鬼狼伝(91) 投稿者:vlad 投稿日:7月17日(月)00時32分
 いいものだ、と素直に思えた。
 青い空がだ。
 空の色などどうでもいいと思っていたのだが、空は青くなくてはいけないとまで思った。
 その時の空が今まで見たことのないほどに青かったからなのか。
 そのまま、背中を地につけて見ていたかった。
 今まで、野試合を何度か行ったことがある。
 多くの場合は、その日その場所でやることをあらかじめ決定していたようなものではな
い。
 最も極端な例としては、道を歩いていて見かけた自分とは全く関係の無い喧嘩に無理矢
理に介入していったこともある。
 倒されることなど滅多に無かったが、それでも中には骨のある奴もいて、背で地を打っ
たことはある。
 そういう時、地面を背中の触覚でただ感じているだけであった。
 そこに、背中の下に地面があるという認識を固めるための情報の一つであった。
 今は不思議と地面が暖かい。
 いや、暖かいというのは正確ではない。
 陽光の照った部分は暖かいが、それは腰から下の部分が接している所であり、頭部が触
れている所は、円形に設けられた芝生の真中に立っている木によって木陰になっており、
そこの地面は少しひんやりと冷たかった。
 暖かく、冷たかった。
 このまま、自分の体は地に帰っていってしまうのだろうか。
 月島拓也は、その時、確かに地面の温度を感じていた。
 身を起こして、地面に同化していくような快感から離れる。
 なぜ立つのか?
 立てるからだ。
「まだやるか」
 柳川裕也がいた。
「空がね……青いんですよ。すごく」
 そういいながらも、開いた口に上唇を滑って鼻血が流れ込んでくる。
「でもね……まだ……空を見ている気分になれない……」
 青い空はすごくいい。
 でも、この人のいる風景もすごくいいな。
 踏み出す。
 脚が、震えた。
 力が、思うように入らない。
 でも、前に出る。
 前に出ることができるからだ。
 柳川も前に出てくる。
 だが、その歩みに力は無い。
 無理をしている。
 拓也の場合はこれまでに蓄積したダメージがあるが、柳川のそれは拓也ほどではない。
だが、やはり極限まで首を絞められていたのが尾を引いている。深呼吸をしたところで、
少し会話する程度ならばともかく、身を削り合うような闘いを行うにはまだ回復が足りな
い。
 だが、それでも前に出てくる。
 前に出ることができるからだ。
 ならば、こちらも前に出る。
 出て行く。
 引かれ合うように出て行って、近付いていく。
 手を伸ばせば届く距離だ。
 つまり、パンチが当たるな。
「っぁ!」
 右腕を真っ直ぐに突き出してストレート。
 柳川が顔面を庇って上げた左腕に当たった。
 地に根を張った幹を叩いたような感触。
 それが心地よい。
 すぐに、入れ替わりに左。ワンツーだ。
 鼻の頭に軽く接触する。
 パンチが伸びていく最終地点を見切られた。
 その時、彼我の距離はほぼ拓也の腕のリーチの長さそのままであった。
 柳川の右足が空に斜線を引くように疾走し、その描かれた線の先に拓也の左脇腹があっ
た。
 左腕を戻すのは到底間に合わぬと見て拓也が左膝を上げてこれを防ぐ。
 続けて、柳川の左ストレート。
 かわしざま、拓也が柳川の左腕を掴むが、すぐに振りほどかれた。
 これまでずっと関節技、すなわち掴み技を主体にして闘ってきた拓也の握力が徐々に、
衰えてきているのだ。
 これでは、柳川の四肢を掴み取って色々といじくってやるには心許ない。
 と、柳川の右拳が拓也の顔を掠める。
 顔を横に傾けつつ前に出る、というきわどいかわし方であった。
 だが、そのおかげで瞬間、柳川の右腕を左肩に担ぐことができた。
「む!」
 伸び切った右腕を戻すよりも早く、拓也の腕が右肘を押した。
 外側を向いていた肘を両腕で引きつけるように内側へ押す。
 その際に首を横に倒して、柳川の手首を肩と頭の間に挟んでいる。
 右腕を折られまいとすれば、上半身を左前方に向けて倒すしかない。
 手首を返しながら引けば肘の向きが変わるのだが、手首は拓也の肩と頭部に挟まれて捕
らえられている。
 上半身を倒しながら、下方に何かの影を認めて柳川は左手を顔の前に掲げた。
 それに寸瞬だけ遅れて、拓也の右膝が跳ね上がってきた。ガードに使った左手をふっ飛
ばされて、左手の甲で自分の顔面を叩く羽目となった。
 柳川の左手と顔面が衝突した刹那と刹那の間を縫うように拓也の右足が素早く回って後
頭部を踵で刈るように柳川の後ろに回った。
 同時に、左足も地を蹴って跳躍している。
 このまま飛びついて、左足を右足に引っ掛けて、引きずり倒す。
