鬼狼伝(85) 投稿者:vlad 投稿日:6月5日(月)11時55分
 現職警察官の喧嘩を止めるために、志保はひた走っていた。
「はぁ……はぁ……ぜぇ……ぜぇ……」
 実際のところ、彼女が汗だくになってまで走り回るだけの理由は無い。
 見ず知らずの人間同士の喧嘩を止めるために、なんで自分がこんなことをしなければ
いけないのか、という気持ちは一瞬といえども脳裏をよぎらなかった。
「ひぃ……ふう……はぁ……」
 とにかく、その場の勢いで発言して、その自らの発言に乗せられるように走っていた。
 長岡志保の人生では、そうそう珍しい情景ではない。
 ヒロのバカが頼んでも止めてくれないのならばもう力は借りない。
 なんとしても自分がなんとかしてみせる。
「ふう……はあ……ひい……」
 とはいうものの、いいかげんに走り疲れた。
 とりあえず、エクストリームの試合会場に戻っては来た。だが、とりあえずなだけに
その後の展望は特に決めていなかった。
 とはいうものの、選択の幅は悲しいほどに限られている。
 誰かを呼ぶしかない。しかも、浩之に「警察にはたれ込まない」といった以上、警察
以外に、だ。
 会場に戻ってくればなんとかなるだろう、と甘い考えでいたのだが……。
「喧嘩? 警察を呼べよ」
 出場選手らしきごつい体格の男に頼んだら胡散臭そうな目での一瞥と、そんな素っ気
無い一言を頂戴しただけであった。
 当然といえば、当然ではある。
「うーむ」
 志保が唸りながらも物色の視線を四方に飛ばすと、視界の隅を見覚えのある顔が横切
った。
「あ、松原さーん」
 声をかけたものの、葵はキョロキョロと辺りを見回しながら行ってしまった。追いか
けようかとも思ったが葵は小走りで追いつけるかどうかがわからないので止めた。それ
に、浩之からさまざまな話を聞き、さらに今日試合を見て、葵が強いのはわかるが、な
にしろ小柄な女の子である。大の男の喧嘩――しかも、見た限りでは相当に鬼気迫るそ
れ――を止められるとは思えない。
 志保は知るよしも無かったが、この時、葵は雅史に頼まれて浩之を探している最中で
あった。
 廊下をぐるりと回って歩いていくと、一角に三十人ほどの人だかりができていた。
 好奇心が平均よりも強いタチである志保は当然、引き込まれるように近づいていった。
 人々の壁が廊下の隅を取り巻くように扇状に展開している。
 そして、その中心で自分たちを見る人々の視線を全く意に介さず……というよりも気
付いていないかのように小声で言葉を交わしている二人の女がいた。
「ここで、こう」
「へえ、そういう入り方もあるのねえ」
「そうそう、この状態になったらもうどっちに逃げようとしても極まるから」
「あ、ちょっと待って、ってことは、こういうのもありですね」
「あ、それ、次に教えようと思ってたバリエーションよ、やっぱり来栖川さんってセン
スあるのね」
 確かに、少々の人だかりはできるに違いなかった。
 先程行われた女子一般の部の優勝者と準優勝者が廊下の隅で寝転がって、お互いの足を
取り合いながら何やら話し込んでいるのだ。
「ちょっと、来栖川さん、来栖川さんってば」
 人を押し分け掻き分け間を縫って、志保がやってくると綾香は立ち上がった。横からす
っと差し出された松葉杖を受け取って、それを床に着く。
「どしたの? なんか慌ててるみたいだけど?」
「ちょっと聞いてよ、大変なのよ!」
 志保は、喧嘩を止めてくれる人間を探している、といった。ヒロのバカがその場にいる
のに止めないで見ているだけだ、とも。
「どこで誰が?」
 人垣の目と耳を意識して声を小さくして綾香が尋ねる。
「えーっと、さっき反則負けになった月島っていう人と……もう一人は背が高くて眼鏡か
けてる現職警察官……名前はなんていったかしら……」
「あのう……」
 口を挟むのを恐れるように遠慮しながら声を出したのは、先程まで綾香と足関節の極め
方を話していた御堂静香だ。
「もしかして……柳川という人ではないでしょうか? 柳川裕也」
「……下の名前は知らないけど……名字はそんなだったかも」
 一度だけ浩之が名字を呼んでいたような気がする。確か、そんな響きの名前だったはず
だ。
「あの、柳川さん、なんで喧嘩なんか」
「それは、あたしもわかんないですけど」
「とにかく、場所はどこよ」
 綾香が急かすようにいう。
「ここからすぐ近くの公園よ」
 その時……。
「もし……」
