこんなものに引っ掛かる。
 左右のワンツーを受けて、かわして、足が揺れる。
 なんだ? ああ、ローキックか。そうだな、蹴りがあることを忘れていた。
 これは……相手の攻撃を読むどころじゃないな。
 複数のそれならともかく、簡単な単発のフェイントにもかかってしまうような状態だ。
思考力も、体力も、限界に近い。いや……自分でそう思い込むことでなんとか踏み止まっ
ているだけで、実際はもう限界を超えた後なのではないのか……。
 反撃は、時折、腕を振るだけだ。
 足に来ているためにタックルにも行けない。すなわち、組み付いて行けない。
 柳川はもう、このまま打撃で仕留める気だろう。
 柳川の関節技とその防御の技術は警察で習った柔道が基礎になっている。自然、関節技
嗜好症とでもいうべき拓也と関節技のみでやり合うのは避けたいところだ。その技のバリ
エーションの多さを警戒しているのだろう。
 腕ひしぎ逆十字固め。
 裸絞め。
 しっかりとした基礎力があれば、実際はこの関節技と絞め技を知っているだけでそこそ
こやれる。だが、おそらく柳川が恐れているのは拓也が持っているかもしれない未知のも
のである。
 知らない技を、知らない入り方でかけてこられた時に完全に防ぐ自信は無いはず。
 かつて、完全に殺し合いの技術であった武術流派が、その技を絶対に流派外の人間に知
らしめようとしなかったのはそのためである。
 右のストレートから距離を詰めての左フックをなんとか防いだ後、すぐに前蹴りを鳩尾
に直撃された。
 また、ごっそりと思考力が飛び出ていった気がする。
 頭の中が真っ白、というのはこういう状態をいうのか。
 よろめきながら距離を取って……取って……その後どうする……。後? 後に何かある
のか?
 横から何か来るようだ。
 身を沈めたすぐ次の瞬間にその何かが頭上を駆け抜けていく。
 なんだ。あの人が打った右フックだったか、あれを貰っていたら危なかった。
 また何か来るぞ、腰を落として身を低くしたところへ前から、顔をすくい上げるような
攻撃が来るぞ。
 上半身を後方に逸らしてかわす。
 上手くかわせた。で、この後何を? ……そうか、反撃をしなければ。
 思った時には次の攻撃が来ていて、それをかわさねばならなかった。
 このままでは反撃ができない。
 そう思いながらもなんとか攻撃をかわす。
 ほとんど無意識の内にかわしていた。
 こういう攻撃が来るからこう避けよう、ではなく、こういう攻撃が来たからこう避けた
のか、と後で確認するのに近い。
 まるで、第三者のようだ。
 その第三者の目から見て、拓也は小気味よく柳川の攻撃をかわしていた。
 疲れた体でよくやる。
 あの鋭い攻撃をよく見切る。
 思考力の衰えを嘆く自分はもういなかった。
 ああ来る、こう避けよう、こう来た、こうかわそう、そんなことをあれこれ考えていた
のが馬鹿馬鹿しくなるほどに、無意識の内に体が動く。
 目で、相手を見る必要すらほとんど無かった。
「む……」
 攻撃疲れした柳川が訝しそうに拓也を見る。
 宙に舞っている綿を打っているようなもので手応えが無い。
 こいつ……月島拓也か!?

「変……ですよね?」
 浩之がぽつりと呟いた。
「目の前で人が死ぬかもしれないってのにぼさーっと見てるあんたの方が変よ」
 耕一に向けた言葉に勝手に反応した志保をじろりと睨んでやると、あかりが志保の口を
塞いで志保をなだめていた。
「変……だな」
 と、いった耕一が苦笑しているのは、志保の言葉を受けてのものだろう。浩之に向けら
れたものであり、志保にその意図は無かったが耕一のことを指しているともいえた。
「で……月島くんだが……おかしいな」
「そうですよね」
「あんたの方がよっぽ、むぐ」
「あ、続けて続けて」
 あかりがまた志保の口をふさいでいる。
「あの、あれですよね……立ってから何発か貰って……おれはそれで終わりかと思ったん
ですけど……」
「急に動きがよくなったな」
「ええ……普通、ダメージが蓄積していって鈍るはずなのに」
「……普通じゃないことが起こったかな」
「普通じゃないこと?」
「おれの推測だけど……ほら、苦しいのもある線を越えるとなんだか楽になるっていうの
あるだろ」
「はい、走っていると……一番辛いのは最初の方だけだったりとかはしますけど」
「何か一線を越えたのかもしれない」
「……一線を?」
「どうも、見てると、目で見てかわしているんじゃないよ、あれは」
「確かに……」
 それは、浩之も感じていた。
「もう、相手の全身を見てもいないようだ……」

