鬼狼伝(87) 投稿者:vlad 投稿日:6月19日(月)00時08分
 接した回数も時間も、決して多くは無い。
 その短い時間の中で、この男をどれだけ理解したかは心許ない。
 だが、その時間が皆、密度の濃い時間であったことは断言できる。
 夜、御堂家に行こうとした途中で、この男に会ったのだ。
 そこで、一度、闘っている。
 その次に会ったのは今日。試合を前にした御堂静香と話した直後だった。
 仕掛けようとした拓也を柳川がいなして、一触即発のまま激突は避けられた。
 そして、その次――。
 それが、つまりは今である。
 心身を削り合うように闘っている今だ。
 思えば、会えば穏やかならぬ雰囲気ばかりだ。ごく普通の世間話をしたことなど一度
も無い。
 その穏やかならぬ幾度かの邂逅を経て、柳川は柳川なりにこの男を理解したつもりで
はある。
 きっと、そうそう簡単に他人に屈服する男ではないだろう、と思っていた。
 きっと、人にものを頼むことなどほとんど無いだろう、と。
 他人にものを乞うようなことは無いだろう、と。
 その月島拓也が乞うていた。
「殺せっ!」
 そう乞いながら遮二無二両腕を振って襲い掛かってきていた。
 それをかわしながら柳川裕也は思う。
 殺すか……この男。
 殺せるわけはない。
 とも、思う。
 自分はもう、人の死が冷たいということを知っているからだ。
 そういえば、初めて会った時に、この男とそんな話をした。
 わかっていないらしい。
 人の死の冷たさを……。
 拓也が死ねばそれを感じるのは拓也ではないということを……。
 柳川もそれを感じるだろうが、よりそれを強く感じて寒い思いをする人間がいるという
ことを……。
 だから……。
「殺さない」
 思わず、声に出ていた。
 呟きながら拓也の突進をかわし、ついでに足を引っ掛けてやった。
 前方にのめっていた拓也はあっけなく地に倒れた。むろんのこと、普段の冷静沈着な
拓也ならば引っ掛かるわけがない攻撃だ。
 それでも、倒れてすぐに一瞬の間も置かずに体を柳川の方に振り向けたのはさすがで
あった。
「殺せ……」
「殺さない」
「殺してみろぉ……」
「殺さない」
「殺せ! 殺すんだ!」
「殺さない」
 血涙が滲むような拓也の懇願も柳川の拒絶に悉く弾かれる。
「なぜだ……」
 ぽつり、と漏れた拓也の言葉であった。
「なぜ……殺さない……いや……なぜ、さっき倒しに来なかった……」
 体勢を低くしたまま、上目遣いで柳川を見ていた。
 上目遣い、といっても、当然卑屈なものではない。下方からえぐるような視線だ。
「さっき……簡単に顔を蹴れたはずだ……そうしていれば終わっていた……」
「……」
「僕が瑠璃子に気を取られたからか……」
「……」
「絶好のチャンスじゃないか……」
「……」
「そんなの……違うぞ」
 微かに、声が震えていた。
「そんなので……僕が感謝するとでも思っているのか?」
 笑おうとして、失敗した。
 頬の肉が、引きつった。
「そんなことが……僕のためになるとでも?」
 ひきつれ、よじれ、歪んだような声だった。
「お前のためじゃない」
 柳川の声は落ち着いていた。
 既に答えを得ているというような落ち着きと自信がその声にはあった。
「お前なんかのためじゃない」
 少し、声が強くなる。
「お前なんかのためじゃないぞ」
 また、強くなった。
「無闇に死に急ごうとするお前なんかのためじゃないぞ」
 また、強く。
「あれはお前の妹だろう……」
 瑠璃子に一瞬だけ視線をやった。
「……」
 拓也は、何かが口中につっかえたような顔で沈黙している。
「妹を置いて一人で死んでしまおうとするお前なんかのためでは断じてないぞ!」
 強い声だ。
 音量の大きさ自体はそれほどでもない。
