鬼狼伝(89) 投稿者:vlad 投稿日:7月3日(月)00時51分
 数えてはいないが、それで二十回目を越えているのは確かであった。
 自分の左拳が、月島拓也の右足を叩いた数がだ。
 いよいよ、絞め付けの力が弱まってきている。
 立て続けに同じ箇所を強烈に叩くことによって血行に支障が生じて痺れが走っているは
ずだ。
 もう少しだ。
 もう少し緩んだら隙間ができる。そこに左手を割り込ませて肘関節の屈伸を利用してテ
コの原理を使えば右足を外せる。
 だが、柳川の右腕も既に伸び切っている。
 ギリギリのところで耐えている状態だ。
 並外れた精神力が無ければできない。
 それが無ければいかに頭では、右腕を極められないようにしつつ、左手を使って技を外
しに行かねばならぬと思っていても、どうしてもどちらかに傾き、結局極められてしまう
だろう。
 柳川の左手が拓也の右足と自らの胸部の間に割り込んだのと、柳川の右腕がみちりと鳴
いたのはほぼ同時。おそらく、コンマ1秒の差も無かっただろう。
 靭帯の筋が伸ばされた。
 だが、拓也の右足は外れている。
 拓也が動いた。
 一瞬だけ遅れて柳川が動いた。
 あのまま極めにいけないこともなかったが、左手で睾丸を握られるのを恐れたのである。
 右手で柳川の右足を払う、というよりは叩いていった。
 左膝を着いた状態で右足を後ろから払えば体勢が崩れる。
 柳川の体が右斜め後方に向けて崩れた。
 と、見るや、否、見るまでもなく、拓也が左足で頭をまたぐようにして柳川の背後を取
りに行く。
 拓也が左肘を振った。
 後頭部に打撃を加えてから、スリーパーホールドで絞め落とす気だ。
 だが、そのために柳川への拘束に使えるのが右手だけになっていた。
「ぬっ!」
 柳川が強引に振り向く。
 血がしぶいた。
 赤い霧のようだった。
 柳川の眼鏡のグラスに、細かい粉のような赤い点が貼り付いた。
 拓也の左肘が柳川の額を切り裂いたのだ。
「っ!」
 二人の声ともいえぬ声が重なっていた。
 肘打ちや小刻みなパンチを打ち合いながら目まぐるしく体勢が変わっていく。
 腕を取られる。
 手首を返して拘束を弾くと同時に今度はこちらが腕を取りに行く。
 もう一方の手で殴ってくる。
 軽いパンチと見て歯を食いしばって受ける。
 肘が閃く。
 防いで、お返し。
 一瞬だけ、互いの視線が真っ向から合う。
 一瞬だけで、すぐに離れる。
 なんだ。その目は。
 問い掛けてやりたかった。
 月島拓也よ……お前は今、どこにいるのだ?
 体はここにいる。だが、精神はどこが別のところで、この闘いを闘っているのではない
のか?
 よし、上を取ったぞ。
 何も上を取るのが絶対的に有利ってわけじゃないが、上を取った。
 やったぞ。
 上から拳を打ち下ろして――くっ、なかなか粘るな。下手をしたら掴まれて関節を極め
られそうだ。
 崩れないな。本当によく粘る。
 さっき肘が軽くだが、いいタイミングで鼻柱に入ったから鼻血を流しているな。
 おれの鼻にまで血の臭いが……。
 いや、これは違うな。
 こいつのところから漂っておれの鼻に達しているのではないな、これは。
 そうか、おれの額の傷から流れ出たものが鼻梁を伝わってきているのか。
 ぽつん、とこいつが履いている白い道着のズボンに赤い点ができる。
 そうか、よし。
 攻めあぐねていたところだ。やってみるか。
 柳川がやや強引に体勢を変えて行く。
 その度に、赤い滴が落ちた。
 ぽつん。
 ぽつん。
 ぽつん。
 と。
 拓也の腹に落ち、拓也の胸に落ち、拓也の唇に落ちた。
 その血を舐め取りながら拓也が気付く。
 気付いた時には彼の左眼に向けて赤い塊が落下してきていた。
 命中。
「くうぅぅぅ!」
 息を吸ったら喉からそんな声が出ていた。
 柳川が左腕を上に引く。
 拓也が咄嗟に右手を突き上げてそれを制止した。
 左のテンプルに痛撃。
 半分になった拓也の視界の外からそれはやってきた。
 正体はわかっている。
 いうまでもない、柳川の右腕だ。
 拳を握って肘をほとんど曲げずに伸ばしたまま弧を描いて人差し指と中指をテンプル
に当ててきた。
 距離を取らねば。
 本能的に感じて拓也は足で柳川の体を押し退けた。
 距離を取って、一瞬にして起き上がる。
 頭の向きと体の向きを同時に逆転させて這うような体勢になる。
 右半分しかない視界では柳川は特に何もしていない。が、その右半身が見えにくい位置
になっている。
 と、いうことは、そっちで何かをやってくるということだ。
 拓也が左手を上げて頭部を庇った瞬間、何かが――おそらくは右のローキック――がそ
のガードの上から拓也を弾き飛ばしていた。
 地を這いながら距離を取っていく。
 指で目を拭っているゆとりは無い。腕は常に頭部をガードしているか地に着けてバラン
スを取らねばならない。
 そうでないと、この低い体勢が維持できない。体勢を高くすれば体のどの部分を攻撃さ
れるかがわからずに左からの攻撃に対応できないかもしれない。今の体勢ならば距離を取
っている限りは柳川の攻撃はほぼローキック一本に絞れるので対処しやすい。
 それよりも、涙だ。
 涙で目に入った血を洗い流せばいい。
 さあ、泣け。
 思いながら一抹の違和感がある。
 泣いてはいけない。
 かつて、何度もそう思ったことが思い出される。
 それが、今は泣こうとしていることに軽い皮肉を感じる。
 で……なんで泣いてはいけなかったのだろうか。