 この腕を取った体勢からならば、腕ひしぎ逆十字固めにも三角絞めにも行ける。
 握力の弱まった今ならば、三角絞めが妥当か。スリーパーでの窒息から立ち直りつつあ
る柳川には特別効くだろう。
 よし、三角絞めだ。
 絞め落として、泡を吐かせて、白目を剥かせてやる。
 どんなだろうな。
 歓喜と期待が拓也を揺るがす。
 鬼が泡を吐いて、白目を剥いたらどんな顔になるんだろうな。
 いや、鬼は鬼だろう。
 泡を吐いても、白目を剥いても、きっとこの鬼のような人は素敵な顔に違いない。
 そう思ったらたまらない。
 早く、早く、早く。
 早く、泡を吐かせて、早く、白目を剥かせて、早く、見たいぞ。
 その時、ずるり、と抜けた。
 柳川の右腕が抜けていた。
「な!」
 左足で地を蹴った時に、その反動でどうしても頭部と左肩による右手首への挟み込みの
力が緩むことが一抹の不安ではあった。
 だが、一抹であった。
 しかし、そこを衝かれた。
 ほぼ完璧に近かったはずの攻めの僅かな綻びから抜けられた。
 柳川は右手首を右向きに返しながら腕を引いて拘束から逃れていた。
 勢い余った拓也の両腕は柳川の右肘の内側に挟まれるような格好になっている。
 それだけではなく、バランスを崩して、蹴上げた左足で拓也の首を刈っていくというわ
けにもいかなくなってしまった。
 柳川の右手がすぐ目の前に見える。
 戦慄が拓也の顔を撫でた。
 柳川の右手と自分の顔面の間に何も無い。
 戦慄を感じたその瞬間に拓也は顎を引いていた。
 右手で顔面を攻撃してくるとしても、その距離があまりに短いためにその攻撃の種類は
限られる。
 顔面を叩いて大ダメージを与えられるほどに打撃に威力を持たせることのできる距離で
はない。
 だとすれば、狙いは急所以外に無い。
 目、喉、念のために人中、眉間も警戒した方がいい。
 瞬時にその判断へと至って拓也は顎を引いた。
 顎を引くことによって喉が守れるし、顔が斜めになることによって眉間、人中への打撃
は滑ってしまって十二分の効果が発揮できない。
 注意すべきは目――。
 だが、衝撃は喉に来た。
 下げた顎が胸と合わさって喉を隠す寸前、何か棒状のものが捻りを加えながら食い込ん
できたのである。
「げう!」
 喉から声、というよりは音を漏らしながら、拓也はそれが柳川の親指によってもたらさ
れたものであることを悟っていた。
 息が、吸い込めない。
 左足を着地させる。
 極めた腕を外された今、柳川の動きをコントロールすることができない。
 退く……にしても、先程自分で引っ掛けた右足が今は柳川によって肩に担がれて左手で
押さえつけられている。
 どうやって退こうにも、どうしてもそのために一つ二つ、余計な動きが増え、それが隙
になってそこを衝かれる。
 ならば、攻めよう。
 もう、勝ちとか負けとかを通り越していこう。
 勝ちたい。
 負けたくない。
 それは確かだが、それはこの瞬間にはどうでもいい。
 強烈な攻撃を叩き付けることのみ考えろ。
 そう考えれば簡単だ。
 柳川の右腕を左手で掴んでその動きを制しつつ右手が柳川の頭髪を掴む。
 そして、飛ぶ。
 狙いは顔面。
 左の膝蹴りで叩く。
 膝を蹴上げた瞬間に拓也がそれに気付いた。
 そうか、こうしてこうやって、左膝で顔を――。
 考える前に動いた。
 動いた後に考えた。
 思考の速度を本能のそれが上回った。
「!」
 柳川の両目に初めてそれとはっきりわかるほどの動揺が浮き上がった。
 その両目の間に擦るように拓也の左膝が当たる。が、拓也の口から漏れたのは舌打ちで
あった。
 髪を掴んで顔を下に向けさせて、顔面のど真ん中を狙ったはずだ。
 柳川が強引に頭髪を引き千切られることなど頓着せずに顔を上げたために、額の上を滑
るようになってしまったのだ。
 未だ、右足は捕らえられている。今の膝蹴りでそれほどのダメージを与えられなかった
となると、次は自分が守勢に回らされる番だろう。
 柳川が、左肩に担いでいた拓也の右足を自らの左手で頭上に持ち上げた。
 当然、姿勢が崩れる。しかも、それは拓也が左足を地面に着けようとしていた寸前であ
った。
 それだけでも倒れそうだったところへ、柳川が右足を疾走させて刈ってきた。
 後ろ向きに倒れながら、拓也の右足は自由になっていた。
 柳川が投げ捨てるように離したのだ。
 瞬間、拓也は宙に浮いた。
 受け身を取って地に接触した時には上から降ってきた右足をかわすために転がらねばな
らなかった。
 転がって体勢を立て直して、柳川の足を手で刈っていこうとしたが、予定の位置に足が
無い。既に半身をずらしていたのだ。
 視界が真っ暗になるような一撃。
 横から、顔に突き上げるような一撃だ。