 なんといえばいいんだろうな、これは。
 僕は、あなたの顔を見ているだけでいいんだ。その表情の変化でも楽しみながら、攻撃
が来たら避ければいい。
 攻撃は……そうだな、光だ。
 パッと何かが光るから、その光をかわせば、あなたの攻撃をかわしている。
 わざわざ確認するまでもない。本能が教えてくれる。
 何かを考える前に、あなたの攻撃を鮮やかにかわしているイメージが脳裏に点滅する。
そして、気付いた時にはその通りになっている。
 なんだ、これは。
 足取りもなんだか軽いぞ。
 イメージの通りに体が動くぞ。
 右ストレートを顔を横に傾けることでかわす。
 スレスレだ。小指が髪の毛に当たったぞ。
 今、殴ってやればいい感じでカウンターになっていたな。
 よし、次は行ってみるか。いい加減に避けているばかりも飽きてきたぞ。やっぱり、攻
撃をしなければな。
 回避と反撃を同時に行う。
 そう思え、後は勝手に体が動く。
 回避と反撃。
 その時、光った。
 右腕に震動。
 柳川が両膝を曲げながらもなんとか倒れまいと踏ん張っていた。
 やった。
 僕がやったんだ。
 右ストレートをギリギリでかわして右でカウンターだ。顎に入った。
 地を蹴って距離を取ったけど、さすがに足元がおぼつかないようだな。
 それに、僕はもうぴったりとあなたに吸い付くように後を追っているんですよ。
 ボディーに一発。
 顔面に一発。
 右足に一発。
 面白いぐらいによく入る。
 教えてくれるんですよ、光が。
 今、あなたのどこに隙があるかをね。全身を常に完全にガードできる人間なんていやし
ないんだ。
 顔面のガードを中心にし出しましたね、わかるわかる、わかるんですよ、手に取るよう
にね……。
 がちッ、と何か人体ではないものを叩いた感触が拓也の右拳に生まれる。
 おや?
 と、思うまでもなく、すぐにわかる。
 さっきまで柳川の顔にあった眼鏡が無い。
 この機を逃す手は無い。
 接近して右で顎を突き上げるアッパーが、我ながらうっとりするようなタイミングで入
った。
 唇が、笑みを形作る。
 今の攻撃、見えていない。
 その後に放った左フックも見えていない。
 やはり、それほど目は良くないようだ。
 目で見るからいけないんですよ、と教えてやりたかった。
 もっとも、できたらの話ですけどね。
 あなたは……何やら普通の人間とは違う……得体の知れぬ何かを持っているようだが、
こういうことはできますか?
 体が勝手に動くんですよ。
 今なら勝てる。
 あなたにも、柏木耕一にも、藤田浩之にも、緒方英二にも、誰にも負ける気がしない。
なにしろ、攻撃が全く当たらないんですよ。そんな相手に勝てますか?
 勝てないでしょう。
 光が教えてくれるんですよ。
 光より速いパンチが打てますか?
 正直、あなたには勝てないと思ったことがあった。とてもかなわないと思ったことがあ
った。
 でも、勝てるぞ。
 勝てる、僕は強いんだ。
 僕以外の誰にもこんなことはできないんじゃないか?
 そうだ。
 僕は、特別だ。

 柳川が反撃に転じたのを見ながら浩之は唸っていた。
 あれを紙一重でかわすか!?
 あそこでそう避けてそう反撃するか!?
 拓也の動き一つ一つが驚嘆に値した。
 柳川の反撃は悉く虚空に吸い込まれるように拓也の体からは外れていく。
「つ、強いですよ、あれは……」
 浩之がうめくようにいった。はっきりと口にはしていないが、自分が今の拓也と闘って
勝てる気が全くしない。柳川のあれほどの攻撃をああも容易くかわしているのだ。自分の
攻撃が当たるなどと考えられなかった。
 攻撃が当たらない奴になど勝てるはずがない。
 だが、それでも、これはそんなにあっさりと勝てぬことを認めたくないという意地のよ
うなもののせいでもあったが、何かが引っ掛かる。
 拓也の表情だ。
 闘いの最中にも、いや、それ以外にも変化に乏しいそれだが、今ははっきりとした形相
を作っている。
 よくいえば自信に満ちた表情。
 悪くいえば見下した表情だ。
 あの顔……一発でも入れてやったらどうなるんだ?
 すぐに亀裂が入って、崩れてしまうのではないか?
 視線を転じる。
 長瀬祐介と月島瑠璃子。あの二人にも意見を聞きたいところではあるが……。

