鬼狼伝(86) 投稿者:vlad 投稿日:6月12日(月)00時39分
 錯覚かと思った。
 なぜ、瑠璃子がこの場にいるのだ!?
 闘いが始まる前にはいなかったはずだ。
 それが拓也の心に間隙を生んだ。
 時間にして、約二秒。
 腰を曲げて体勢を低くしたその体勢のまま、拓也は約二秒の時を無為に過ごした。
 致命的である。
 一秒どころではない。秒を寸刻みにしたような一瞬一瞬の攻防で形成される闘いにと
って、二秒の遅滞というのは敗北に直結するものだ。
 思わぬところに瑠璃子がいた。
 そんなものは言い訳にならない。
 言い訳が全く通用しない闘いが、自分が望んでいたものだ。
 今、自分は負けていなければならなかった。
 二秒だ。
 二秒もの時間、相手から目を離して呆然としていたのだ。
 その間に顔に蹴りを貰って崩れ落ちていなければいけない。
 そうでなければおかしい。
 そうあるべきなのが、自分の理想の闘いだ。
 なのに……。
「……なぜだ……」
 拓也はその姿勢のままそこにいた。
 動きが止まった前と後で何も変わってはいない。
「……なぜだ……」
 もう一度いって、顔を上げる。
 少し距離を取ったところに柳川がいた。
 拓也の記憶の最後にある位置よりもやや後方だった。
 蹴りの一発も送り込んできていない。後ろに回り込んだわけでもない。ただ、少し後
退して拓也のことを見ていたのだろう。
 拓也の中に熱くたぎるものがあった。
 柳川が手を抜いた――。
 そうとしか思えなかった。
 自分は、手を抜かれたのだ。
 柳川が、妹に気を取られた自分を攻撃せずに距離を取った――。
 おそらく、間違いなくそうであろう。それ以外の理由が考えられない。
 自分は、情けをかけられたのだ。
 この男が全く自分を恐れていないからだ。
 相手が怖かったら、そんな隙は見逃さない。一気に付け込んで叩き潰すはずだ。
 自分なら、そうする。
 そんな大きな隙を故意に見逃すなど、そうそう無い。
 相手をよほど弱いと思っていないとできないはずだ。
 わざわざその隙をつかずとも、いつでも倒すことができると強く思っていなければで
きないことだ。
 それは屈辱であった。
 情けをかけられたのだ。
 お前なんか怖くないよ、といわれたのだ。
 お前になんかいつでも勝てるよ、といわれたのだ。
 屈辱だ。
 悔しかった。
 歯軋りした。
 瑠璃子が見ていることももはや気にならなくなっていた。
 できれば瑠璃子に見せたくないような顔になっているはずだった。
 屈辱が我が身の中で燃えていた。
 悔しさが屈辱を焼いていた。
 濛々と立ち上った黒煙は憎悪。
 柳川に対する憎悪と、それを遥かに上回る自分への憎悪。
 屈辱が悔しくて、歯軋りして、手を震わせて、憎悪が生まれていた。
 生まれ続けていた。
 後から後から、全く質も量も衰えぬ憎悪が湧き上がる。
 毛穴という毛穴から、何かが噴き出しているようだった。
 もしも憎悪が、本当に黒い煙として人の目に見えるのだとしたら、今、自分の全身か
ら間断なく黒煙が噴き上がっているはずであった。
 熱い。
 全身が火照るように熱い。
 溶鉱炉に叩き込まれたように熱い。
「つっ! つぅぅぅ! えぅ!」
 叫んだが、まともな音声が口から出なかった。
「――! ――! ――!」
 ついには、五十音に認識できぬような意味不明の音声が漏れ始めた。
 人間の声帯から出たものとは思えない。
 人外の声であった。
 いや――。
 声ですら無かった。
 それは、なんだかわからない音であった。
 怒りが詰まった音だった。
 相手への怒り――。
 自分への怒り――。
 それがごっちゃになって、どうにもならずに口からほとばしっていた。
 それが、その、人には理解できぬような音になった。
「こっ!」
 ようやく、拓也の口からまともな音声が出始めていた。が、その表情は依然、まとも
ではなかった。
 狂った!?
 見ていた人間のほとんどが思った。
 そしてそう思った人間のほとんどが、敵に情けをかけられて狂うのを、この男らしい
と思った。
「ろっ!」
 途切れ途切れに、声が出る。
「せえっ!」
 喉がかすれるような声であった。
 こおっ!
 叫ぶ。
 ろおっ!
 叫ぶ。
 せえっ!
 叫んでいた。
 泣きそうな顔をしていた。
 屈辱を悔しさが焼いてできた憎悪を全身にまといながら、泣きそうであった。
 憎悪を噴きながら、泣きそうであった。
 これ以上に無いという憎悪を浮かせた表情だが、泣きそうであった。
 憎悪に染まった目をしていたが、泣きそうであった。
 憎悪に染まった目から、涙がこぼれ出そうであった。
 泣くような顔には見えないはずなのに、なぜか、泣きそうに見えた。
 事実、月島拓也は泣きそうであった。
 今にも、目から溢れ出そうであった。
 涙の色はなんであろうか。
 赤い血涙が出ても驚かない。
 黒い涙が出ても驚くべきでない。
 透明の涙など、出ないのではないかと思った。
 理想の相手であった。
 理想の闘いができると思っていた。
 理想が、理想のまま、夢想となって終わることを免れた。
 歓喜が全身に満ちた。
 不思議と、憎悪は無かった。