 影のようにひっそりと彫像のように立っていた老いたる巨漢が声を発した。
 セバスチャンこと長瀬源四郎。来栖川家に数十年にわたって仕えてきた執事であり、
現在では来栖川芹香の送り迎えをしている。先程、綾香に松葉杖を差し出したのは彼で
ある。
 その芹香は源四郎以上にひっそりと彼の斜め後ろに立っている。
「柳川とは……先程、病院へ行く時に同乗した方ですかな?」
「あ、そうです。私のセコンドについていた方です」
「裕也……彼は……柳川裕也というのですか……」
「どしたの? セバス」
「いえ、聞いたことのあるような名でしたので、記憶違いでしょうが」
「ふうん」
 志保は源四郎のことを見て、浩之に聞いたことがある芹香の護衛兼運転手をしている
元ストリートファイターのことを思い出していた。
「えーっと、確か、長瀬さん!」
 記憶を辿って、志保はその名を口にした。
「そうですが……」
「うふふふ、お強いんですってね、そこで志保ちゃんが見込んでお願いがあるんですけ
どお」
「……なんですかな」
「喧嘩止めてやってください」
 両手を合わせた志保にさすがに困った顔をした源四郎がその顔を芹香の方に向ける。
「……」
 志保の位置からは全く聞こえぬ声で芹香は何かを呟いていたが、
「よろしいでしょう。その公園というのに案内していただきましょう」
 源四郎が頼もしげにいったことから、芹香が源四郎に志保の頼みを聞き入れてあげる
ようにいってくれたのだということは容易にわかった。
「よっし、さすが来栖川先輩! 話がわかる! で、その公園ってのは会場出たらすぐ
だから……」
「私も行きます。急ぎましょう」
 不安を隠し切れぬ表情で静香がいえば、
「そうね、急いだ方がいいわね」
 志保が呼応する。
「ちょっと待って!」
 松葉杖を持っておらぬ方の手を上げて綾香がそれを制する。
「私を置いて行く気じゃないでしょうね」
「……だって、来栖川さん、足怪我してるから早く歩けないでしょ。ここで待っててよ」
「嫌よ、その喧嘩っての私も見たいわ」
「……一応、止めに行くのよ」
 このお嬢様はもしかしたらあの場でただ喧嘩を見ていた浩之たちと同種なのかもしれ
ぬと思いつつ、志保がいった。
「セバス、お願い」
「……では、恐れながら……」
 かくして、志保を先頭にして御堂静香、綾香を背負った長瀬源四郎、そして来栖川芹
香は、志保の先導によって公園へと向かったのであった。

「……」
 志保の足が止まった。
「あのー、もう少し早く歩いてもらえないでしょうか……」
 源四郎を見て、さすがにこっちから頼んだことだけに遠慮がちにいった。
「そうは申されましても……」
 本来、綾香一人を背負ったところで、この男の歩幅も歩速もそれほどに衰えぬはずだ
が、志保にそんなことをいわれてしまう理由は明白。
 芹香の速度に合わせているからだ。
 芹香は、彼女なりに最高速度で歩いているつもりなのだろうが、それでもやはり遅い。
 源四郎が言葉を切った後に何がいいたいのかはいわれなくてもわかる。彼にとっては、
芹香の側にいて芹香に危険が降りかかればこれを排除し、どこの馬の骨とも知れぬ男が
近寄ればやはり排除し、彼女を守ることこそが第一の任務であって、この度、志保の頼
みを聞き入れたのも芹香がそういったからというのが大きい。
「うーん」
 どうしようか、と悩む素振りを見せながら志保がじーっと綾香を見る。
「……下りないわよ」
 綾香が下りて公園に行くのを諦めて、芹香を源四郎が背負っていけばいい、と提案し
ようとしていたのだがいきなり釘を刺される形となった。
「あああああああ! しょうがない! 先輩! 私におぶさって!」
 志保は叫ぶや、芹香に背を向けてしゃがみ込んだ。

 二つの肉体が距離を取る。
 砂煙が濛々と立ち込めていた。
「またか……」
 耕一の独白が指す意味を浩之は正確に理解していた。
 先程から何度も、似たような光景が続いている。
 二人が接触する。主に、拓也がタックルを仕掛けることが多かった。
 柳川はかわすか潰すかしてタックルを殺し、拓也は殺されながらも柳川の関節を極め
ようとする。
 それを打撃――主に手による――で迎撃し、一瞬の間隙にどちらからともなく距離を
取る。
 そんなやり取りがもう五回は繰り返されていた。
 あくまで関節を極めることに執着している拓也だが、接触する度に少なからず柳川の
攻撃を受けて、さすがにダメージは蓄積している。
 関節技というのは熟練した者が一度極めてしまえばそのまま相手の関節をへし折り、