 だが、固い芯が真中に通った強い声だった。
 周辺の空気をまとめて揺らすような強い声だった。
「冷たいぞ」
 前に出た。
「人の死の冷たさはお前が思っている以上だぞ」
 前に出て行く。
「残された人間の辛さはお前が思っている以上だぞ」
 距離、2メートル。
「それでもやるか……」
 1メートル。
「そんなに冷たいんですか?」
 拓也が笑っていた。
 頬の肉がひきつっているのではない。満面の笑みだった。
「自分で経験しないと駄目なタチなんですよ」
「……馬鹿が……」
 経験をした時には、もう遅いのだ。
 あれはそういうものだと柳川は思っている。
 二人の間にある1メートルの空間はもう既に限界まで張り詰めている。
 どちらかが、動けば……いや、殺気とまで行かずとも、闘おうという気を発すれば弾
け飛ぶ。
 拓也が右足――。
 柳川が左足――。
 同時だった。
 
 迷いがあった。
 人の死云々。
 冷たさが云々。
 そういうことじゃない。
 それなりに覚悟はしている。この柳川という男は自分のことを全て知っているわけで
はない。
 それほど生易しい人生を送ってきたのではない。
 その程度、耐えてみせる。
 その自信が、拓也にはあった。
 だが……。
 ――瑠璃子。
 結局、これであった。
 僕が瑠璃子を置いて死に急ごうとしている――?
 いわれてみれば、そうかもしれない。
 いや……それに気付いたのは、柳川にそういわれたからなのだろうか……。
 違うだろう。
 これまで潜り抜けてきたものを思い起こせばそれは明白。
 自分の理想とする闘い、最悪の場合、死すらそれに含まれる闘いを熱望し、渇望し、
求めていた。
 その間に、瑠璃子に思いが及ばないわけがなかった。
 最悪の場合、瑠璃子を残して行ってしまうことになる。
 いわれずとも、わかっていたことだ。
 ただ、おそらくは無意識の内に、故意にそれを見ようとしなかった。
 その二つが自分の前に突きつけられた時、どちらを取るのか。
 その命題は自分の中にあったはずだ。
 だが、それに答えを出していなかった。
 そして今、それに直面している。
 ずっと先延ばしにしていた問題がいよいよ選択される時を得た。
 先延ばしていた理由も、なんとなくわかっている。
 そのための練習をし、そのことを夢見ながら、まさかそれが実現するということを拓
也自身が信じていなかった。
 格闘技を始めよう。
 そう思った時は、まだ瑠璃子がなによりも優先される位置にいた。いや、そもそも、
格闘を始めようと思った動機が、いざとなった時、瑠璃子を守るために「そういう強さ」
も必要なのではないかと思ったからなのだ。
 夢が実現したのだ。
 その相手を得たのだ。
 一人では絶対に実現できない夢だった。
 相手がいたのだ。
 最高の相手だ。
 だが、その相手に突きつけられたといっていい。
 瑠璃子と夢と――。
 どっちを取るのか。
 その男は、拓也の理想の闘いを汚すことでそれを突きつけた。
 拓也は、選択せねばならない。
 瑠璃子を取るならば……闘いを止めねばならない。改めてやるにしても眼への攻撃を
禁ずるなどのことをせねばなるまい。瑠璃子を取るということは、危険を押さえた闘い
しかできぬことだ、と拓也は思っている。
 夢を取るならば……このまま続ければいい。
 全力で叩き潰しに行く。
 隙あらば、殺してしまってもいい。
 理想の闘いを取り戻すのだ。
 この男の鬼を呼び覚ますのだ。
 この男、話し振りなどからして、どう考えても過去に人間を殺めた経験があるはず。
 ならば、それを……眠っているそれを覚ませばいい。
 そうすれば、理想の闘いが蘇る。
 さあ、目を覚ませ。
 思いながら腕を振る。
 顎にいいのを入れてやれば目覚めるか?
 鳩尾に強烈なのをえぐり込めば目覚めるか?