 柳川の右足が下を向いていた拓也の顔をしたたかに叩いたのだ。
 拓也が引っ繰り返って腹を見せる。
 すぐに起き上がったものの、また右の蹴り。ガードした腕などおかまいなしに痛烈なの
が来た。
 転がる。
 起き上がる。
 蹴られる。
 その一連の運動を五回は続けたであろうか。
 月島拓也は、遂にその場に両膝と両手と額を着いて動かなくなった。
 奇しくも、平伏している格好に似ていた。
 柳川が、呼吸を整える。
 深呼吸をしながら去っていく。
 その先には御堂静香がいた。
 拓也の顔が上がった。
「ま……」
 誰にも聞こえぬようなささやかな声であった。
「待て……」
 右手が上がった。
「行……くな……」
 行ってくれるな。
 頼むから、行ってくれるな。
 その女性があなたにとって大事な人だというのはわかった。
 自分にも瑠璃子という大事な人がいる。
 だから、気持ちはわかる。
 過酷で酷烈な心身の競い合いに疲れた今、そこに行きたいのはわかる。
 よく、わかる。
 だけど、待ってくれ。
 まだだ。
 すぐに立つから、すぐに立ってみせるから、すぐに立って闘ってやるから、待ってくれ。
 闘えるから、待ってくれ。
 まだやれるから、待ってくれ。
 まだ、帰らないでくれ。
 僕も、瑠璃子のところにはまだ帰らない。
 だから、あなたも帰らないで欲しい。
 もう、勝つとか負けるとかはいい。
 後一度でいいからあなたを殴ってやりたい。
 後一度でいいからあなたに殴られたい。
 どっちでもいいんだ。
 でも、どっちかじゃないと嫌なんだ。
 このまま倒れて、おしまいなんて駄目なんだ。
 立つから、待ってくれ。
 いや、立ち上がったら、きっと振り返ってくれるはずだ。
 そうでしょ――柳川さん。
「ぬああああ!」
 拓也は立った。
 そして、倒れた。
 後ろ向きに、背中で地を打った。
 地面の温度が包み込む。
 でも、まだだ。
 一度振り返ったあの人が、また背を向けて行ってしまう。
 今のは、今のは違うんだ。立ち上がるのに勢いがありすぎて後ろに倒れてしまったんだ。
 だから、待ってくれ。
「まだだ!」
 上げられる限りの大声で叫ぶ。
「まだやれるんだ!」

 拓也が起き上がり、そしてすぐにまた倒れた時、浩之は耕一の顔を見た。耕一も、浩之
を見返している。
 止めるべきか?
 二人は無言で意志を交わす。
 ここが、限界なのではないか。二人の位置から見えただけでも、拓也は側頭部と顎に思
い切り蹴りを喰らっている。
 その時、拓也が叫んだ。
 まだやれる、と。
「あ、英二さん」
 浩之がそういってから、耕一を改めて見る。
「英二さん、止めるつもりなのかな……」

 立てるぞ、立てる。
 顎を引いて頭を起こして、掌を地面に着いて上半身を押し上げる。
 ん……誰か側に立っているぞ。
 僕の無様さに我慢ならなくてあの人が止めを刺しにきたのか。
 それでも僕は全然かまわないぞ。
 蹴りでもなんでも落としてこい。
「立てるか、月島くん」
 立てるに決まっているじゃないか。
「立つ気か」
 当たり前だろう。
 しかし……この声、あの人じゃないな。
 誰だ。
「なぜ立つ」
 そういった緒方英二と拓也の視線が真っ向から合った。
「まだやれるからだ」
 震える両手が、地面と背中の距離を広げていく。
「まだやりたいからだ」
 膝を立てて、着く。
「充分だ」
 声に、満足そうな響きがあった。
「その二つがあるのならば、立って闘いたまえ」
 いわれずとも……立った!
「おおう!」
 叫んだ。
 自分がまだやれるということを知らせるためにだ。
 既に二人の間の距離は開いていたが、柳川裕也は振り向いた。
「ちょっと、もう止めなさいよ!」
 英二の肩越しに拓也に浴びせられた声は、その耳に届いてはいたが、もはや拓也に認識
されてはいなかった。
「理奈、いいんだ」
 英二が、理奈を制する。
「だって、あんな、フラフラして……もう足に来てるじゃない」
「まだやれるから立った」
 理奈が訝しげな目で英二を見る。
 拓也の背中を見る英二の表情になんともいえぬ……喜びとも苦しみともいえるような、
その二つの混合物を感じたからだ。
「まだやれると口ではいえても、実際に立ち上がり、強敵に向かっていくのは難しい」
 英二は拓也の背中を真っ直ぐに見ている。
「でも、なんのためにそこまでするのよ。あんなに蹴られたっていうのに……」
「後悔しないため――」
 英二の答えに淀みも躊躇いも無かった。

                                     続く

     どうも、vladです。
     91回目となりました。
     まあ、流されるだけ。