鬼狼伝(90) 投稿者:vlad 投稿日:7月10日(月)00時40分
 なんだ!?
 疑問が激しく浩之を刺した。
 背後から背中に飛び乗られて両足を胴に回され、スリーパーホールドで頚動脈を絞めら
れながら柳川裕也が歩き出した。
 何をする気か?
 疑問は結局のところそれであった。
 その行動が、スリーパーを外すための行動なのか、それとも頚動脈を圧迫されることに
よってもたらされた酸素不足のせいで思考が朦朧としているのか。
 柳川の歩いていく方に、ベンチがある。
 浩之たちがここにやってきた時に拓也が腰を下ろしていた血に濡れたそれとは別のやつ
だ。
 あれを利用してスリーパーを外そうとしているのだろうか?
 十分ありえることであった。背後に回ってスリーパーを極められているのは、試合場で
の闘いではほぼ「決まり」といっていい形だ。独力で外すのはほぼ不可能に近い。
 拳で相手の腕を殴る。
 肘で相手の足を叩く。
 それで相手が技を解いてくれればいいが、相手とて必死であろう。この場合の月島拓也
は間違いなく必死であった。全身全霊を傾ける、といっても過言ではない形相であった。
 それに頚動脈を絞められながらでは思ったように力が入らない。
 その場合に、ベンチでもなんでも地面よりも突起した物体を利用して、相手の後頭部が
それに当たるように後ろに倒れる、というのは有効であった。
 それを狙っているのか?
 そうであろう、と思いつつ、浩之に違和感がある。
 柳川がそのベンチの存在を気に止めている様子が無いのだ。
 拓也に悟られまいと振舞っているのか。
「耕一さん……」
 横にいる耕一の名を呼ぶ。
「なんだろうな……」
 耕一にも、柳川の意図がよくわからない。
 やはり、意識が朦朧として、わけもわからずに歩いているのだろうか。
 だが、首を絞められながら、その歩みにはなぜか力があった。
 行く先のわからぬ人間のそれには見えない。
「どこに……行こうとしているんだろう……」

 決まった。
 完全に入った。
 両腕が確かに首に食い込んでいる。
 落ちるのは時間の問題だ。
 勝てる。
 この人に勝てる。
「は、は、はぁ、はは」
 月島拓也の顔がぐにゃりと、笑み崩れていた。

「お嬢様方、お下がり下さい」
 長瀬源四郎が芹香を促す。ちらりと綾香を見るが、見ただけであった。綾香は芹香とは
違ってその辺りの判断を素早く行い、自分で危険の回避ができる。
 源四郎がいうのよりも早く、綾香は松葉杖を器用に使って向かってくる二人の男から距
離を取っている。
「静香さん、下がった方が……」
 少しも動かない御堂静香にいった。
「あ、でも……」
「危ないですよ」
「でも……柳川さんが……」
 綾香にそういった時、既に柳川裕也は彼女の前にいた。
 苦しそうな顔であった。
 いや、そういう段階を通り越えて、死の寸前にいるような顔をしていた。
「あの……柳川さん」
 その間にも柳川の脳からは細胞が少しずつだが死に至っている。
 視界は、既に真っ白い濃霧に覆われている。
「えっと……なんでこんなところで喧嘩しているのかはよくわかりませんが……ギブアッ
プした方がいいと思いますよ」
 よくよく考えてみれば、この闘いを前にしてこれほど滑稽な発言は今まで無かった。
「だ……れ……だ……」
 柳川の口から辛うじて途切れ途切れの声が漏れる。
 静香はそういう経験がかつて何度かあるだけに、今の柳川が目の前にいる人間が誰だか
わからないほどに酸素が欠乏しているのだということがわかった。
「あの、御堂静香です」
「み……ど……ぅ……」
 ちゃんとした声が出ないのがもどかしかった。
 みどう、といったら御堂か。
 御堂、といったら御堂さんの関係者か。
 御堂さんは、おれが下についたころには既に奥さんを亡くされていて……。
 ……娘がいるといっていたな。
 通夜に行って、葬式に行って、そこで見た。
 通夜でも葬式でも、少し話した。でも、あまりこちらのいっていることがよくわかって
いなかったようだった。
 まともに話せたのは葬式の後だ。
 今、目の前にいるのがそれか。
「しぃ……しぃ……」
 それは声ともいえぬ、声帯が微かに震えて発する音であった。
 だが、それが自分の名を呼ぼうとしているのであろうということを静香は悟っていた。
「はい、静香です。御堂静香です」
 そうだ。御堂静香だ。
 御堂さんの娘だ。
 おれに色々なものをくれた奴だ。
 おれが色々なものを上げなければいけない奴だ。
「あの、柳川さん。理由はわからないんですが、このままだと……落ちるだけじゃなくて
死んでしまいます」
 なんだ。その声は。
 怯えているのか?
 何に怯えているんだ?
 何に怯えているのかは知らんが、怯えるな。
 おれが目の前にいるんだぞ。
 安心しろ。
 おれがいるから……。
「あ……ん……」
 安心しろ。
 そういってやりたいのに、声が出ない。
 ……首を絞められているからだ。
 月島拓也。
 お前か。
 背後から裸絞めか。
 これを外さねば。
 安心させてやるどころじゃないな。
 なんとか……手を入れて防げないか。
 右手でこいつの右腕を掴んでその手を滑り込ませるように自分の首とこいつの腕の間に
入れれば……。
 隙間が……全く無いな。
 爪を立てて強引に、肉の壁などおかまいなしに……。