大ダメージを与えることができるが、極めぬ内は大したダメージは無い。
 それに引き換え打撃は小刻みに入れることによってそのダメージが蓄積する。
 拓也が関節を極めるか。
 拓也がダメージの蓄積に耐え切れずに倒れるか。
 現時点では、その辺りに闘いの焦点がしぼられつつあった。
 柳川が、すう、と動いた。重さを全く感じさせない動き。
 拓也は錯覚する。
 突然風でも吹いたら遥か彼方に吹き飛ばされてしまうのではないか。
 この男が地を蹴れば何十メートルも上空に飛び上がるのではないか。
 右のローキックが来た。
 タックルで迎撃しようと身をかがめた拓也の機先を制してその顔を狙って疾走してき
た。
 見ただけでわかった。
 左腕で受けてようくわかった。
 とてつもなく重い一撃であった。
 ローキックといっても、横薙ぎの一撃ではない、爪先が地をかすめるように這いなが
ら命中の寸前に跳ね上がるような一撃だ。
 それを受けて、拓也の上半身が後方に仰け反る。
 柳川がさらに距離を詰めて右でフックを放つ。
 その描く軌跡の先に拓也の顔があった。
 拓也の全身が震える。
 たまらない歓喜が体を揺さぶる。
 その歓喜は悪寒を伴っていた。
 いや、正確ではない。
 悪寒、恐怖。
 背筋を凍らせるようなそれらを成分に多く含んだ歓喜なのだ。
 普通の歓喜じゃない。
 だから、こいつはたまらないのだ。
 拓也がやや前方に頭を沈める。
 明らかに顎の先端を狙ったフックである。一番リスク無くかわすには軽く顔を引けば
よい。
 だが、それでは相手と離れてしまう。
 それでは、かわすだけだ。
 それじゃ駄目だ。かわすことが即次の攻撃に繋がるものでなければ……。
 並の相手だったらいい、でも、この相手にはいつまで経っても勝てない。
 いつまで経っても駄目だ。
 この、底の知れない男に勝てない。
 いつまで経っても、その底すら見れぬ。
 一瞬でも遅れれば、柳川の右拳がテンプルに炸裂する。
 さあ、死ぬか生きるか。
 その渦中に身を躍らせる。
 歓喜が増幅する。
 ゾクゾクする。
 拳が、後頭部に擦れる。
 そんなものは効かない。少しの痛みも感じない。
 一発で勝負を決めようとしていた大振りの一撃だ。かわされれば急には止まらず、隙
ができる。
 果たして、外れた右拳に引っ張られるように柳川の体が回転する。
 背中を向けた。
 バックを取れる。
 バックを取って、足をかけて倒す。倒した状態でバックを取れればいかなこの男とて
自分の攻撃をそうそう簡単にはしのげぬはずだ。
 歓喜がさらに増幅。
 全身を満たしていく。
 それが極まった時――
「っぅ!」
 上方から降ってきた何かが後頭部にぶちあたって拓也を地に貼り付けた。
 虚無。
 あれだけあった歓喜がすっぽりと抜け落ちた。
 どこだ?
 どこからだ?
 二種類の疑問が同時に拓也の中に生じた。
 あれだけあった歓喜はどこへ行った。
 どこからどのような攻撃が自分を地に這わせたのか。
 後者の疑問はすぐに氷解した。右フックを振り抜いた直後であること、その時の拓也
の頭の位置、などから推測して、左の肘だ。
 右が外れて勢い余って背中を向けながら左脇に後ろから密着していこうとした拓也の
頭へ左肘を落としてきたのだ。
 間一髪であった。
 もう少し早く接触すれば頭の位置を効果的な打撃を貰わない場所に持っていくことが
できたのだ。そうなれば肘から先で打つようなコツコツ当てるパンチぐらいしか柳川は
拓也の頭部に当てられなくなる。
 だが、その寸前でやられた。
「えあああっ!」
 奇声を大音声で発しながら拓也が身を起こす。
 おお――。
 拓也の中に生じる新たな疑問。
 僕はこんな大きな声で叫ぶような人間だったのか。
 おそらく、蹴りが来る。
 それに備えながら立ち上がる。
 立ち上がって――。
 不用意な蹴りを打ってくるようなら受け止めて引っ繰り返してやるぞ。
 足でも手でもどこでもいい。
 僕は関節たちが上げる悲鳴が聞きたいんだよ。
 立ち上がって――。
「!……」
 拓也の視界に信じられぬものが飛び込んできた。
 なぜだ?
 なぜこんなところに……。
 ――瑠璃子。

                                     続く

     どうも、vladっす。
     85回目を迎えました。
     拓也VS柳川。
     そろそろシメにかかる時期でしょう。