鬼狼伝(88) 投稿者:vlad 投稿日:6月25日(日)23時37分
 地面が迫ってくる。
 スローモーションのようにゆっくりと迫ってくるように拓也には思えた。
 小石が幾つ、どういう形であるのかすらわかる。
 一つ……二つ……三つ。
 無意識の内に小石を数えていた。
 無意識の内に体を捻っていた。
 このままだと頭を打つ、と思った時……いや、思うまでもない。感じた瞬間に体が動
いていた。
 頭は痛打を免れたが、右肩に衝撃が走る。だが、覚悟の上だ。
 肩が地に激しく接触しても拓也の両手両足は柳川の右腕を捕らえたままだった。
 体を捻るために右腕が外れたが、すぐにまた元の位置に戻る。
 肩が地を叩いた次の瞬間、拓也が動いていた。
 拓也を叩き付けるために柳川は中腰になっており、拓也が右腕にしぶとく食いついて
いる以上、もう一度持ち上げるには踏ん張る必要がある。
 だが、拓也がそれをさせじと体を振って柳川を倒そうとしていく。むろんのこと、柳
川が油断をすれば、このぶら下がったままの形でも腕ひしぎを極めて右腕をへし折るつ
もりだ。
 頭を地につけて、首の力で体を捻るように振った。
 柳川の左足が浮いて宙を踏む。
 右足を軸に回転することでなんとか体勢を立て直そうとするが体が僅かにだが後方に
傾いている。
 このまま行けば、例え左足を地面につけたところで、その時点では体勢が大きく傾き、
仰向けに倒れてしまうだろう。
 そして、倒れた時には腕ひしぎ逆十字がためが極まっているはず。
「おう」
 拓也の顔に笑みが浮く。
 靭帯を伸ばし、引き千切る快感は誰のそれをやっても得られるが、このような強敵の
それをようやく断てる時の喜びは尋常ではなかった。
 それは、初めての経験だった。
 初めての快感が拓也を揺さぶった。
 あの、藤田浩之の腕を折った時をも上回る快感が来る。いや、正確にはその予感が来
る。
 だが、それは予感だが、予感の時点で既に、自分に絡んできた素人の不良学生の腕を
折った時の快感があった。
 関節技なんて喧嘩じゃ使えない。足関節なんて片方を極めている内にもう片方の足に
蹴られておしまいだ、と高説をぶっていた自称ストリートファイターのアキレス腱をぶ
ちぶちといわせた時の快感に匹敵するものがあった。
 たまらない。
 その時点で拓也はたまらないのだ。
 予感でこれだ。
 "本番"が来た時、一体自分はどうなってしまうのだ。
 予感に心震わせながらも、正確に無駄な動きをすることなく右腕を極めに行く。
 柳川の頭が下がった。
「っ!」
 拓也が予期していた下がり方ではなかった。
 拓也が思い描いていたそれとは違う軌跡を引いて柳川の頭が落ちていた。
 耐えようとして耐え切れずに、後ろに向け、曲線を描いて後頭部から落ちていくので
はなく、直線が空中に引かれていた。
 真下に、すとん、と――。
 へえ。
 音声にはならなかったが、拓也の口がそういう形に動いていた。
 視線は柳川の左膝へと行っている。
 膝が地について柳川の体を支えていた。
 足を伸ばして立った体勢を維持しようとしてもどうせ倒されることを悟って、倒され
る前に自ら体勢を低くしたのだ。
 だが、まだ腕ひしぎの体勢が崩されたわけではない。
 やるな。
 本当にやってくれるな。
 往生際が悪い奴は大好きだ。
 えらそうな口を叩いていたクセにあっさりと極められ、あっさりと折られ、あっさり
と許しを乞う奴など興醒めもいいところだ。
 藤田浩之は腕を折られても闘うことを止めなかった。それどころか、あの時は拓也の
方が油断をして逆襲されたほどなのだ。
 この人はどうだろう。
 興醒めさせるような人ではないはずだ。
 出るか。
 鬼が出るか。
 あの、鬼の顔になるのか。
 その顔に光る二つの目で自分を睨むのか。
 それはいい。それはたまらない。
 愉悦の笑みが唇の端に浮く。
「おう!」
 押し出されるように、拓也の口から声が出ていた。
 柳川の右肩をロックしている右足に生じた衝撃がその声を押し出したといってよかっ
た。
 柳川が左拳を握り、それを拓也の右足の膝近辺へと横から当ててきた。
 二発目が来て、三発目が来て、四発目が来た。
 衝撃が足を震わせる。
 肉に鈍痛が走る。
 そして、それを通り越して骨に刺すような痛みが走る。
 これに負けて足によるロックを緩めてはいけない。拘束が弱まったと悟るや、柳川は
すぐに左手で足を外しに来るだろう。この体勢で足のロックが無くなってはそうそう腕
関節など極められるものではない。
 或いは、すぐに体勢を変えて別の形で、別の関節を極めに行く方向も選択肢としては
ありうる。
 だが、拓也は腕ひしぎを解くつもりはなかった。
 腕ひしぎが極まるか。
 右足のロックが緩んで外されるか。
 どっちが先か。
 その勝負だ。
「ぬっ!」
 極めに行く。
 両手で腕を引き、両足で上半身を遠ざける。
 倒してしまえれば完璧だが、今の状態でも拓也の両手両足が作り出すテコの中に柳川
の右腕を巻き込んでしまえれば十分に極められる。
 折ってやる。
 腕が折れても闘える、とはいっても戦力の低下は如何ともしがたい。
 それに、今日は違う。あの時とは違う。
 この間の藤田浩之との闘いの時のように油断はしていない。折ったら、すぐに次の攻
撃を送り込む。
 右腕を必死に曲げて堪えようとしているが、それもそろそろ限界だ。段々と腕が伸び
てきている。
 だが、その間に間断なく右足に骨を直接叩かれているような激痛が生じ続けている。
 攻撃の入っている箇所、そしてその角度からして折られるようなことは無いだろうが、
正直、気が遠くなりそうな痛みだ。
 遠い。
 遠いところへ誘うような激痛だ。
 もう、周りに何があるのかなど全く見えない。
 世界には何も無かった。
 いや、正確には世界も何も無く、ただ月島拓也という存在が、ただ存在していた。
 そこで拓也は右腕を極めようとしている。
 そこで拓也は右足の痛みに耐えている。
 ごめん、瑠璃子。
 謝りながら極めている。
 謝りながら耐えている。
 そして気付く。気付いてある疑問にぶち当たる。
 瑠璃子とはなんだろう?
 自分にとって大切なものだったはずだ。
 命の次に、とかいう程度のものじゃない、自分の命よりも……。
 ごめん、瑠璃子。
 とにかく、謝っていた。
 ごめん、瑠璃――。
 ごめん、瑠――。
 ごめん、――。
 謝っている内に、何に対して謝っているのかがわからなくなる。
 自分以外に何も無いのに、何に対して謝っている。謝る必要がある。
 待て……。
 だが、自分以外に何も無いのならば、自分は一体何をしているんだ。
 自分が極めようとしているのは誰かの腕ではないのか?
 自分の右足に激痛を与えているのは自分以外の誰かではないのか?
 誰かがいる。
 全てが無くなったかに思えるが、いるのだ。
 両手にしっかりと感触がある。
 右足にしっかりと激痛が走る。
 この右腕の先に誰かがいる。
 この激痛の先に誰かがいる。
 誰か――。
 おお――。
 柳川裕也。
 同志じゃないか。
 その時、月島拓也は柳川裕也と二人きりであった。