 二人とも、拓也の変化には気付いていたが、それについて言葉を交わしたりはしなかっ
た。
 なんといっていいのか、祐介にはわからなかった。ただ、拓也のああいった表情にあま
りいい思いは無かった。
 自分以外の全てを見下した表情。
 危うい。
 拓也のその表情がその精神の脆さから来るものであることを祐介は知っている。瑠璃子
はそれをより知っているはず。
 拓也の精神がどこか別の所に行ってしまっているように思えた。
 月島拓也に見えるそれがそうではない別のものになってしまうような……。
 あの人は、ここに……僕たちのところに帰ってくるんだろうか。

 自分は特別な存在だったのだ。
 記憶が曖昧ではっきりしないのだが、この無意識の内に相手の攻撃を紙一重でかわして
しまうこれ以外にも自分はなんらかの他の人間には無い能力を持っていたことがあった。
 それは、誰も逆らえないような素晴らしい力だったとおぼろげに記憶しているが、しか
し、その時自分は月島拓也であった。
 今は月島拓也であることすら曖昧だ。
 こんなことが他の人間にできるか?
 いや、人間に可能か?
 可能だとしても、それは一握りだろう。
 その一握りの中に自分は入っている。
 凄まじい快感が全身を浸す。
 かつて感じたことのある快感だ。
 そうだ。僕は特別なんだ。
 柳川さん……目を細めて、一生懸命僕の攻撃を見切ろうとして、辛そうですねえ。
 でも、ただでさえ今の僕の攻撃は的確に素早くあなたの隙を衝いていくのに加えて眼鏡
が無いじゃないですか。
 無駄です。ほら、また当たった。
 それにしてもタフな人だ。
 やっぱり、この人も普通の人間じゃないな。
「ねえ」
 こっちには声をかける余裕すらある。
 あなたも特別なんでしょう? 僕みたいに。
 あなたも柳川裕也ではない、それ以上のものになれるんじゃないですか?
「柳川裕也ではないものになったらどうです?」
 そういっている間にも浅いけど、二発入った。
 あれ? その顔はなんですか? 僕がそんなにおかしいことをいいましたか?
「あなたも、なれるんでしょう?」
 あなたなら、なれるはずだと僕は思うんだけどな。
「なれないな……」
 そうですか?
「ならない」
「なれるのにならないんですか? 勿体無いなあ」
 っと、反撃してきましたね。でも、こうやって紙一重でかわして……ね、すごいでしょ
う。ミリ単位でかわすことができるんですよ。
 柳川さんも、そうなればいいのにな。
 右ストレートがけっこういい感じに入った。
 ちょっと前なら、やったと思っていたんだろうなあ。やった、この人にいいパンチを入
れてやったぞ、って。でも、なんだかもう、なんだかなあ……。当たるのが当たり前なん
だからなあ……。
 ……なんだろう。
 何かが足りないような気がしてきたぞ。
「後戻りできなくなるからな……」
 ん? それはどういうことですか? 柳川さん。
 僕がいうように柳川裕也以上のもの、柳川裕也とは別のものになったら後戻りができな
くなるってことですか?
 おかしなことをいう人だなあ。
 後戻りの必要が無いでしょうに。
 なんで、後戻りしなきゃならないんですか? せっかく前に、上に、行くことができた
のに。
 ああ、そうか。
 この人がそんなこといっているのが物足りないんだ。きっとそうだ。そうに違いない。
 なんだ……最後の最後でこの人とは"同志"ではなれなくなったか。
 僕が踏み込んだ領域にまで着いてこれない人だったのか。
 ……ガッカリだなあ。
 だったら、この人ですら僕には不要なのかなあ。
 今まで物凄く楽しませてもらって、充実感も与えてもらったけど、もう駄目か。
 寂しいけど、お別れですね。
 次にパンチを打ってきたらそれにカウンターを合わせて、そのまま一気に沈めて差し上
げますよ。
 右の方で何かが光った。
 左手でパンチを打ってくるんですね。それじゃ、そいつに合わせるとしましょう。
 柳川さん、名残惜しいですが……。
 ありがとうございました。楽しかったですよ。
 バチンと音が……。
「え?」
 後方によろめきながら拓也は顔に、ぎこちない笑みを浮かべていた。

                                                                   続く