 自分のためではなかったような気がする。
 自分以外の誰か――。
 それが誰だったか、思い出せそうで思い出せない。
 とにかく、涙だ。
 泣こう。
 つうっ――と。
 拓也の左眼から薄い、赤い色をした涙が流れた。
 身を起こす。
 右のミドルキック。
 見える。
 身を引いてかわす。今のでタイミングを覚えたぞ。次にまた同じようなタイミングで打
ってきたら懐に飛び込んで倒してやる。
 次の攻撃も後退してかわす。
 その次も後退。
 後退して……背後に気配を感じて、その時にその声は聞こえた。
「瑠璃子さん、危ないから下がって!」
 その声を認識した瞬間に拓也の周囲に柳川以外のものが多彩な色を持って浮かび上がっ
た。
 瑠璃子。
 そうだ。瑠璃子だ。
 僕が泣いてはいけなかったわけは瑠璃子だ。
 僕の妹だ。
 そして、今の声はいつのまにか瑠璃子の自称恋人になっていた長瀬祐介だ。危ないから
下がれ……ということは下がらないと危ないということだな。
 柳川が距離を詰めてくる。
 目を逸らすわけにはいかない。
 逸らしてはいけない。
 癪である。
 非常に、癪であるが……
「長瀬くん!」
 柳川から視線を外さぬまま拓也は叫んでいた。
 瑠璃子に何かあったら骨の一本や二本は覚悟しておきたまえ、というメッセージを込め
た叫びだった。
 その拓也の思いはほぼ正確に祐介に伝わっていた。
 瑠璃子さんに何かあったら全身の関節をやられる、と思った長瀬祐介は瑠璃子の手を引
いた。
「瑠璃子さん、おれの後ろに」
 二人から距離を取りつつ、瑠璃子に自分の後ろに身を隠すように促す。
「おれたちもちびっと下がるぞ」
 祐介たちと近いところにいた浩之が呟いて後退した。あの二人を邪魔したくはなかった
し、なによりあかりである。
「お前はもっと離れてろ、間違いなくお前が一番巻き添え喰らいそうだ」
 浩之は自分よりもさらに3メートルほど後ろにあかりを移動させた。
 あかりを下がらせて視線を闘いに戻した浩之が思わずうめく。
 柳川の右のミドルキックに対して拓也が絶妙としかいいようのないタイミングで突っ込
んでいった。
 左腕で頭部をガードしつつ、素早く踏み込んで足刀の直撃を回避して膝を脇腹で受ける。
組み付いて軸足を刈ろうとしたのを読んだ柳川が左肘で牽制した。拓也はその肘で頭を密
着させていくコースを潰され、仕方なく組み合った状態で機をうかがった。
 右手で襟を掴んだまま左手でパンチを打とうとした柳川に対して拓也は後方に身を浮か
せる。
 柳川の右袖を両手で掴んで後方に体重をかけて引き込む引き込みつつ、左足で柳川の右
膝に正面から関節蹴りを叩き込む。
 柳川は膝を曲げることで、その威力を殺した。
 だが、それで体勢が低くなったと見るや、拓也が体を反転させて着地、そして着地とほ
ぼ同時に柳川の右袖を掴んだ左手はそのままに、右腕を曲げてそれを下から柳川の右腕に
添えた。
 背負い投げ、だが、普通の柔道の試合では使われない形で、御丁寧に柳川の右腕を返し
て無理に堪えれば右腕が折れるようになっている。
 柳川は逆らわずに飛んだ。
 投げられた、というより、むしろ飛んだ。
 空中で腰を捻って着地する。
 右腕を引いて拘束を切る。
 拓也の左フックが柳川の頬を叩いた。
 袖を掴まれているのを切るために強く引いた右腕が勢い余って後ろに泳いでしまった際
の隙を衝かれた。
 数歩後退して右のストレート。
 左の前蹴りを突き出して防がれた。しかも水月に入ったので軽い攻撃だったとはいえ、
柳川の喉を、瞬間、嘔吐感がこみ上がる。
 どうした。攻撃が読まれているぞ。読まれてかわされるならいいが、読まれた上で反撃
されているということは、余裕を持たれているということだ。
 原因はわかっている。苛立っているせいだ。
 少し攻撃が大振りになっている。
 なぜ、苛立っているか、それもなんとなくわかっている。
 ふと、気付いてしまったからだ。
 ここにいる男たちが、自分には無いものを持っているということを。
 月島拓也には瑠璃子という妹がいる。
 緒方英二には理奈という妹がいる。
 藤田浩之にはどうやら恋人らしいあかりという名の少女がいる。
 柏木耕一には四人の従姉妹がいる。
 自分には阿部貴之がいた。
 自分だけ過去形だ。
 そういえば、自分が警官になって初めて持った上司に御堂巡査長というのもいた。
 これも過去形だ。
 二人とも死んでしまった。
 二人とも、おれがやるべきことをしっかりとやっていれば死ななくて済んだ人間だ。
 新米の現場のことが何もわからない自分が足を引っ張らなければあの人は殉職したりは
してなかっただろうし、自分が、あんなことになる前に貴之の同居人にしっかりと対処し
ていれば、彼は死んだりはしなかった。
 自分がしたことは何か――。
 御堂巡査長を撃った男を御堂巡査長が死んだ後に半殺しにしただけだ。
 貴之を廃人同然にしてしまった男を貴之がもう戻らなくなってから殺しただけだ。
 そんなものだ。自分がしたことは。
 どいつもこいつも――。
 月島拓也。
 ごめん、瑠璃子……。
 どいつもこいつも――。
 緒方英二。
 妹に心配はかけられないさ。
 どいつもこいつも――。
 藤田浩之。
 お前はもっと離れてろ。
 どいつもこいつも――。
 柏木耕一。
 おれが守りたいからな……四人とも……おれの家族だから。
 どいつもこいつも――。
 どいつもこいつも――。
 どいつもこいつも――。
 どいつもこいつも――。