「うっわー」
 その声が背後から聞こえてきたのは、柳川が抱え上げた拓也を地に叩きつけた瞬間で
あった。
 その少し前に後ろから近づいてくる足音。そして気配などで誰かが――おそらくは人
を呼びに行ってくるといっていた志保が帰ってきたのだろう、という見当はついていた
が、その声に浩之は思わず振り返った。
「綾香か……それに先輩も」
 松葉杖をついた綾香と、それを支えるように寄り添っている芹香。そしてその背後に
付き従う長瀬源四郎と、さっき綾香と試合をした御堂静香がいる。
「志保に呼ばれてきたのか」
「うん」
「……肝心の志保はどこだ?」
「姉さんをおぶって走ってきたんで休んでるわ」
 綾香が指差した先で、志保が芝生の上で大の字になって右足を「芝生に入らないで下
さい」と書かれた看板に引っ掛けて荒い呼吸をしている。
 と、志保がむっくりと起き上がった。
「ふっふっふっふー、長瀬さん、あれが例の喧嘩です。ぱぱっと止めてやってください
な」
 近づいてきて、源四郎に向かっていった。
 その表情が勝ち誇っているのと横目で浩之をチラチラと見ていることで、彼女が何に
対して執念を燃やしていたかは容易に知れようというものであった。
「おい、爺さん」
 止めないでやってくれ。と浩之はいおうとして言葉を詰まらせた。
 耕一もそれに気付いていた。
 長瀬源四郎は食い入るようにそれを見詰めていた。
 既にその時には、拓也が腕ひしぎを極めようとして、柳川が拓也の右足を殴っている。
「素晴らしい……」