 関節を逆に極めてみりみりといわせてやれば目覚めるか?
 首を絞めれば目覚めるか?
 目を突けば目覚めるか?
 耳を噛み千切ってやれば目覚めるか?
 望みながら、恐怖もある。
 この男の鬼が目覚めたら……。
 この男が鬼になり、殺す気で攻撃してきたら……。
 だが、そのゾクゾクするような恐怖は、ゾクゾクするような快感と隣り合わせだ。
 どちらが表でも、どちらが裏でもない。
 どちらも表であり、どちらも裏なのかもしれない。
 ただ、背を合わせての隣り合わせだ。
 この二つだけならば、今のこの一時はなんと素晴らしい瞬間の連続であることか。
 ふっと影が差している。
 ――瑠璃子。
 それが、この恐怖と快感をなんの憂いもなく貪り喰らうことを妨げている。
 いうなれば、夢の邪魔をしている。
 どこかへ行ってしまえ! 消えてくれ!
 そういえればどれだけ楽か……。
 そう思えればどれだけ楽か……。
 だが、月島拓也はそのような感情を抱くことすらできなかった。
 瑠璃子は存在している。
 存在していなければいけないものである。
 だから、自分を見ている瑠璃子を追い払えない。
 瑠璃子が見ているということに一筋の迷い……後ろめたさに似たものを感じながら恐
怖と快感を喰らう。
 ごめん。
 拓也にできるのは謝るぐらいであった。
 ごめん、瑠璃子。
 謝りながら喰らっていた。
 ごめん、瑠璃子、馬鹿な兄さんでごめん。
「僕が守る」
と、いったことだってあった。
 ごめん、瑠璃子、兄さんは嘘つきだ。
 格闘技を始めるといった時に、兄の運動神経がいいことは知りつつも瑠璃子は心配し
て止めたのだ。怪我をするかもしれないと。
「大丈夫だよ」
 そういった。
 そんなにのめり込んだりはしないと、瑠璃子を守るためにやるんだと。
 それがどうだ。
 喰らっている。
 いや……瑠璃子のために始めたはずの格闘技――闘いに拓也が喰らわれたのかもしれ
なかった。
 ごめん、瑠璃子。
 拓也は夢の渦中にいた。
 甘美な夢だ。
 それから出たくはなかった。
 自分勝手な兄だ。
 ごめん。
 謝っていた。
 謝りながら腕を取った。
 柳川の右腕だ。
 下からの腕ひしぎ逆十字固め。
 先程同じ体勢にまで持っていったが、持ち上げられて外灯の鉄柱にぶつけられるとい
う力ずくのやり方で外されている。
 今度はどうだ!?
 今度こそ右腕をへし折れるか。
 それとも返されるか。
 その際に「鬼」が目覚めればただでは済まないかもしれない。
 瑠璃子を置いて行ってしまうことになるかもしれない。
「ごめん、瑠璃子……」
 謝っていた。
 極めながら謝っていた。
「この……」
 柳川の目が細くなった。
 切るような視線で拓也を見下ろした。
 拓也の体が浮く。
 浮く。
 浮いていく。
 少し持ち上げる、などという程度ではなかった。
 肩の上にまで持ち上げられた。
 2メートル以上の高さから見下ろす世界は普段とは全く違うものに見えた。
 瑠璃子はもちろん、まだ兄の自分が認めてはいない瑠璃子の自称恋人、長瀬祐介がい
て、緒方英二と理奈の兄妹がいて、藤田浩之がいて、柏木耕一がいて、名前は知らぬが
黄色いリボンをつけた浩之の知り合いらしい少女がいて……。
 遠くの方にそれとは別の人の群れが見える。こっちに向かってきているらしいそれを
構成する幾つかの顔に見覚えがあったが、名前までは知らない。
 高いところからだからよく見える。
「この……馬鹿が!」
 高いところにいれたのも短い時間であった。
 視界の中の地面が拓也に迫ってきた。

                                     続く

     どうも、vladです。
     87回目です。
     順調。
     語ること特に無し。