「っぅ!」
 微かに拓也の口から漏れていた。
 その声は小さく細く、離れたところにいた浩之や耕一の耳に届くものではなかったが、
少々砂埃に汚れたとはいえ、まだ白さを残していた柳川のYシャツに染みていく鮮やかな
赤は嫌でも目に入った。
 拓也の右腕から出血しているのだと、見ている人間たちが理解した時には柳川の右手が
首と腕の間に滑り込んでいた。
 柳川が爪を立て、指を肉にえぐり込ませてきたのだ。
 拓也の右腕の肉が削り取られて四本の溝ができていた。
 柳川の喉がか細い音を出す。僅かに、糸のような細さでだが、酸素を吸い込むことに成
功したのだ。
 拓也の歯がギリギリと鳴る。
 離すものか。
 最大のチャンスが今、両腕の中にある。これを離してなるものか。
 肉など全部持っていけ。
 骨だけになってしまった方がかえってより細く固くなって首に食い込むというものだ。
 腰を横に振って重心を移動させて、倒そうと目論む。
 柳川が後ろによろめきつつも、体を反転させる。後ろ向きに倒れるよりも、前向きに倒
れるのを堪える方が易い。
 だが、それと同時におそらく拓也は体重をかける方向を変えてくるだろう、と柳川は踏
んでいた。だが、それが無かった。
 後ろに体重をかけてこない。
 つまり……。
 後ろに何かがあるのか。
 後ろに倒れたらやばい、と思う何かがあるのか。
 ならば、倒れてやる。
 人一人を背負ってどこまで飛べるかわからないが、飛んでやる。
 柳川の両足が僅かとはいえ地を離れた。
 スリーパーの拘束力が緩む。
 思ったとおり、何かがある。拓也の左腕がどこかへ――おそらくは自分の後頭部を守り
に行っている。
 衝撃が来た。
 何も無い地面に倒れることを想定するよりも遥かに早いタイミングでそれは来た。
 やはり、何かがあったのだ。
 狙っていたその衝突の瞬間、狙い通りに拓也の右腕が緩む。衝撃による震動もあったし、
何より、左腕がどこかへ行ってしまっているためだ。
 柳川が両手で拓也の右腕を首から外す。
 ここで思い切り大きく息を吸い込みたいところだが、今もバックを取られている状況に
は変わりがない。まずは体の方向を変えねば。
 拓也の両足がそれほどの締め付けを持っておらぬとはいえ胴に巻き付いたままなので、
距離を取るのは難しいが、とりあえず方向を変えねばならない。
 まずは前に身を起こす。
 カッ――と音が鳴った。
 それが歯と歯が合わさって生じた音であることを柳川は瞬時に理解した。
 耳にすぐ近いところでその音は鳴った。
 背筋に悪寒が走る。
 大きく息を吸ってから、などという悠長なことをしていたら頚動脈ごと首の肉を噛み千
切られていたかもしれない。
 だが、その悪寒に身を凍らせることなく、柳川は即座に左肘を拓也の左足に落とした。
 瞬間、拓也の両足でできた輪の中で回転する。
 二人の顔が向き合った。
 体勢としては拓也の両足が柳川の胴に回っているためにいわゆるガード・ポジションで
あるが、通常試合などで見られるそれと大きく異なる点は、柳川が足の裏を地面につけて
立ち、そして拓也の腰がベンチの上に乗っているところであったろう。
 拓也の後頭部が背もたれのすぐ上にある。だが、後頭部にダメージを負った様子が無い
ところから見て、なんとか左腕で頭部をガードしたのだろう。
「けあっ!」
 すぐに拓也の両足が踊るように動いた。蹴りで柳川を遠ざけようとする。
 右足の蹴りをかわし、次いで突き出されてきた左のそれを柳川は前に出て受けた。
 膝が伸びる前に、顎で受けた。
 完全に威力は殺されていた。
 柳川が、笑った。
 靴底を顎に押し付けられながらだった。
「!……」
 拓也の顔に、浮き出た。
 恐怖だ。
 これまでに無くはっきりと浮き出ていた。
 ――鬼。
 右の拳が、鼻を真正面から叩いてきた。
 意識が飛びかかる。
 それをなんとか取り戻した時、見えたのは靴の裏であった。
 溝の形までよく見えた。
 頭部がさらわれるような衝撃がぶち当たってきた。
 両肩より下を残して首が千切れそうな錯覚。
 拓也は後方にふっ飛ばされていた。
 ベンチごと倒されていた。
 そして、見えたのは抜けるように青い空だった。

「おい」
 柳川が静香の前にやってきていた。
「おい」
 もう一度、いってから何度も大きく深呼吸をする。
「安心しろ」
 辛うじて、それだけをいっていた。
「安心するんだ」
「はい」
「安心したか」
 そういった柳川が一番安心しているように見えた。
「は……」
 答えようとして、言葉が詰まった。
 柳川はすぐにその動揺を悟った。
 なんだ。その不安そうな顔は。
 だが、それをいう前に、自分の肩の上を通っている静香の視線の先に立っている気配を
柳川は感じていた。
「まだやるか」
 月島拓也が、そこに立っていた。
「空がね……青いんですよ。すごく」
 夥しい量の鼻血を流しながら、拓也がいった。
 不思議と、穏やかな表情だった。
「でもね……まだ……空を見ている気分になれない……」
 そういって踏み出した拓也の脚が震えていた。
 それに応じた柳川が前に出る。
 その歩みに力は無かった。
 限界。
 既にそれは近かった。

                                     続く

     どうも、vladっす。
     90回目となりました。
     終わったらどんな気持ちになるんだろう、とかふと思いました。