 守るものがありやがる。

 大振りの左ストレート。
 拓也はそれが放たれる前にその軌道を読んでいた。
 読んでくれといわんばかりに大振りだ。
 隙を作ってやるからそこを衝いてこいといわんばかりに大振りだ。
 それを僅かに怪訝に思いつつも拓也を本能が突き動かした。
「乱れた!」
 思わず、浩之の口から声が漏れていた。
 驚愕を成分に多量に含んだその声を聞くまでもなく、耕一の心中にも全く同じ思いがあ
った。
 あんな見え見えの大振りな攻撃を柳川が繰り出したのは初めてだ。
 それを浩之は「乱れた」と表現した。
 その乱れによって生じた隙間に、拓也が軟体動物のように入り込んでいた。
 左腕を掻い潜りながら横に回る。
 大振りな攻撃が外れたために、それに引っ張られるように柳川の体が横を向く。
 拓也の目の前に柳川の背中があった。
 しまった――。
 思う間もほとんど与えられぬまま、柳川の背中に何かが覆い被さってきていた。
 拓也が飛び乗ったのだ。
 両足を胴に回す。
 両腕が首に食い込む。
 スリーパーホールド。
 拓也の両手両足に力が篭もる。拓也とて疲労している。
 おそらく、最後にして最大のチャンス。

「えぁ!」
 そんな、声というよりも音が柳川の口から漏れていた。
 酸素が脳に行かない。
 警察での柔道でやられたことがあるのでよくわかる。
 白い霧が視界を覆っていく。
 その向こうに――人影があった。
 見覚えがある。いや、それどころかさっきまで一緒にいたような気がする。
 自分は何か重大なことを忘れていたのではないか。
 どいつもこいつもが持っているもの。
 おれにも……こんなおれにもまだそういうものがあったんじゃないのか。
 誰だ。
 顔を見ればすぐに思い出す。
 思い出して、それが自分が忘れていた人間だったら、おれが守ってやる。
 視界が白い。
 この距離じゃよく見えない。
「だ……れ……だ」
 顔を、見たい。
 スリーパーホールドで頚動脈を絞められながら、柳川裕也はゆっくりと前に向かって歩
き出した。

                                     続く

     どうも、vladです。
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     次回で動きます。