 そういうものを通り越したものがあった。
 この柳川裕也という男を評価するのと同様に、その男と素晴らしい闘いをできる自分
にある程度の満足を得てもいたから、悔しさもなかった。
 どっちも手抜き無しだ。
 いつしか、この男が好きになっていた。
 瑠璃子と同じぐらいの位置にまでこの男が上がってきていた。
 この男も、自分のことを嫌いではないのではないか、と思うようになった。
 嫌いだったらこんなことに付き合ってはいない。ましてや、柳川は警察官である。
 そう思っていた。
 そう思わせる闘いだった。
 最後までそうあるべきであった。
 最後までそうだったら死んだってよかったのだ。
 殺されたって悔いは無かった。
 そういう生き方もいいだろう。
 自分は、そういう終わり方をするのもいいだろう。
 何度もそう思っていた。
 柳川の攻撃が当たる、と思った瞬間も、その次の瞬間には思うことはそれであった。
 この人に、このまま殺されるのならそれもいいな……。
 本気で、そう思っていたのだ。
 そう思っていたのに――。
 無用の気遣いだ。
 無用の情けだ。
 無用の手抜きだ。
 他の人間なら感謝するかもしれぬが、自分にはそれは無用なのだ。
 不意に、悲しさが襲ってくる。
 そのことがこの人に伝わっていなかったのか、と思う。
 自分は全身で語ったはずなのに、それがこの人に伝わらなかったのか。
 いらないのだ。
 気遣いなんかいらない。
 情けなんかいらない。
 手抜きなんかいらない。
 それらのいらないものがこの純度の高い結晶体のごとき闘いに仕上がるはずだった闘
いを濁らせてしまった。
 不純物が混じった。
 一度、それが混ずればもう元には戻らない。
 様々な感情も、結局行き着くところは憎悪であった。
 相手への憎悪か自分へのそれなのかも、もはや段々と不鮮明になってきている。
 何か、この世界とは別の次元のものを憎悪しているようでもあり――。
 この世界のありとあらゆるものを憎悪しているようでもあり――。
 ただ、向ける先の無い憎悪を向ける先の無いままに、生み出しているようでもあった。
 黒煙のような憎悪であった。
「こぉっ!」
 声が出る。
「ろぉっ!」
 重心が僅かにだが前方に移動する。
「せえぇい!」
 しなやかな拓也の体が静かに、沈んだ。
 一瞬だけ、止まる。
「こぉろぉせえい!」
 押さえつけたバネが跳ねる直前の危なっかしさが拓也にはあった。
「殺せっ!」
 動いた。
「殺せぇぇぇぇぇっ!」
 右手による横薙ぎの一撃。
 今まで、拓也はスタンドでの打撃を寝技に持っていくための牽制に使うのがほとんど
であった。
 が、それは牽制ではなかった。
 真っ直ぐに送り込まれた一撃。
 すぐに、左手による第二撃が行く。
 フェイントも無かった。
 真っ直ぐに、最短距離で柳川の体を目指してきた。
 両手による激しい攻撃の合間合間に、足による金的を狙った蹴りが挟まれる。
 柳川は後退により、それをかわしている。
「殺せえ!」
 細い目が目一杯開かれていた。
 血走った目が真っ直ぐに柳川を睨んでいた。
「しぇあっ!」
 それまでどちらかといえば寡黙な闘いをしてきた拓也の口からいつのまにか気合が走
った。
 走ってから本人が気付いた。
「きぇあ!」
 また出ていた。
「殺してみろぉぉぉ!」
 目一杯開かれた目から、今にも涙がこぼれそうであった。
 血走った目から、今にも涙がこぼれそうであった。
 ちっ――。
 と、微かな音が鳴る。
 鳴ったのは柳川の右頬であり、鳴らしたのは拓也の左手の爪であった。
 つう――。
 と、柳川の右頬に刻まれた細い朱線から赤い血が流れ出ていた。
「反撃しろ!」
 叫びつつ、拓也が攻撃を続ける。
「……」
 無言で、柳川が後退を続ける。
「殺せっっっ!」
 また、それを拓也は叫んでいた。
 わけがわからなくなっていた。
 もうこの闘いをどういうふうに終えればいいのかがわからなくなっていた。
 勝てばいいのか、負けるべきなのか。
 いや、むしろ、もうこの時点で負けを認めてしまうべきなのか。
 そもそも、何が勝ちで何が負けなのか。
 もう何もわからない。

「ああ……」
 それを見ていた緒方英二は嘆息していた。
 理由は違うながらも、自分がかつてなったのと同じ状態に拓也が置かれているのがわ
かった。
 殺して欲しがっている。
 殺されたがっている。

「殺してくれえっ!」
 どう考えても殺す気としか思えぬ攻撃を繰り出しながらも、拓也は叫んだ。
「殺して! くれ!」
 それはもはや哀願であった。

「ああ……」
 英二が再び嘆息していた。

                                     続く

     どうも、vladっす。
     86回目を終えました。
     なんだかよくわからないんですが、異常、という言葉を使いたく
     なるほどにノッて書くことができました。
     次回、拓也がキマイラ化したりはしません(笑)


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