 強い奴と、素手で、一対一でできるだけ緩いルールで闘いたい。
 そんなことを夢想していた時期が確かにあった。
 ルールは、目をえぐる程度は禁じた方がいい。怨恨があって闘うわけではないのだ。
その闘いの最中に何かがあってそこで怨恨が発生すればそれはその時のことだ。
 怨恨がある相手だったら素手でなど闘わない。群れて他人を襲うのは生理的に嫌いな
のでしないだろうが、恨みのある相手ならばまともに勝負などはしない。
 武器を持って、寝込みを襲う。
 拳銃が手に入ったら、それで撃つ。
 それでいい。
 だが、やりたいことはそういうことではなかった。
 ただ、相手がいなかった。
 理想の闘いをするための相手がいなかった。
 復員後、目的の無いまま生きて、その過程で喧嘩も随分とやった。相手が素手である
場合はこちらも素手で応じたが、相手が棒きれ、ナイフ、日本刀などを持ち出してきた
時はそうもいかなかった。拳銃を抜かれた時は距離によっては逃げ、距離によっては向
かっていった。
 一度や二度は撃たれているが急所には貰わなかったのでこうして生き延びている。
 その中で夢に見たのだ。
 一対一。
 素手。
 できるだけ緩いルール。
 そういう条件で強い奴と闘ってみたい。
 そういう条件の元で自分の力を試してみたい。
 一度でいいから、それがしてみたかった。
 そして、それが来た。
 昭和二十二年。
 某月某日。
 長瀬源四郎はバラック街の一角に飯を食いに来ていた。
 ややスペースの空いた空地にブロックや石で組まれたカマドがあり、その上に巨大な
鍋を置いて、それでスープを作って売っていた男がいて、そこに行ったのだ。
 ろくな材料が無い、残飯を煮込んだようなものなのに妙に美味いということで評判に
なっていた。当時は味などおかまいなしで「食えればいい」という時代だったので特異
といえば特異であった。
 その一帯を仕切っていた岩国というまだ若いやくざ者がこの男の作るものに惚れ込ん
でいてその広々としたスペースを使わせていた。
 源四郎が見た限りではあまりショバ代も取っていないようだった。
「源ちゃん」
 と、岩国は源四郎を呼んでいた。
「源ちゃん、こいつぁあんなもんを材料にしてこれだけのもんが作れるんだ。……ちゃ
んとした……あんな腐りかけじゃねえ、新鮮な素材を使わせたらどれだけのもんができ
るか」
 そのスープをすすりながら、いった。
 その日、源四郎が飯を食いに行くと岩国とその子分たちと、見たこともない連中が揉
めている真最中であった。
 話を聞いてみると、ようはここが妙に賑わっているのが目についてショバ代を取りに
やってきた連中らしい。
 喧嘩になったのだが岩国一派が劣勢であったので、この男に世話になったこともある
源四郎が加勢してあっさりと追い返してしまった。
 礼をいう岩国の横にその男は何時の間にかいた。
 見たことのない顔だ。
「あんた……強いねえ」
 自分を見ている男に訝しげな視線を返した源四郎に男はいった。
「ついさっきここに来て……見てたよ。おれも岩さんに加勢しようかと思ってたんだけ
ど……その必要も無かった」
 源四郎が、知り合いなのか? という目で岩国を見ると岩国が、
「ああ、一年前から柴崎さんのところで用心棒をやってる奴さ」
「ほう」
柴崎というのは岩国のそれよりもさらに広範囲の"縄張り"を持つ顔役だ。と、いう
よりも岩国の縄張りというのはすっぽりと柴崎のそれに含まれていて、いわば岩国の上
にいるのが柴崎である。
「長瀬源四郎だ」
 一応、自己紹介したのだが、男はそれを返すことなく、妙に澄んだ目で源四郎を見て
いた。
「あんた……やろうぜ」
「……何をだ?」
「喧嘩だよ」
「なに……」
「サシで、ステゴロといこうじゃないか」
 つまりは、一対一で素手でやり合おうというのだ。
「そうだな……目をえぐるのは無しにしとこうか……」
「おい」
 岩国の声にも男は応じない。
「悪い癖だぜ、そーちゃん、強そうなの見ると誰彼かまわずにそんなこといって」
 そーちゃん、と呼ばれた男が、唇の端に笑みを浮かべながら源四郎を見ている。
「そういうさ……力の比べっこがしたいんだよ……でも、なかなか相手がいなくてね」
 そうだ。
 相手がなかなかいないのだ。
 その相手が――。
「いいだろう」
「おい、源ちゃん、何もこいつに付き合うこた無いんだぜ」
「よし」
 頷いた"そーちゃん"も、源四郎も真っ直ぐの視線をお互いに注いでいた。
「やる前に名前を聞いておこうか……」
「伍津双英――」
 そして、それが始まった。
 
「あのー、長瀬さん? 長瀬さんってば!」
「……む、なんですかな」
「えーっと、そろそろ喧嘩止めて欲しいんですけど……」
「申し訳ありませんが、止められません」
「は!?」
 頼みの綱の源四郎にそのようなことをいわれては志保が絶句したのも当然であった。
「……先輩!」
 と、両手を合わせて芹香を拝む。
「……」
 ぼそぼそ、と芹香が源四郎に頼む。
「申し訳ありません、お嬢様、止められません」
 浩之も綾香も驚倒したといっていい、この老人が何を最優先にするかはよく――綾香
は特に――知っていた。
「あのー」
 と、芹香と源四郎の間に入ろうとする志保の肩を浩之が掴む。
「諦めろ」
「……何よ、その勝ち誇った顔はぁ! なんかむかつく!」
「いいから、見てろよ、おれも耕一さんも死人が出るまで見てるつもりはねえよ」
 浩之が苦笑して、そして視線を転じる。
 そして、再び驚いた。
 爺さん……なんで目を潤ませてやがんだ?

「申し訳ありません……申し訳ありません……」
 芹香の手が、そっと源四郎の肩を撫でた。

                                     続く

     どうも、vladです。
     88回目を終えました。
     次のゾロ目は99か……。